文字数 4,692文字

 欧州よりスエズ航路を通り半月以上の航海を経た一隻の蒸気船が、横浜の港にあった。
 時代は明治、江戸のころに行われた鎖国は解かれ、外国人であろうと堂々と日本の地を踏むことができる。蒸気船からは、この時代の日本人に異人と呼ばれる人々が次々に下船してきた。明治の日本を外国人の目から克明に記した冒険家イザベラ・バードがはじめに降り立ったのも、ここ横浜の地である。横浜はこの時代、日本と世界をつなぐ玄関口であった。
 下船する人を待つ人々のなかには、ある初老の西洋人がいた。彫りの深い顔は、冬の寒空の下赤みを帯びている。人々の間を縫って待ち人を探すありさまはおよそ他の誰とも変わらないが、周囲に居る人、特に西洋人は、彼の姿を見ると一定の敬意を表する用に道を開けたり、会釈をしてみせる。というのも、彼の纏う黒い長衣というのはキリスト教の司祭が身につけるカソックであったのだ。
 彼の名はベルナール・プティジャン。明治の日本に訪れたカトリックの宣教師の一人であり、日本における活動では、江戸の迫害時代を超えて長崎に隠れキリシタンの居ることを欧州に報告したことで知られている。
「やあ、イェレミアス神父!」
 下船する人の数がまばらになりはじめたころ、彼はようやく目当ての人物を見つけたようだった。声をかけられた側も、プティジャンと同じくカソックを身に着けている。それだけでも目立っているが、イェレミアス神父が随分と目立っているのは何よりも、およそ二メートル近い長身と、磨き上げた黒檀の如き膚の色によるところが大きいだろう。
「これは、わざわざご足労いただいたのですか。司教殿とあろう方に、恐れ多いことです」
 黒檀の彫刻のごとき精悍な貌に恐縮の感情を浮かべ、神父は頭を下げる。この年、明治十六年には、プティジャンは日本代牧区司教を務めている。一介の神父からすれば目上の人物であるから、この態度におかしいところはない。
「そう改まらないでくれ、イェレミアス神父。なにしろ経歴で言えばあなたのほうがよほど長いのだ」
 答えたプティジャンの言葉のほうが、よほど奇妙なものであった。プティジャンは御年五十四歳、この時代の平均寿命からすればすでに人生の後半に差し掛かっている。
 対するイェレミアスはと言えば、いささか年齢のわかりづらいところはあるが、プティジャンより年配であるようにはとても見えない。十人に彼の年齢を尋ねれば、五人は三十代の半ばと答え、三人は二十才代といい、残りは四十絡みと答える、そのような外観をしている。
「ただ、長いだけです。司教殿のような情熱ある活動も、意義ある発見も私には存在しない」
「過ぎた謙遜は、時に傲慢の罪ではないかね、神父。……いや、私なぞがあなたに何を言えたものでもないだろうがね」
 プティジャンは、いささか剣呑なものになりかけた会話を首をふって打ち切った。蒸気船の客は既に上陸しきり、辺りで動くものは積荷を下ろす港湾労働者の姿ばかりとなっている。
「それで、ご連絡いただいた品物ですが」
 しばし流れた沈黙を破ったのは、イェレミアスのほうであった。
「ああ、政府との話はつけたよ。といっても、江戸城の蔵にしまい込まれたものを探すようせっついてせっついて、やっと動いてくれた、というだけなんだが」
「では、この国のいまの政府は、何もあの品に価値を見出していないのですね」
「徳川が残していった曰く付きのガラクタの一つ、処分できるだけマシといったところだろう。お陰で随分と安く買い叩けた。君にとっては幸運なのかどうかは分からないが」
「ま、ガラクタはガラクタですよ。散逸させずに居てくれただけ重畳というものです」
 この日本という国にとっては異教の司祭である二人は、つまりは明治政府が現在所有している、教会に返却されて然るべき品物について話しているのであった。
 とりとめのない話の最後に司教は、品物の受け渡しの日程とその際の手順を神父に伝達した。
「ウエノコウエンの、シノバズノイケのほとりで、明日の夜中に受け渡し。それはまた、えらく胡乱な状況じゃあありませんか」
 政府から買い取った品物の受け渡し方法としては、あまりに異様と言えよう。神父の指摘に、プティジャンは困ったように微笑んでみせた。
「日本の政府は、体面上我々の宣教を許しはしたが、本音としては異教の信徒なぞ増やしたくないし、できることならば弾圧したいのだよ」
 プティジャンは、三十歳になってから言葉も通じぬ極東の地に赴き、以来二十年あまりの精力的な活動を行ってきた宣教師である。だが、この時のプティジャンの表情は、彼の浮かべるものにしては異例なほどに弱々しかった。いかに情熱に溢れた宣教師とて、長きに渡る異国での生活が影を落とさぬ訳はなかったのだ。
 未来の話となるが、ベルナール・プティジャンは来年、明治十七年の半ばに体調を崩し、十月に没することになる。イェレミアス神父のために政府と話をつけたのは、まさに最晩年のことであったのだ。
 とはいえ、いまこの時のプティジャンには、未だ死の影が迫ってはいない。
「そのようなわけだからね、イェレミアス神父、ゆめ気をつけたまえ。なにしろものがものだ、一体どのような横やりが入るものか、知れたものではないよ」
 司教の忠告に、神父はきまじめな面持ちで頷いてみせた。無論、イェレミアスもすんなりとことがなるとは思っていない。何しろ、以前に日本にあった時は、まさにその品のために、長い人生の中で最も危険な目にあったのだ。──
 一通りの連絡事項を聞き終えると、イェレミアスは司教に礼を言って背を向けた。教会に寝泊まりするつもりはない、ということだ。前歴が前歴であるため、仕方ないのであろうか──と、老司教は悲しげな瞳で遠ざかる背を見つめるほかなかった。
「──どうか、主の赦しが彼に与えられんことを」
 老司教の祈りは、遠い汽笛とともに潮風にまぎれ、攫われていった。

 ※ ※ ※

 はたして、異教の司祭らの懸念は当たっていた。
 「地獄は、いずこにありや」
 夕日も届かぬ路地に、奇妙な問いかけが響く。
 路地の名を、羅生門河岸(らしょうもんがし)という。江戸のころには公娼街として名を馳せた吉原遊郭の、東西のどんつきを河岸と呼ぶ。西の浄念河岸(じょうねんがし)、東の羅生門河岸、両者ともに吉原のなかではもっとも下級の座敷があつまる区画であった。
 問いかけの成された座敷は、およそ河岸の中では最も高級な部類に入る楼閣であろう。なにしろ女郎の寝起きする部屋が直接通りに面しているほど簡素な作りの見世がならぶこの河岸にあって、『魚塔楼』なる妙な名の見世だけは、古びてはいるが娼妓の顔見世のための格子を持ち、二階に上げて客の相手をするだけの部屋もあるのだから。
 およそあと半刻もあれば、すっかり夜の帳が降りる。その頃になれば、河岸には河岸なりに客をいざなう妓の声や香の匂い、客引きの姿、三味線の音なぞがあふれ、猥雑な活気が出て来るだろう。だが、昼見世もとうに終わった逢魔が時にあっては、客引きに出る妓の姿はおろか見世番の姿もない。奇っ怪な問いかけの投げられた格子の向こうにも、一見するに、誰の姿もないようだ。そも、一体いまの言葉は何を意味するのであろうか?──
 問いかけを発した男は、素知らぬ顔で格子の前に佇んでいる。男の出で立ちは、明治の世にあってはいささか大時代的な、総髪撫付の髪型に真白い裃姿というものだ。
 格子の向こうで、ぼう、と明かりが灯った。
「じごくは、ここに」
 答えた妓の姿は、行灯の仄明かりを背に、影のごとく浮かんでいる。黴臭さにも似た香りは、妓の着物に焚き染められた甘松の香りだ。
「平戸さま、お顔を見られて嬉しおす。おあがりになりんすか」
「もちろんですとも。天下の地獄太夫の顔を見て、冷やかして終わりとは行かぬでしょう」
 地獄とは、つまり妓の源氏名であったのだ。で、あれば、今しがたの問いかけは単に、馴染みの敵娼(あいかた)の名を呼んだだけであった、とも取れよう。
 廓の二階、安いなりに手入れのされた座敷にて行われた相応の宴ののち、月が天の半ばまで上った頃。
「明日の、夜。上野の公園地に、伴天連の坊主が政府から購入した品物を受取にやってきます」
 夜具から滑り出た地獄太夫の背に、腕を枕に横臥したまま平戸は声をかけた。
「その品物の受け渡しを、妨害してもらいたい。簡単なのは、政府の使者を斬ることですが──」
「戦えぬお人であるなら、わちきにはお相手できささりんせん。ご存知でありんしょう」
 行灯の火はいつしか消え、座敷を照らすのは障子越しに入る月明かりのみ。月光の下、裸のまま髪をくしけずる妓の姿は、影絵のごとくに浮かんでいる。
「では、坊主の方を。ですが、こちらは少々容易ならざる相手ですよ」
「その御坊様は、剣を持つ方でありんすか」
「はい。報告では、横浜に着いてから大小を求めたとも聞きます」
「大小を?ただ剣を使うだけならば、大刀だけで十分なはず。二刀使いでありんしたら、初めての相手ということになりんすねえ」
 共寝の夜に、客と花魁の交わすものとしては、あまりにも異様な会話がなされている。地獄太夫は打ち掛けも羽織らず、扇を刀の代わりとばかり、無刀のままに二刀流との戦いを演習し始めた。柔らかな身体の稜線に反して、妓の所作は鋭く、切れのあるものであった。
 月明かりの下でたわむれに剣術の稽古を行う敵娼のありさまを眺めながら、平戸は煙管をふかした。
「……それに、厄介なことに、彼は悪魔祓いだそうで」
「悪魔祓い?此方で言う、拝み屋でありんしょうか。拝んだところで、剣の腕が上がるわけでも死なぬわけでもなし。斬れば人は死ぬ、それだけでございんす」
 紅のかすれた唇を釣り上げて、妓は馴染の客の懸念を一笑に付した。
 一人の人間を斬り伏せる算段を寝物語に語ってみせるとは、全く恐ろしいことである。恐ろしいことを口にしながら、それでいて地獄太夫と呼ばれる妓のありさまは、あまりにも邪気がない。
「ご心配には及びんせん。いつも通り、仕事は完璧にこなしてさしあげんすよ」
 それもそのはず、彼女は娼妓である傍ら、依頼を受け人を斬り殺すこともまた生業とする、人斬りでもあったのだ。つまりは、格子の前で行われたいささか奇妙な問答も、人殺しの依頼にあたっての符牒に他ならなかったのである。
「で、あれば、良いのですが」
 地獄太夫の持つ二つの生業、その双方の客である男は、妓の言葉に信頼を抱いたのか、否か。判然とせぬまま、彼は煙草盆に灰を落とし、
「ときに、地獄。もう一度──」
 と、敵娼を再度、床へと誘った。
 白い身体を抱く男の手──地獄太夫からは見えぬその腕に、赤い紐がある。否、光沢ある赤紐は、平戸の腕に絡みつき、うごめいているではないか。つまりそれは、紐ではなく赤い鱗を持つ蛇であったのだ。
 平戸は、蛇の存在を妓に知られぬよう、慎重に腕をおろしてゆく。その手には、よく見れば何やら、護符と思しきものも握られている。もとより悪しき企てを画策する男であるが、その上に彼はまだ、忌まわしき何事かを企んでいるのであろうか?──
 様々な思惑を飲み込んで、天は夜の裾を引き、人々の上を通り過ぎてゆく。次に朝日が昇り、夕日が落ち、ふたたび夜を纏った天が現れる時、思惑は世の闇の中で激突し、火花を散らすのである。
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登場人物紹介

【地獄太夫】花魁兼女剣士。走るタイプのゾンビは苦手。

【イェレミアス神父】 さまよえるユダヤ人にしてバチカンのエクソシスト。久しぶりに日本に来たら変身アイテムにされた。

【平戸】いわゆるひとつの黒幕。結構詰めが甘い。

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