伊藤愛の麻薬

文字数 4,140文字

春が来て、夏が過ぎ、秋を迎え、冬を終え、また春が来る。その繰り返し。
そうやって、これまでの人生で最も苦しい日々が経過した。結論だけ言うと、伊藤愛は辛うじて生きのびた。
今や、愛は、自分の他には誰もいない荒れ果てた家で、廃人のような荒み切った生活を送っている。
悪夢の少女は相も変わらずに、彼女を追いかけて苦しめ続けていた。
やはり、過去の所業から逃れる事は出来ない。
刑務所に服役している元夫の竜太郎という男とは違い、裁判で執行猶予を言い渡された愛という女の人生に自由は戻ってきたが、安らかな眠りは戻ってこなかった。
既に夫や母達からは当然のように絶縁されていた愛は、天涯孤独の身と言ってよかったので誰かの目に留まる事もなく、夢の娘達と共に転落の一途をたどった。
男もいない。家族もいない。金もない。
ないない尽くしの惨めな日々を過ごしている人間に出来るのは、ダンゴ虫のように身を丸めて蹲る事ぐらいであった。
この日も、昼過ぎに震えながら目を覚ました後、空腹を満たすために食料を調達した。
「ちくしょう・・・」
ゴミ溜めのような居間で、賞味期限の切れたコンビニ弁当の白米をくちゃくちゃと音を立てて咀嚼しながら、愛は憎々しげに呟いた。そして、自分に対して冷たく厳しい世の中を呪った。
何故、可哀想な被害者である自分がこんな生活を送らなくてはならないのか?
答は出ない。
今や、おひとりさまである愛は、どうにかして女磨きに精を出して自分らしさを演出しようとしたのだが、いかんせん金がない。
どうにもならない現実が、愛という女の前に広がっていた。
愛が水を飲もうとコップに手を伸ばした時、呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。
どうせ、ろくな相手ではないだろうから居留守を決め込もうと思ったが、何故か自然と体が動いて玄関へと足を進めていた。
出所してからというもの、ありとあらゆる事に対して投げやりになっていたのだが、ここは一応用心しつつドアを開ける、するとそこには自分と同年代と思われるスーツ姿の若い男性が立っていた。
「・・・愛ちゃんか?」
そう言って、突然の訪問者は微妙な笑顔を浮かべる。
爛れた脳味噌をどうにか動かして、錆ついた記憶の中から答を導き出す。
「・・・あんた・・・もしかして、浩作?」
「おお!良かったぜ~、俺の事、憶えててくれたんだな!」
訪問者の正体は、高校の頃、クラスメイトにして友人の原浩作であった。
高校を卒業してからというもの、ずっと音沙汰無しだったくせに、いきなり顔を見せるとは何を考えているのか。
愛の疑念を見透かしたかのように、原浩作はぐいぐいと自分の体を押し込みながら狭い玄関に上がりこんできた。
「ちょ、ちょっと・・・」
狼狽した愛を制するかのように、浩作は両手を前に突き出しながら畳みかける。
「いきなりで悪いな。でも、少しだけだ。ほんの短い間でいいから、入れてくれ、な?な!」
浩作の強引な態度に押し切られるようにして、そのまま彼の侵入を許してしまった。
現在、時刻は午後二時二十九分。

約一時間後。
「お話」を終えて帰った原浩作という男が置いていったものを、愛は凝視していた。
テーブルの上に置かれている、一見、普通の錠剤に見える、それ。
彼は、それを「マイルド」と呼んだ。
紛れもない、ドラッグである。
思い出した。
昔、知り合いだった男が、このマイルドと似たようなものを服用していたのだ。
その結果、彼は全身を虫に喰い荒されると叫びながら、商店街で包丁を振り回して逮捕された。
浩作が置いていったマイルドを改めて凝視した。極めて危険なドラッグである事は明らかだったのだが、苦痛に苛まれていた愛は何よりもまず強烈な快楽を欲していたので、やばいと理解していながらもその「お薬」を突き返す事が出来なかったのだ。
浩作の「お話」は、最初は当たり障りのない世間話だったのだが、次第に聞き役だった愛の方が自分の中にある鬱憤を晴らしたいという衝動にかられてしまい、自分を襲った「理不尽な不幸」について喚き散らかした。
浩作は、表面上は深く深く同情する様子を見せつつも、話が一段落すると待ってましたと言わんばかりに懐からマイルドを取り出したのだった。
突然の来訪者・原浩作の目的は何だったのか。
「この薬で、嫌な事は全部忘れられるぞ」
浩作の言葉は、愛の心を揺さぶった。
我が子の亡霊から逃れられるのなら、何にでもすがりたい。
愛がそう願っている事を、浩作は見抜いていたのかもしれなった。
「愛ちゃんは友達だから、これはタダでやるよ。もし、また欲しくなったらいつでも、この番号に連絡しろや。次からは、お金さえ払ってくれれば、ウチの奴らがいくらでも融通するぜ」
彼は、そう言って麻薬を渡した。
かつての同級生にして友人でもある男・原浩作の目的は何だったのか。
マイルドを再度凝視した。やばいヤクだってことぐらい、わかってる。でも、一度くらい。そう、たった一度くらい。
頑張った自分へのご褒美だ!
愛は、恐怖と欲望で顔を歪ませながら、錠剤に手を伸ばした。
新たな地獄が始まる。

一方その頃。
原浩作は、タクシーの中、座席シートにどっかりとふんぞり返りながら、にんまりとほくそ笑んでいた。それは、仕事を達成した者だけが浮かべる事の出来る勝利の笑みだった。
この仕事を始めて既に数ヶ月が経過しているが、浩作は悲しいほど手際の悪い男だったので、なかなか業績を上げる事が出来なかった。
一件でもいいからまともな結果を出したくて焦った挙句、音信不通だった伊藤愛という人の家をダメ元で調査して突き止めて、いきなり訪ねてみたら、これが大当たり!
あのろくでもない女は、間違いなく病みつきになるだろう。
これで、自分の事を無能な役立たずと呼んで罵り殴り蹴飛ばす男、あの嫌な嫌なクソ上司を見返してやれるかもしれない。
「やっぱり、昔と変わらなかったぜ。伊藤愛がどうしようもないアホで、ホントに助かったよな・・・」
浩作という男は、そう呟くとポケットから携帯電話を取り出して、新たな「顧客」を捜す、いや創り出すために新規開拓の第一歩を踏み出した。
伊藤愛のような人間は、たったの一度でも良い思いをしたら、必ず次を求めて喰いついてくる。浩作のような下っ端にとっては、あのような人種は正にカモネギ、最高の上客であった。

同刻。
愛は、七色に煌めく世界の中で踊っていた。マイルドを飲んだ直後に、先程まで心身を蝕んでいた鬱が綺麗さっぱりと晴れて、最高にハイな気分になっていた。
飲酒や喫煙や幼児虐待やセックスでは絶対に得られない、この絶頂感!
凄い。凄い。凄い、凄い、本当に凄い。
楽しい。
ああ、ああ、ああ、本当に楽しい。
気持ち良い。
本当に、本当に、本当に気持ち良い。
久しく忘れていた快感に打ち震えながら、くるくるくる、と体を旋回させて狂ったように踊り続けた。自分を苦しめる現実を忘れたい一心で、悶え続けた。
こんなに良いモノだったのか。もっと早くにキメときゃ良かった。
「ぶはあ・・ふはっ・・くひっ・・・はひ・・・・げひっ」
人間性の欠片もない喘ぎ声を出しながら、ゆっくりと海の底に沈むような動作で、そのまま床に崩れ落ちた。体を転がして仰向けになり、眩しい蛍光灯を直視してしまい、思わず目を細める。
快楽の海の中でこのまま眠ってしまいたい、と思ったその時。
身体が動かない。
ドラッグで高揚していた心身を悪寒が貫いた。金縛りにあったように身体が言う事を聞いてくれず、硬直してしまっている。
七色の快感の波が引いていき、真っ赤な恐怖の波が押し寄せてきた。
来る。あいつらが来る。あの、ガキどもが来る。
私が殺したガキどもが、私を殺しにやって来る!
この時点で、愛は既に失禁していたが、彼女はその事に気付かなかった。
七色の世界が急に、赤一色に染まっていく。
子供達の亡霊が出現する気配を感じ取り、愛の小さな両眼に涙がたまった。
気がつくと、白いワンピースの幼女が両足を広げて愛の胴体を跨ぎながら立っていた。
娘達の亡霊は首を下方に傾けて、のっぺらぼうの顔を母に向って突き出している。
気がつくと、赤ん坊が愛の股間に顔を埋めて、元・母親の子宮内に帰還しようとしていた。
母親の愛に殺された胎児の亡霊は首を上方に傾けて、血に塗れた顔を愛に向って突き出している。
愛は、鼠のような悲鳴をあげながら、駄々をこねる幼児の如く暴れた。
次の瞬間、世界は元に戻った。
七色でもなく、赤一色でもない、元の世界に。
白いワンピースの幼女も、煙のように姿を消していた。
愛は、しばらく起き上がる事が出来なかった。

更に一か月が経過した。
愛は、原浩作をあの時、家の中に入れるんじゃなかったと死ぬほど後悔している。
浩作という男のせいで、こうなったのだと、愛という女は激しく憎んでいる。
ドラッグによって得られた快楽は確かに強烈であったが、その何倍もの苦痛と恐怖が愛を更に狂わせるようになった。そして、単なる薬物中毒者と違って、愛には悪夢の子供達が取りついている。ドラッグは、亡霊達にとっては強力な栄養剤となったらしく、昼夜を問わず覚醒している間も子供達の亡霊を視る羽目に陥ってしまった。薬を飲めば亡霊の子供達も消えるかもしれないとひそかに期待していたのだが、逆効果だったのだ。
自分が殺した子供達の亡霊が、時刻や場所を問わずに何の前触れもなく目の前に現れて、憎悪と怨恨と敵意と殺意を剥き出しにして襲いかかってくる。
あまりにも愚かな愛は、夢の幼女に悪夢と現実の境界線を易々と飛び越えるほどの力を、結果的に与えてしまったのである。
このようにして愛は、夢と現の区別もつかない人生を送る羽目になった。
ドラッグを買う金を稼ぐために、繁華街で体を売る。その苦しみから逃れるためにドラッグに溺れる。かつて、自分が殺した子供達の怨霊との戦いがまたしても始まる。
その繰り返しであった。
これでは、幸せな人生どころか日常生活すら送れない。
彼女の人生は、どこまでもどこまでも転落と崩壊の一途をたどっていた。
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