探偵チェックメイト

文字数 15,822文字

 廃棄されたビルの一室で、私は彼の痕跡を発見した。間違いない。彼はここに潜伏していたようだ。
 ひと通り調査を終えると、私はその場を立ち去り、しばらく歩いてから、探偵事務所の方へと向かうバスに乗った。
 吊革を握って揺られていると、座席に座った女子高生が、ちらちらとこちらをうかがっているのがわかった。やがて、その()は意を決したように立ち上がると、私に話しかけてきた。
「おばあさん、どうぞ。この席、座っていいですよ」
 そう言って、席を譲ってくれた。反論するのも面倒だし、せっかくの親切心を無下にもしたくなかったので、ありがとう、と礼を述べて、私は譲られた席におとなしく座った。
 女子高生は、満足そうに微笑んでいた。
 こう見えてもまだ二十五歳だけどね、と私が伝えたとしたら、彼女は驚くだろうか。冗談だと思って笑い飛ばすだろうか。
 でも、それは真実なのだ。私は白髪を頭に(いただ)き、年輪を刻んだ樹木のように皺だらけだが、実年齢は二十五歳、たった四半世紀しか生きていないのだ。私は“おばあさん”ではなかった。少なくとも、容姿を除けば。
 しかし、私はそんな事実はおくびにも出さずに座ったまま、黙ってバスに揺られていた。
 バス停でバスが止まった。私に席を譲った女子高生は、ここで降りるのだろう、扉へと歩いていき、そこで振り返って、私に向かって会釈した。
 私はいかにも鷹揚(おうよう)な老婆らしく、微笑みながらうなずいた。
 その反応を見た女子高生は、にっこりと素敵な笑みを残して、バスを降り、姿を消した。
 どうか、私にはなかった華やかな未来が、優しい彼女の行く手にあらんことを。
 私は疲れていた。とても疲れていた。仕事にも、人生にも。

 固有時失調症(こゆうじしっちょうしょう)、というのが、私が罹患(りかん)している病の名前だ。ウェルナー症候群のような、早老症のひとつといえるだろう。とはいえ、社会的に広く認知されているとは言い難い、マイナーな(と、病を形容していいのかどうかわからないが)奇病だ。
 とにかく、その病を患っているおかげで、私はまだ二十代であるにも関わらず、老人にしか見えない容貌をしている。総白髪、深い皺、曲がった背骨、硬い皮膚、骨張った手。幸いにも、と言うべきか、見かけのわりに、身体能力にそれほど衰えは見られない。普通の若者、と社会が規定している、健康な若者には劣るのかもしれないが、走ることも跳ぶことも可能だ。月経はない。倦怠感はあるが、おそらくそれは精神面からのものだろう。
 固有時失調症とは十二のみぎりからの付合いだ。その頃から、私は他の子どもたちと比べて、著しく早いスピードで老いさらばえていった。およそ十代の人間には見えず、親よりも年上に間違われるようになり、それと歩調を合わせるように、こころもひび割れていった。
 その代わりといってはなんだが、いつしか私は、奇妙な能力を得ることになった。いまでは探偵なんて因果な商売に、その能力を活かすこともあるくらいだ。華のない、くたびれた女探偵といったところか。外見的にも、精神的にも、くたびれきっている。
 能力の開花したきっかけが、病によるものだったとしても、この病気になってよかった、とは、私は金輪際思えないだろう。

 私は事務所に戻ると、ソファーに腰を下ろし、ぐったりと背をもたれさせた。染みの目立つ天井を見上げながら、しばし息をつく。
 十五分ほど、そうしてぼんやりと無為な時間を過ごしてから、私は重い腰をあげて、インスタントのコーヒーを淹れることにした。さほど喉が渇いているわけでもないが、コーヒーは休息の代名詞なのだ。温かな液体は、時間の経過に輪郭を与える。味にこだわりはないので、コーヒーでさえあれば何でもいい。安物の粉で十分だ。
 お湯を沸かしているあいだに、コップに水を注いで、処方された錠剤を飲む。私は薬なしではいられない身体だ。一日に何錠も服用している。そんな状態ではあっても、特に健康に気を配っているとは言い難い。カフェインを頻繁に摂取してもかまわないのか、医師に尋ねたことはないし、ダメだと言われたとしても、コーヒーをやめることはないだろう。まあ、いまのところ何も言われていないのだから、大丈夫ではないかと楽観している。もしくは、どうでもいいと諦めている。薬を飲んで、大した間隔も置かずにコーヒーを飲むのは、オーケーなのだろうか? オーケーではないかもしれないが、記憶力の衰えのせいにでもして、忘れておこう。もしくは、どうでもいいと諦めよう。人生の合間にコーヒーがあるのではなく、コーヒーの合間に人生があるのだ。
 さて、そうしてコーヒーを淹れたカップをソファーの前のテーブルに運び、少しずつ口に含む。静かな午後だ。生きているという事実が不可思議に思えるほど、ゆっくりと内省的に時間が流れていく。
 そんな時間はしばしば邪魔が入るのが鉄則であるとでもいうように、インターホンが鳴った。まあ、ここは探偵事務所なのだから、人がさっぱり来ないのも困りものではあるが。大方、例の依頼人だろう。
 ところが、扉を開けてみると、立っていたのは依頼人ではなく、近所に住んでいる小学生の女の子だった。
「こんにちは。おばあさん、チホちゃんは今日いますか?」
「チホかい? 今日は来ていないね」
「そうですか……。これ、お母さんと一緒に焼いたクッキー。チホちゃんにもあげようと思って。渡しておいてください」
 女の子はそう言って、水色のリボンが結ばれた、かわいらしい袋を掲げた。
「ありがとう。チホも喜ぶと思うよ」
 私は感謝しながら受け取った。チホはたしかに喜んでいる。
「それじゃあね、おばあさん。また遊ぼうって、チホちゃんによろしく言っておいてください」
「うん、またね」
 女の子が立ち去ると、私は扉を閉めて、ソファーへと戻った。さっそく袋を開けて、クッキーをいただくことにする。形は不揃いだが、ほんのりとした甘さは、コーヒーのお供として悪くない。
「本当に、ありがとう」
 私は祈るようにひっそりとつぶやいて、孤独をかすかに温めた。

 依頼人が来たのは、すっかり陽も落ちてからだった。手紙で報せてもらった刻限はとっくに過ぎている。
「遅れて申し訳ありません。もっと早くに来れるはずだったのですが……」
「かまいませんよ。そんなに忙しい身分でもないので。電話の許可を取るのも、煩わしいでしょうからね」
 依頼人である、旧世代に属する年配の女性は、通信許可を持ち合わせていないので、電話の使用は制限されている。いくつかの条件を満たさなければ、彼女は電話をかけることができないのだ。
「それで、息子のことについて、なにかわかったことはあるでしょうか……?」
「あなたの息子さんは、廃ビルを一夜の(ねぐら)にして、転々とさまよっているようです。それにどうも、だれかから逃げている――少なくとも、彼自身はそう信じているようです。こんなものを見つけました」
 私は依頼人の息子が潜伏していたとおぼしい、廃ビルの一室で発見したくしゃくしゃの書き置きを、彼女に見せた。
 その走り書きの内容は、こんなものだった。

“助けてくれ だれか助けてくれ 奴が来る おれを消すために奴が来る いつか必ず追いつかれる 既に決定されている 助けてくれ これを読んだら助けてくれ 手紙でも書いていないと気が狂いそうだ でも宛先が思い当たらない 声の届く相手が見当たらない 遺書のつもりはないんだ まだ死にたくはないんだ これを読んだら助けてくれ だれか助けてくれ”

「これは――」
「息子さんの筆跡かどうか、判別できますか?」
「ええ……。いえ、確証とまでは……」
「無理もないですね。非常に乱れた筆跡ですから。ずいぶんと追いつめられているようです」
 はっきり言えば、錯乱している。とはいえ、その乱れ方には、大仰さも感じずにはいられなかった。芝居がかった救難信号……。文中にある、彼を追っている“奴”とは、本当に実在するのだろうか。被害妄想の産物か、何らかの作為である可能性もある。そのまま素直には受け取れなかった。
 そういった所見を、私は率直に依頼人に話した。依頼人は静かに耳を傾けていた。
「息子は……無事なのでしょうか……」
「残念ながら、いまの時点ではなんともわかりかねます。しかし、調査は続けますので、どうか結果をお待ちください。あなたの失踪した息子さんは、どうやら助けを求めている。間に合うかどうかは確言できませんが、その求めに、とにかくも応える者はいるべきでしょう」
 私の言葉は甚だ頼りないものだったが、依頼人の女性は、神妙にうなずいていた。
 私たちふたりはその後、失踪した彼の情報や、依頼料と成功報酬についてなど、いくつかの細々とした事柄の相談をした。
 ふと、依頼人は、個人的な興味にかられたように、こんな質問をしてきた。
「あの……つかぬことをおうかがいしますが、探偵というのは、なかなか大変なお仕事ではないでしょうか?」
「さあ、どうですかね。どんな仕事も、大変なところもあれば、気楽な部分もあるのではないですかね」
「でも、失礼かもしれませんが、その御年齢(おとし)で務めるには、なにかとご苦労の絶えない職業ではないですか?」
 私よりもずいぶん高齢である旧世代のその依頼人は、年長者をいたわるように、気づかわしげにそう言った。
 私は私の持病について説明していなかった。探偵としての資質に疑念を呈されているのなら、気がすすまないながらも説明するにやぶさかではないが、この女性の場合は、ただ単に、若干の興味と心配を抱いているだけだ。
 好奇心を持たれるのは、けっして珍しいことではない。老婆の探偵というのは、おおかたの人にとっては、ずいぶんと奇妙な存在に映るらしかった。実年齢は二十代だと口にすれば、なおさらのことで、宇宙人を見るような目を向けられるに違いない。
「まあ、仕事ですから」
 言葉少なに、私はそう答えた。

 この街には廃虚が多い。街は病んでいた。街は老いていた。街は衰退していた。
 “赤い雪”が降って以来、得体のしれない奇病は増加の一途をたどり、人心の荒廃はいや増すばかり。未来への明るい展望は皆無に等しく、鈍色(にびいろ)の閉塞感だけが、枯葉のように溜まっていく。
 赤い雪が降ったのは、私が十二歳のときだ。その年は、固有時失調症を患った年でもある。忘れ得ようはずもない。
 血のように赤い雪は、禍々(まがまが)しくも綺麗だった。魅入られたように私は空を見上げ、神の経血(けいけつ)のように降りそそぐ淡雪を、(てのひら)に受けた。雪は肌に触れると、染み入るように溶けた。
 そのころ私は子どもだった。そのころ私は少女だった。
 いまの私は、子どもでも少女でもない。老人の身形(みなり)をした成人女性だ。でも私は時おり、子どもに戻り、少女に還る。これはけっして比喩ではない。
 赤い雪は、全世界的な現象だったとも聞く。本当かどうかは定かではない。情報は統制されているので、島の外のことは、ほとんどわからないのだ。そして、赤い雪の正体も、いまもってわからない。私はそれをこの眼で見た。私は幼く子どもで少女だった。
 病と衰弱をもたらした赤い雪。天が下した刧罰(ごうばつ)とも、外宇宙からの攻撃ともささやかれる赤い雪。私の正常なる時間を奪った赤い雪。
 想い出にいまも降りしきる。

 数日にわたる調査と聞き込みで、私はまた別の廃ビルに彼が潜伏していた痕跡を見つけたが、すでに立ち去った後のようだった。
 またも、走り書きが残されていた。今度は白い壁に直接書かれている。

“殺される 俺が消されてしまう 奴が来る 奴が俺を消してしまう 奴が俺を抹消して上書きしてしまう 奴が俺をバラバラにしてしまう 助けてくれ 助けてくれ 奴でも俺でもないだれかが俺を助けてくれ”

 私はそれを眺めながら、錠剤を口に入れ、ペットボトルの水を飲んだ。コーヒーはさすがに持ち歩いていない。
 廃虚によくある落書きにしては、なかなかに情感がこもっている。悲痛ともいえた。
 廃ビルの外に出て、私はしばらく周辺を歩きまわってみた。空気がかさついていた。道ばたに散らばったガラス片。放置された車両。壊れた信号機。何世代も前の選挙ポスター。相も変わらぬ、寂れた一角の寂れた風景だ。
 その一角に、通信網に散らばる灯台のような、健気な電話ボックスを発見した。廃物ではなく、まだ生きている。その証拠に、電話ボックスの隣には詰め所があり、通信警護員が待機している。
「すみません。こちらの電話ボックスの利用者について、訊きたいことがあるのですが」
 通信警護員は、うっとうしそうな目つきで私をじろじろと眺めた。
「……あのさ、おばあさん。暇つぶしなら余所でやってくれないかな。こっちも暇そうに見えるのかもしれないけど、おばあさんと違って、俺は仕事中なんだよ。それに、そういう情報は、みだりに教えちゃいけないことになってるの。わかる?」
「ええ、わかりますよ。ですが、こちらも仕事でして」
 私は素性を伝え、身分証を見せた。警護員はすぐに態度を改めた。
「指定調査員の方でしたか。失礼しました。なにをお望みでしょうか?」
「人を探していましてね。ここから程近い場所に、数日前まで潜んでいたのは確かなようです。そのあいだ、だれかに連絡を取ったとしたら、ここは手頃な位置にあります。電話使用者の記録を拝見させていただけると、助かるのですが……」
「了解しました。その前に、先ほどの身分証を、少しのあいだお借りしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
 警護員は私の身分証を、詰め所の奥にある、出来そこないのオルガンのような四角張った装置に差し込んだ。いっときの間を置いて、ピッ、という音と共に、緑色のランプが点灯した。照合はつつがなく完了したようだった。
 もしも正しく認証されなかったとしたら、どうなるのだろう。探偵を(かた)った、単なる情報漁色者が捕まったという話を聞いたこともある。その偽探偵がどうなったのか、私は知らない。情報におおいかぶさった霧の向こう側で、牢獄につながれているのかもしれないし、銃殺されたのかもしれない。
「確認しました。では、身分証をお返しします。こちらが、今月の使用者のリストです」
 私は詰め所の椅子に座らせてもらってから、受け取ったリストをめくった。
 通信許可を持った電話使用者は、匿名の自由をある程度は許されるので、市民番号と電話をかけた時刻しか記載されていない。ただ、三年ごとに更新される市民番号にはある特定のパターンが秘められており、指定調査員の多くは、数字の配列を眺めるだけで、おおよその年齢層と社会階級を読み取る技能を身につけている。
 通信許可を持っていないが、緊急性、もしくは必要性を認められた電話使用者は、氏名、性別、年齢、職業、住所などなどが明け透けに記載されていた。
 使用者側の素性の記録については、そういった差異が見られるが、どちらにせよ、かけた相手の電話番号は、隠されることもなく記載されていた。
 私の探している男は、通信許可を持っている。ただ、偽の身分証を使っている可能性はもちろんある。彼がこの電話ボックスを使用したとしても、リストには別人としてしか表れていないかもしれない。
 無駄かもしれないが、私は二十代後半の使用者と、相手の電話番号をメモすることにした。
「ご苦労さまです」
 私がいそいそとメモをとっていると、どこかに姿を消したと思った通信警護員は、詰め所に戻ってきて、近所で買ってきたらしいミネラルウォーターを差し入れしてくれた。
「どうも」
 私はありがたく頂戴した。どうせならコーヒーをくれ、コーヒーを、と内心でつぶやくが、まあ、それはわがままか。
「ああ、そうだ。あなたは毎日ここに詰めているのですか?」
「ええ、休日を除けば。交代が来るまでひたすら待ちつづけるのが主な業務です」
 暇な仕事ですよ、と警護員は自虐的に笑った。
 しかし、人気のない場所にある電話の通信警護員が、暴漢に襲われたという事件も時たま耳にする。暇ではあっても、気楽ではないのかもしれない。
「交代の警護員の方にも訊こうかと思っているのですけど。この男性、見かけませんでしたか?」
 私は大して期待もせずに、探している男の写真を見せた。
「貸してください。…………ああ、見かけましたよ」
「えっ」
 あっさりとした目撃情報に、私は思わず口を開けてしまった。
「いつですか?」
「二日前の夕方です。六時前だったかな……。利用者の特に少ない日だったので、よく覚えています」
 私はリストをめくって、二日前の使用者を調べた。なるほど、たしかに、一七時四三分に電話をかけたという記録が残っている。夕方の使用者はその人物だけ。市民番号から読み取れる年齢層も、二十代後半。どうやら彼であるらしい。
「最初に訊いておけばよかった……」
 私はため息をつくように独りごちた。メモ帳の数ページと、なけなしの時間を無駄にしてしまった。まあ、いいさ。無駄こそ人生だ。人生の八割は無駄でできている。残りの二割はコーヒーでできている。
「彼は、どんな様子でしたか?」
「そうですね。陰気な感じといいますか。暗い面持ちでやってきて、どこかに電話をかけて、立ち去りました。つまり、特別変わったところがあったというわけではないのです。ただ……」
 警護員が、言いよどんだように言葉に詰まった。
「なにか?」
「いえ、つまらないことですから」
「些細なことでも、聞かせてもらえればありがたいです」
「うーん……なんというか、さっき見せてもらった写真よりも、もう少し女性的というか、線の細い印象がありました。どこか、ちぐはぐな雰囲気があって……」
「別人と取り違えている可能性が?」
「いえ、たしかに写真に映っている男だったと思うのですが。すみません、妙なことを言って」
「失踪者ですからね。多少やつれていても、不思議はないです」
 私は彼の電話使用記録をメモして、その場を後にした。

 彼がかけた電話番号を調べてみると、それは(かんば)しからぬ評判の人材派遣事務所のものだった。ひらたくいえば、暴力請負業者の一味だ。物騒な雲行きだった。
 さて、どうしたものかと思う。愚直に電話をかけて尋ねてみるか? 正直な返答はあまり期待できそうにないが……。
 そもそも、彼はなぜそんなところに電話をかけたのだろう。危険な追跡者からかくまってもらうためだろうか。彼を殺そうとしている“奴”というのもまた、暴力を専門としている輩なのだろうか。
 私はとりあえず、その事務所まで行ってみることにした。

 潰れたショッピングモール跡地の隣に、その人材派遣事務所はあった。遠巻きに眺めてみると、入口に二人の男が陣取っている。一人は壁に寄りかかり、一人は段差に腰かけて、どちらもタバコを吸いながら、つまらなさそうに何か話している。
 ガムテープで補修された割れ窓や、ひびの入った看板など、一見すると廃虚と大差ないような、荒涼とした風情が事務所には漂っていた。まあ、余所のことをとやかく言えるほど、うちの探偵事務所も立派ではないが。それでも、ある程度の品位は保つように、腐心しているつもりではある。
 私の探している彼が、この事務所内にいる可能性はあるだろうか。荒事に自信はないので、そうなると困ったことになるかもしれない。いるということさえ突き止めれば、後は市警に頼むしかないか。
 迂回するように歩いて、事務所の裏手にまわってみる。われながら不審な動きのように思えるので、目ざとい構成員がいたら、見つかってしまうかもしれない。そのときは、徘徊老人のふりでもして逃れるか。実際、その演技で何度か急場をしのいだことがある。
 どこかの窓から彼の姿が見えたりしないかな、と虫のいい考えを抱く。私は長期的視野においては悲観主義者だが、短期的視野においては楽観主義者だ。
 事務所の裏手は、退屈と退屈が手を取り合ってワルツを踊るような空き地だったが、裏口の前で、強面の男が数人の少年たちとボールを蹴りあって遊んでいた。
 少年たちは、みなすりきれた服を着ていて、貧しさの影を引きずっている。貧民街の子どもだろう。とはいえその表情は快活で、楽しそうにボールに群がっていた。
 少年たちと遊んでいる男も、ここの構成員であるのだろうが、いかつい風貌にどこかお人好しな側面が残っていた。
 この人に尋ねてみるのはどうだろうか。
 だが、暴力請負業者の人間は、指定調査員と聞くだけで毛嫌いする者も多い。一度つついて、態度を硬化させることになったら面倒だ。とりあえず、この男が子ども好きであることは間違いなさそうなので、ひとまずそちらから攻めてみるか。失敗したら、また改めて、探偵として尋ねてみよう。
 私はその場をいったん離れ、目についたドラッグストアに入り、トイレを借りることにした。トイレの手洗い場には鏡があり、そこにはしわくちゃの老婆の顔が映っている。
 その容貌では恋愛は無理ね、という伯母の言葉を思い出す。何くれとなく世話を焼いてくれた、鈍感で無神経な、愛すべき伯母。私も同感だ。私自身、こんなややこしい存在を他人に押しつけたくはないし、だれかを求めようとも思わない。
 私はトイレの個室に入り、鍵をかけた。壁にもたれて一息つき、眼を閉じる。
 宇宙に投棄されたカプセルのように狭く仕切られた空間のなかで、私は独りきりだった。コーヒーが欲しくなるような、インスタントな安全地帯。
 私は自らの病を思い出す。病をもたらした赤い雪を思い出す。それを見ていた少女で子どもだった私の身体感覚を思い出す。
 (まぶた)の裏の闇が赤く染まっていく。過去が血のように降りしきる。私の内なる時計の針が、狂ったように逆回転する。身体のうごめきを解放する。
 やがて、針は止まった。私は眼を開けた。ゆっくりと腕を動かして、眼の前に手をかざす。柔らかみのある、幼さの残る手。ほっそりとした指先。
 私は個室から外に出た。手洗い場の鏡を見る。そこに映るのはもう、“おばあさん”ではない。
 白髪の兆候など一筋だに見出だせない黒髪。瞼の垂れ下がっていないくりくりした眼。枯れ木のようではないすべらかな肌。
 十二歳の少女の顔が、そこには映っていた。
 だけど私はもう十二歳ではない。少女の身形(みなり)をした、二十五歳の成人女性だ。
 固有時失調症に罹患した私の肉体は、恒常的には老人の姿を保っているが、一時的になら、少女の姿に還ることができた。
 固有時失調症は、メタモルフォーゼ疾患の一例でもあるのだ。赤い雪の生んだ、幾多の奇病のひとつ。それが私の持病だった。
 背丈はさほど変わらないので、服装のサイズにはそれほど違和感はない。背骨の曲がった小柄な老婆が、大人ぶった少女に変わっただけだ。
 私はドラッグストアを出て、人材派遣事務所に引き返した。もういちど裏手の方にまわる。ちょうど、ボールで遊んでいた少年たちが、どこかへと駈けていくのにすれ違った。強面の男は、少年たちの背中を寂しそうに見送っていた。
 こちらと眼が合った。私はすり寄るように男に近づいて、あの、すみません、と声をかけた。
「なんだよ。おまえ、この辺の子どもじゃないだろ。女の子は、あんまりこんな界隈をうろつかない方がいいぞ」
「兄を探しているんです。大切な兄を」
 私は口から出任せでそんなことを言って、探している彼の特徴を話した。写真を見せるのは控えた。一応それは、探偵として尋ねる場合のためにとっておこう。
「ここに向かうのを見たって、そう言われたんです。私、兄が心配で……。なにか知りませんか? お兄さんなら、優しそうだなって思って……」
「なんだよそれ。優しそう? 俺が? 弱そうに見えたってことじゃねーだろうな……」
 強面の男はぶつぶつとそんな文句をつぶやいたが、私が泣きそうな顔でじっと見つめつづけていると、ため息をついて、しぶしぶ話し出した。
「……ああ、たしかにそんな奴なら、昨日うちに来たよ。俺の兄貴にキレられてた。わけのわからない電話をよこして、わけのわからないことを頼みやがるって、いまいましそうに愚痴ってた」
「本当ですか!? 兄は、やっぱりここに……」
「おまえの兄ちゃん、頭がおかしいのか? 暴力は男の特権だとか、暴力を叩き込んでくれとか……。たしかに、あれはわけわかんねーわ。……しかし、ずいぶん歳の離れた兄ちゃんだな」
 しまった。兄ではなく父親とでも言った方がよかっただろうか。いや、それもちょっと不自然なことになるか。なんにせよ、言い出したからにはそのまま乗り切ろう。スピード勝負だ。勢いが肝心なのだ。
「ええ、ひとまわり以上も離れているんですけど……。実は、母親は違うんです。でも、そんなこと気にもかけずにいっぱい遊んでくれて、お菓子を作るのを手伝ってくれたりもして、とても優しい兄なんです。少しおかしなところがあっても、私の大切な身内なんです。兄は、まだこちらに?」
「いいや、すぐ追っ払われたよ。ただ、えーと、どこだったかな……。ちょっと待ってろ」
 そう言って、男は事務所の中に入っていった。
 私は心細そうに震えている可憐な兄想いの少女の外面を保ちつつ、早くコーヒーが飲みたいという禁断症状のような渇きを抑えながら、立ちつくして待っていた。
 ほどなくして強面の男が戻ってきた。
「ほら、これ。ゴミ箱にまだあった。頼んでもねーのに、こんな気持ち悪い書き置きを残していきやがった。暴力を恵んでくれる気になったら、だとよ。頭イっちまってるぞ、ありゃ。早く連れて帰ってやれ。危ないから、だれか大人を呼んでから行けよ」
 男が渡してくれた紙片には、汚い地図が殴り書きされており、ある地点に矢印がのびていた。自分の所在地を示しているらしい。わかりづらくはあるが、共同墓地を表しているらしい墓標のマークが矢印の近くにあるので、場所の特定はなんとかなりそうだ。
 紙を裏返してみると、ここにもメッセージが書かれていた。“消えたくない”。
「おい、なにやってんだよ。いつまで遊んでんだ」
 事務所の裏口からもうひとり、眼の下に隈のある、どことなくやにさがった面構えの男が顔を出して、強面の男を叱責した。
「わかった、わかった、わかったよ。もう遊ばねーよ、真面目にしてますよ」
「なんだ、その子どもは?」
「ああ……なんか、人を探してるんだってよ。もう用は済んだみたいだから、追っ払うよ。気にしないでくれ」
「ふうん……。けっこう、可愛い顔してるね。上物じゃん。その女の子、今度撮るビデオに出演させられないかな」
 強面の男は、表情を固くした。
「ビデオ? 正気かよ、おまえ。だって、まだガキじゃないか」
「ガキだから、需要があるんだよ」
 眼に隈のある男は、湿り気を帯びた眼つきで、私を頭からつま先までぎょろぎょろと眺めまわした。
 強面の男は、うんざりしたように首を振った。
「きみさ、貧民街育ち? まあ、違うよね。品があるもんね。でもさ、お金はほしいでしょ?」
 眼に隈のある男が、絡むような口調でそう言った。
「お兄さん。いろいろ教えてくれて、本当にありがとうございました」
 私は、その男は無視することにして、強面の男の方にお辞儀して、礼を述べた。
 本当に感謝している。私にとって、仕事を助けてくれる情報提供者は、だれもがみんな天使だ。地べたを這いずりまわっている天使だ。
「ああ。もういいから、さっさと行けよ」
 強面の男は、後ろの男から私をさえぎるような位置に立って、しっ、しっ、と手で追い払う真似をした。
「お兄さん。最後にひとつだけ、いいですか」
「あ? なんだよ」
「別の仕事に就いた方がいいですよ」
 それだけ言い残して、私は子どもっぽい駈け足で、その事務所から走り去った。

 地図に示された地点は、またしても廃ビルだった。
 私は老婆の姿に戻り、そのビルの前に立った。廃虚だらけの寂れた街の、おびただしく遍在する人気のない一角の、ありふれた廃ビル。
 私は鞄から拳銃を取り出して、懐に忍ばせた。念のための用心だ。
 一階の入口をくぐった。ガラスや瓦礫をまたぎながら、巡回員のように探索していく。
 階段をのぼる。二階、三階、四階、と進んでいったところで、上階から気配を感じた。物音が聞こえる。私は五階への階段をのぼった。
 やはり音が聞こえる。慎重にそちらへ近づいていく。角を曲がると、広い空間に出た。そこには段ボールを敷いた寝床があり、その上に人がうずくまっていた。周辺にはペットボトルや空き瓶が散らばっていた。
「う……う……う……」
 すすり泣いているような低い声。わたしはゆっくりと彼との距離を詰めた。
「大丈夫ですか?」
 私は声をかけた。はじかれたように、彼はこちらを振り向いた。苦しみに悶えるように、顔を歪めている。よく見ると、手にナイフを持っている。危険な徴候だ。
「……だ、だれ? 誰?」
「探偵です。あなたの母親からの依頼で、あなたを助けに来ました」
「……俺を……助けに……?」
「ええ。あなたは助けを求めていたのでしょう?」
 彼は虚ろな眼でこちらを見た。鏡の向こうの世界にいるような眼だった。
「……もう、遅い……。だれも、俺を助けようがないんだ。無駄なんだ。他人には、どうしようもない……」
「それはわかりませんよ。あなたはなぜ、失踪したのですか?」
「俺じゃない……。俺は、嫌だったんだ。俺は、望んでなんかいなかったんだ。でも、奴が来るから、そうせざるを得なかった。俺の意思なんて、関係なかった。自分で死のうかとも思ったけど、できなかった。結局、奴の思うがままだ。俺は殺される……」
「奴とは、何者なのですか?」
「……奴は」
 彼は口を開き、そして、そのまま硬直した。わなわなと震え、瞳孔が開いていく。
「奴が来る、奴が来る、奴が来る!」
 彼は床をのたうちまわり、叫びだした。断末魔のような痛みに満ちた声だった。叫びは廃墟にこだまし、苦しみのハーモニーを奏でた。その音楽の中で、彼は悶えつづけていた。
 叫び声のピッチが、だんだん高くなってか細くなり、こだまと一瞬の混声合唱を織り成して、消えた。じたばたともがき続けていた身体の動きも、止まった。
 葬儀のような沈黙。死の静寂だ。
 ふたたび顔をあげた時、彼はもう彼ではなかった。彼女だった。
「……ふう。やっと、完全に殺すことができた」
 彼女はゆらりと立ち上がった。艶やかな、妙齢の女性の顔だち。胸はふくらみ、腰つきは変化し、さっきまで男性だったはずの肉体が、女性のそれへと変態していた。
「侵食性交代人格……」
 彼も、メタモルフォーゼ疾患をわずらっていたのか。
「彼を、内側から喰いやぶったのね」
「……へえ。よくわかってるのね。あなた、物知り婆さんなの?」
 彼女はくすくすと笑った。
「ま、そんなことどうでもいいじゃない。あなた、探偵とか言ってたわね。でも、もうあなたの探していた男は死んだわよ」
「人格はそうかもね。だけど、あなたが依頼人の子どもである事実は、変わらないから。連れ戻させてもらうわ」
「そんなのごめんよ。私、あの母親が嫌いなの。せっかく自由になれたんだから、見逃してよ」
「そうはいかないね」
「お節介ばばあ。余計なお世話よ。どうせしょうもない世の中の、どうせしょうもない老い先でしょ? あなた、なにが哀しくて、探偵なんかやってるわけ?」
「すべて汝の手に堪うることは、力を尽くしてこれを為せ」
「……はあ?」
 意味がわからない、というように、彼女は眼をぱちくりさせた。
「生きてるうちにやれることがあるなら、やっておいた方がいいってことよ」
「……あっそ。ま、どうでもいいけどね。どいてな、クソばばあ」
 彼女はナイフを振りまわしながら、こちらに向かってきた。
 稚拙な威嚇だ。切りつけるためというより、私をひるませ、そのまま走り抜けて逃げるつもりだろう。
 私はそれを避け、足払いをかけた。彼女はぶざまにすっ転んだ。手元のナイフを蹴り飛ばし、上半身を片足で踏みつけ、拳銃を構えて彼女に突きつけた。
 荒事は嫌いだが、それなりの護身術は私も身につけている。
「…………ろ、老人にしては機敏なのね。驚いたわ。でも、まさか、撃ったりはしないわよね……? あなたは私を探していたんだから……」
 彼女の声は震えていた。私は意地の悪い衝動にかられた。
「さて、どうしようかしら。私が探していたのは彼であって、あなたではないわ。あなたは、彼を殺した殺人犯であるわけだし。射殺にも、ひとにぎりの正義はあるかもね」
「殺人犯? 私が? 馬鹿なこと言わないでよ、おばあさん。私と彼は別人でもあり、同一人物でもあるのよ。他人はだれも殺してないじゃない」
「自分を殺すのは大罪よ。罪なき自死とは違ってね。それに、ひとつ言っておきたいんだけど」
 ごりっ、と私は銃口を彼女の額に押しつけた。
「私、まだ二十五歳なの」

 多少の荒療治は伴ったが、私は彼女を捕らえることができた。依頼を果たしたといえるのかどうかは、よくわからないが。
「息子は、無事なんですか」
 私は依頼人の家を訪ねて、とりあえずの報告をすることにしたのだが、上手い説明が浮かばず、不明瞭な応答しかできなかった。
「さあ、どうですかね。とりあえず、病院に連れていきました。失踪中に負った軽傷を治療して、病の後遺症を調べています。見張りがついているので、逃げることはないと思いますが」
 もし逃げたとしたら、次は違う探偵に頼んでほしい。あんな女を探すのは、まったくもって気が乗らない。
「病……ですか?」
「それについては、本人に直接きいてください。私は息子さんを助けられませんでしたが、お子さんを連れ戻すことはできました。成功といえるかどうかは、あなたの判断に任せます。納得されたなら、成功報酬をお願いします」
 はあ、と依頼人は気のない返事をした。よくわかっていないのだろう。わかってしまったら、非難されるだろうか。助けられなかった彼に対しては悔いが残っているので、非難は甘んじて受けようと思う。
「では、また後日、事務所の方で。すみません、今日はちょっと用事があるので、失礼させてもらいます」
 私は依頼人の家をそそくさと辞去した。やれやれ、今回もどっと疲れたが、とにかく仕事はひとまず終わりだ。

「あ、チホちゃん!」
「久しぶり!」
 私は十二歳の少女になって、先日お菓子をくれた女の子の家に遊びに行った。
「このあいだはクッキーをありがとう。とっても美味しかった」
「ホント? よかった、ちゃんと食べてくれたんだ。おばあさんが忘れちゃったら、どうしようって思ってた」
「あはは、おばあちゃんは、まだまだ頭はしっかりしてるから、大丈夫だよ」
「今日は、ケーキを作ってみようと思ってるんだけど。よかったら、チホちゃんも手伝ってくれない?」
「うん、いいよ」
 そんな会話を玄関先で交わしていると、その子の妹とその友達が庭からやってきて、「チホちゃんだ!」と叫んで、抱きついてきた。そのまま庭まで引っ張っていかれて、縄跳びを一緒に跳んだり、ままごとをしたり、ブランコを押してあげたりして、私たちは気の向くままに遊んだ。
 子どもの遊びは、ひたすらに無意味で、ひたすらに楽しい。無駄の塊だ。
 私は、子どもの遊びよりも価値がある行為なんて、この世にはないと思っている。それが、二十五年間生きてきて得た結論だった。
 この街で人々が為している数々の行いのなかで、子どもの遊びよりも尊いものが、どこにあるというのだろう。
 三十歳まで生きられたら奇跡です、と私の担当医師は言った。なるほど。この妙ちくりんな病気は、順調に私の寿命を削っているらしい。それならそれで、私はできる限りの時間を、私が価値あるものだと認めた行為に捧げたい。
 だから私は、老婆であり、大人であり、二十五歳の成人女性であっても、時おりはこうして少女に還り、思う存分に遊ぶのだ。
 その後もケーキ作りをしながらきゃあきゃあ騒ぎ、やがて日が暮れたので、私は名残惜しくもその子たちに別れを告げて、探偵事務所の方へと戻っていった。

 静かな夜だ。生きているという事実が不可思議に思えるほど、ゆっくりと瞑想的に時間が流れていく。そして、私は家に帰りもせずに、事務所のソファーに座って、目の前のコーヒーを眺めていた。
 夜空のように奥深い水面(みなも)だ。その小世界に、白いミルクを一筋たらす。漆黒の闇夜に、ゆらめく渦状星雲が生まれ、世界が鮮やかに色づき、命が宿る。カップの中のプラネタリウムは、いつもながらに壮観だ。
 私は、世界そのもののようなコーヒーを眺めながら、このまましばらくは飲まずにおいて、なにごとかを想うのも悪くないなと、そんな気持ちになっていた。もうしばらくは、このまま見ていたい。
 無神経な伯母の言葉を借りるなら、私の人生は、チェスや将棋でいうところの、詰み(チェックメイト)にあたるのだろう。私見によれば、日に日に退廃していく、この社会も、また。
 でも、終わりから眺める風景も、けっして捨てたものではない。静止した黄昏のような、そこでしか見出だせない美しさも、この世にはある。あの禍々しい赤い雪が、信じられないほど透きとおって見えたのと、同じように。
 せっかく上機嫌な夜なのだから、私はいまのうちに、この理不尽な世界を許そうと思う。腐っていく人々を許そうと思う。もちろん、私が許そうが許すまいが、世界は理不尽でありつづけるだろうし、人々は腐りつづけるだろう。だからこれは、単なる一夜限りの自己満足だ。
 しかしとにかくも、今夜の私は、目の前のコーヒーによって満足している。私の人生は、なにひとつ残すことなく、だれに記憶されることもない、無意味で短いものかもしれないが、私は私なりの在り方で、たしかにこの世に存在したのだ。
 この上機嫌が消えてしまう前に、熱いコーヒーが冷えてしまう前に、今夜の祈りを済ませておこう。
 私と関わりのあった人たちに、幸いあれ。私と関わりのなかった人たちに、幸いあれ。私の生きる世界に、幸いあれ。私の死んだ後の世界に、幸いあれ。
 私にいつか訪れる死が、どうか、一杯のコーヒーのような安らぎでありますように。
 私の死に、幸いあれ。
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