信号モノローグ

文字数 2,056文字

 進め、光を見るものよ、と私は命じた。私自身の言葉によって。
 私の言葉には色がついている。緑の言葉、赤の言葉。前者は寛容で、後者は厳格だ。慈母のように、厳父のように。好々爺のように、烈婦のように。とはいえそこに優しさはない。怒りもない。指し示すだけだ。私の冷たさはシステムの冷たさだ。無機質が私の特質だからだ。猫のようにはいかない。猫のように気まぐれならば、私の仕事は破綻する。狂った信号機は信号機ではない。機械じかけの花火だ。その愉快さを私は知らない。
 私の緑の像を介して、進むべき時を知った少年は、てくてくと横断歩道を渡った。つむじを見下ろす私に、少年はそれ以上の注意を払わない。それでいい。私は守護天使ではないのだから。
 一にして多である私は、別の私から少年を覗く。緑の言葉によって進んだ少年は、また別の交差点で、別の私と睨み合っていた。赤の言葉によって、少年は停止を命じられていた。束の間の退屈をもてあますように、花を手にした少年は、ぼんやりと私を眺めていた。私の赤い言葉。そこには人の影がある。血液のような赤に満ちた、直立不動のシルエット。顔はない。帽子をかぶったのっぺらぼう。だが、こちらを見ている。少年はそう感じた。私の視線を少年は察知した。だが、慌てることはない。人は人の視線しか気にとめない。それ以外は、錯覚として処理される。私と見つめ合った少年は、私が緑の言葉、歩き出すようなシルエットを点灯させると、私の気配を無視して通りすぎた。つむじが眼下をふたたびよぎる。花を手にした少年の歩み。
 高所から見下ろす私は、しかし鳥ではない。私は空を知らない。信号柱は、天まで伸びはしない。私の俯瞰は神の俯瞰とは違う。近視眼的俯瞰。鳥ほどの自由もない。とはいえ、鳥の声を与えられてはいる。一部の私は、緑の言葉を語るとき、鳥の声で鳴く。視覚の不自由な人間には、私の言葉は見えない。そこで鳥の鳴き声というわけだ。進め、と私は目の見えない人間を導く。白杖や盲導犬に支えられながら、その人間は歩き出す。見えない光が届いたように。だが、私の言葉を正しく守っても、危険を避けられるとは限らない。私は守護天使ではないのだから。
 少年の歩く道筋には、数多の私が存在した。交通のあるところ、私は遍在する。人は移動する。人は速さを求める。それによって、人は移動で死ぬ可能性を得た。それによって、私が生まれた。少しでも衝突を減らすために。円滑なる交通のために。だが、私は死を止められはしない。見下ろすだけだ。私の眼下で起きた死を。私はどれだけの死を見送ったことだろう。私の言葉を受け流す救急車が、私を通りすぎて病院へと向かう。そのどれだけが生き残れたのだろう。
 私の言葉を待つ少年の傍らを、猫が走り抜けた。猫に私の言葉は通じない。私は人のための存在であって、猫のための存在ではないからだ。私は猫の死もたびたび見下ろした。救急車さえ呼ばれない猫の死。死体がふたたび轢かれることもあった。私はじっと見下ろしていた。私は守護天使ではないのだから。
 少年はなおも進む。私の言葉に従って。私は少年だけを見ているわけではない。一にして多である私は、交通量の多い道路で点滅し、歩道橋を横目に眺め、押しボタンを連打する少女を見下ろしてもいる。少年に視線を注いでいる私は、一にして多である私の一部分に過ぎない。すべてを語ることは私にはできない。それは私の言葉ではないからだ。
 やがて少年は、その場所に差し掛かった。そこにはいくつかの花束が置かれていた。菓子やペットボトル飲料や人形や折り鶴も置かれている。人が死んだ場所に、人は何かを置きたがる。私はその死も見下ろしていた。手にした白杖が吹き飛び、か細いいのちが消えた。雨に濡れた路面に、私の光が反射していた。光を失った死体に、鳥の声で私は語りかけたが、死の沈黙には届かなかった。
 少年は手にした花をその場に供えた。合掌し、瞑目し、何事かをつぶやいた。少年が小声でつぶやいたその言葉を、私は知らない。少年の想いも。死者と少年にいかなる言葉が交わされたのかも。一にして多であり、俯瞰と傍観を常とする私は、守護天使ではなく、神でもないのだから。
 少年はまた歩き出そうとした。ふと、何かに気づいたように、私を見上げた。進むべきか止まるべきか、それだけを示す無機質な私を見て、少年はなぜか人懐っこい笑みを浮かべた。私の視線に気づいたのだろうか?
 私は頭上に気配を感じた。どうやら私の上に、鳥がとまっているようだった。空を知る鳥。私が声を借りた被造物。顔のない私ではなく、翼を持った生物に、少年は笑いかけたのだろう。
 私は鳥の鳴き声で、少年に語りかけた。腹話術を気取ったわけではない。頭上の鳥は、私の声に似つかわしくもないだろう。それでも、緑の言葉を受け取った少年は、横断歩道を歩きながら、私に気づいているかのように、頭上に向かって笑いかけた。
 地上を見下ろす鳥と私は、少年が死なずに渡りきるのを眺めていた。
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