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 俺と翔子は三ヶ月間別れる前提での話し合いを繰り返す。別れる前提なのに一緒の家に暮らさないといけないというのはなかなかきついものがあって、翔子が途中でやっぱ別れたくないと言い出して、せっかく進めてきた離婚への段取りを何度も反故にするのはそれも一つ要素としてあるのかなと思ったりしたけど、それ以外の理由もありそうな話が翔子の口からちょくちょく聞こえてくる。
 橋崎努はフリーターと翔子は言っていたけど、翔子のほぼヒモみたいになっているようだった。しかし翔子は「だから」橋崎努と別れるとはならず働きに出始める。今思えばそれ以外にも俺と別れてからのことを考えていたのかもしれない。それについてもう俺は何もいうことはない。
 そして五月二十四日、離婚届に判を押して翔子は家を出て行く。
 ほとんど俺が金を出していたのでマンションには俺が残ることになり、翔子は橋崎の二〇平米の1K に転がり込むそうだ。それ以外の財産分与はほぼ折半。通常であれば、不倫をしていた翔子に慰謝料を請求できるし、翔子もこれから働きながら返して行くから請求してほしいと言ってきたが俺は拒否した。翔子には言わなくても、自分の不倫がなかったことにはならないしできない。
 離婚届に判を押した日、季節はずれの台風が接近していて、夜には熱低に変わるといっていたが朝から横殴りの豪雨だった。
「明日にすれば?」
「決めた事だから」
 翔子は赤い傘を持って玄関のドアを開ける。
「タクシー呼ぶ?」
「いいよ、大丈夫」
 ブーツを履き、玄関のドアを開けて外に出て翔子は振り返って俺を見る。
「ハッシーのところに殴り込んでいったり私を殴ったり、最後までしなかったね」
 それだけ言うと、翔子はドアを閉めた。
 ドアが閉まる音がこれほど重たく聞こえた日はなかった。ほっとするような、寂しいような、すっきりしたような、それをぽっかり空洞のように感じているような、まだよくわからない。
 最後は笑って別れようと思ったのか、翔子はそういう表情をしたように見えたけど、すごい不自然な笑顔だった。
 多分、俺も。
 でもまあこの三ヶ月間ケンカもしたし、ケンカすらするのが嫌でほとんど口を聞かない時期もあったけど、最後はこの状況にしちゃわりと穏やかな別れになった?
 俺と翔子が別れるの別れないの話し合いをしていた三ヶ月間、統真のお母さんは死にそうになったり生き返ったりを繰り返す。そして翔子が家を出て行った十日後、この世を去った。
 昼は少し汗ばむくらいの陽気だったけど、日が沈むとまだ肌寒さを感じる中、俺は通夜に向かう。
 焼香を済ませて外に出て空を見上げると分厚い雲に空は覆われていて、統真のお母さんが危篤状態になって枕元で統真と話をしたあの日の星空が思い出される。
 いや……あのとき俺は空を見ていない。統真が星が綺麗というのを聞いただけだ。
 通夜が行われているのは統真のお母さんが住んでいた団地の集会場でかなりこじんまりしているが、これくらいがちょうどよくていいと思った。何がちょうどいいって、よくわからないけどとにかくそう思った。別にこの程度の規模の人間てことじゃない、良い加減だと思ったのだ。
「弓削君!」
 帰ろうと集会場を出たところで統真の声がして振り返る。
「抜けてきていいのかよ」
「今ちょうど一段落したところだから。わざわざありがとね、しゃべったこともないのに」
「お母さんとは一夜を過ごした仲だからな」
「そうだね」
「お互い、色々あったなあ」
「ほんと」
 俺たちは俺たちのごたごたが起こっている間、一度も会っていなかったしほとんど連絡も取っていなかった。翔子と離婚した時に、そのことだけはメールで伝えたけど。
「一人身はどう?」
「満喫中」
「弓削君すぐまた彼女作って結婚したりとかあり得そう」
「あのね、俺でもけっこうへこんでたりするのよ」
 もう会えないと海ちゃんから連絡が来てから、本当に一度も会っていないし連絡もとっていない。
「ごめん。さすがの弓削君でもそうなるか」
 しかし俺は翔子と別れてまだ間もないのにすでに彼女を作っている。離婚までの諸々に心底疲れて、離婚してからしばらくして息抜きで初めて行った一人カラオケ、そこでバイトしていたのが五歳年下の今の彼女だ。というと全然懲りてないみたいな感じだけど、丁寧にちゃんと付き合いたいという気持ちがある。
 丁寧? 恋愛における丁寧ってなんだろう? 
 仲良くなる→告白→付き合う→セックスという段階を踏むことが丁寧かというと、もちろんそんなことはない。
 丁寧とか誠実などという言葉で修飾された恋愛というものはすごくつまらないし、眠いのだ。俺の中で恋愛というのは、もっと熱かったり激しかったり儚かったり暴力的だったり刺激的なものだ。人生におけるレッドブル的パワーと効果を持ったもので、丁寧という言葉ともっとも遠い存在にあるもの。
 でも過激で刺激的なことばかりだけじゃいけなくて、やっぱりそこに誠実さや丁寧さは必要で、それらは同居できる。
 恋愛っていうのは生卵をきれいに割るみたいなもんで、勢いとやさしさが重要なのかもしれないということを翔子と海ちゃんから俺は学ぶ。
 いやいや待てよともう一人の自分の声が聞こえてくる頃には、はっきりと俺の中に俺への疑問が浮かび上がってくる。俺は今まで恋愛なんかしてない、セックスしたかっただけじゃないのか? と。
 そんなことはない。それははっきりと否定できて、そんなもんだけで結婚なんてしないし、海ちゃんにだって好きだという気持ちはあった。
 なんで俺がこんなことをつらつらと考えているかというと、離婚を期にこれから一つ一つ、自分の行動や考えにいちいち自問自答していこうと決めたからだ。そうじゃないと俺は恋愛において、人の道を踏み外しかねないし、今までそうだったようにまた誰かを傷つける。
 そんなことはもうしたくないし、またそうしてしまいかねない自分が怖い。
 離婚をきっかけに俺は今後相手のことを思いやる恋愛できないんじゃないかという不安が芽生えたのだ。
「あ、そうだ。弓削君には一応知らせておかないといけないことがありまして……」
 と改まった風に言う統真の顔は、疲れからか頬がこけて鼻の下に少し無精髭が生えていてちょっとかっこいい。
「なんだよ」
「また魚道の勉強始めるんだ、今度は本格的にね」
「まじか!!」
「大学にも行くことに決めた。ちゃんと水利学とか学んで出来れば院とかにも行きたい」
「つーことは研究者の道か?」
「目標ね」
「大事大事、そういうのちゃんと言葉にすべきだよ」
「色々回り道しちゃったけど、ようやく見えてきたかなあ」
「また長野行くの?」
「いや、こっちで」
「今だから言うけど、ぶっちゃけ長野行ってどうなのとは俺思ったよ」
「それは今振り返ると僕も思わないでもない」統真は笑う。「きっとあんなに何かにやりたいって思ったこと初めてだったからその気持ちを大事にしたいと思うあまりの行動だったのかな。ここで踏み出さなきゃ絶対できないっていう気持ち? でも今回はちゃんと地に足がついて冷静になった上でそれでもやっぱりやりたいって思ってるから」
「落ち着いた感じでいいじゃん」
「うん。今回……そういう意味では母さんがこういう形になって正直ホッとしたよね」
 俺はなんて言っていいかわからないから、なんて言っていいかわからない顔をする。
「これ、誤解してほしくないんだけど……」という統真の言葉に若干緊張が走る。「今まで一人で僕を育ててくれたことはすごい感謝してる。でもなんというか、トゲがあるみたいな言い方しかできないんだけど、あの時あのタイミングでなんで病気になっちゃうわけ? っていう、そういう気持ちがずっとあって……」
 俺はお母さんと統真と三人で話をした日のことを思い出している。すぐに良くなるって言った俺に対して、「お母さんとは別れる」と言った統真を。
 覚悟だけではなかったのかもしれない。
 俺は統真の肩を叩く。
「絶対成功するよ」 
「ありがとう」
 その時俺は、翔子と別れる最後の日に言われたことを突然思い出し、その真意に気がつく。

「ハッシーのところに殴り込んだり私を殴ったり、最後までしなかったね」

 俺は、真摯に対応してくれたという意味で受け取ったんだが、もしかしてこれ、嫌みだったのか? そういうことをしてくれたら私はまだ離れなかったかも、という意味。
 今日の俺は冴えてる。いや、今までの俺がおめでたかっただけだ。


 めでたい曲であったはずの『BOOM!』が、翔子と離婚したことで聴けなくなってしまって悲しい。聞けば涙が出てくるのは今も変わらないが、涙の種類がまったく別物になってしまったのだ。こんなことなら入場曲も翔子に任せれていればよかったと思うときもあるほどで、思っている以上に離婚で傷ついているってことかもしれない。
 でも曲には罪はなくて、好きな歌なことには変わりない。
 俺は離婚してから、結婚式で撮ってもらった DVD を引っ張り出して見るようになってしまっている。DVD を見ながら酒を飲んで涙を流す。駄目すぎる。仕事の時以外は外出することも減り、平日でも休日でも酒瓶が転がる酒くさい部屋で結婚式の映像を俺は見る。そんな生活を続けていたらどうやら俺はアル中になってしまったらしく、アルコールをかたときも離せなくなってしまう。
 様々なものが一人分減った部屋の空間に飛び込んできたのは仕事でも新しい女の子でもなく、酒だったのだ。
 玄関のドアを開けるとアルコールの匂いが漂ってくる家に俺は帰り、自分自身もアルコールの匂いを纏い、けれど俺の鼻はもうアルコールのそれに慣れてしまって何も感じない。そしてカラ館のバイトを辞めてネイルサロンに就職したことを期に彼女にもフラれてしまう。
 アルコールは加速する。
 酒が抜けない頭で深夜バラエティ番組をぼんやり見ていると、そこに知った顔が出ているのを俺は見つける。
 磯目圭吾だった。
 いつの間にかテレビに出れるくらいに『踵』が売れたのか? 磯目は元バンドマンという肩書きで芸人として出ていて、バンド時代のモテエピソードを披露していた。芸人……? どうも今はピン芸人をやっているらしい。音楽辞めたのかよ……。
 磯目よ、それはやりたいことなのか?
 やりたいことであるバンドで売れなくて、芸人として深夜とはいえテレビに出られるっていうのは嬉しいことなのか? バンド時代の過去の曲 BGM におもしろエピソードを話すのは楽しいか?
 俺にとやかく言う権利はない。
 ヒゲを剃らなかったり、ボサボサの髪にくたくたのYシャツ、遅刻もよくするようになって、はじめこそ離婚のショックだからと同情的だった会社の人たちにも次第に愛想を尽かされる。上司にはいい加減生活態度を改めろと言われるのだが、やめないしやめられない。俺の生活は改善するどころかアルコールの量も度数も増していく。
 ある日、俺はどうしても我慢できなくなって会社のトイレの個室で家から持ってきていたウイスキーを飲んでしまう。匂いに気づいた上司にバレて、俺はその上司を上役連中のご機嫌取りの犬呼ばわりし、机に上がり一暴れし椅子に降りた拍子にキャスターが動きバランスを崩して背中から落ちる。後頭部を打って気を失い医務室に運ばれ目を覚ました三〇分後にはクビが決定している。
 そんな泥な俺とは対照的に、たまに来るメールから推測する限り統真は順調に勉強に励んでいて、今度ドイツに短期留学に行くらしい。
 俺はそれらのたまに来るメールにたまにしか返信しない。
 統真は着実に自分で自分の道を切り開いていて、俺は離婚して以来現実から逃避し続けている。
 人生を川に例えると、堰やダムがいくつもあってその中にはどうやっても超えられないものもある。でも一見超えられないものの中にも魚道的なものがある場合もあるのだ。
 人生は不平等であるけれど、同時に少しだけ平等なんだ。
 でも魚道的なるものを見つけるためには、ひたすら上に昇ってやろうとアクションを起こさなければいけなくて、俺みたくベッドに寝転んで酒臭い息を吐いてるだけじゃ発見することは出来ないし乗り越えることもできない。
 統真のお母さんの死や俺の離婚もそんな堰やダムだったのかもしれない。そしてそれを乗り越えられたかどうか結果が見え始めている。
 磯目圭吾だって乗り越えた末に深夜のバラエティのひな壇に座っているのかもしれない。
 今の俺は目の前の壁に立ち向かうことも正対することもせず、楽な方楽な方へと流され続けている。きっとずいぶん下流にまできてしまっていて、ここからだと元いた場所に戻るだけでも相当な意思と時間と力が必要だろう。 
 俺はまったく英語が出来ないが何度も何度も『BOOM!』を聞いているうちに、ある時突然「Show Must Go On」てところの歌詞だけがはっきりと浮かび上がって聞こえる日がくる。
 そのときの環境やタイミング、心情のせいで、歌詞や曲調に関係なく聴くとなぜだか辛くて悲しくなってしまうものもある。でも同時に強い音楽、強い歌っていうのもあって、それらは泥のようなところから俺を救い上げ背中を押してくれる力がある。音楽にはそういう力があると俺は信じている。
 今度、統真にこの CD を送ってやろうと俺は思う。
 でもそれは俺が再び上流を目指せるようになってからだし、俺はまだこの歌を自分のものにしていたくて、だからそれはもうちょっと先の話だ。(了)
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