掌があたたかい

文字数 1,954文字

 大晦日に愛車を走らせ、湖の側まで来た。凍てつくような寒さが、掌をかじかませ、暖房の効いた車内に、それがすっと入ってきた。まるで心に差してくる、哀しみのように。
 湖に向かっている間、ぽつぽつと雨が降り始め、フロントガラスに、ワイパーを回した。その規則的な音が、僕を深い思考の中へと沈ませた。どこか物寂しく、静謐な冬の一日が、すぐに行き過ぎていった。
 外に出ると、マフラーの隙間から、チクチクと寒気が滑り込んでくる。肌の体温がゆっくりと奪われていった。
 人々の姿はわずかしか、見受けられなかった。大晦日にここに来る人も、少ないのだろう。その趣味を享受しているのが、僕だ。そして今年は本当に一人きりだ。
 そんな中、ふわりと懐かしい景色が広がった。気分が浮き立って、隣へと振り向くが、その途端に、僕は苦笑してしまう。小さく首を振って、肩をすくめてみせた。
 背の高い木々が並んで、奥まで続いていた。夫婦や家族連れがそこを楽しげに歩いている。
 昨年も確か、天気は良くなかったな、とふと思い出した。
 このマフラーを巻き、今着ているコートを着て、セーターとジーンズを身に付けていた。何故今日この服装を覚えていたのか、何故今日同じ服を着てきたのか、そこに大した理由はなかったが、心がそれを求めていた所為だろう。
 平穏な日々の名残を心のどこかで、そっと求めているように。
 店が何軒か並び、ほとんど閉まっていたが、おでんの店だけは、やっていた。
 そこで一人分買って、アツアツの大根を頬張る。ほくほくと温かく、僕の顔を湯気が覆い隠した。
 ここに来ておでん屋がやっていたら、絶対に買おうな、とあいつがよく言っていた。
 この世にもういないその友人について思うと、どこか、胸が締め付けられた。大晦日にここに来て、店を物色するのが、毎年の僕らの恒例だ。こうした日々は本当にかけがえのないものだ。
 去年は自分の置かれた状況を愚痴ってばかりいた。幸せを噛み締める余裕さえ、なかったのかもしれなかった。
「あれ、今年は一人かい?」
 お土産屋のおばちゃんに、声を掛けられた。何年も通っているから、覚えていたのだろう。
「よく覚えていますね」
「そりゃ、毎年来るからね。それはそうとあの美男子はどこだい?」
 おばちゃんの顔は心なしか、残念そうだ。
「ちょっと、来れなくてね。しょうがないから、一人で来たんです」
「それは残念だねえ」
 おばちゃんは肉まんを袋に入れていたが、ふと背後へと振り返り、そして何かをやっていた。だが、すぐにこちらへと向き直って、袋を手渡してきた。
「ありがとう」
 僕は硬貨を差し出し、笑顔で袋を受け取った。
「来年も、待ってるよ!」
 その元気な声に送られて、肉まんの入った袋を提げ、散歩道を歩き出した。昨年よりも、袋が温かい気がしたから不思議だ。おばちゃんの優しい心を受け取った所為かもしれない。
 辺りにはどこか物寂しい空気が漂っていた。頭上は曇り空で、肌寒い空気が張り詰めていた。
 雨はもうすっかり止んでいた。煉瓦敷きの道を見つめ、自分の履いている靴に、ふと目が留まった。
「本当に、嬉しかったんだ」
 友人の言葉がふと蘇った。
「俺の作った靴を本当に嬉しそうに履いてくれたんだ。この靴、本当に良いなって。それだけでもう、涙モノだよ」
 友人は満面の笑顔で、そう語った。
 彼とは一年に数回しか会えなかったが、年の終わりに会うと、本当に会話が弾んだ。
「ところで、お前は彼女とどうなんだ?」
「僕か?」
 足下を見つめながら、僕は言葉を濁した。
「実は別れたんだ。彼女に結婚する相手ができたって言われて」
「それは辛辣だな……」
「でも、お前と話していると、気分が明るくなったよ。年末にお前とここに来るの、密かな楽しみなんだ」
 彼から、元気をおすそわけしてもらった気がした。
「よし、来年も絶対、来ような」
 友人は神社を指差し、「あそこに行こうぜ」と子供のように向かっていった。その背中を、今でも思い出せる。
 ゆっくりと鳥居を潜って、真砂の上に降り立った。そして、あの時の友人のように、背後へと振り返る。すると――。

 空に虹が架かっていた。鳥居の上にすっと横に描くようにして、とても鮮やかに。
 呆然とそれに見惚れ、袋の中に手を入れて、肉まんを一つ取り出した。すると、口元がふっと歪んだ。
 袋の中に肉まんが二つ入っていたからだ。
 もう一度それを確認し、ゆっくりと笑みが浮かぶ。こんな気遣いどういう意味なんだろう? その時にはもう無我夢中で、肉まんを頬張っていた。
 ああ、肉まんが涙の味になっちまったじゃないか。でも、掌にはちゃんと二つ分の温かさが残っている。

 了
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