伊藤愛の喧嘩

文字数 2,163文字

その姿は、伊藤愛を長い間苦しめ続けてきた、あの悪夢の幼女そのものだった。
愛は全身を硬直させた。声を出そうにも舌がもつれて言葉にならず、足はがくがくと震えていて、先程まで全身を満たしていた心地よい安心感は四散していた。とても立っていられずに、床に座り込んでしまう。
愛は、恐慌状態に陥った。

なんでだよ?
なんで、なんでなんで、こいつ、こいつらが、こんな所にいるんだよ?
こ、こいつらは、あたしを殺すのを、諦めたんじゃ、なかったのかよ?
あたし、は・・・あたしは、夢から覚めたんだろ?

ドラッグに蝕まれた脳味噌をフル回転させて、この信じがたい状況を打開するための方策を考え出そうと必死になったのだが、やはり良い答えは浮かばずにその代わりとして混乱と恐怖が彼女の心身を喰らいつくした。
白いワンピースの女の子が不思議そうな表情で、じっと自分を見つめている事に気がついた。お互いの視線がぶつかり合う。
その瞬間、全てが弾けた。
殺さなきゃ、殺される。
あいつらには、あたしを解放するつもりなんか、ハナっからなかったんだ。
あたしを油断させておいて、その隙を見て殺そうというハラだったんだ。
ざけんな!
ドラッグによってスカスカになった愛の脳は、狂った思い込みを「論理的思考によって導き出された正答」として認識する。

伊藤愛の不快感が臨界点に達した。そして、爆発する。

この時の彼女の表情は地獄で暴れる、「暴力の鬼」そのものだった。
白いワンピースの女の子は身体を震わせながら、怯えきった表情で愛を見つめている。
それは、相手の見せた隙なのだと思いこんだ。
女の子は、錯乱した女に背を向けて、この腐敗した家から逃げ出そうとした。
逃がさねえぞ!
伊藤愛は、獣のような叫び声をあげて悪夢の幼女に襲いかかる。
愛は、台所から脱出しようとする幼女の足首を掴んで、思いきり引っ張った。
幼女は転んでその拍子に、床に頭を打ち付けたようだった。すぐには起き上がれない。
愛は幼女の体に強烈な蹴りを入れた。幼女の体が2メートルほど吹き飛ぶ。
次の瞬間、愛は幼女の体の上に飛び乗って馬乗りになった。
間髪入れず、自分が優位に立っている事を確信すると、混乱と恐怖と苦痛で震えている幼女を滅茶苦茶に殴りつけた。何発も、何発も、何発も。
無抵抗の幼女を殴り続けながら、愛は叫んだ。
哀れなほど愚かな女は、涙と涎と鼻水をまき散らしながら、叫んだ。

「どうだ、ざまあみやがれ!ど、どうだ、このクズ、クソガキども!何度も、何度も何度も何度もあたしを、あたしを苦しめ、やがって、い、一体あたしが何したってんだよ!てめえらはもうっ、とっくのむ、昔に死んでんだ、死んだ奴が生きてる奴を、いつまでも縛りつけんじゃあ、ねえっ!てめえらさえ、てめえらさえ産まれてこなきゃ、あ、あたしはずっとずーっと幸せに暮らせたんだ、それなのにてめえらの、せいであたしの人生はも、もう取り返しがつかねえぐらい、に壊れちまったぁ!男にっ、捨てられて母親にも捨てられて、あたしはたった一人で今までずっと、のたうちまわってきたっ、のにそれでもまだ、まだ、まだ足りねえってのか?どこまで、あたしをいじめりゃあ、気、気が済むんだよ?あたしぃの命まで、奪おうってのか?あたしは生きてちゃいけねえのかよ?なんで、あたしばっか、こんな目に遭わなくちゃあいけねえんだ?あたしは何も悪くねえ、悪くねえんだよ!もう、こんなこんなの、うんざりなんだ!」

愛の絶叫の内、半分以上はぎゃあぎゃあと喚くだけで言葉になっていなかった。しかし、彼女自身は確かにそう叫んだつもりだった。
そして、最後の一言は心の中で。
ぶっころしてやる。
愛は、容赦無く徹底的にボコボコに痛めつけられた幼女の顔に向って唾を吐きかけた後、両手を伸ばして幼女の首をがっちりと掴み、渾身の力を込めて絞め始めた。
幼女は、動けない。
今度こそ、あたしの勝ちだ。

喧嘩に勝ったんだ!

「あたしには、あたしの人生があるんだよ!」

そう確信した、愛の顔が、豚のように醜く歪んだ。
 十数分後、小さな女の子は動かなくなってしまった。
 死んだのだ。
 やった、あたしは遂に幽霊に勝ったんだ!
「あたしは強い女だ!」
 伊藤愛は快哉を叫んだ。そして、一人で捲し立てる。
「あたしは!社会に甘やかされ過ぎた情けない男達のせいで!傷つけられて、苦しめられて人生を奪われた被害者だ!哀れな犠牲者なんだよ!でも勝った!戦い続けて勝ったんだ!あたしは、理不尽な不幸に負けずに、たくましく生きのびて勝ったんだ!あたしは偉い!あたしは、世界一強い女だ!この行動力こそがあたしという人間の最大の強さなんだ!だから、あたしは!」
 伊藤愛という女の独白は、冷たい声に遮られた。

「いいや、違う。お前が誇っている、それは、強さなんかじゃない」

 背後から聞こえてきた声は、続く。
「お前は、強い人なんかじゃない」
 そして、断定した。
「それどころか、お前はどうしようもないほど、弱く醜い人だ」

伊藤愛という女は、背後を振り返る。
そこには、変な服を着て変な杖を持っている小さな女の子と、一匹の猫と、大きめの鞄を携えている十歳くらいの女の子が立っていた。
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