柴田純佳の登校

文字数 3,120文字

学校へ行きたくない。

一色小学校五年四組出席番号十二番・柴田純佳は、登校を拒否する自分の気持ちと戦いながら、重い足取りで通学路を歩いていた。以前は心地よかったランドセルの重量が、今では重荷としか感じられない。今日もまた、苦しみに満ちた時間が始まるのかと思うと、心身が悲鳴を上げそうだった。
周囲をふと見回すと、純佳と同じような通学途中の小学生達が歩いている。友達との会話に興じる者もいれば、マンガを読みふけっている者もいるし、ケータイをいじっている者もいる。皆、楽しそうだった。学校に対する恐怖や苦痛など微塵も感じていない。本当の所はどうあれ、純佳の眼にはそう見えた。自分だけが疎外されているように思えた。そう思うと、余計に歩き続けるのが辛くなる。
家に帰りたい。学校を休みたい。不登校児になりたい。校門を通り抜けたくない。教室に入りたくない。授業を受けたくない。

もう二度と、「あいつ」と会いたくない!

不意に足が止まった。「あいつ」の事に思い至った瞬間、身体が動くことを拒否したのである。前を見ると、既に一色小学校の校舎が見える。目的地は目と鼻の先だ。気分が更に悪くなった。
純佳は、祈りに近い真摯な気持ちで願った。
学校へ行きたくない。
でも、行かねばならない。ちゃんと登校しなければ、家族が心配して、悲しむ。両親は、学校を休みたがる純佳を宥めすかした上でどうにかして登校させようとする。大切に育ててきた娘が不登校児になってしまう事など、とても受け入れられないのだ。純佳自身、両親に心配をかけたくないので何とか自分の気持ちを誤魔化して学校へ通ってきた。しかし、もう限界が近づいている。
不快感を抑え込みながら、牛のような鈍足でのろのろと校舎との距離を縮めていく純佳の隣を、下級生らしき小さな女の子達が甲高い笑い声をあげながら駆け抜けていった。彼女たちの天真爛漫さが羨ましかった。そんな風に思い患いながら少しずつ、少しずつ歩き続けて、純佳はようやく校門の前に立つ。再び足が止まった。
何とか動かそうとするのだが、もう動かない。この校門は、学校に通う生徒にとっては境界ともいえる存在である。この校門を通り抜けた瞬間から一人の小学生としての日常が始まる。退屈だが平和な学校生活が。しかし、今の純佳にとってはその学校生活が恐怖と苦痛の塊でしかないため、彼女の眼から見れば、一色小学校の正門は地獄の門以外の何物でもない。
目の前の厳しい現実に直面した純佳は、決死の覚悟で身体を前に向けて動かそうとするが、やはり動かなかった。全身が硬直しており、少女の生存本能が前に進む事を拒否しているのだ。
校門の前でマネキン人形のように立ち尽くしている純佳の姿を、他の子供達が不思議そうに見つめながら、難無く通り過ぎていく。いい加減に動かないとまずい、早くしなければ。そう自分にいくら言い聞かせても、体は頑として動いてくれなかった。
その時である。
地獄の門を通り抜けられずに立ち往生している少女の肩を、誰かの手が叩いた。
地獄の番犬・ケルベロスか?と一瞬、純佳は思ったが、当然違った。
「し・ば・た・す・み・か・さ・ん!聞こえない?おはよう!どうしたの?こんな所で」
「あ、赤星さん」
純佳の肩を叩いて、名前を読んでいたのは、クラスメイトの少女・出席番号一番・赤星ゆかり、だった。彼女は今年の四月から一色小学校の生徒になった転入生で、内向的で友達の少ない純佳にも優しく接してくれる心の優しい女の子だった。
「教室に入らないと、もうすぐチャイム鳴っちゃうよ」
「う、うん。分かってるよ」
「体の具合でも悪いの?」
ゆかりが、心配そうに純佳の顔を覗き込んできた。クラス、いや学校全体でも一、二を争うほど可愛いと評判を集めているゆかりの整った顔をずい、と近づけられて純佳はたじろぐ。
「・・・怖いの?教室に入るのが」
「えっ!いや、あの、それは、その、何と言うか」
クラスメイトにあっさりと心の内を見透かされた少女は、狼狽した。これでは、ゆかりの問いにイエスと答えているようなものである。
「大丈夫。教室には、あたし達がいるんだから。柴田さんは、一人じゃないんだよ」
「う、うん」
ゆかりの言葉にどうにか応えた純佳は、どうにか足を踏み出す事が出来たのだった。
そして、靴を履きかえ、階段を上り、廊下を歩く。ただそれだけの動作が、大変困難なものに感じられた。
これから待ち受けているものについて想いを馳せると、体が重くなってしまうのも無理はない。
「柴田さん、深呼吸して」
「う、うん」
ゆかりに促されるまま、純佳は息を深く吸って吐いた。ほんの少し、気持ちが落ち着いたと思う。
そして、五年四組の教室に入った。
既に、クラスメイトが十数人ほど来ており、教室の中はざわついていた。
ただ、他の教室に比べると明らかにテンションが低く、活気がない。どことなく、空気そのものが暗く淀んでいて、重く沈みこんでいるように見えた。
あいつのせいだ。
純佳は心の中で断定する。今年になって、あいつがこの学校に赴任して私達のクラスの担任になってからというもの、私達は子供らしい笑顔を奪われ続けてきたんだ。
「先生、もうすぐ来るね」
ゆかりがぽつりと呟いた。純佳も頷く。そう、「あいつ」は先生なのだ。
クラスの中を見回すと、多くの子供達が「先生」であり「あいつ」でもある「モノ」の悪口を並べ立てていた。
聞くに堪えない、罵詈雑言。
「柴田さんも、あの人の事、嫌い?」
唐突にゆかりから、核心を突いた質問を投げかけられて、純佳はたじろいだ。無論、好きではない。
ただ、嫌いというより、怖かった。おとなしくて真面目な少女である柴田純佳は、「あいつ」の事を心の底から恐れているのだった。
ゆえに、もつれる舌をどうにか動かしながら少女は答えを返す。
「嫌い、じゃない、けど。でも、ねえ」
「好きにはなれない、よね。やっぱり」
ゆかりは、肩を落としながら辛そうな表情で言った。どういうわけか、「あいつ」が五年四組の生徒達から嫌われて、憎まれて、恐れられて、疎まれて、恨まれている事に対して、ゆかりは心を痛めているらしかった。
ゆかりは心の優しい女の子だから、人が人を嫌うことを悲しんでいるのだろう、と純佳は思っている。
友達の少女を元気づけたい一心で、言った。
「赤星さんが落ち込む必要なんて無いよ。これは、仕方のないことなんだから。誰のせいでもない」
「うん・・・ありがとう、柴田さん」
ゆかりが笑顔を浮かべた時、始業ベルが鳴った。
始まる。
五年四組の教室中が、緊張した。今日もまた、苦難と苦痛に満ちた一日が始まる。
しばらくすると、足音が聞こえてきた。ハイヒールが、廊下を踏み鳴らす耳障りな音。
間違いない。「あいつ」だ。
足音が大きくなるにつれて、純佳を含む生徒達の表情が鬱々としたものになっていく。
そして。
教室のドアが無遠慮に大きく開いた。
次の瞬間、スーツ姿の大柄な女性が入ってきた。
生徒達の全身が硬直した。
「あいつ」が来た。
「あいつ」は、不機嫌そうな表情で大股で歩き教壇の前に立つと、家来を眺める女王のように、萎縮している生徒達を睥睨した。同時に、「あいつ」がかけている度の強い近視用メガネのレンズがきらりと光る。そして、聞く者に不快感を喚起させるほど冷たい声で一日の開始を告げた。
「皆さん、おはようございます。では、出席をとりましょう」

五年四組担任、真山徹子。二十九歳、独身。通称「暴力の鬼」。

彼女こそ、現在、学校中から忌避されている「モノ」であった。
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