回想

文字数 4,165文字

桜舞う、四月。
柴田純佳は四年生になっていた。赤星ゆかりが転入し、真山徹子が赴任してくる一年前の話である。
当時の純佳は、現在と同様に内向的な性格であり、友達も皆無といってよく、いつも一人で学校生活を送っていた。
そんなある日、音楽室の前を純佳が通りかかると、ピアノの音が聞こえてきたのだ。
美しい曲だった。
音楽の知識など全く持ち合わせていない純佳にも、この曲を演奏している人物は素晴らしい技術と才能の持ち主なのだろうと察しがついた。
どんな人が弾いているのか知りたくなって、音楽室のドアをそっと開けてみた。
そして、見た。
若い女性が、ピアノの前に腰かけて、演奏を続けているのを。
とても、美しい女性だった。
少女は一瞬で心を奪われてしまった。演奏よりも、その女性の美しさに惹きつけられた。
やがて、演奏が終了した。
演奏者の女性は、すっと立ち上がると、静かな声でこう言ったのだ。
「私の演奏は、どうでしたか?」
そこで、自分が盗み聞きしていたことを彼女に気付かれていたのだと、純佳はようやく悟った。
怒られる、と思って恐怖で硬直してしまった純佳に、その女性はゆっくりと歩み寄った。
そして、純佳の頭を撫でて微笑んだのだ。
「そんなに怖がらないで。私の演奏を聴いてくれて、ありがとう」
この時の彼女の麗しい笑顔を見て、純佳は恋心というものの存在を知ったのだった。
彼女が、白石かえで、という名の新任教師だと純佳が知ったのは、その翌日の事だった。
それ以来、純佳はずっと、ほのかな想いをかえで先生に寄せてきたのだった。
過去の記憶は、純佳の感情を更に昂ぶらせた。
ヒートアップ!
うっかり者の純佳は、またしても熱くなって口を滑らせた。

「ホント、あの暴力の鬼とは大違いですよ!」

かえで先生の表情が、曇った。
「暴力の鬼?」
純佳は、息を呑んだ。
しまった。
つい、言わなくてもいい事まで言ってしまった。
「暴力の鬼」とは、言うまでも無く五年四組の担任である女教師・真山徹子のあだ名だが、かえで先生はその事を知らないはずだった。
「柴田さん、あなた・・・」
「あ、あのですね、かえで先生、これはですね、失言というか、その、暴力の鬼っていうのは、何て言うかー」
かえで先生は、椅子から立ち上がると、純佳の頭を撫でた。二人が初めて出会った時と、同じように。
「どういうことなのか、話してくれる?」
かえで先生の質問に、結局、純佳は逆らえなかった。
そして、話した。
純佳達五年四組の生徒達が、今までどれだけ「暴力の鬼」に苦しめられてきたか、傷つけられてきたか、その艱難辛苦の日々について。
そう、今日も、純佳の頭は、真山のせいで残飯まみれになったのだから。
話していくうちに、純佳の眼からは自然と涙があふれ出ていた。
「暴力の鬼」が一色小学校に赴任してから、今日までの半年間、自分の中で積もりに積もった恨み、苦しみ、憎しみ、などなどマイナスの感情が一気に出てきたのだ。
泣きながら話す純佳の姿を、かえで先生はただじっと見つめていた。
あらかた話し終わると、純佳は息を荒げながら、涙を拭った。
純佳の傍に立って、ずっと話を聞いていたかえで先生は、天を仰いで溜息をついた。
そして、純佳を優しく、しかし力強く抱き締めたのだった。
「辛かったね・・・」
純佳は、狼狽した。
「せ、先生」
「ごめんね。あなた達五年四組の子供達が、そんなに苦しい毎日を過ごしているなんて、私、全然知らなかった」
「い、いいえ、先生のせいじゃないです」
「ううん、私にも責任はある。私だって、教師なんだから」
かえで先生は、純佳を抱きしめながら、ぽつりと呟いた。
「私、今度、真山先生とお話ししてみるわ」
「え?」
「あの先生はただ単に、普通より厳しいだけなんだって思っていたけれど・・・もう、そんな話じゃないわね。何とかしなくちゃ」
「だ、ダメです!あの暴力の鬼に刃向かったら、どんな事になるか」
「大丈夫。私は大人だから。心配しないで」
そう言うと、かえで先生は、純佳を抱きしめる腕に一層強く力を込めたのだった。
その腕や、胸の柔らかさ、そして暖かさの中で、純佳は改めて思った。
この人がいてくれて、本当に良かった、と。
深く傷ついた心が癒されていくのを、感じた。
その中で、自然と純佳は前から思っていた事を口にした。
「最近、うちの学校全体でやけに欠席者が多いのも、暴力の鬼のせいじゃないかって思っているんです。あいつは、みんなを不幸にするオーラを撒き散らしているんじゃないかって」
そう。五年四組を含めた、一色小学校全体において、最近は何故か欠席者や体調不良者の数がやたらと増えているのだ。

「暴力の鬼」が邪なナニカを振りまいているせいだ。あいつは諸悪の根源なんだ。そうに決まっている。

純佳は頑なに、そう信じていた。
そして、思った。
最近、町に出没しているという、謎に包まれた魔法少女。その正体は、今は、まだ、わからない。でも、

「私がもし、魔法少女に会ったら、暴力の鬼をやっつけてもらうようにお願いしてみます」

純佳は力強くそう言った。そう。正義の魔法少女は、邪な魔物を打倒する事なのである。
彼のそんな話に対しては何も答えず、かえで先生はいつものようにただ微笑んだだけだった。
十数分後。
「それじゃあ、そろそろ、お暇します」
「ええ、外まで送るわ」
「い、いえ、そこまでしないで下さい。一人で帰れますし」
気持ちが落ち着いた純佳は、かえで先生の家から退出して、自宅に帰る事にした。
お茶やクッキーなどの後片付けをしているかえで先生から少し離れ、リビングを出た純佳は、廊下を歩いて玄関に向かった。
その途中、少しだけ隙間の空いているドアを見つけた。
いけない事とは思いつつも、ついその隙間から部屋の中を覗き込んでいた。
――変わった部屋だった。
家具らしいものは何も置いておらず、ガランとしている。見る限りでは目立ったものは何も・・・いや。
床の上に、何か奇妙な文様が描かれている。
あれは、魔法陣とかいうものだろうか?
ついさっきまで延々と続いていた、かえで先生の魔法談義の中で、耳にした事があった。そして、その魔法陣らしきものの中央には・・・
ティーカップが、置かれていた。
先程、純佳達が紅茶を飲む際に使用したティーカップとは比較にならないぐらい、価値のありそうな年代物のようだった。
あれは、何だろう?
そう純佳が思った時、リビングの方から声が聞こえてきた。
「柴田さん。もう少し待ってて。今、私もそっちに行くから」
純佳は、開きかけていたドアを慌てて閉め、答えた。
「は、はい」
そして、玄関へと向かい、靴を履く。
履き終った所で、かえで先生がやって来た。
「先生、今日は本当にお邪魔しました。それでは、私はこれで」
「ええ、また明日、学校でね」
「はい!」
そう元気よく答えた純佳を見つめる、かえで先生の笑顔は、何故か寂しげに見えた。
外に出た純佳は、自宅への帰り道をフラフラと歩き始めた。
大きく深呼吸をしながら、考える。
かえで先生は、本当に良い先生だ。
彼女に抱きしめられた時の感触は、今でも純佳の中に残っている。
好きな女性の家に招待されて抱きしめられる、という思わぬ幸運に見舞われた純佳は、夢見心地で歩いていた。
魂が抜けてしまいそうだった。
足元もおぼつかない。
「はあっ」
大きく息を吐き出しながら、純佳は歩き続ける。歩き続けるうちに、人通りの多い商店街へと出た。その熱気に閉口し、ひとまず立ち止まる。そして、つくづく思った。
今日は、色々な事があった一日だった。
かえで先生に出会って、家にお邪魔して。その前は、
「う・・・」
いけない。思い出したくない事を思い出してしまった。先程まで純佳の心を麻薬のように満たしていた甘美な快感が霧散し、不快なものが押し寄せてくる。
「あいつ」に苛められた事なんか、思い出したくも――
「あんた、こんな所で何をやってる?」
飛び上がりそうなほど、純佳は驚いた。勢いよく振りかえる。

暴力の鬼が、そこに立っていた。

純佳の動悸が激しくなった。心地良い安心感が、不快感へと早変わりする。全身が震え、胸が苦しくなる。そのまま、動けなくなった。
それでも、純佳はもつれる舌を懸命に動かしながら、何とか声を出した。
「ま、まや、真山先生」
純佳の様子を見て、真山は何を思ったのか、表情を普段より更に険しいものにし、純佳に詰め寄った。そして、両腕を伸ばして純佳の肩を掴んだ。
その時、「あるもの」が見えて、純佳は息を呑んだ。だが、真山はそれに気付かず、人目のある商店街の中だというのに、声を張り上げた。
「柴田!あたしの質問に答えろ!お前、今まで、どこで何をしていた?」
周囲の通行人達が、びっくりして、真山と純佳を見つめる。
その迫力に純佳は飲み込まれそうになったが、かえで先生の笑顔を思い出して自らの心を奮わせた。
「私は、他のクラスの友達の家に遊びに行っていました」
嘘をついた。
かえで先生の家にお邪魔していた、と正直に言うと、かえで先生を敵視しているらしい真山のことだ、どんな真似をやらかすか、予想がつかない。
真山は、疑っているようだった。
「本当に、そうなのか?」
純佳は、これ以上糾弾される前にここから脱出する事にした。
「本当です。じゃあ、私はこれで失礼します。帰りが遅くなると、家族が心配するので」
それだけを言うと、純佳は真山に背を向けて、全速力で駆けだした。
「おい、こら!待ちやがれ、柴田!話はまだ終わって・・・!」
真山の怒声を無視して、純佳は何故か上手く力の入らない体に鞭を打ちながら、走り続けた。そして思い返した。真山に肩を掴まれた純佳が、真山の手首を見て、発見したもの。
それは、傷跡だった。
カッターか何かで切り裂いたような、大きく、そして古い傷跡が幾重にも、手首の上に見受けられたのだ。あれは、リストカット、という奴だろうか?柴田純佳は考える。
真山徹子には、自殺を試みた経験がある。それが何を意味するのか、純佳にはまだ理解できなかった。
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