きらきら星

文字数 12,667文字

 私はもう泣くこともできず、俯いて打ち震えているしかなかった。
 会社帰りのサラリーマンが多く乗車している車内では、盛んな声が響き渡っていた。そんな楽しげな会話が聞こえる中、私は絶望感に頭が真っ白になっていた。
 どうしよう。もうあの会社にいられないかもしれない。
 額を手で覆い、血の塊を吐き出すように深い吐息を絞り出した。腕の震えが顔に伝わり、顎がガクガクと揺れた。
 もうどこにも居場所がない。上司にも見限られて、あんな罵倒の言葉を叩きつけられてどこにも逃げ出すこともできずに、絶望するしかなかったのだ。
 ――何度やってもできないようなら、早くやめてしまえ。やる気がないなら、とっとと帰れ。邪魔なだけだ。
 あの般若の面をした上司のことを想像すると、背筋が震えて吐き気が襲ってくる。私は身を削って精一杯やっているつもりだ。だが、結果が出ていないのも確かで、足手まといになっているのも紛れもない真実だった。
 このままだと、近いうちに今の会社も辞めざるを得ないだろう。せっかくここまでやって来たのに、と悔しさがこみ上げてくる。
 もうこの世界に私の居場所なんてないんだ。私はただ、自分に見合った仕事で惨めな想いをして生きていくしかないのかもしれない。
 どうしよう――。
 そう心の中で言葉を繰り返していた時、ふと「今が一番幸せね」と優しげな女性の声が聞こえてきた。私はその聞き覚えのある声に、体を震わせてはっと振り返った。
 すると、ドアの前に若い夫婦が話し合っているのが見えた。女性の手にはベビーカーが握られており、赤ちゃんが穏やかな顔で眠っていた。
「今が、本当に幸せだと思うのよ。毎日が楽しくって、こんな感じでいいのかって思うくらい」
 彼女は笑いながら、自分の夫を見つめた。私は彼女の顔を見て、あっと思った。
 その人は確かに私の高校時代の同級生だった。当時長かった髪は今は肩までのところで切り揃えられ、薄く茶色に染められていた。
 あの頃と変わらないすらりとした細身の体は少しだけ私に懐かしさを感じさせた。男性も穏和な感じの人で、爽やかな柄のポロシャツを着ていた。
 私はじっと彼らを見つめたけれど、彼らの幸せそうな顔を見ているうちに、自分の心がどこか遠くへ置き去りになっているような感覚を抱いた。
 彼女は今こんなにも幸せそうな家庭を持っているのに、私はなんて惨めなんだろう。毎日不安だらけで身も心もボロボロになって働いて、居場所もない、お金もない、そんなちっぽけな私とは本当に対称的だ。
 私とは全く別の世界の住人のように思えてしまう。
 彼らの目に映らないように身を縮めて、体の震えを抑えるのに必死だった。ああ、もう幸せというものはどこかへ忘れてきてしまったみたいだ。
 どのくらいそうして俯いていたのだろう。気づけば電車は終点に差し掛かり、同級生の姿はもう電車のどこにもなかった。乗客も少なくなり、座席はガラガラとなって、私の心のようだなと思った。
 もう休み明けに辞表を提出しよう、と思った。さっさと悪あがきはやめて、地獄に真っ逆さまに落ちてしまえばいい。
 笑いがこみ上げてきて目が潤んだその時、スマートフォンに着信があった。会社からだろうか、とガクガクと震える腕を抑えつけながら画面を見た。
 その瞬間、体中を縛っていた重荷がふわりと浮き上がって消えた気がした。

 明日、休みなんでしょう? たまには家に帰ってきたら? 疲れてるだろうし、あなたの好きな肉じゃがを作って待ってます。  母より

 突然視界が真っ白に掻き消えた。
 目に薄い膜が張り付いて、鼻の奥がツンと痛くなった。
 お母さん、私……私ね。
 そのメールを見つめていると、堪えていたものが全て溶けだして涙が溢れてくる。
 しかし、私は必死に涙を堪えて彼女にすぐにメールを送った。

 明日、帰るから。その時に大切な話があるんだ。  佐代

 そこで“あの人”から突き付けられた言葉を思い出す。それを思い浮かべると、抑えていた涙が一つ零れた。
 母さんは私の話を聞いたら、どう思うだろう。ショックで呆然としてしまうだろうか。母さんの悲しむ姿は見たくなかった。私自身はどうなってもいいけれど、彼女の心を悲しませることだけはしたくなかった。
 私はスマートフォンを鞄に戻し、目を閉じた。
 頭を休めてじっとしていると、ふと何故か闇の中に無数の光が浮かび上がってくるのを感じた。
 それが星々の光だと思い出す時には、私の悲しみは少し引いていた。そして、次第に懐かしさが心を癒すのを感じた気がした。

 *

 私は翌日、新幹線に乗って実家を目指した。席に座っている間ずっと私は眠っていた。どんな人が隣に座っていて、どんな景色が流れていったかなんて、全く記憶に残っていなかった。
 私はただ虚ろな瞳で目の前の景色をぼうっと見つめているだけだった。誰も私になど目を留めず、通り過ぎていく。私は一人でその駅に着くまで闇に沈み、孤独を噛み締めて過ごした。
 ようやくその駅に辿り着くと、懐かしい人の香りが私の心を刺激した。少しだけ視界が開け、ようやく地元に帰って来たのだと実感が湧いてきた。
 私はスーツケースを引きながら、やがて鈍行電車に乗ってその田舎の町へとやって来た。その頃にはすっかり夜になり、訛りのある地元の人々の会話が耳に染み入ってきた。
 駅の出口から見えた景色は、木々の立ち並ぶ蝉の声に溢れた一本道だった。それは私の進むべき道が一つしかないと物語っているような気がした。
 バスロータリーには人はおらず、タクシーが一台案内板のある場所に停まっていた。とにかく虫の声だけがやかましく響き渡り、生温かな風が私の額を撫でていった。
 この蒸し暑い空気が、私の子供時代に感じたものだった。何も変わっていない……変わっているのは私の心だけだ。
 私はゆっくりと歩き出し、そのタクシーを拾った。運転手は私の顔を見ると、少しだけ驚いたような表情をし、そして「どこまでですか?」と言った。
「清水公園の入り口までお願いします」
 私がそう言うと、運転手は「はい」とうなずき、それきり何も言わなくなった。ゆっくりと景色が流れていき、私は額を窓に付けて外を通り過ぎる風景をじっと見つめた。
 ああ、帰ってきたんだ、と思った。
 遠くに見える山の稜線や、寂れたバスの停留所、田園風景……アスファルトの道路が妙に不釣り合いで、反対車線を走る車は一台しかなかった。
 川の側の橋を渡り、闇に沈んだ林道を抜けて、その木造の案内所のある公園の入り口に辿り着いた。私は小さな声でぼそりとお礼を言い、タクシーを降りた。
 無神経にも感じ取れるほどの音を立ててドアが閉まり、車はそのまま行ってしまった。私はそこに立ち尽くし、目の前に広がっている光景をじっと見つめた。
 公園入り口から伸びた道はアスファルトが敷かれて、山の麓の街へと続いていた。空に瞬く星達がぼんやりと闇の中に民家の姿を映し出し、曲がりくねりながら先へと続いていた。
 虫の声が駅にいた時よりも何倍も膨れ上がり、羽虫が私の周囲を舞い始めた。草の咽返るような匂いが漂ってきて、それは土の生温かな空気に混じり合いながら私を取り巻いた。
 けれど、何故か私はその空気の感触を受けて、少しだけほっとした。都会では全く感じられなかったその五感に触れると、ばらばらだった心が一つに繋がるような気がして、目の奥が熱くなる。
 私はゆっくりと歩き出し、見知った民家が続く中、周囲の風景を見渡して進んだ。広い庭を持つ民家が多くあり、どれも窓の中は消灯されていた。木造の家が多く、ひび割れや塗装の剥げた部分があったが、それでもその姿はまだ暖かさがあった。
 都会の無機質な高層ビルとは違う、心に直接触れるその人間味のある造形に肩の力が少しずつ抜けていった。
 やがて、一軒の民家の前で立ち止まった。私は塀の前で佇み、その家の屋根を見つめた。瓦が波を打っていて古くなり、けれど子供時代に見上げたそれと全く変わっていないような気がして、胸が暖かくなっていく。
 私が塀の間から玄関へと進みかけた時、扉の前に佇むその一つの影に気付いた。
 はっと目を見開く。
「おかえり。そろそろ来ると思っていたわよ」
 母はそう言ってにっこりと微笑んだ。暗闇の中でもその顔が笑っているのがわかったのは、心の中に彼女の笑顔が焼き付いているからだ。
 私は足を止めて、何かが溢れ出していくのを感じた。でも、寸前のところで堪え、ふっと微笑んで歩き出した。
 目の前まで行くと、母の姿がくっきりと浮かび上がった。
 彼女はやはり笑っていた。目の下に皺を寄せて、顔いっぱいに笑みを浮かべ、ほっそりとした体を少しも揺らせず、しっかりと地面に足を繋ぎ留めて立っていた。
 彼女は何も言わずに私をじっと見つめていたが、やがて私の肩にポンと手を置いて、うなずいてみせた。
「よく帰ってきたわね。少し貫禄が出てきたわ」
 彼女はそう言って私の背中に手を回して、中に入るように促した。私は貫禄、と小さくつぶやき、信じられなかったけれど、その気遣いに思わず微笑んでしまった。
 引き戸を開くと、小さな菱形に刻みこまれた床のタイルが明るい照明の光を跳ね返して、私の足元に広がった。私はその地面を見つめた後、ゆっくりと前方に視線を向けた。
 木目調の床が奥へと続いていて座敷が見えた。父が居間の椅子に座って、こちらに目を向けて軽く手を上げて見せた。
 私は喉が震えて、気持ちが溢れ出しそうになったが、まだ堪えよう、と思って唇を結んだ。靴を脱いで簀の子の上に上がり、ゆっくりと居間へと近づいていく。懐かしい木の匂いがその場所には満ちていた。
 クーラーを付けていないのにひんやりと涼しく、奥の縁側から風が入ってくるのがわかった。台所のすぐ前の居間にはあの古い机が置かれ、その周りには三つの椅子が置かれていた。
 父はその一つに腰を下ろし、文芸雑誌を読んでいた。眼鏡を外して、父はじっと私の顔を見つめ、よく帰ってきた、と口の周りに皺を寄せて笑ってみせた。
「お父さん、お母さん、ただいま」
 私は震える声でそう小さくつぶやき、父の向かいの椅子に腰を下ろした。母が私のスーツケースを引いて、それを廊下の隅に置くと、すぐにエプロンを付けて料理を配膳する準備を始めた。
 やはり夕食は彼女が言っていた通り、肉じゃがと赤飯、刺身で、私が好きなものばかりだった。私は彼女が黙って料理を出していくのを見つめていることしかできなかった。
 言葉が零れることはなく、何を話せばいいのかわからなかった。父は再び文芸雑誌を読み始め、軽く鼻歌を唄い出す。
 井上陽水の『なぜか上海』だとわかった。机の隅に『レ・ヴュー』のアルバムが置いてあったので、先程これをかけていたのかもしれなかった。
 私はようやく胸の痞えがなくなり、すっと呼吸がしやすくなったのを感じた。母も準備を終えて椅子に座り、食べましょうか、と言った。
「あのね、私……」
 そこからは自然に言葉が零れ出た。会社でうまくいっていないこと、もしかしたら仕事を辞めてしまうかもしれないこと、そして――。
「港さんと別れたの」
 私はそうつぶやいた瞬間、もう張り詰めていたものがプツンと切れてしまうのを感じた。涙が溢れ出してきて、もう堪えようがなかった。
 傷が走っている机の上に、ぽたぽたと涙が落ちて、それは徐々に小さな水溜まりとなって端へと流れていく。私は俯き、肩を大きく上下させて声を振り絞って泣いた。
 結婚の約束をしていた男性から突然別れの言葉を告げられて、もう連絡がつかないことを語ると、父と母の顔はショックで硬直してしまうのかと思った。
 しかし、彼らの顔に浮かんでいたのは、ただ少しだけ寂しそうな笑顔だった。
「そう。それは大変だったわね」
 母はそう言って私の手の甲に掌を重ねて、わずかに涙を浮かべた。父は私を見つめながら、ただ黙っている。
「本当に悲しいのは私達じゃなく、佐代の方だから。頑張ったわね。私達はいつも頑張っているあなたが誇らしいわ。だから、私達のことは気にせず、自分の為に泣いていいのよ」
 母はそう言って、ぽんぽんと私の掌を叩いた。私は片手で顔を覆って、子供のように泣き続けた。どんなに虫の声が反響しようとも、その大きな音を覆ってしまうほどに私の嗚咽は悲痛で、堪えようがなかった。
 でも、それでも私には帰るべき場所があったのだ、とそれだけが救いだった。私は料理の湯気がふわりと浮き上がっている食卓で、ただ何もせずに空腹も忘れて泣き続けた。
 すべてが吐き出されて空になった時、私は何故か目の前にある料理が食べたくて、貪るようにその食べ物を口の中に入れた。両親もただうなずき、いただきます、と声を零して食べ始めた。
 久しぶりに顔を合わせて料理を口に運ぶ食卓には、言葉はなかったけれど、料理の熱よりもはるかに暖かい夏の熱気が漂っていた。
 私はそのことに、ずっと忘れていた大切な何かを思い出したような気がした。それが何なのかはわからないけれど、それでも一歩、いや半歩だけ、前に踏み出せたような気がした。

 私は食卓で大泣きして涙も枯れ果てると、風呂にも入らず、自室へと向かった。ゆっくりとドアノブを握って開くと、ひんやりと冷たい空気が流れ込んでくる。
 見れば、窓が少しだけ開けられて、扇風機が回っていた。私はふっと微笑み、ゆっくりと中に入って電気を点けた。辺りを見回しながら、その懐かしさに言葉を失くしてしまう。
 その部屋は私が家を出て行った時のままだった。ベッドには星座の模様が入った掛け布団が載せられ、大きな望遠鏡が窓際近くに置かれていた。
 勉強机の横の棚には宇宙に関わるありとあらゆる書籍がぎっしりと詰め込まれ、2003年と書かれた宇宙の情景を描いたカレンダーがまだ壁に掛かっていた。
 私は部屋の中央まで歩み寄り、ぐるぐると何回も体の向きを変えて、その部屋の景色を眺め、本当に心を揺らせた。なんだか嬉しくなってきて、そっとベッドに横になって、天井を見上げた。
 じっとしていると、ここから見えた星空を思い出して、ふっと笑ってしまう。私はまたやってみようか、と起き上がって電気を消した。そして、机の横に置かれていた家庭用プラネタリウムの電源を入れた。
 その瞬間に、無数の星々が暗闇に浮かび上がる。ああ、と私は大きな吐息を漏らして、その星空に見入った。そこには天の川が浮かんでいた。冬の夜空が浮かび、北斗七星を見つけると、喉の奥から熱い感情の塊がせり上がってくる。
 私は、星が見たかったんだ。深くそう思った。
 あんなに星が好きだったのに、この街から出る時には何一つそれに関連したものを持っていかなかった。あの時は初めての環境にひどく緊張していて、心が休まる暇もなかったのを覚えている。
 こうして挫折して、家に帰ってきて、初めて暖かかった当時の記憶を思い出せた。港さんも私のことを想ってくれて毎日会ってくれた。
 同じ新入社員として、別々の環境だけど頑張ろうと誓い合ったのだ。けれど、港さんは私の心の弱さを見るにつれて、失望した顔を見せるようになった。
 ――僕と君は、進むべき道が違うのかもしれない。
 彼はそう言って、私に強い眼差しを向けてきたのだ。それから徐々に電話の数が減っていき、音信不通になってしまった。
 港さんは今、どうしているのだろう、と思うと、体が冷たくなっていくような気がした。けれど、今はこの星空を見ているだけで、何もかもが消えて、雄大な宇宙の姿だけが目に映ってくる。
 星は本当に綺麗だ。きっとその光を誰かに届ける為に、輝いているんだ。
 私はそう思ってようやく心から笑えた気がした。胸の扉がすっと開いて、中に入っていた鉛や鉄くずがごろごろと転がって出て行き、涼しい微風がすっと入ってくるのを感じた。
 今はただ、星をずっと見ていよう。ここにいれば、何か私にも新しい道が見えてくるかもしれない。ずっと見ているうちに、その星々の光が私の心に焼き付いて、無数の星座が投影されていくのを感じた。
 あそこに見えるのは、ふたご座で、あれがこいぬ、いっかくじゅう、オリオン……一つ一つ見つけていく楽しさを再び思い出し、私は子供のように無邪気になって星を指差した。
 こんなプラネタリウムを使わなくても、この街にいれば、星が見られるのにな。そう思いながら、私はプラネタリウムから流れ出す音楽に次第にまどろみながら、流れ星が降ってくる夢を見るのだった。

 次の日、目覚めるともう既に昼過ぎになっていた。私は慌てて起きて、また遅刻をしてしまったと焦ったが、ようやくそこが実家の自分の部屋で、今日は休暇中だったことを思い出した。
 私は自分の格好を見下ろして、あのまま寝てしまったのか、と苦笑した。安物の私服は皺だらけで、いかにもみすぼらしそうな容姿をしていたけれど、鏡に映る自分の顔は少しだけ生気を取り戻したように見えた。
 窓が開いて、そこから涼しい風が入ってくるのがわかった。外ではけたたましいほどの蝉の鳴き声が反響している。扇風機がまだ付けたままになっていた。
 いつの間にかプラネタリウムの電源は消されており、きっと母さんが気遣ってくれたのだろうな、と想像することができた。私はスーツケースから着替えを取り出して、それを胸に外へと出た。
 歩くとみしみしと軋む床の上を歩き、私は居間へとやって来た。すると、母が机に頬杖をついて新聞を読んでいた。私の姿に気付くと、ぱっと顔を笑みに変えて、疲れは取れた? と聞いてきた。
「ごめん。昨日はあのまま寝ちゃったみたい。シャワー浴びるね」
「ゆっくり入っておいで」
 私はうなずき、浴室へと向かった。ゆっくりとシャワーを浴びながら、肌の中から疲れが滲み出して、排水口へと吸い込まれていくのを感じた。
 肩から腰から、心から頭の中から、疲れが絞り取られていくらかすっきりした。私はバスタオルで丹念に体を拭いて整えると、Tシャツとジーンズを身につけて外に出た。
 父は縁側で本を読んでいるらしかった。居間の端に置かれたCDラジカセから流れてくるのは、安全地帯の『ワインレッドの心』だった。その曲は私が子供の頃に聞いてとても心を震わせた音楽で、再び聞けた今、時を忘れてそこに佇んでしまった。
 母は庭の洗濯竿に洗濯物を干しているらしかった。時折音楽に合わせて歌詞を口ずさみ、上機嫌な様子だった。そして、曲が終わると、次に『恋の予感』が流れ出す。
 私はその深く感情を揺さぶってくるメロディに、息を止めてそこでじっとしていた。父さんがこちらに振り返って、笑った。
「さっぱりしたか、佐代」
「うん。久しぶりね、この曲」
 私は父さんの横に並んでその曲をじっと聴いた。すると、母さんが洗濯物を干し終わったのか、縁側に上がって私達に言った。
「スイカがあるから、切りましょうか」
 返事を待たず、母さんは台所へと向かっていった。私は母さんの背中を見送った後、縁側の風景をしばらく眺めた。奥にある塀まで、木々が連なっており、開けた空間が広がっていた。虫の鳴き声が四方から聞こえてきて、日差しが光のシャワーのように降り注ぎ、地面の艶々した雑草を照らしていた。
 陽だまりの中で、穏やかな時間が流れていくような、そんなほっとする風景だった。蒸し暑さや草木のむっとするような匂いも気にならないほど、その景色は長閑だった。
 母さんがスイカを盛った皿を運んできて、縁側に置いた。そして、麦茶の入ったグラスを私達に渡してくれた。
「今日は特に天気がいいわね。ここにいれば涼しいし、ちょうどいい夏を感じられるわね」
 母さんがそう言って私の隣に足を垂らし、麦茶のグラスを傾けた。
「どうだ、佐代。星はまだ見ているのか?」
 父さんがスイカを齧りながら、穏和なその顔に皺を刻んで笑い、言った。
「最近は星のこと、忘れていたの。でもね、昔好きだったことを思い出して、なんだか元の場所に帰ってきたような気がしてほっとしたんだ。私、今日この縁側で星を見ようかな」
 そこで突然左右に座った二人が同時に笑ったので、私はきょとんとする。
「さっき父さんとそのことを話していたんだけどね、夜に三星山に見に行かないかって話なんだけど、どう?」
 私は口を半開きにして母さんの顔をじっと見つめていたけれど、やがて大きな声で「うん!」とつぶやいた。
「行きたいな」
 そこまで自分から気持ちを伝えることは最近なかったように思えたけれど、気づけば素直な自分の想いが零れ出ていた。
 母さんは父さんと顔を見合わせ、楽しそうな顔でじゃあそうしましょう、と言った。
 私は頭上の空を見上げて、澄み渡った青の向こうに星を見たような気がして顔が綻んでしまうのを感じた。本当に夜が楽しみだ、と思うと、昨日まで沈んでいた気持ちがどこかへ流れていってしまうような軽々しさを感じた。

 三星山の麓の駐車場までは、徒歩で行ける距離にあったので、深夜になるまでに荷物を持って林道を歩き始めた。目的地に着くと、一気に木々がなくなり、開けた場所に出た。
 今日はよく晴れた日で空も澄んでいたし、雲も出ていなかった。この星を見るのに絶好のスポットならば、美しい星々の輝きをこの目にすることができるだろう。
 私達は駐車場から外れて、芝生が生い茂る場所に腰を下ろし、シートを広げた。そして、荷物から星図と星座早見盤、赤いペンライトを取り出した。
 頭上へと視線を向けると、大きな大きな星空が広がっていた。どこまでも星々が散りばめられ、光がくっきりと闇の中に浮き上がっているのが見えた。
 父さんは早くもリュックから缶ビールを取り出して飲み始める。母さんも黙って空を見上げ、楽しそうにしていた。
 私はこうしてまたこの場所で観望ができることに、その嬉しさを噛み締めて星をじっと見つめた。こうして美しい夜空を見ることが、この街にいた頃はどんなに好きだっただろうか。
 小学生の頃は普段から友達の家族とここに星を見に来た。高校に上京してからなかなか観測地点に恵まれず、近くの博物館にプラネタリウムを観に行ってばかりいたのだ。
 考えてみれば、どんどん星から離れていく生活を送っていたのかもしれない。港さんと星を見に行ったことは一度もなかった。彼に自分の好きなことを話したこともなかった。やっぱり私達は本音で言い合うことがあまりにも少なすぎたのかもしれないな、とぼんやり思った。
 視界一杯に星の連鎖が続き、どこまでも光の流れが伸びていく。星図や星座早見盤を使いながら星々の美しいその姿を見て、私は感動していた。
 気付けば、シートに横になって大の字になり、星を見上げていた。
 ダイナミックに空が地上に迫り、大きな大きな宇宙にぽっかりと私の意識が浮かんでいるような、何もかも小さく、そして大きく感じられた。
 私の周囲で舞い上がる少しひんやりとした風が吹き抜ける度に、星々の声が遠く彼方から聞こえてくる気がした。昨日のプラネタリウムとは比べものにならない星の雨が私の体に降り注ぎ、大きな感情が膨れ上がっていくのを感じた。
 私の悩みなど、不安など、この星空の雄大さに比べればどうでもいいことだ。でも、それは間違いなく私にとっては大きなことなのだ。
 空の上をキラリと一筋の光が流れた。私はその流星を目にして、もう一度地に立って頑張ってみようと思った。だって、私にはまだできることがあるはずだ。恋人に見限られ、一人ぼっちの中でもやれるだけのことをやる資格はあるはずだ。
 精一杯やって、それでも駄目なら星を見上げればいい。体から重荷が崩れ落ち、ふわりと心地良い風が吹けば、きっと私の道も開けるだろう。
 私には帰る場所がある。星が見える限り、私の夢は終わらない。希望もどこかにきっとあるはずだ。
 それよりも、もっとシンプルに、すべてを放り出して笑ってしまえばいい。自分そのもので、壁に立ち向かっていこう。身一つでそれに当たって、素直に道を進めばいい。そうすれば、きっと――。
 私の頬を流れていく涙は、空にふわりと浮き上がり、星となって消えていく。私はその奇跡にいつまでも心を震わせ、宇宙に感動して、穏やかにありのままにその一時を過ごしていった。

 *

 翌日、正午過ぎに家を出る私は、母さんと固い握手をして、父さんとうなずき合ってから、最後に頭を下げた。
「私、本当にここに帰ってきて良かったよ。また歩き出せそうな気がしてきた」
 私がそう言って微笑むと、母さんは私を何も言わずにじっと見て、問い質すよりも表情から汲み取ることを選んだようだった。
「佐代がやりたいと思うことを精一杯やりなさい。佐代ならできるわよ」
 母さんは小さくうなずいて、私の肩をポンと叩いた。私にはそれだけで十分だった。こちらの意志が何を示すのかもうわかっているのかもしれない。私には母さんの言葉が最高のエールになったような気がした。
 父さんはいつものようにただにっこりと頬を緩めて笑っていた。けれど、「頑張れよ!」と突然大きな声を上げて私の背中を叩いた。私は思わず噴き出してしまい、目の縁の涙を払いながら小さく頭を下げた。
「本当にありがとう。今度帰ってくる時はイケメンのボンボンを連れてくるわ」
 二人は楽しそうに笑ってみせた。私はじゃあ、とつぶやき、スーツケースを引いて歩き出した。けれど、そこで母さんが「佐代」と呼びかけた。振り返ると、母さんが「星を見るのよ」とつぶやいた。
 私は小さく手を振って門の前に停まっていたタクシーに歩み寄って、運転手にスーツケースを入れてもらい、後部座席に座った。両親が手を振るのを横目に、タクシーが発進して、あっという間に見慣れた民家が遠ざかっていく。そこで運転手さんが振り向き、「休暇はいかがでしたか?」と言った。
 その優しい声音に、その顔をミラー越しに見ると、人の良さそうな笑みが浮かんでいた。彼は私の顔をちらりと見て、「実は」と言った。
「あなたがこの街に来る時、このタクシーに乗っていて」
 私はそこでようやく彼が一昨日の夜にあのタクシーを運転していた人だと気付き、少し驚いた。しかし、すぐに笑って、あの時はありがとうございました、とつぶやいた。
「私も最初、あの夜にあなたの顔を見て、驚いたんです。実は昔、この近辺に住んでいたので、言葉を交わしたこともありました。あの頃の面影が残っていたので、すぐに気付きましたよ」
 彼は本当に嬉しそうな顔でそう語り、軽快にハンドルを操作した。
「なんか顔が晴れやかになりましたね。この休暇でリフレッシュできたんじゃないですか?」
 私はうなずき、彼の横顔をじっと見て記憶を掘り起こそうとしたけれど、どうしても思い出せなかった。
「星を見たんです。そしたら、小さなことはどうでも良くなっちゃって」
「ここら辺は星が美しいですからね。また帰ってきた時、お顔を見れることを祈っています」
「ええ」
 タクシーは虫の声が反響する起伏の激しい道を進み続け、四方に見える木々の姿が徐々に遠ざかっていく。やがて橋を通過して、鮎釣りをしている人々を横目に見ながら田園の間を突き抜けていく。
 ふるさとの泥臭い、自然が剥き出した荒々しい風景を見ているうちに、ほんのりと寂しさが膨らんできた。雲一つない青空の下で緑が繁茂している姿をこの目で見れなくなると思うと、窓から身を離せなかった。
 やがて道は一本に合流し、駅へと直進していく。これから自分に迫ってくる数々の壁を思うと、ここから離れたくない、という強い想いが湧いてしまう。でも、自分一人でやってみようと決めたのだ。
 目を閉じて、ゆっくりと深呼吸する。そして次に瞼を開いてまっすぐ前を向いた時には、タクシーは駅のバスロータリーの反対側に停車していた。
 運転手さんはただ何も言わず、ルームミラーを見つめて微笑んでいた。私はちょっぴり恥ずかしくなり、慌てて財布を取り出し、支払った。
 外へと出ると、再び蝉の悲痛な叫び声が木霊しているのが聞こえてくる。私はスーツケースを受け取ると、それじゃあ、と頭を下げた。
「佐代さん」
 運転手がそう呼びかけ、私ははっと目を見開いて顔を上げた。
「どうぞ、つらい時があったら空を見上げて下さい。星を見れば、きっとこのふるさとを思い出しますよ」
 そう言って彼は礼をし、タクシーに乗ってすぐに発進していった。
 私はしばらくそこから動けなかったけれど、やがて空を見上げて小さくうなずいた。
 私には変わらぬこの故郷がいつだって目の前にあるじゃないか。
 あの星々の輝きを忘れなければ、きっとまた元の場所に戻ってこれるだろう。
 私はふっと微笑み、歩き出した。スーツケースの車輪が回る音がカラカラと響き、虫の合唱に吸い込まれるようにして消えていった。

 戻ってきてしまった、と思った。
 人の雑多な生活音、騒がしげな話し声、あの身を縛るような孤独感。電車の座席に腰を下ろして手元のスーツケースに目を落としながら、これからのことを考える。
 今の仕事をとにかく精一杯やって、その時が来たら潔く辞めよう。でも、終わりが来るとは絶対に思わず、がむしゃらにやって付いていけばいい。
 私は人目に気付かれないくらいに小さくうなずき、スマートフォンを操作して星座の写真を見つめる。あの街に行く前にはざわついていた心の中が今は落ち着いた静けさにたゆたっていた。
 少しずつ心が元気を取り戻していく。よし、とつぶやいて顔を上げた時、ベビーカーを押した女性が車両に入ってきたので、私ははっと立ち上がった。
「どうぞ。この席に」
 私は彼女にそう囁き、脇へとどいたけれど、その顔を見て硬直した。その女性は私が数日前電車で見かけた高校の同級生だった。
 彼女はありがとうございます、とつぶやき、席に座ろうとしたけれど、私と目が合って驚いた表情を浮かべた。
「佐代さんじゃない?」
 彼女はそう高い声で言い、私に笑いかけてきた。私はどうしよう、と迷いが心を過るのを感じたけれど、今度は隠れようとは思わなかった。
 一歩足を踏み出し、彼女に「久しぶり」と笑い返した。
 そこから会話が弾け、私は彼女と懐かしさのあまり大声で言葉を交わしていく。ここが電車の中だといつの間にか忘れていた。
「本当に久しぶりね。佐代ちゃん、変わったね」
「え?」

 ――今、すごく活き活きしてる。素敵になったわね。

 彼女の言葉に私の周囲から音が消え、その言葉が鐘の音のように頭の中に反響した。私はゆっくりと、静かに息を吸い、優しさに心を満たしていった。
 そして、こう笑った。
「輝くことをあるものから教えてもらったのよ」
 同じく輝いている彼女は、星空の煌きのようにふわりとかすかに笑って、私の手を握った。
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