終末バードウォッチング

文字数 7,656文字

 弟が、小さな背丈をせいいっぱい伸ばして、丘のふもとを見つめている。
「兄ちゃん! バスだ!」
「見えてるよ」
 ぼくと弟は、それまでえっちらおっちら(のぼ)ってきた方とは反対側の斜面を(くだ)り、丘のふもとで横転しているバスのところまでやってきた。
 横倒しになったバスは、窓はあらかた割れ砕け、ところどころがひしゃげ、塗装が剥がれ落ち、弾痕が残り、喰い荒らされた象の死骸みたいな有り様だった。だいぶ薄れてはいるが、血の跡もついている。
「襲われたのかな」
「まあ、そんなところだろうな。おい、ガラスを踏まないように気をつけろよ」
 弟は、ぼくの忠告など無視して、子犬のように興味深げに嗅ぎまわっている。
 バスが襲撃されてから、すでにそれなりの歳月が経ったようで、胸の悪くなるような、悪臭を放つ死体は見当たらない。とっくに回収されたか、喰われたかしたのだろう。
 弟がポケットから出したロザリオを握り、祈り始めた。
「……空に還った魂の、安からんことを……」
 風に消え入るような弟のささやき。
「そんなことしてたら、きりがないぞ。この世のいたるところで人は死んでいるんだから」
「いいじゃん別に。祈るの、好きなんだ」
 屈託なく弟は言う。まあ、それも悪くはないか。甲斐はなくても、好きなら仕方がない。弟の自由だ。祈りを止められるいわれはない。
 ロザリオは、聖母への祈りのために使うものだと、施設の教官はそう言っていた。でも、弟は単なるお気に入りのお守りとして、なんでもかんでも祈るときに握りしめている。ビー玉と同じくらいに、十字架が好きなのだ。空を鳥のように飛べますように、なんて、子どもっぽい夢もたびたび祈っている。
 近くで、瓦礫の崩れる音がした。ぼくは反射的に、懐から銃を抜いた。教官の机の、鍵のかかった引き出しからくすねてきた、小ぶりだが重みのある拳銃だ。
 猫だった。図鑑や記録映像で見たことがある、四足歩行のこまっしゃくれた顔をした動物だ。その猫が、瓦礫の陰からのたのたと出てきて立ち止まり、じっとこちらを見つめている。
「兄ちゃん、汚染されても、猫はまだ生き残っているの?」
 弟の眼は猫に釘付けになっている。
「いや、絶滅したはずだ。だからまあ、こいつは造られた存在だ。猫のまがい物だよ」
「ふうん」
 弟は近づいて、猫の尾を握り、ぶら下げてためつすがめつした。つぶらな瞳の猫は、無抵抗だった。
「本当だ。お腹にシリアルナンバーが刻まれてる。でも、なんだかかわいらしい生き物だね。猫、猫、猫。どうしておまえは猫なんだろう? どうしておまえは逃げないの? どうしておまえは鳴かないの? おまえには、母親はいないのかい?」
「造り主しかいないさ」
 弟は、そっと猫を地面に下ろした。猫は、またのたのたと歩き出した。
「どこへ行くのかな、この猫は」
「さあな。当てなんて、なんにもないだろ。鳥に喰われるか、朽ち果てるまで、さまようだけだ」
「ふうん……ぼくたちは、どこへ行くんだろう」
「東だよ。忘れたのか?」
「そういう意味じゃないけど……。東、か。そこに母さんはいるのかな?」
「きっとどこかにいるはずさ」
 猫は、瓦礫の陰にまた消えてしまった。

 ぼくと弟は、東へ向けて、ただただ歩いていた。日が()ずる方へ、黎明(しののめ)の生誕地へ、生き残りの集落があるはずの東へと。
 施設からの追手には、まだ出くわしていない。でも、きっと背後から執念(しゅうね)く迫っているはずだ。教官は、脱走したぼくたちを、けして許さないだろう。
「もう施設には戻らないの?」
 歩きながら、弟が問いかける。
「戻って、どうなる? きっと外の記憶はすべて消されるよ。それだけで、済むかどうか。いちど脱走したおれたちは、もう危険分子だ。おれもおまえも、引き離されて、お互いのことさえ思い出せなくなる。それでもいいのか?」
 弟は空をあおいだ。廃墟と廃墟のあいだから、日差しが降りそそいでいる。
「逃げてよかったのかな? 施設って、そんなに悪いところだったのかな?」
 弟のつぶやきに、ぼくは苛立ちを覚えた。それは、ぼく自身の迷いでもあり、後悔でもあるからだ。それでも、ぼくらは決めたのだ。鳥籠で朽ちるのはまっぴらだと。格子のない世界へ羽ばたくのだと。
「おまえだって、うなずいたじゃないか。外に出たいって。鳥を見てみたいんだろ? それに、おれたちの母さんも」
 弟は聞いていなかった。うずくまり、なにか嗅ぎまわっている。
「兄ちゃん。焚き火の跡だ」
 見ると、たしかに火の痕跡がある。まだ新しい。
「だれか、ここで休んでたってことだな」
「人かな?」
「人じゃなきゃ、火は焚かない」
 空は(かげ)り、日も暮れ方だった。ぼくと弟は、休息をとっただれかの真似をして、一夜をここで過ごすことにした。

「兄ちゃん、兄ちゃん」
 ささやきながら、弟はぼくを揺り起こした。闇は深く、風は静かで、夜は井戸のような暗さだった。星は見えない。
「追手か?」
 ぼくは傍らに置いた武器に手をのばした。銃のごつごつした感触が、毛布のように不安をやわらげる。
「見てよ、あの光……」
 弟の指し示す方を見る。果てない闇の(ひだ)の向こう側、遠くかすかに、空へ昇っていく仄青(ほのあお)い光が見えた。巻き戻されていく流星のように、夜空に落下していくような、天使みたいな軽さの光跡。ひとつ消えたかと思うと、またひとつ。間歇的(かんけつてき)に、間を置いて、空へと次々に吸い込まれていく。
「鳥だよ。間違いない。あれこそが、鳥の霊光なんだ」
 ぼくは知識をもとにして、実際に見たのは初めてのその光景を、よく知っているかのような口振りで、弟に紹介した。
 弟は、手許でロザリオをいじくりながら、魅せられたようにうっとりと眺めていた。その表情を目にすると、ぼくはなぜだか、近親の自瀆(じとく)を目撃したような、ばつの悪い思いを味わわされた。
 夜は長くても、永遠ではない。その束の間の長夜(ながよ)の闇に、シグナルのように青はまたたき、ぼくと弟は黙ったまま飽かず眺めて、丹念に記憶を塗りたくっていた。文献で読んだ蛍狩りのように、覚めたまま見る夢のように。
 しばらくして、またたきは止んだ。闇は動かなくなった。ぼくと弟の前には、相も変わらず、底深い夜が横たわっていた。

 泥地に、足跡があった。東へと向かっているようだ。人のほとんどは死に絶えたはずなので、痕跡は目につきやすい。ぼくと弟は、なにかを期待するようにして、その跡を辿った。
「きっと、集落の住人だね。ぼくたちの母さんのことも、知っているかな」
「気が早すぎるよ。焦ることはないさ」
 ぼくがそう言っても、弟は急くように歩を進めていく。熱に浮かされたようだった。
 墓標のような塔が林立する市街に差しかかった。
 空は今日も晴れ模様で、酸性雨が降る気配はない。いい日和だ。ピクニックの記録映像を思い出す。あるいは桜を愛でる花見。ぼくと弟の行く手につづくのは、荒れ果てた、立ち枯れの景色ばかりではあるが。
「……なにか、聞こえる」
 弟が立ち止まった。ぼくも耳をすます。たしかに、聞こえる。くぐもった、かすれるような、呪文のような(さえず)り。這いずる足音。
 ぼくは弟の腕を引っ張り、壁に突っ込んでひしゃげたままになっている、大型トラックの陰に隠れた。
 口許に人差し指を立てて、息を潜めるよう弟に指示すると、物陰から音の方向を覗き見た。
 全身が毛むくじゃらで、羽根に覆われて、爛れた眼が深海魚じみた顔についている、黒白まだらで、異形のずんぐりした巨体が、ずりずりと這うように進んで、斜めに傾いた信号機のそばを通り過ぎていく。
「……鳥だ」
 ぼくは小声でつぶやき、弟は目を見開いていた。
 あれが、人類とその隣人たる動物を喰い荒らした、凶悪無比の害鳥だ。滅びの媒介者。写真、記録映像、風刺画などで見た、おなじみの姿。実際にお目にかかったのは初めてなのに、あまり感慨はなかった。
 昼間の鳥は、そばに寄ってはならない。彼らは血をすする猛禽だから。
 その鳥が遠ざかっていくのをやり過ごしてから、ぼくと弟は東への歩みを再開した。
「なんだか気持ち悪いね」
 鳥に憧れているはずの弟が、そう口にした。
「でも、見たかったんだろ?」
「けど……あんなの、鳥じゃないよ。飛ばない鳥なんて、鳥じゃない。夜の鳥だけが、鳥なんだ」
 弟はそう断ずる。弟は、空を飛ぶことを夢みているのだ。死んだ魂もみんな、空に安らっていると信じている。
「じゃあ、昼間の鳥はなんだっていうんだよ」
 からかうようにぼくは言った。
「まがい物だよ。ぜんぶ嘘っぱちの、偽物なんだ。からっぽなんだ、どうせ」
 弟の声は平板そのもので、人生に疲れた老人のようだった。

 藪を踏みしめた跡を辿ると、断崖に穿たれた暗い横穴へとつづいていた。よく見ると、赤い血が点々とたれている。
「怪我をしているのかな」
「…………」
 ぼくは黙ったまま進んだ。嫌な予感がする。血の跡は、おびただしい。明らかに軽傷ではない。
 洞穴(ほらあな)を進む。奥から、かすかに明かりが見える。ランプが灯されているようだ。
 ほどなくして、行き止まりに突き当たった。壁に、男がうなだれるようにして寄りかかっていた。服はところどころ裂けて、息づかいが荒い。腕で押さえた脇腹から血が流れつづけている。ランプの光に照らされて、(したた)りが赤く映えていた。
「大丈夫ですか?」
 弟が、心配そうに声をかけた。
 男は、反射的とみえる動作で、腹を押さえていない方の腕をあげた。銃が握られている。ぼくもそれにつられるようにして、拳銃を構えていた。
「……なんだ、おまえら。子ども……。子どもが、こんなところに? なんでおまえら、生きているんだ?」
「おれたちは、施設から来たんだ」
 弟は、銃を向けられて怯えたように、ロザリオを握ったまま固まっているので、ぼくがそう答えた。
「施設……」
 男は、放心したように銃を下ろした。しかしぼくは警戒したまま、そのまま銃口を相手に向けていた。
「大丈夫ですか?」
 弟がもういちど同じことを言った。だが、男はそれも無視して、うつろな表情をしばらく浮かべていたが、不意に、歯をむき出して笑った。
「そうか、そうか。おまえらも、まがい物の坊っちゃん嬢ちゃんのお仲間ってわけだ。まったく、ご苦労なことだな。悪趣味で残酷な、無駄なあがきだ。人間もこの世界も、もう終わりだ。とどのつまり、結局なんだったんだろう、この人類って生き物は……」
 男は笑いつづけながらも、苦しげに身をよじり、ぶつぶつとつぶやいた。
「……おれたちは、まがい物なんかじゃない」
 ぼくは、引き金にかけた指に力が入るのを自制しながら、なんとかそう答えた。
「おれたちは、東を目指してずっと歩いてきた。希望の地が、そこにはあるって。生き残りの集落が、そこにはあるんだろう?」
 ぼくの言葉を聞いて、男はなおも、狂ったように、けたたましく笑った。
「生き残り? 生き残りね……。だとしたら、どうするんだ? お仲間にでも入るつもりか? おまえらはまったく、笑わせてくれるよ……。さっさと自分たちの巣に帰れ、寝ぼけた孤児どもが」
「母さんが、そこにはいるはずなんだ。だから、ぼくと兄ちゃんは……」
 男は血を吐いた。それでいて、いっそう激しく、とめどなく笑った。男がすでに死に憑かれているのは、その顔色からも、もう明らかだった。
「母さん? 兄ちゃん? おまえらは、あの施設で、いったいどんなおとぎ話を刷り込まれているんだ? 愉快な人間ごっこだな。とんだままごと学校だ。おまえらに肉親なんて、いるわけないだろ。希望の地、だって? なるほどね。お望みなら、希望とやらを、自分たちの眼で確かめてみろ。目的地はすぐそこだ。おまえらのいう集落が、そこには広がっているだろうよ」
 男はそこまでまくしたててから、ごほごほと咳き込んだ。糸が切れたように表情が消え、心細げに唇が震えていた。
「……なあ、頼む。鳥に喰い荒らされたくは、ないんだ。俺が死んだら、俺を燃やしてくれないか……」
 男はそう言って、黙りこんだ。
「人間と世界は、終わりなのですか?」
 弟は、さっき男が口にした言葉に、疑問を呈した。
 男は三度(みたび)、弟の言葉を無視した。もう、死んでいた。

 男の希望どおり、死体はその場で荼毘(だび)に付した。燃やすのに必要なものは、男の荷物に含まれていた。
 洞穴から煙と異臭がただよってくるのを、少し離れた場所で振り返ったときに、弟はロザリオを手にして、眼をつむり、祈りを捧げた。
 あの男の魂は、空を嫌っているようだった。だからかはわからないが、弟は弔いの言葉は口にせず、黙ったまま祈っていた。
 ひどく気づまりな沈黙だった。

 男の言ったとおり、希望の地はほどなくして見つかった。つづら折りの道をひたすらのぼっていくと、断崖の上から遥かに、見下ろすことができた。
 集落は、人の集落ではなかった。小規模な住居や教会や墓地のあいだに、人影はなかった。ただ、黒く白く巨大な鳥たちが、おびただしく群れて、這いずりまわっていた。ここはもう、鳥の巣と化しているようだった。
「母さんなんて、やっぱりいなかったんだね。希望の地も……」
 弟がぽつりと言った。
「死にかかった人間の言うことなんて、真に受けるなよ。ここが終わりだなんて、どうしてわかる? もっと東に行けば……」
「もう、疲れたよ。もうぼくは、これ以上すすみたくなんてない」
 弟は諦めたようにそう言った。
「……じゃあ、施設に戻るのか?」
 弟は、ぼくの問いに直接は答えなかった。
「神の子でさえ母親はいたのに、ぼくたちにはいないんだ」
 そう口にしただけだった。

 ぼくと弟は、それまでの旅路を引き返し始めた。ひどく疲れたと、弟が繰り返し訴えるので、岩陰で休息を取ることにした。腰を下ろすと、ぼくにも疲れがおおいかぶさってきた。いつのまにか、うたた寝してしまうほどに。

 目が覚めると、空はもう夕暮れに染まり始めていた。眠ったのかと、ぼくは起き抜けの癖として、傍らの拳銃に手をのばして、その感触をたしかめた。
 銃は変わらずにそこにあった。しかし、いつも一緒であるはずの、ぼくの弟がいなかった。
 ぼくは弟の名前を呼びながら、うろうろとその辺を歩きまわった。返事はなく、姿も見えない。なんど叫んでも、応える者はいなかった。
 この旅のなかで、そんなことは初めてだった。
 ほくは、予感に導かれるようにして、つづら折りの道をかけのぼった。二人でのぼった時よりも、ひどく長い道のりに感じた。
 断崖の上にたどり着いた。ぼくと弟の、幻滅の地。
 そこに、弟が肌身離さず持ち歩いていた、弟の大切なお守りが、残されていた。
 ぼくはそれを見て、力が一気に抜けるように、へなへなとその場にくずおれてしまった。
 弟は、ぼくを見棄てたのだ。共に歩き、親しく話し、同じ景色を見てきたぼくの弟は、施設でも施設の外でもずっと一緒だったぼくの弟は、いま、ぼくを見棄てて、先にいってしまったのだ。
 ぼくは、それでも這うようにしてそこに近づき、断崖から身を乗り出して、下方に眼を向けた。
 地獄の底よりも遥か遠くに見える下の地に、弟の身体が広がっていた。弟は、ためらいなく、勢いをつけて跳躍したようだった。その甲斐もあってか、鳥ならぬ弟の身は、重力の御手(みて)のなすがまま、見事に死におおせていた。
 弟の亡骸からにじんだ、青い血。造られた存在であることを証し立てるような、その青い血を眺めながら、ぼくは、ああ、とも、うう、ともつかぬ、意味のない音を喉から絞り出すだけで、ただぼんやりしていた。
 しばらくすると、集落の鳥たちが、ようやく弟の死に気づいたというような様子で、弟の方へと這いずっていく。
 ぼくは、拳銃を手にして、遥か下方の鳥たちに向けた。でも、こんな射程距離外から撃ったって、届くことはないだろう。それに、鳥たちに刃向かう気概など、もはや失せていた。
 鳥たちが、弟の死に群がり、その亡骸を(ついば)み始めた。ぼくはそれでも、ぼんやりとしたままだった。崖の上から、弟の鳥葬をただ見守るだけだった。
 やがて日が暮れ、夜の(とばり)が下りた。空が闇に塞がれた。
 鳥たちはみな、各々うずくまり、動きを止めた。その身ぶりは、まるで急に神を思い出して祈り始めたかのようだった。
 静止と沈黙の長い時間が過ぎて、やがて鳥たちの身に、青い光がたまり始めた。光は異形の鳥の内側からあふれでて、頭上に集束し、羽を広げた鳥の姿が形づくられていく。
 かつての人類が知っていた、空を(かけ)る、美しい鳥。そして、青い光で造られた鳥は、地を這う鳥を離れ、空へと旅立っていく。
 霊光現象と呼ばれる、害鳥からの空への捧げ物。夜空に放たれる青い鳥。謎に満ちた、滅びが生んだ絶景のひとつ。
 異端者の説によれば、それは、罪の(あがな)いだという。生ける者の罪を天に運ぶ聖霊が、あの青い鳥なのだという。
 そんなことは、ぼくにはどうでもよかった。ただ――弟は、空を飛びたがっていた。空に還りたがっていた。
 弟の亡骸を喰らったあの鳥たちの霊光は、弟の血を、弟の魂を、空へと運んでくれたのだろうか。弟は、空を飛べたのだろうか。
 かつての希望の地で、ぼくはそんな子どもじみた夢を抱いて、流星群を観測するように、青い鳥たちの、天への渡りを眺めていた。

 施設から脱走した実験体二名、パウロとルカは、補給もなしに、長大な距離を踏破していた。ようやく発見されたときには、すでに両名とも事切れていた。ルカの残骸は鳥の巣から近い崖下で、パウロの死体は、その崖の上で、自ら頭を撃ち抜いていた。
 報告を受けながら、教官と呼ばれる女性は、ため息をついた。脱走した実験体のその末路は、ありふれている。つい先日も、三名の実験体(すべて少女)が、手を互いにつなぐように縛りつけたまま、首を吊って命を絶っていた。
 ――なぜ、絶望と死が待つだけなのに、彼らは管理を逃れたがるのだろう……。外に出たがるのだろう……。おとぎ話を信じて、主に祈りを捧げながら、閉ざされた日々をやり過ごせば、死ぬことなんてないのに……。
 教官は、子を不憫に思う母親のように、胸を痛めた。
 報告者は、頭を撃ち抜いたパウロが、死後もなおこんなものを握りしめていたと言って、教官の机の上にそれを置いた。
 青い血のこびりついた、ロザリオだった。
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