夕立ちシリアルキラー

文字数 8,333文字

 夕立ちが通りすぎた。今日もまた人が殺された。
 マンションの高層階から落ちた女性が地面に叩きつけられ、粉砕骨折に悶えながら雨に打たれていると、黄色いレインコートをまとった男が通りかかり、女性の喉をナイフで一突き、速やかにとどめを刺した。
 女性の落下が自殺か事故かは不明だが、その後の凶行は目撃されていた。
 雨音をつんざいて響いた、骨と肉の不協和音。その不快な音を聞いた帰宅途中の高校生は、振り返ると、血を流しながらうめいている女性を視界におさめた。
 視界に、黄色い影がフレームインする。
 レインコートをまとい、フードをすっぽりとかぶって雨中を歩いてきたその黄色い男は、歩を緩めることもなく倒れている女性に近づき、落とし物を拾うようにかがんで、ポケットからナイフを出して突き刺した。
 喉を貫かれた女性は、うめくことを止めた。若さの残るその生命も停止した。
 ナイフを引き抜いた男は、女性の絶命を確かめる素振りも見せずに立ち上がり、殺人を目撃した高校生の横を通りすぎて、悠々と歩き去っていったという。
 犯人の印象について問われた際、高校生は、「まるで決められた作業をこなしているみたいにスムーズでした」と、犯行の流麗さについてコメントを残した。
 その発言は、正鵠を射ていた。

「これで四人目……。犯行時の天気はいつも、予報にもなかった夕立ち……。まるで、あらかじめ知っていたかのように」
「だから、知っていたのでしょう」
 殺害現場を検分しながら、二人の男が話している。女性の死体は運び去られ、雨上がりの路上に、血の跡だけが残っていた。
「知っていた……ということは、この殺人ジャンキーは拡張意識の持ち主か」
「明らかに未来を予知しています。特A級の先進犯罪者ですね」
「厄介だな……」
 片割れより年嵩の男は、ため息をついた。
「そんな突出した能力がありながら、やることは無差別殺人か。宝の持ち腐れだな。もっと有用な使い道があるだろうに……」
「先輩だったら、どんなことに使いますか?」
「さあな。どうだろうな。俺にはありきたりな考えしか思い浮かばないよ。株とか競馬で金でも儲けるか。それか、人助けでもしてみるかね。もうすぐ事故に遭う不運な人とかを見つけてさ」
「正義の味方ってわけですか。こいつとは真逆の行為ですね」
「……いや。やっぱり、そんなに善人でもないか。あまりいい考えも浮かばないもんだな。未来を知ることなんてできても、凡人の手には余るよ。この犯人の心理なんて、俺には一ミリも理解できない」
「私は、彼がどのような人間か、少しだけわかる気がします」
「ほう。その少しってやつを聞かせてくれないか」
「彼は死人です。未来に価値のない死んだ世界を一人でさまよっている、虚ろな亡者です」

 予知能力を持つと推測される先進犯罪者に対すべく、社会治安向上局は、十二名の特務隊員を派遣した。目的は標的の無力化。可能な場合は捕獲が望ましいが、そんな余裕などないことは、誰もが理解していた。隊員たちはみな、標的の抹殺だけに意識を集中する。
 局の飼い慣らす予知能力者七人が、全力を振り絞り、やっとのことで標的の通る場所を予知した。特A級の先進犯罪者には精度で劣る、その合議制の予知によって、ランデブーポイントは交通量の少ない橋の上と決定された。
 待ち伏せの時刻は夕方。雨の匂いのする、危険な時間帯だった。
 十二名から成るその小部隊は、三手に別れて待機した。作戦はシンプル極まりない。殺人鬼が橋を通りかかったところを、三ヶ所から一斉射撃。回避の余地などない銃弾の嵐を叩き込み、問答無用で蜂の巣にしてしまう。
 当然のように殺人鬼はそれを予知していたので、作戦は見事に失敗した。
 雨が降りだした。夕立ちだ。黄昏時の橋梁を眼前にして待ち伏せる隊員の一人が、激しい雨滴の到来に、不快げに顔を歪めた。
 彼の意識はそこで途絶えた。もう二度と目覚めることはない。
 背後からの急襲に、側にいた三人の隊員は、仲間の死に動揺することもなく素早く反応した。遅かった。致命的に間に合わなかった。
 何発かのあがくような銃声が響き、途絶えた。
 三点のうちの一点は潰された。四人の特務隊員が瞬く間に血祭りにあげられた。残るは、八人。
 残存する二点から、その一角に向けて銃撃が行われた。夕立ちにまみれながら、黄色い殺人鬼が疾走する。レインコートをはためかせながら、予知、予知、予知。すばしっこい猫のような、常人離れした動きで、銃弾の軌道をかいくぐり続ける。この戦いに備え、彼は薬物注射によって肉体のリミッターをぶち壊していた。跳梁する、タガの外れたけだもの。
 殺人鬼の拡張意識は今日も絶好調だった。奴らの次の動きが、手に取るようにわかる。雨粒の一滴一滴が、どこに落ちるのかもわかる。奴らから吹き出た美しい血が、雨にまざろうとするその軌跡もわかる。
 刺して、刺して、刺して、刺す。防護服の隙間を通し、あるいは露出せざるを得ない瞬間を誘い、急所をナイフで刺し貫いていく。
 二点目が陥落。都合八人を仕留めた。残るは、四人。
 夕立ちの中を猛進してくる黄色い殺意を前にして、特務隊員たちの冷静さは跡形もなかった。パニックが残存部隊を襲った。
 パニックは、場合によっては予知能力者に対する有効策ともなり得る。恐慌を来した人間の見せる支離滅裂な行動が、未来を震えさせるのだ。局の飼い慣らす予知能力者程度なら、それで十分に殺せただろう。
 先進犯罪者たる夕立ちの殺人鬼には、十分ではなかった。残るは、零人。
 逢魔が時の殺戮は完了した。ほどなくして、雨は止んだ。

「皆殺しか……。ひどいもんだな」
 特務隊員たちの死体がそこここに散らばる雨上がりの惨状を前にして、年嵩の男は疲れたようにため息をついた。
獰猛(どうもう)な先進犯罪者だ。だから、無謀だったんだ。十二人なんて小編成をぶつけたところでどうなる。無駄死にじゃないか。局はなにを考えているんだ」
「先輩だったら、どうしますか。ミサイルでも撃ち込みますか」
 年嵩の男は、怒りを込めた眼で片割れを睨みつけた。
「ああ、そっちの方がよほど賢明だろうよ。予知能力者なんて、粉々になってくたばればいい。子飼いの役立たずどもも、ついでにくたばればいい」
「その役立たずどもからの報告です。“作戦の失敗を予知。速やかに撤退せよ”。先ほど届いたメッセージです」
「……頭わいてんのか、あいつら。わいてるんだろうな。だから、予知なんてけったくそ悪い戯言をぬかしやがるんだ。終わった後に届く予知なんて、予知じゃねーだろ。単なる負け惜しみだ」
「確かにそうですね」
 年若い方の男はそう言ってから、片膝をついて眼を閉じ、犠牲になった隊員たちを悼んで、しばし黙禱した。年嵩の男もそれに倣う。
 祈りを終えてから立ち上がり、片割れはつぶやいた。
「確かに負けたのはわれわれですが、やつもまた、勝ったわけではありません」
「……どういう意味だ、そりゃ?」
「これは狼煙(のろし)です。彼らの死は無駄死にですが、必要な無駄死にです。無意味な大量死が起きないと、彼は動いてくれないようですから」
「彼? 彼って誰のことだ」
「猫のように気まぐれな、殺人鬼キラーですよ」
 年若い男は目を細めた。
「きっと、やつも無事ではすまないでしょう」

 その通りだった。翌朝になって、夕立ちシリアルキラーは死体となって発見された。ランデブーポイントとは別の橋で、脳漿をぶちまけて倒れていた。黄色いレインコートは血に染まりすっかり汚れて、罪人(つみびと)の魂のように見る影もなかった。

 十二人を殺し終えた彼は、薬物による火照りが冷めていくのを感じながら、暗い夜道を歩いていた。雨が上がってもレインコートを着たまま、あてどもなくうろついていた。
 彼のこころは満たされなかった。あらかじめわかっていたことではあった。自分を満足させてくれるものなど、この世にはなにもない。彼には生きる実感がなかった。
 物心ついたころから、他人がなにを言うか、どう動くか、それに自分がどう返事をするか、どう反応するか、すべての結果が、未来がわかってしまう。いや、未来がわかるという言い方は正しいのかどうか。これは本当に未来なのか。彼の狂気が生み出した妄想ではないのか。とはいえ、世界は常にその妄想と違わずに動いていた。そして、それをなぞるだけという、作業としての生存しか彼には許されていなかった。
 難易度の低すぎるゲームをやっているようなものだ。懇切丁寧なチュートリアルに従えば、絶対にクリアすることができる。ただし、なんの歯応えも、達成感も得られない。どんな喜びも訪れない。
 予知能力というものは、矛盾と錯誤に満ちている。確定された未来などないはずだ。予知によって行動を変えて、それで容易く結果が変わるのなら、そんな揺れ動く不確かな未来をどうやって観測すればいいのか。分岐した未来はねずみ算式に増えて、数えきれないほど膨大になってしまう。それは結局、未来はなにもわからないという地点へ、逆戻りするだけではないか。
 彼は笑った。笑うということを予知して、可笑しいという実感もないままに、予知をなぞるようにして笑った。
 彼の拡張意識は、その数えきれなく分岐する、宇宙のように広大無辺な未来を覗くことができた。テレビを見ながらパソコンを眺めつつケータイを覗く、というような、現代人の慌ただしい情報摂取を、さらに複雑化したような在り方。複数のモニター。複数の景色。
 彼は夜空を見上げた。彼はいま現在の夜空を見ることができるが、同時にあらゆる未来の青空を、曇り空を、秋空を、その空を翔る鳥たちを、その空から降りそそぐ夕立ちを、重ね合わせながら認識している。
 そうして彼自身の未来も。死に至るまで、たどることができる。未来の彼はさまざまな死に方をしていた。穏やかな死もあれば、惨たらしい死もあった。自殺だけに絞ってみても、何万通りではきかないような膨大な数だった。
 果てしない分岐を一望しつつ、なぜ、一般的には幸福とされる未来ではなく、殺人鬼という後ろ暗い道をたどることを選んだのか、彼は考える。
 特に理由はない、というのが彼の結論だった。ただ、わかりきった幸福をなぞるのも、わかりきった不幸をなぞるのも、どちらにせよ、他人事のように実感もなく無意味にしか感じられないのだから。スリルのありそうな、破滅的な未来を選んだというだけのこと。そしてもちろん、あらかじめわかっていた通り、スリルなど感じたことはない。だから、やっぱり、理由などないのだ。
 彼には家も職もない。予知の洪水を眺めながら街を歩き、他人の家に忍び込んで飲み食いし、眠り、ぶらぶらとうろついているだけだ。友達はおろか、話し相手さえいない。名前はあるが、それを呼ぶものなどいないし、自分の意識に上ることも稀なので、ないのと同じだ。そんな生活をもう十年以上も続けている。
 亡霊のような人生といえたが、どんな生き方を選んだところで、彼の実在感の稀薄さは変わらないだろう。気まぐれに始めた、殺人という罪業ですら、彼のこころを震わせてはくれなかった。これからもきっと、なにもない。なにもないということを、彼はもう知っている。
 そうして、夜道を歩き続けた彼は、ひっそりとした橋に差しかかった。街灯に照らされながら、彼はまた笑う。笑うことを予知して、笑う。
 本当に。自分は、なんのために生まれたんだろうな。
 ――その笑いが、凍りつく。すべてを先取りする彼の、予知していたはずの笑いが、予知を裏切るひきつり方をした。
 彼の歩く先に。橋の真ん中に。待ちかまえていたように、人影が立っていた。彼の予知のどこにも見当たらなかった人物が、そこに立っていた。
 足下の地面が崩れ落ちるような衝撃を、彼は生まれて初めて味わった。

「こんばんは、殺人鬼さん」
 人影は、青いパーカーをまとって、片手にスポーツ用具を提げている、若い男だった。まだ高校生くらいに見える、幼さの残る顔立ちだ。
「……だ、だれ、だ、おまえ?」
 殺人鬼は、何年かぶりに言葉を発したので、上手く声が出てこず、(しわが)れたうめきのようなものにしかならなかった。
 いや、それよりも。いま、彼は、物心ついてから初めて、予知していなかった言葉を自分で喋っている。自分自身の声に、言葉に、驚きを禁じ得ない。なんだ、これは。何が起きているんだ。
 先が見えない。相手が、自分が、次に何を言うのか、あらかじめ知ることができない。どんな反応が起こるのかわからない。
 それこそが“普通の会話”というものだったが、初めての経験に、彼は子犬のように怯えていた。
「親からもらった名前はあるけど。訊きたいのは多分、そういうことじゃないよね」
 青い人影は、涼しげな顔で返答する。
「同類みたいなものだよ。あなたの予知能力には劣るかもしれないけど、俺にも、ちょっとした能力があってね」
 同類? 殺人鬼はいよいよ混乱した。この世に、自分と同じような人間などいるのだろうか。彼にとっては火を見るよりも明らかな未来に、気づきもしない、盲目の集団。望んだわけでもない予知の怒濤(どとう)(さら)されて気が狂いそうな彼の気持ちなど、どうあがいても伝わらない、無痛の集団。それが、彼の軽蔑する、彼以外の人間というものではないのか。それが、殺したところでなんとも思わない、顔のない他人というものではないのか。
「先に言っておくけど。俺は、死刑には反対なんだ」
 殺人鬼の動揺などお構いなしに、パーカー姿の若者は、予知できない会話を続けていく。
「無力化した人間をわざわざ殺す意味がわからないし。殺人を執行するシステムなんて、おぞましいものとしか思えない。命というのはあまりにも貴重な賜物(たまもの)なんだ。殺すには惜しい」
「……だ、だからどうした……おまえが、なにをいいたいのか、ぼ、ぼくには、さっぱりわからない」
「殺人鬼なら、死刑の気持ち悪さくらい、わかってほしいものだけど。顔のない殺人っておぞましいと思わない? もちろん、顔のある殺人もおぞましいけどね。あ、ごめん、これは無駄話」
 予知の埒外にある男は、なにが可笑しいのか、くすくすと笑った。
「でもさ、認めざるを得ない殺人もあるかなって、俺もわかってはいるんだよ。悔しいことにね。たとえばさ、人質をとって立て籠った犯罪者がいたとして。その罪人が、銃だか刃物だかを突きつけて、いまにも無辜(むこ)の人間を殺そうとしている。命の天秤が揺れ動くその瞬間に、人質を見殺しにしてでも犯罪者の命を守れ、とは俺には言えないよ。言える人もいるのかもしれないけど。そこが自分にとっては、博愛の限界と矛盾だな。殺人を止める殺人なら、認めてしまうってわけだ。命に優劣があることを、認めてしまうわけだ」
「……だから……お、おまえは、いったい、なにがいいたいんだ?」
「言いたいことは、シンプルなんだけどね」
 青いパーカーをまとった不可解きわまりない若者は、黄色いレインコートをまとった残忍きわまりない殺人鬼を、じっと見つめる。
「あなたは、これからも人を殺し続けるだろうし。人から外れた能力の持ち主であるあなたの殺戮を、だれも止めることは出来ないようだし。つまり、あなたはいま、世界中の人間を人質にとった犯罪者ともいえるわけだし。だから――」
 橋の真ん中に立っていたその男は、一歩、殺人鬼の方へと足を踏み出した。
「俺はあなたを殺すことにするよ」

 その氷のような相手の一言で、殺人鬼は冷静さを取り戻した。こいつが何者であれ、つまりは、敵の一人に過ぎない。敵であるすべての他人の一人に過ぎない。彼に取り除かれることを待っている障害物でしかない。そう冷やかに認識すると、さっきまでは見えなかった未来が、分岐の景色が、いつのまにか見えるようになっていた。
 見えるぞ。こいつの次にするあらゆる行動が。こいつの次にするあらゆる攻撃が。こいつのたどり着くあらゆるみじめな死に様が。
 さっきまでの空白は、きっとなにかの間違いだろう。生涯一度きりの不覚だ。いまや不可解な薄靄は晴れて、彼の拡張意識は、すべての未来を既知のものにしている。
 こいつは不意をつこうと突然走り出して右側からまわりこむように近づいてくるはずだ。あるいは飛び跳ねるような軽やかなステップで左側から迫ろうとするはずだ。あるいは、あるいは、あるいは――。
 殺人鬼は笑う。笑うことを予知して、笑う。
 どの未来が訪れたとしても、こいつの死という結末は見えている。だいたい何だ、こいつが持っている得物は? 銃でさえいささかの脅威にもならなかったというのに、そんなもので自分を殺そうとしているだと? これが笑わずにいられるだろうか。
 予知していたはずの笑いであるにも関わらず、彼は本気で可笑しくて、心の底から笑っていた。それが初めての事態であることに、彼は気がつかなかった。
 気がつく前に、次の衝撃が彼を襲った。
 眼前の男は、右側にも左側にも動かず、真っすぐに、彼を目指して歩を進めてくるではないか。
 あらゆる未来を予知していたはずなのに、そのなんてことのない相手の進路は、どこを探しても見えていなかった。すべてを先取りしていたはずの彼が、相手の行動の後に、事後的に、そのことに気がついた。
 いいや、そんなはずはない。未来はいまも見えている。こいつの死も、今度の夕立ちに起こる自分の次なる殺人も、あらゆる分岐の最後に待っている自分の死も、変わらずに見えている。予知は正しく機能している。次の一歩で、こいつは左右のどちらかに踏み出すはずだ。
 青い敵は、一足ごとに彼の予知を裏切る。ただ一直線に、彼の方へゆっくりと歩いてくる。
 そんな馬鹿な。そんな馬鹿な。そんな馬鹿な。なんだ、これは。なんだ、この景色は。自分の知らない未来などないはずだ。自分が戸惑うことなどないはずだ。予知が裏切られることなどないはずだ。このままではまずい。このままではとてもまずい。動かなければ。予知になくても、とにかく動かなければ。
 だが、彼の足は動こうとしなかった。既知の世界しか歩んだことのない彼には、未知に踏み出す勇気を持つことが、どうしても出来なかった。
 一歩もそこから動けないままに、彼は、青い死神が目の前にまで近づいてしまうのを許してしまった。
 その男は、片手にぶら下げていた得物を、両手でしっかりと握り直した。
「確定された未来なんてない。あなたが見ていたのは、ただの悪い夢だよ」
 そう言って、足を踏ん張り、構える。
 薄汚れた黄色いレインコートをまとっている予知能力者は、目前に迫る死を眺めながら、初めて、この世界を愛おしく感じた。もっと生きていたいと思った。自分の知らない未来を歩みたいと願った。不可知の人生に恋い焦がれた。初めて、魂の焼けつくような生きる実感を覚えた。

 青いパーカーの若い男は、渾身の膂力(りょりょく)を込めた金属バットのフルスイングで、黄色いレインコートの殺人鬼の頭蓋を打ち砕き、悪い夢のような彼の人生を、そこで終わらせた。

「つつがなく死ねたようだね。なんて、羨ましい……」
 脳漿をぶち撒けた死体を見下ろしながら、彼はつぶやく。
「俺は何度死んでも死ねなかったんだ。どういうわけか、因果の糸からは自由になれたけど。それでも死だけは与えてもらえなかった。世界から切り離されてるのは、俺もあなたと同じだよ」
 聞くものなどいない夜闇に包まれた橋の上で、彼はぼそぼそと独白する。自身にしか通じない言葉で、死体に語りかけるように、彼と似た友達に語りかけるように、小声で話し続ける。
「死ねないから、暇つぶしに正義の味方をやることにしたんだ。世界から切り離された俺は、世界から切り離された殺人鬼の退治に向いているらしいから。どう思う? 俺のやってることって、正義の味方じゃないのかな?」
 なあ、と彼は、自分の殺した相手に問いかけるように、神に問いかけるように、静まり返った夜に問いかけた。
 返答はなかった。街灯に照らされながら、黄色い殺人鬼を殺した青い殺人鬼は、血のこびりついた金属バットを手にして、虚ろな表情で立ちつくしていた。
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