小さな星

文字数 19,050文字

*きらきら星の続編です。

 私は仕事帰りに炭酸水のペットボトルとおにぎりを二個買い、そのまま自宅のアパートへと戻った。すごく狭い部屋だけれど、そこにいるだけで自分自身を取り戻せるような、落ち着く場所だった。私は丸テーブルにレジ袋を置き、ラジカセの電源ボタンを押した。
 その瞬間、ペールギュントの朝が流れ出した。今は夜だけれどこれを聴くと、一日の疲れがすっと抜けていって、心の風通しが良くなるのだ。私はスーツを脱いでジャージに着替えると遅い夕食を摂った。今日もくたくたでこのまま眠ってしまいそうだったけれど、明日から三連休なので、今日は少し色々なことをやって気分転換したかった。
 私はノートパソコンを開いて、ネットを読み出す。宇宙についてのコラムを更新しているブログがあって、それを読んでいると私は楽しくて時間を忘れてしまうのだった。時折私生活の笑えるネタを網羅しながら、記事は進んでいき、「今日の夜空」という文句の後に、その夜空の写真がアップされていた。
 その美しい星の輝きに食い入るようにして見入っていると、ふとこんなコラムを書く習慣があったら、私も楽しいだろうな、と思った。元々文章を書くのは好きだし、高校時代には新聞に投稿していたこともあった。何度か掲載されたこともある。
 でも、今となってはそんなことは、私にとって関係のない物事になってしまった。私はもう既に他の仕事に就いているし、行き詰ってはいるけれど、そこで何とか頑張ろうともがいていた。
 曲がオーゼの死へと移ったところで、私はラジカセを消し、ジャージのまま立ち上がった。その上にウィンドブレーカーを羽織って部屋から出る。外には少し冷たい夜気が小さな風と共に私の頬を掠めていった。
 そっとジョギングしながら風を受け止めて、アパート前の住宅街の道を進んでいく。街灯の光だけがぼんやりと足元のアスファルトを映し出し、走っている私の影だけが湖面を跳ね回る妖精のように楽しげだった。
 通行人の姿はなかったけれど、コンビニは駐車場が並ぶ界隈にあるので、それほど怖いとは思わなかった。コンビニの前には一台も車が停まっておらず、若い男女が微かな声で言葉を交わし、笑い合いながらちょうど中から出てきたところだった。
 私は店内に入ると、もう少し何かを食べたいと思って肉まんとバームクーヘンを買った。そっと店から出てくると、先ほどまで誰もいなかった入口横のスペースに女の子がしゃがみ込んでいた。小さな体を丸めて座り込み、肩を小刻みに揺らせている。
 泣いているのだ、と私は気付いてしまった。見ると制服を着ていて、ふわふわした栗色のショートヘアーが彼女の涙で頬に張り付いていた。それでも、彼女は一言も泣き声を零さなかった。ただ顔を抑えて静かに泣いていたのだ。
 私は通り過ぎようと思った。でも、どうしても視線が彼女へと向かってしまう。その影がかつての私の姿と重なった。港さんに関係を断たれ、部屋の隅でしゃがみ込み、ずっとずっと泣いていた自分の記憶が蘇ってくる。
 そう考えてしまうと、もう立ち去ることはできなくなってしまった。
 私はふっと息を吐き、小さく微笑むと、彼女へと歩み寄っていった。彼女は声を上げて泣いているのではなかった。確かに何か言葉を零しながら、それでも懸命に涙を拭って堪えようとしている。
 その中に嗚咽が混じっているのがはっきりとわかった。彼女は本当に風のうなりに掻き消されてしまうような、小さな声で啜り泣いていたのだ。私は少し迷ったけれど、彼女の隣に座り込んでそっと肩を叩いた。
 彼女の呼吸が止まり、小さな顔をこちらに向けてくる。とても可愛らしい顔立ちをした少女だった。化粧は全然されていないのに、眉のなだらかな曲線は彼女に愛嬌を与え、小ぶりの鼻はショートケーキの上に乗った果実のように可愛らしかった。そしてその唇は薔薇の花びらのように鮮やかな赤で、わずかだけれど伝わってくる女らしさを感じさせた。
 彼女は涙を目にいっぱい溜めて、唇をすぼめて震えていたけれど、私が「大丈夫?」と囁くと、少しだけ肩の揺れが収まったようだった。小さくうなずくのがわかる。
「よかったら、これ食べて。あったかくて美味しいよ?」
 私はレジ袋の中から肉まんを取り出して彼女に差し出した。彼女は目を丸くして涙に濡れた顔を肉まんと私に交互に向け、大丈夫です、と掻き消えそうな声でつぶやいた。
「いいのよ、私、さっき夕食済ませてるから」
「でも……」
 私はくすっと微笑み、それじゃあ、と肉まんから紙を剥がし、それを二つに割った。彼女へと「はい」と片方を差し出す。
 彼女はぽかんと口を開けてその肉まんを見つめていたけれど、やがてそれを受け取り、目を瞑って咥えた。ふんわりとお肉の美味しそうな香りが漂い、私も釣られて肉まんを口に運んだ。
 二人で肉まんを少しずつ味わって食べ続けていると、彼女の強張っていた肩が少しずつ下がっていき、ふう、とやがて大きな吐息を零した。その頃には彼女も少し落ち着いたようだった。
 私は小さくうなずき、じゃあ、と軽く手を上げてその場を去ろうとしたけれど、そこで彼女が「あの」と疲れたような声で呼んだ。首を傾けて、何かしら、とあくまで穏やかな口調で聞く。
「私、失恋しちゃって……それで、堪え切れなくて泣いてしまって。普段人前で泣くなんてことないんですけど、今日はもう我慢できなくて、それで……」
 彼女は再び俯き、唇を噛み締めた。私は彼女の隣に座り込み、ゆっくりと背中を擦ってあげた。
「すみません、本当に……肉まんだけじゃなくて、こんなことしてもらって」
 彼女は声を震わせて苦しげな声でそうつぶやく。私は首を振って「私も経験あるわ」と言った。
「その時はもうどうしようもなくつらくて、何をする気も起きなかったの。ただただショックだったわ。でもね、人には色々な別れもあるけど、また出会いもあるのよ。すべてが糧となって、時間が経った時、あああんなことがあったな、と思い出せるようになるから」
「本当に、そんな時が来るんでしょうか」
 少女が小さな背中を丸めて、駐車場のブロックに腰かけたまま、爪先を見つめてつぶやく。私は「きっとね」と屈託なく笑った。
「それでも駄目なら、星空を見ればいいのよ。いつもいつも私たちって足元を見て、空の明るさとか美しさとか、雄大さを見ていないことが多いのよ。ふと空を見上げてみると、星が輝いていて、まあいいか、って思えてくる。そんなことだって、百回のうち、一回ぐらいあるのよ」
 彼女はそっと空へと首を向けて、星を仰いだ。都会の夜空には星々の光は霞んでいたかもしれないけれど、光だけはきっちりと彼女の心に届いたようだった。実際に、いくつかの星々が私達を見下ろしていた。
「私、どうやら百回のうちの一回にあたったようです」
 彼女はそう言って私へと振り向き、歯を見せて笑った。涙の後に青空を見たような、とても美しい雨上がりの笑顔だった。
「私、今だけは星空を見ることを忘れていました。いつも地学部で星空を観察していたのに、不思議ですね」
「あなたも天体観測が好きなの?」
「大好きです。宇宙に関する本、たくさん持っていますし、地学部では部長をやっています」
 私は思わず声を弾ませて、彼女に色々と話しかけてしまう。彼女も束の間の悲しみを忘れたように、屈託なく、私に明るい声を投げかけてくれた。
 同じ趣味を持っていることを知った私達は、それまでの沈んだ雰囲気を捨てて、ブロックに並んで座ったまま宇宙について話し続けた。地元の街が星が良く見える地域で、幼い頃から星空を見つめていたことを話すと、彼女は目を輝かせて、うらやましいですね、と熱っぽく語った。
「私、今まで天体観測のツアーに参加するだけで、そういう自然に溢れた場所で長い間過ごしたことがなかったんです。全国各地に旅行行って、色々な星空を見てきましたけど、それは一瞬のことだったから。いつも次に星を観に行けるのはいつだろう、って待ち遠しくて」
 私は何度もうなずき、自分のことについて少し触れた。上京してから星から遠ざかって、そのことを忘れかけていたこと。あれほど好きだったのに、目の前の生活に追われて大切なものを失いかけていたこと。でも、結局それは失われてなどいなくて、いつでも私の前に広がっていたのだ。
「だから、星空を見てれば、いつも元の自分に立ち還ることができるような気がして」
「わかります、それ。私も地学部に入って、星空を眺めていると、一緒にいる子たちがきらきらした目をするんです。まるで星空の輝きがその子たちの瞳に移ったみたいに。それが本当に楽しくて、いつも星のこと、考えていたんです」
 彼女はそう言って頭上へと視線を向けて、本当に瞳を輝かせる。私はその横顔を見て、昔の自分を思い出して、どうしても親しみを感じてしまう。
「すみません、私なんかの問題に付き合わせちゃって。でも、お姉さんのおかげで元気が出ました」
 彼女は私へと満面の笑みで振り向き、どこか楽しそうに語った。哀しみの心の欠片は、今は零れ落ちて、星空へと舞ってしまったらしかった。私はそれがわかって本当に安心しながら、「それじゃあ、夜道気を付けてね」と立ち上がった。
 あの、と彼女に呼び止められて、私は振り返った。彼女も歩き出そうとしながら、はにかんだように笑ってつぶやいた。
「お名前だけでも、聞かせていただけませんか?」
「佐代、って言うの。ありふれた名前でしょ?」
 私が笑ってそう言うと、少女は「佐代さん」とうなずいてみせて頭を下げた。私があなたは? と聞き返すと、彼女は「美夕」とつぶやいた。私は彼女の名前を繰り返し、覚えているから、と手を振った。
「それじゃあ! さよなら、佐代さん」
 彼女は片手を振りながら夜の街へと駆けて行った。その後ろ姿は大樹から飛び立つ小鳥のように嬉しそうで、私も釣られて笑いながら、じっと彼女の姿を目で追った。
 彼女は大通りに出て、そのまま横断歩道を渡り、最後にこちらに振り向いてもう一度手を振った。そして、そのまま夜の霞へと消えていった。私はふっと息を吐き、歩き出しながら夜空を見上げた。
 星々の光は遠くてこちらには届いてこなかったけれど、それでも一等星の明かりは夜空の片隅に瞬き続けていた。それは私の心の中のある感情と似ていた。哀しみや心の痛みは消えたけれど、まだ脈々と息づいている想いがあった。
 それが何なのかわかっていても、私にはどうすることもできない。私は港さん、とつぶやき、この星のどこかにいる彼へと囁き続ける。
 何故別れてしまったのか、彼がどんな気持ちでいたのかはわからなかったけれど、私はその感情を消し去ることも、隅へと追いやることもできない。ただ一等星は変わらぬ光を放ち、輝き続けるだけだ。
 私は住宅街の道を進みながら、きらきら星を歌う。そんな馴染みのある歌を唄っていても、目の前の景色はどこか違う気がした。
 そんな束の間の感傷に浸りながら、私は星への道のりを辿って今日も生きていく。

 翌日は疲れていたので午前中は家で本を読んでいた。モーツァルトをずっとかけ続け、うとうとしながら本を読んでいると、あっという間に昼頃になってしまった。私はすかすかの冷蔵庫の中から食パンとチーズを取り出し、それを挟んで食べた。インスタントコーヒーを淹れて飲み、ようやく眠気も醒めてきた。
 こうして一人で休日を過ごしていると、港さんと過ごしていた頃の楽しかった時間を思い出して、少し笑ってしまう。もう忘れたと思ってても、その記憶はカーテンから差し込む木漏れ日のように心に届き、私はその度に本のページを繰る手を止めてしまう。
 家の中にいると回想に浸ってしまうので、私は私服に着替えて、公園を散歩することにした。スマートフォンで音楽を再生し、イヤフォンを耳に嵌めながら外に出た。冬のひんやりとした空気が私の首筋に絡みつき、それは服のわずかな隙間から差し込んで肌をちくちくと刺した。
 でも、コートの優しい感触が肌に触れる度に、ほんわかとささやかな暖かさを感じさせて、さらに襟を寄せる。日中の明るい陽射しが冬空から降り注ぎ、道の先を眩い光で溢れさせていた。そこからわずかに見える木々の影が休日の穏やかな午後を表しているようで、音楽のヴォリュームを上げてしまう。
 私が今掛けているのは、イーグルスの呪われた夜のアルバムだった。港さんからもらったCDから取った音源で、もう別れてしまったのに、まだ未練たらしく彼からもらったものを使っている自分に呆れてしまう。でも、今となってはもう、これらの音楽は私の一部になっていた。
 狭い車道が横一線に伸びていて、その横断歩道を渡って私は公園へと到着した。どこからか子供のきゃらきゃらとした遊ぶ声が聞こえてくる。家族連れが楽しそうに笑い合いながら、こちらへと歩いてきた。
 私はこんにちは、と声をかけながら、彼らの横を通り過ぎて、煉瓦敷きの遊歩道を歩いていく。左右の茂みはよく手入れされているし、道もぴかぴかと光を跳ね返すほどに真新しかった。少し前に公園の設備を整える工事が行われて、それからここを訪れる人々の姿が少し多くなった気がする。
 大股で歩き出し、ウォーキングを続けながら、私は曲がりくねった道を進み続けてやがてテニスコートや広場が見えてきた。ボールを打つ小気味良い音が反響し、ネットの向こうでは年配の男女が若々しくラリーを楽しんでいた。
 私は立ち止まってその光景を見つめていたけれど、広場にはぐるりと周りを囲うようにしてベンチが点在し、そこにお年寄り達が座って本を読み、談笑したり、と各々気楽に過ごしているようだった。
 私はもう少し中を散策しようかと歩き始めようとしたけれど、そこでふと見覚えのある人影が横を通り過ぎたのがわかった。私は反射的に振り返り、その人もこちらへと首を向けていて、視線が合った。
 美夕ちゃんだった。昨夜のことを思い出し、私は何と言えばいいのか迷ったけれど、こんにちは、と笑った。美夕ちゃんも笑い返し、「こんにちは!」と栗色の髪を揺らせて頭を下げてみせた。
「偶然ね。公園を散歩していたの?」
 私がイヤフォンを外し、コートのポケットに突っ込んで言うと、彼女はウインドブレーカーを着た姿を指示して、「ジョギングしてました」と快活に返してきた。
「ここに来ると、本当に休日って気がするわよね。よくここで散歩してるのよ、私も」
「ここら辺に住んでるんですか?」
 美夕ちゃんが私の隣に並んで広場をゆっくりと歩きながら、興味深げに聞いてくる。私はうなずき、「アパートに一人でね」とその方向へと顔を向けて笑う。
「私は三連休でおばあちゃん家に来てて、ここら辺はよく知っている訳ではないんですけど、好きなんですよ、結構」
 私達はふっと笑い合い、歩調を合わせて進んでいくけれど、美夕ちゃんは歩調も弾むようで、彼女の軽やかな足取りに私も釣られてしまう。道の間隔は広く、右端にいくつか木の周りにベンチが張り巡らされ、そこで将棋盤に向かう老人達がいて、なんだか楽しそうな雰囲気だった。
「私、昨日家に帰ってみて考えたんですけど、あれから少し泣いてしまって……でも、佐代さんが声をかけてくれたのでそれで安心して落ち込まずにいられたんです。本当にありがとうございました」
「今はずっと悲しいかもしれないけれど、美夕ちゃんの強さなら乗り越えられるわよ」
 私が風にふわふわ揺れる彼女のショートヘアーを見つめて言うと、彼女はそうでしょうか、と困ったように笑った。
「私、今にも泣きだしそうなぐらい落ち込んでることは落ち込んでるんですけど、佐代さんの言葉がずっと頭の中に残っていて。また星を観たいって思えてきました」
「また新しい恋が訪れるわよ」
 はい、と彼女はうなずき、それから星についての話になった。彼女は私の地元の星空についてよく聞いてきて、興味を持っているらしかった。私はスマートフォンでその写真を見せてあげて、綺麗でしょ? と微笑んだ。
 彼女はいいなあ、と何度もしきりにつぶやき、私のスマートフォンに顔を寄せて画面をタッチし、熱心に写真を見つめていた。
「あのさ、良かったら、なんだけど」
 私が彼女の横顔へとそうつぶやくと、彼女が何ですか? と楽しそうにつぶやく。
「明日良かったらプラネタリウムへ案内してあげようか? 近くに博物館があって、そこで観れるんだけど」
「ほ、本当ですか?」
 彼女はスマートフォンを私へと返し、嬉しそうに顔いっぱいに笑みを浮かべる。私はうなずき、駅から電車で数駅いったところに博物館があり、そこでプラネタリウムが併設されていることを語った。
「そこ、知ってます。おばあちゃん家にいる間に一度行ってみたいな、って思ってたんです」
「なら、良かったわ。怪しい女に連れていかれると思って迷惑だったら、断っても全然気にしないけど。もしよかったら、どう?」
 行きます、と美夕ちゃんは大きな声でうなずいてみせた。
「うわ……本当に楽しみです。私が住んでいるところにもプラネタリウムがあって観たりするんですけど、博物館で星に関する展示もやってるって聞いて、興味持っていたんです。ありがとうございます、佐代さん」
「いいのよ、私も誰かと行く約束がないと、機会がなかったから」
 そうして私達は微笑み合い、公園の中を散歩し続けた。美夕ちゃんはスキップをするように軽々とした足取りで私の横を歩き、私も彼女から色々な話を聞いて、休日の穏やかな一時を楽しんだ。人との出会いってどこにあるかわからないものだな、と深く思った。
 そうして私達はお互いに同じ趣味を共有する同志として、確かな縁が紡がれたのだった。

 私は次の日、あのコンビニで美夕ちゃんと待ち合わせた。彼女は可愛らしい服装で先に待っていて、私が歩み寄っていくと、ぶんぶんと手を振った。そして、佐代さん! と大きな声で合図する。
「待たせてごめんね。それじゃ、行きましょうか」
 はい、と彼女は満面の笑みでうなずき、並んで歩き出して、住宅街から大通りへと出た。朝の冷たい空気が私達の掌を滑って袖口へとすっと入り込んでくるけれど、それは私達のわくわくと浮き立つような気持ちとなって暖かな熱に変わった。
 私は昨日メールで話していたCDを彼女へと見せ、「これなんだけど」と話す。
「すごくいいから、帰って聴いてみてね」
「え、でも、私連休終わったらまた自宅に帰らないといけないし……」
「いいのよ」
 私はくすりと微笑んで、顔の前で手を振り、そのCDケースを彼女へと差し出した。
「これは私からのプレゼント。確かな友情の証ってことで」
「友情……」
 彼女はぽかんとそれを受け取って見つめていたけれど、やがて顔を綻ばせて、「ありがとう、佐代さん!」とバッグへCDを仕舞った。
「なんか佐代さん、私にこんなに良くしてくれるけど、何にもできないし……」
「私も妹ができたみたいで楽しいから」
 大通りには車が絶え間なく往来し、道の先では歩いている人がちっぽけな人形みたいに点々と動いていた。私達は車の走行音に吐息を掻き消されながら、それでも風に心を乗せてふわりふわりと空へと立ち昇っていきそうだった。
 それほど私達は同じ楽しみを分かち合うことができるのが嬉しかったようだった。陳腐なようでいて、こういうシンプルな趣味の楽しみ方も悪くはないような気がした。
 横断歩道を渡り、銀行やファーストフード店が並ぶ駅前通りをゆっくりと歩いていった。その間、美夕ちゃんは学校のことについて楽しそうに語ってくれた。
「地学部のみんなはすごく仲良くて、普段から遊んでいるんですけど、熱心なんですよ、これが。みんな旅に出て星座の写真持って帰ってきたりとか……あそこにいるときが一番楽しいかな、私」
 私もうなずき、高校時代に地学部に入っていたことを話した。すると、美夕ちゃんはますます楽しそうにそのことについて語り、私達は電車に乗ってからも話の種は尽きなかった。
「美夕ちゃんの将来の夢は何なの?」
 私がそう聞くと、彼女は少し押し黙り、そしてふっと笑って首を傾げてみせた。
「まだやりたいことは決まっていないんですよ。でも、星のことはいつでも好きでいたいと思っています」
「それがいいわね。私もそれだけはずっと忘れずに毎日を生きていきたいと思っているわよ」
 ですよね、と彼女はつぶやき、私達は目的の駅で降りると、小さなホームを歩いて階段で改札前に出た。美夕ちゃんは本当に楽しそうで、弾むような足取りで前を歩き、私へと振り返って促してくる。
 駅から出ると、長い道がずっと先まで続いていて、頭上には木々が枝を伸ばせて地面に陰影を作っていた。ぽかぽかとした暖かい陽射しが降りて、私の頬を撫でて、心地良い火照りを与えてくれる。
 冬にしては今日は暖かく、それは足取りが弾むようになって、自然と体があったまってきていたのかもしれなかった。美夕ちゃんはあそこですよね、と前を指差して、どこかはしゃいだようにしている。
 博物館は特別大きいという訳ではないけれど、周囲をたくさんの木々に囲まれて、この道を散歩するだけでも楽しそうだった。ガラス張りの自動ドアが開いて中に入ると、左側にカウンターがあり、そこで私達はチケットを買った。
 それほど展示が充実しているとか、そういうことはないのだけれど、それでも美夕ちゃんは中を歩きながら展示へと私を促し、嬉しそうにしていた。
 展示コーナーへと入ると、辺りが暗くなり、頭上に星々の光が広がり始める。展示について、アナウンスの声が入り、一つ一つパネルに天体についての説明が詳しく載っていた。画面にビデオが再生され、至るところに音楽やアナウンスが流れて、美夕ちゃんは熱心に聞き入っていた。
 私はその説明に引き込まれながら、もし港さんとこうして二人で星についての話ができたら、どんなに良かっただろうか、と思った。彼と同じ好きなものを共有できていたら、こんな結果にはなっていなかったかもしれなかった。
 彼に自分のことを包み隠さず伝えて、少しでも寄り添っていれば、彼も私のことを理解して、私も彼を知ることができていたかもしれないのだ。でも、今となってはそんなことを考えても、全く意味のないことだった。
 私はふっと息を吐き、美夕ちゃんと展示室から出てきたけれど、美夕ちゃんの明るい様子に少しだけ憂鬱な気分が吹き飛んでいった。星を楽しげに見つめている人の顔を見ていると、ほっとした。それは美夕ちゃんが語っていたことと全く同じで、私達は似ているのかもしれないな、と思った。
「プラネタリウム、観に行きましょう。あまり混んでいないみたいだし、チケット今からでも間に合いますよ」
「そうね」
 私達はプラネタリウムへと赴き、さっそく自動販売機からチケットを二枚買った。ちょうど入場前となって、何人かのカップルや家族連れが並んでいた。その後ろの方に並びながら、「楽しみですね」と美夕ちゃんは顔を笑みでいっぱいにさせる。
「佐代さん、地学部で部長やっていたんですよね。どこの高校ですか?」
「ああ、私? 私は羽望北女子高だけど」
 その瞬間、ふっと彼女の体から力が抜け、彼女が目を見開いた。
「もしかして……羽望北の野崎佐代先輩ですか?」
 彼女の声が震えていて、私は少し驚きながらも、「そうだけど……」と同じように彼女を食い入るようにして見つめてしまう。
「私も、羽望北なんですよ。すごい偶然ですね。じゃあ、初代部長の野崎先輩だったんですか、佐代さんは。私、部室に残っていた記事とかコラム読んで、感動して……それで地学部に入ったんですよ」
「ほ、本当に? 私の記事、読んだの?」
「冊子にまとめてあったので、それで読んだんです。はぁ……不思議な繋がりがあるものですね」
 本当にそうだった。私は高校時代、天体についての文章を書くことにはまっていて、部室にその残骸を数多く残していった。今になってそれを読んでくれた人が現れるなんて、驚きだった。
「私、佐代さんならこういう記事を書いてかなりすごいことできるんじゃないかと思いますよ。なんというか、本当に普通じゃ書けないような文章のような気がしたんです。佐代さんにはずっとああいう記事を書いてもらいたいな」
 なんか変なこと言ってしまっているようですが、と美夕ちゃんははにかんだように笑いながら私をじっと見つめた。私は突然の言葉に、何と返せばいいのかわからず、彼女を見返していたけれど、やがてぷっと噴き出した。
「私、今は別の仕事に就いているし、記事は書かなくなってしまったんだけど、そうね、そういう得意なことを活かすことも楽しいかもしれないわね」
「そうですよ! あんな記事書けるんですから! 私、佐代さんの文集、コピーして大切に持っているんですよ」
 彼女がどこか興奮したように言うので、私は少し恥ずかしくなりながら、ありがとう、と笑った。
 そこで博物館の職員が入場開始を告げ、一斉に前の列が動き出した。私達は言葉を切り、その流れに促されるままに中へと入っていく。
 とても大きなスクリーンが頭上に現れ、私はプラネタリウムに来るのが久しぶりのことだったので、思わず声を失って設備に見惚れ、足取りも遅くなってしまった。投影機が配置されていて、今からどんな星空を見ることができるのか楽しみだった。
 傾斜した床にはリクライニングのチェアーが並んでおり、私達は席に座ると、そこに背中を寄り掛からせて大きく息を吐いた。久しぶりだな、と美夕ちゃんがはしゃいでいるのを見て、私も久しぶりに星空を楽しむ時の気分を思い出して、口元を緩めた。
「少なくとも私は今、別の仕事をしてるけど、いつでもこの楽しみを思い出せるから、道は外れていないのよ。いつだって私の傍には星があるし、こうしてまた星空を見ることができるんだから」
 私がそう言って微笑むと、美夕ちゃんは「そうですね」とつぶやき、スクリーンを見つめながら少し押し黙っていた。やがて彼女は少しだけ躊躇うように、でもはっきりとした声で言った。
「でも、私は佐代さんの才能をもっともっと活かせるんじゃないかって思うんです。また記事を書き出したらどうでしょうか。あれだけ感動させる文章を書くことができるのは、佐代さんの中に何かがあるってことなんだと思います。色々な可能性を試してみて、チャレンジするのも、全部星に繋がっているんだと思いますよ」
 私はそっと隣の席へと顔を向け、美夕ちゃんを見た。彼女はスクリーンに視線を据えたまま、微かに口元を緩めていた。私は少しだけ目を閉じて想いを巡らせた後、そうね、とうなずいた。
「本当に楽しいと思っていたことをどこかに置いてきてしまったのかもしれないわね。休みの日なんかにパソコンで何か書いてみることにするわ。できれば、美夕ちゃんにも読んでもらえると嬉しいな」
「もちろん読みますよ。あの天体に関する連載小説、続編書いてください!」
 彼女は熱っぽい吐息を零しながらそう言って、私へとうなずいてみせる。そこでちょうどアナウンスが流れて、辺りが暗くなり始めた。私達は言葉を切り、スクリーンへと視線を注いで暗闇へと体が沈み、宇宙に溶け込んでいくのをじっと待った。
 やがて満天の星空が広がり始める。そして、プログラムが始まると、最初の方で流れ星が降って観客から「おお」と歓声が上がった。私達も声を上げて心を浮き立たせながら、その情景を見つめて息を呑む。
 星々の眩いほどの輝きが降ってきて、私の心に吸い込まれて弾けていく。そこに開いた穴から感動という名の奔流が注ぎ込み、私は動くこともできず、夜空に見入った。
 プログラムはゆっくりと進んでいき、ヒーリングミュージックが素晴らしい音響によって私の元に迫ってきた。やがて星座の紹介に移ると、美夕ちゃんは感嘆の声を始終上げていて、私も促されるまま星空に食い入るようにして見入ってしまった。
 その圧倒的な星の数は私の目が追いきれないほどで、その明るい光が重なって大きな夜空を無限に輝かせていた。どこまでもどこまでも星が連なり、右を見ても、左を見ても、自分の心を覗いても、そこには星が輝いていた。
 プラネタリウムは宇宙を映し出す鏡となって、私の心そのものを投影していた。私はこの際限のない輝きを心に焼き付けたくて、いつまでも星空を見つめていたい……いつもそう思ったのだ。でも、日常の中でだんだんと瓦礫の山にそれは隠れていき、やがて見失いかけていたのだ。
 あとはただ一つ、大切なあの人ともう一度会って、話すことさえできれば、私は何物もいらなかった。でも、もう私と彼を繋げるものはただの記憶の残り香に過ぎなかった。
 ゆっくりと壮大な音楽が弾け、徐々に夜空が引いていく。辺りが白い光に包まれ始め、やがては私は宇宙から舞い降りて地上へと戻った。プラネタリウムが終了し、あっという間の奇跡を私と美夕ちゃんは言葉もなく、微笑み合うことで語ることしかできなかった。
 座席から立ち上がって歩き出した私は、その大きな感情の波に胸を詰まらせていて、とにかく美夕ちゃんに「すごく良かったわね」と囁くだけだった。美夕ちゃんもどこか嬉しそうな顔でうなずき、「良かった」と深い吐息を漏らした。
 そうして私は通路へと入り、歩いていくけれど、そこでふと唐突に港さんの顔が脳裏に浮かんだ。いや、それは幻影などではなかったのだ。彼が一人の女性と手を繋いで目の前を歩いていた。
 彼はこちらには気付かず、振り返らなかった。楽しそうにその女性と顔を見合わせながら言葉を囁き合っている。
 港さん、と私は足腰がひび割れ、崩れ落ちてしまいそうになるのを防いだ。それは星々の力をもらった今だからこそ耐えきれることだった。
 そう、これが現実だったのだ。私が港さんの影を追い求めてふとした夜に涙していても、現実はただ動いてゆっくりと進んでいく。港さんとの恋は既に過去のものとなり、私の中でも風化し、港さんは新しい恋に楽しい日々を過ごしているのだ。
 だけど、それが当たり前だとわかっていても、どうしても涙を抑えられなかった。港さんはあの頃とは全く何も変わっておらず、ただ少し痩せただろうか、長身の体やしっかりとした足取りは記憶と全く変わらなかった。
 彫の深い顔をしていて、人の良い笑みが浮かんでいる。隣の女性も小奇麗に赤い服に統一し、スカートから下には本当に美しい足が覗いていた。彼らが並んで歩いていると、映画撮影のワンシーンのように見えてしまう。
 私がいた証は、彼の中に果たしてあるのだろうか、と思った。でも、きっと少しでも、ひとかけらでも残っていてくれればいいな、と思った。彼の背中が遠ざかる中、私はただ立ち尽くし、視線だけをその二人へと縫い留めていた。
 港さんが行っちゃう。でも、それを止める術などなくて、私はただ彼らが消え去るのを待つことしかできなかった。
 でも、これでいいのだ。私は私の道を歩いていく。もう迷いなどなく、ただひたすら地に足を付けて歩いていけばいいのだ。
 そう思うことができたけれど、でも涙は堪えようがなかった。美夕ちゃんが驚いた顔で私を見て、どうしたんですか、と肩を抱いて脇へと促す。私がプラネタリウムに感動していると思ったのか、彼女は笑顔でハンカチを差し出してくる。私はそれを受け取って何とか涙を拭った。
 でも、涙はどんどん零れ落ちて止まらなかった。
「佐代さん、何かあったんですか?」
 美夕ちゃんの声だけが宵闇の中で風に乗って運ばれてくる微かな暖かさのように私の心を震わせた。
 私はただうなずき、大丈夫だから、と囁くことしかできなかった。
 美夕ちゃんは私の肩をつかんで彼女に私がしてあげたように、背中を擦ってくれた。私はいつまでもいつまでも、彼の残り香が消えてなくなるまでそこに立ち尽くし続けた。
 私を包む宇宙は、幾千もの流れ星と共に、やがては日常の静けさに変えられ、沈んでいった。

 *

 その夜、自宅アパートに帰ってきた私は簡単にパスタを作ってそれを少しずつ胃の中に入れていった。今日のプラネタリウムは本当に楽しかった。そして、港さんとの出来事は本当にショックだった。でも、不思議と今は落ち着いていた。
 彼女のくれた言葉の一つ一つがどうにか私の心を繋ぎ合わせて保ってくれているようだった。美夕ちゃんはあの日の夜、こんな気分でいたのかな、と少し思った。美夕ちゃんも好きな人に想いを否定されて、それで落ち込んでいたと語っていたけれど、私達は少し似ているのかもしれなかった。
 美夕ちゃんにあげた星空の音楽をラジカセでかけながら、私はパソコンを開き、ワードプロセッサーを出した。まだ文章の構成も何も決めてはいなかったけれど、すぐに書き出した。もうそこには躊躇が入る隙などなかった。
 私が普段、星空に関して感じていること、日常の中で見えるその瞬間を一つ一つ言葉に綴っていく。今日のプラネタリウムの感想なども含め、私は自分の中の想いを形にしていった。そうして出来たものは本当にささやかな日常を描いたものだったけれど、私の書きたかった文章はただ素直に表現することだけだった。
 書いた記事を新規作成のブログに転載し、公開する。そこまで来て、私は時間を忘れて作業に打ち込んでいたことを思い出した。それは久しぶりの感覚だった。高校時代、夜遅くまでパソコンに向かい、文章を打っていたことを思い返す。
 何かに打ち込むということは結構楽しいものだな、と本当に久しぶりに思った。
 美夕ちゃんにそのアドレスを送ると、私はベッドに寄りかかって、天井を見上げた。
 私がやりたいことは、ずっとずっと胸の奥に仕舞われていたことだけだった。でも、それは蓋を開けてみると、本当にすぐ側に存在していたのだ。また書き出そう、と思うことができた。
 そこで美夕ちゃんからメールが返信されてきて、「すごくいいです!」という顔文字付きの文面を見て、私はぷっと噴き出してしまった。
『適当に書いただけなんだけど、気に入っていただけたようで良かったわ』
『たまにでもいいので更新してもらえると、本当に嬉しいです。絶対チェックしますので』
 美夕ちゃんのそんな言葉が聞けただけで、書く力が湧いてくるような気がした。私はベッドに横になり、音楽に耳を澄ませながら目を閉じた。そうしていると、すぐ脳裏に星々の輝きが蘇ってくる。
 私はそんな果てしない銀河の煌めきを想像しながら、すっと小さな雫が頬を伝うのを感じた。そのまままどろみに沈んで眠りに就こうとした時、スマートフォンから着信音が鳴り響いた。
 誰だろう、美夕ちゃんだろうか、と私は起き上がってすぐにそれを手に取ったけれど、画面を見たら、亜稀ちゃんと表示されていた。私はすぐに顔を綻ばせた。
 田舎から帰ってくる電車で偶然会った高校の同級生で、今は一児の母だ。彼女と再会した後に、私達は何度か会うようになり、たまに電話でお喋りをすることもあった。たぶんまた会わないかどうか、話したいんだろうな、と思う。
 ――今、すごく活き活きしてる。素敵になったわね。
 彼女が電車の中で掛けてくれたあの言葉に、私はどれだけ救われただろう。自信を持てなかった私が、少しでも頑張ろうと奮起させてくれたのは彼女だった。
「はい、もしもし」
 私が電話に出ると、亜稀ちゃんは「こんばんは」といつも通りの落ち着いた口調で言った。
「夜分遅くごめんなさい。ちょっと大切な話があって電話させていただいたの」
「大切な話? 何かしら?」
 私の中で、言葉では言い表せないような予感が心にすっと溶け込んで、広がっていくのを感じた。何か、自分の運命を変えるようなことが今、語られようとしている……そんな気持ちがしたのだ。
「佐代さんは高校時代、よく記事の編集作業とかやっていたわよね。あの出来がすごく良かったから、私、ずっと覚えていたんだけど」
 美夕ちゃんに言われたことが再び誰かの口から告げられると、単なる偶然ではないような気がしてしまう。何だろう、と私はスマートフォンをさらに耳に押し当てた。
「それで、あなたのその力を見越してのことなんだけど……佐代さんは今、会社でもすごくつらい思いをしてるのよね。で、提案なんだけど……」
 こんな仕事があるのよ、と彼女がつぶやいた。

「先輩のおかげで、また観望会に来れました。ありがとうございます!」
 美夕ちゃんが頭を下げると、他の三人も「ありがとうございます!」と大きな声で叫んだ。
「OBが来てくれるってことにならないと、顧問の先生が渋るんですよ、本当に」
 美夕ちゃんがそうひそひそ声で囁いてきて、博物館のプラネタリウム入口で立っている男性顧問をちらりと見た。彼はきゃらきゃらと笑い声を上げている美夕ちゃん達を見て、苦笑している。
「それは良かったけど、ここの博物館、来たことなかったの?」
「はい! 何度か候補に上がったんですけれど、他の観測地点に行くことになってて。本当に良かったです!」
 美夕ちゃんがふわふわの栗色の髪を揺らせながら大きく言うので、他の女子三人組はうなずき合う。
「初代部長と知り合いになるなんて、美夕の顔の広さには驚きだね」
「美夕、いっつも一人で突っ走る傾向があるからなあ。たぶん、佐代先輩を無理やり言いくるめて……」
「その小動物みたいなルックスで、甘えた声でも上げて……」
 うるさいわね、と美夕ちゃんが少し怒った顔で振り向き、再び他の部員としゃべり始める。
「すみません、来ていただいてしまって」
 顧問の男性教諭が苦笑いを浮かべながら近づいてきて、そう囁いた。
「いいんですよ、私も観望会にはここ数年参加していなかったので、楽しみにしていたんです」
「あなたがうちの部を盛んにしてくれたから、今の部員たちがあるようなもので。本当に代々の部長も感謝していたみたいですよ」
 その顧問の堀越さんは白髪混じりの頭をぽりぽり掻きながら、困ったように笑った。私は小さく首を振り、「でも」とつぶやく。
「でもやっぱり、今のあの子たちの笑顔があるから、地学部も続いているんだと思います」
「はい、そうですね。私ももっと活動の場を増やしてあげないといけませんね」
 そんなことを話していると、入り口前には結構な人の数が集まってきていた。土曜日の夜とあって、やはり専門知識がなくても星を楽しみたいと思う人がいるらしかった。子供の同伴で来ている母親達のグループなど、家族連れも多かった。
 私が最後に観望会に参加したのは、ずっと昔のことで、確か高校時代だった気がする。当時の下宿先近くに博物館があり、その頃も冬だったので、オリオン座のオリオン大星雲を見たことを覚えている。
 そこで職員の方が先着順にグループをいくつかに割り振り、私達はAグループとして、プラネタリウムの中に入って観望天体について簡単に話を聞いた。そのまま屋上の観測テラスへと移動して、色々な注意事項を聞いた後に、星空の説明に移った。
 そこから見える星空はまさに銀河の果てまで連なる一つの命の輝きだった。私の中で大きな感情が膨れ上がって胸を突き破り、爆発するのではないかというような、そんな雄大な景色がそこにあった。
 季節の星座を見つけていきながら、天の川などを歓声を上げて見つめていると、そっと美夕ちゃんが隣に立つ気配があった。振り向くと、彼女が頭上を見上げて「私、自分の夢が何かわかったような気がします」とつぶやいた。
 他の部員の子達が双眼鏡を覗く中、美夕ちゃんはにっこりと笑い、あれです、と夜空を指示した。
「やっぱり私、頑張って勉強して、星に関することをずっと学んでいける仕事に就きたいです。ただ流されるままに生きていくんじゃなくて、自分の方向を自分で決めて、しっかりと歩んでいけるような、そんな人になりたいんです」
 私は薄らと浮かび上がった彼女のその美しい笑顔をおそらくいつまでも忘れないだろうな、と思った。うなずいてみせる。
「美夕ちゃんなら、きっとできるわよ」
「はい。少しでも佐代先輩に近づきたいです」
 私は彼女の頭に手を置き、ぽんぽんと撫でた。私の目元にじわりと何かが滲むのがわかったけれど、それを拭うことはなかった。
 私にもきっとできることがあるのかもしれない。ただあきらめの中でだらだらと続けているよりも、しっかりと地に足を付けて自分の星の未来を考えなくちゃいけないのかもしれない。
 毎日毎日上司に怒鳴られて、ただ悲しくて、塞ぎ込んで、それでも前に進み続けていきたいとやってきた。でも、そうやってだらだらと身も入らずに中途半端に続けていいのだろうか。
 それよりも、自分に届いたチャンスを精一杯活かして、何とか生きていく道を力を振り絞って見つけていく方がいいのかもしれない。 
 私は大きく、お腹の底の空気全てを絞り出すように息を吐いた。そして、もう一度星を見上げた。
 もう数えきれないほどの星が輝く中で、その天の川だけは光と光が重なり、交わり散らばって、ダイナミックに空を流れていた。どこまでもどこまでも連なる光の帯が、私の未来の行く末を示しているような、そんな幸福な想像をさせるのだった。
 私はふっと先日のことを思い出す。亜稀ちゃんの言葉の一つ一つを思い出して、今、一歩を踏み出そうと決心できるような気がした。

 流行りのポップスが響く店内で、私は亜稀ちゃんと顔を見合わせていた。喫茶店には多くの客が入り、一つ一つのボックス席に家族連れやカップルが所狭しと並んで笑い声を上げていた。一席一席のスペースを広く取ってあり、十分に寛げる空間が広がっていた。
 亜稀ちゃんは手元のアメリカンコーヒーをブラックで少しずつ飲みながら、私をじっと見つめて、微笑んでいた。
「その話、聞かせてくれる?」
 私が少し身を乗り出して言うと、亜稀ちゃんは小さくうなずき、カップをソーサの上に置いて語り出した。
「佐代さん、うちの雑誌のライターを担当する気ないかしら。星に関するコーナーで、記事を執筆してくれる人を探していて、それで佐代さんの高校時代の実績を思い出して、声をかけてみたんだけど。私、高校時代に佐代さんの文章を読んですごく驚いたの。この歳で、こんな文章が書ける人がいるんだって」
 亜稀ちゃんはそう言うと、まあ、それともう一つ、と言葉を重ねた。
「佐代さん、今の会社、心を削られながら働いているのよね。それでも頑張ろうって思ってやってるのはわかるけど、これからも今のままでずっとやっていけるって思う?」
 私は俯き、小さくうなずいた。
「死ぬ気になって働く覚悟はできてる」
「そしたら、その熱意と才能を私の夫の会社で活かしてみない? 小さな編集プロダクションだけど、お給料はそれなりに出すわ。何よりも佐代さんの力を活かせるチャンスよ。私が佐代さんの書いたものを夫に見せたら、すごく心を揺さぶられたみたいよ。一度、話を窺ってみたいって」
 亜稀ちゃんはそう言って私の手に掌を重ねて、小さくうなずいてみせた。
「あなたにとっても、悪くない話だと思うけど。私も、佐代さんのことが心配なのよ」
 私は大きく息を絞り出し、じっと考えていた。自分の進んでいく道が、今少しだけ拓けたのだろうか。どこに行き着くかはわからないけれど、できることをやっていくべきだ。
 出来る限りのことをして、生きて行こうって思ってたんじゃなかった?
「わかった。少しだけ考えさせてもらえるかな?」
 私が強くうなずいてそう言うと、亜稀ちゃんはどこかほっとしたような顔でうなずき返し、「わかったわ」と言った。
 そうして私達はコーヒーを再び口に含み、しばらく会話を楽しむことにしたのだった。

 私は星空を見つめて夢の話をする美夕ちゃんを見て、私も自分の道を進んでいっていいのかもしれない、とわずかに思うことができた。亜稀ちゃんの言っていた通り、こんなチャンスはめったにないだろう。新しい仕事が果たして務まるのか、自分でもよくわからなかった。
 でも、星の近くで、仕事ができるのなら、そんな嬉しいことはないような気がした。美夕ちゃんが次第に静かになって、星空に見入ってる中、私は一人その輝きの中にある道筋を探そうとして、考え続けていた。
 とにかく一歩を踏み出そう。自分にどこまでできるかわからないけれど、それでも自分を信じて精一杯進もう。
 私はそう心に決めて、小さく拳を握った。
 その夜、亜稀ちゃんにその仕事について面談を受けることを伝えた。亜稀ちゃんは最後にこんな言葉を残していった。
 小さな星でも輝けば、その光は必ず誰かの元へと届くかもしれないわね。
 私はふっと微笑み、ありがとう、と言った。

 その一週間後、私は今の仕事を辞めることを告げた。上司は私に対して罵声を浴びせることなく、ただこれからどうする気だ、と聞いてきた。私は俯き、言葉を探したけれど、最後には顔を上げて言った。
「私を必要としてくれる人のところで、精一杯やろうと思っています」
 そこで罵倒されるかと思ったけれど、返ってきた言葉は意外なものだった。残念だ、と彼は言った。そして、何か思い悩むような寂しそうな表情を見せた。
 私は会社を後にし、家に帰って呆然と天井を見上げた。なんだか泣きたい気持ちになってくるのがわかった。今までずっと堪えてきた涙が溢れ出てきて、抑えようがなかった。
 何故もっとうまくできなかったのだろう、と自分の力のなさが情けなかった。でも、泣いていた時、ふと実家から送られてきた家庭用プラネタリウムが目につく。私はそっとその電源を点け、部屋の電気を消した。
 その瞬間、音楽と共に星空が浮かび上がり始める。あの実家で広がった夜空が今、そこにあった。これを見ていると、本当に心が安らいで、そして考えていることがシンプルにまとまっていく。
 私は今、できることを一つ一つやって、人の心に星々の明るさを灯していこう。
 そう思っただけで、次の仕事を精一杯やりたいと思えてくる。
 眠りに引き込まれて、意識を失ってからも、まだどこかに光が見えていた。それは小さな小さな明かりだったけれど、その輝きは私の元へと確かに届いていた。その小さな星が、いつか一等星になって輝くことを夢見て、私は歩き続けるだろう。

 Twinkle,Twinkle,Little Star......
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