サメの肆ーパラダイス

文字数 1,799文字

 どうもこんばんは。夏ですね、皆さん。息子も夏休みに入り、我が家は家族旅行の計画をしているのですが……

「お母さーん、今年は水族館行きたーい」

 息子がそう言って聞かないのです。ここ数年の旅行が陸側に偏っていたからそう言うのでしょうけど、私としては頑張って断る理由を探さなければなりません。

 これを聞いて、子供の願いを聞けない薄情な母と思う人もいるかもしれませんが、私は海洋恐怖症なのです。このことは夫にすら話せていません。
――結果息子のおねだりは、日増しに意固地となっていきました。それを見ていた夫も、それくらい連れて行ってあげたらいいじゃないかと言います。そして息子が眠ったこの時間に、問いただしてきました。

「君の方こそ意固地じゃないか。なんでそんなにたかしの頼みを断るんだ。もっと遠いところまで一緒に連れて行ったこともあるじゃないか」

 事情を知らない夫の目には、意固地になっているのは私に見えたそうです。冷静に考えれば無理のないことでした。私も断り方がきつくなっていた自覚はありました。

――それでも私には、水族館に行きたくない理由があるのです。これを機に、海洋恐怖症になった経緯を話そうと思います。皆さんも、夫と一緒に聞いてください。



 私は昔、水族館で清掃員として働いていました。ショーステージやホールなどの、お客様が入る場所を主に担当していて、時には夜遅くまで従事していたこともあります。

 その水族館は日本では珍しい、シャチを飼育しているところで、シャチのショーが目玉でした。大繁盛していたと思います。だからこそ私は、お客様に心地よく楽しんでもらえるように、一生懸命働いていました。

――あの、凄惨な事故を見るまでは。

 たしか、その日もまた、夜遅くまで掃除をしていた日でした。終業時間となり、掃除を終えた後、シャチのいるショーステージの方を通った時でした――見てしまったのです。血の海と化した水槽を。中にいたシャチが、みんなお腹を破られて死んでいたのです。

 ストレスが原因で殺し合ったのか、そう思いましたが、それなら一匹だけでも無事な子がいるはずです。怪奇現象という他、ありませんでした。
――ですがその景色の中で、一匹だけ無事に泳いでいる何かの影が見えたのです。生き残りがいたのかと、喜んで駆け寄った時、それは顔を近づけてきました。

――それはなんと、この水族館では一匹も飼育していないはずの、サメでした。私に気づくなりサメは、不気味な顔を見せてきました。図鑑で見たどのサメとも違った、恐ろしい顔だったことを覚えています。



――それからは、一心不乱に逃げて警備員の方を探したと思います。彼らを連れてきて、水槽に戻った時には、サメはいなくなっていました。それでも警備員の人達は、シャチの亡骸の惨さに怯えていました。

 サメはどこにいったのか。怯えながらも必死で探しましたが、それを見つけるより先にもっと不可解なものを見てしまいました。ステージの上に、女性が立っていたのです。ウェットスーツを着た彼女は静かに笑ってステージの後ろに去りました。全く見覚えのない人で、スタッフではないことは明白でした。

 まさかあのサメの正体は――そんなことを考えながら、警備員の方々の方を見ると、その中で一番ご年配の中平さんが、一番青ざめていました。何を言っているのか、正確に覚えていないのですが、女性の名前を言っていたと思います。



――それから私は、出勤ができなくなり、長期間の休職の後に退社することになりました。その時の最後の挨拶で中平さんに、あの日のことを聞いたのですが、あの女性は昔シャチの水槽に転落して事故死した人らしいです。

 中平さんはその時新人で、少なくともあの日一緒に彼女を見た警備員の中で当時のことを知る者はいなかったと言いました。

 きっと彼女が、シャチに対して無念を晴らすために化けて出てきたのだと、中平さんは言いました。それをなぜ、私に見せたのかは何もわかりません。あの日の後残ったのは傷ついた心と血塗られた水槽、そしてショーができなくなって落ちぶれ廃館となった水族館だけです。

――話が長くなりましたね。夫もようやく、私が水族館を避けている理由を納得してくれたみたいですし、今日はたっぷりお酒を飲んで寝ようと思います。

 今までこのことを思い出した時に、そうしなかった日は、必ずあの時の夢を見るのですから……
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