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 三

 上信越道を長野方面に向かって車を走らせていると、碓井峠の手前辺りから朝日を浴びて光り輝く霧氷でまっ白になった山並みが現れる。カーブを曲がりながらその神々しい景色を見ていると、未来は明るいし人生は悪いことばかりじゃないかも、と一瞬本気で俺は思う。
 周りはスキーやスノボの板を積んだ車ばかりで交通量はかなり多め。追い越し車線をのろのろ運転している教習所からやり直したほういいと思える車や、上り坂なのにアクセルを踏みこまない自然渋滞因子の車を抜き去りながら、美しい山並みと jazztronic の心地よいサウンドで気分は悪くない。むしろ最高に近い。更埴ジャンクションの急カーブを曲がれば目的の豊田飯山ICはもうすぐだ。
 久々のドライブだったけどそれほど苦ではない。翔子も連れてきたかったが、深い話になりそうなので遠慮してもらった。
 豊田飯山ICを降りて少し走り飯山市の中心街の手前あたりで統真から教わったとおり一一七号線に入る分岐が現れる。しばらく走っていると、千曲川を挟んだ向こう岸に鉄道が走っているのが視界に入った。あれが飯山線か。長野方面からやってきた鉄道は二両編成でミニチュア模型みたいでかわいい。
 千曲川にかかる真っ赤な橋を渡り、少しの間飯山線と平行に走って待ち合わせ場所に到着。ローカル駅過ぎてわかりづらいぞ西大滝駅。
 小さな駅舎があるだけの駅の前に車を止める。時間は午前十時ジャスト。待ち合わせに一時間も早く着いてしまった。
 駅舎に入ってみようと車のドアを開けると、こんもり温い車内に冷気が入ってきてぶるっとくるけど気持ちいい。
 子供の頃、両親に山梨や長野あたりの山や川に連れていってもらったとき、「空気がうまいだろ?」なんて言われても当時はまったくわからなかったが今ならわかる。
 冬の朝ということもあるだろうが、深呼吸して肺に吸い込んだときの気持ち良さはもちろん、肌に触れている感じ、空気触りみたいなものが東京のそれとはまるで違う。角があって硬質なのだ。
 駅舎、というか……待合室だな。壁には路線図と防犯を促す長野県警のポスターが張ってある。その横にラッセル車が雪を蹴散らして走っている写真が壁に飾られている。かなりの豪雪地帯なことが伺えるのだが、今日は道路脇に随分前に降ったと思われる雪が残っているのと、日陰の部分にうっすら白くなる程度雪が積もっている程度だ。
「空白部分が多すぎるだろ……」
 時刻表を見て思わず声が漏れた。上りも下りも平日も休日も一日七、八本しかない。なんで統真はこんな秘境チックなところに引っ越したのかいよいよ自給自足感ハンパない。ロハス、スローライフという少し前雑誌に踊っていた単語を久々に思い出す。
 待合室を抜けて入り口と反対側の引き戸を開けると、そこはもう駅のホームだった。単線でホームも一つしかない。
 ホームの屋根からはパラパラパラパラ水滴が落ちていて、それが太陽に照らされてキラキラ光っている。屋根にうっすら積もった雪がにじりにじり解け始めていた。
 俺はホームからジャンプして線路に降りる。
 電車は来ないし、人はいない。
 人は線路を見ると歩いてみたくなるってのは、そろそろ三大欲求に追加してもいいじゃないか? なんか空がすっきりしているなあと思って気づくのは線路の上に架線がない。電気じゃない?
 しばらく線路を歩いたりホームでぼーっとしたりした後、車に戻る。
 起きてからコーヒーを飲んだだけで何も食べてなかったから朝飯を食いたいが、駅の周りには民家がぽつぽつとあるくらいでコンビニなんてものはなさそうだ。
 十時十五分。何もすることがないから、シートを倒してラジオを聞いて待つことにする。
 コンコンという窓を叩く音で目を覚ます。どうやら眠ってしまったらしい。窓の向こう側で俺を覗き込んでいる男がいる。
 だれ? と思うのと、統真? と認識するのはほぼ同時なのだけどそれに続くのは驚き。俺は外に出る。うぅ、さむっ。
「おはよう。もう着いてたんだ」
 時計を見ると十時五十五分。
「一時間前に着いちゃってた」
「そんなに早く? だったら連絡くれればよかったのに」
「飯食おうかなって思ったんだけど何もねーんだもん。まあ眠かったからいいけど。……ってなんだよそのヒゲ! しかも日焼けしてる!」
 色白頬こけ気味の病弱そうな顔がトレードマークの統真が、髭を生やしこんがり日焼けしててワイルド系だ。この変わりようは一瞬誰かわからなくて当然。
「随分前からだよ」
「お前が全然連絡よこさねーから知らねえんだよ」
「ま、とりあえず行こうか」
「家?」
「いや、ちょっと見せたいところがあって。あ、すぐそこだから車このままでいいよ」
 隣に止めてある統真の車が赤いエクストレイルだということに気がつく。
「車買ったんだ?」
「無いと生活できないからね」
「お前が四駆とか考えられんのだけど」
「最近降ってなかったから雪全然ないけど、普段この時期はすごいんだよ雪」
「それにしたってエクストレイルって。外見といい車といい前のイメージと全然違う」
 前を歩いていた統真は振り返って俺を見る。
「昔の僕は過去の僕なのだよ」
 うぜえ……。 
「で、見せたいものって何だよ」
「すぐそこだから」
 五分ほど歩くと千曲川に出る。
「すげえな、雄大すぎるぞ千曲川!」
 運転しているときもそう思ってはいたが、間近で見ると俄然迫力がある。岸いっぱいにまで広がり流れる水の量に圧倒されるし、水の色が深緑ということもあって恐怖すら感じる。
「あれですよ、あれ」
 統真が指差すのは、俺たちが立っている場所より少し下流にある千曲川を横断している巨大な構造物。
「ダム?」
「高さ十四・二メートルの重力式ダムの西大滝ダムでございます」
「あれがなんなの」
「あそこに僕が目指してる仕事があるんだよ」
「ダムに関係する仕事したいってこと?」
 間違いじゃないんだけど、と言って、ダムへと伸びる道を再び歩き出す統真。
「ここね、春は桜がすごい綺麗なんだって」
 川に沿って植えられている木はパッと見る限り桜だった。これだけあればたしかに圧巻だろうな。
「ダムの上歩いて向こうまで行けるようになってるから」  
 西大滝ダムは堤体の上を車も通ることが出来るようで、軽自動車でぎりぎりという幅だけど対岸まで道が続いている。
 俺たちはダムの左岸までやってくる。
「ダムっつっても高さがあんまないから、堰堤っぽいな」
「アーチ型とか重力式じゃないからね」
 俺たちは並んでダムの上を右岸に向かって歩いていく。
「なんかこのダム古くないか?」
 コンクリートが劣化してるのか、銃弾の跡のように陥没、剥離したところが素人目ながら目についた。
「たしか昭和十何年とか」
「戦前か」
 柵から身を乗り出して下流側の水面を覗く。一番右岸のゲート以外すべて閉まっていて、唯一開いているゲートからは激しく白波を立たせて勢いよく水が放流されている。一方、上流側はゲートに水が堰き止められているため下流側よりも水位が高く、流れも緩やかだ。深い緑色をした水がたゆたっていて水深が深そうなことと水量がたっぷりでやっぱり怖い。
「弓削君あれ知ってる?」
 対岸に渡りきる少し手前で川を覗き込んだ統真が指差したそれは、ダムの一番右岸よりに設置してある階段上の水路だった。
「魚道だろ」
「え、知ってるんだ。魚道知ってるとか弓削君はさすがだなー」
 魚道とは読んで字の如く魚の道。人工的に作られた堰やダムなどの川を横断する構造物のせいで、そこに住む生き物が川上川下への行き来が不可能になってしまうことを防ぐために作られるいわば迂回路みたいなものだ。というのは父親の受け売り。
「親父が渓流釣りする人で子供のころはよく連れてってもらったんだけど、竿垂らすポイント選ぶときに堰や砂防ダムに魚道がないとそれ以上魚が上流にいけなくなるから駄目だなんだよってよく文句言ってたの聞いてたんだわ」
「渓流釣りね、なるほど」
「で、これがなんなんだよ」
「魚道に関わる仕事がしたいんだよ。それが今の僕の夢」
 まっすぐ過ぎる言葉を口にして、魚道を見つめる統真の目はきらきらしているし、小石でもあったら川に投げて石切でもしかねないほどの青春シチュエーション。どうしちゃったんだよ、急に魚道なんてと思うけど、統真の中では「急」ではないのだろう。
「アフリカンカルチャーショックですか?」
 いきなり仕事辞めてこんなド田舎に引っ越した上、今まで興味も持っていなかったような魚道が夢だなんて語るのは、いよいよアフリカ旅でカルチャーショックを受けてネイチャー方面まっしぐらってことか。色々とアツい展開だ。
「何それ?」
「海外文化に当てられて現代社会は間違っているとばかりにエコでスローで self sufficiency なライフに突っ走る青臭い例のやつじゃないの?」
 普通そういうの二十代前半くらいまでで症例されるわけだけど、統真の場合これまで勉強一筋だったわけだから人より発症が遅れても不思議ではない。
「ああ、そういうことね。そう想像されるだろうなとは思ってたけど全然違う、この前の海外旅行は全く関係無し。それにしても皮肉たっぷりな言い方すぎるでしょ」 
「じゃあなんで急に魚道なんか」
「アフリカじゃなくて奥多摩なんだよ」
「奥多摩?」
 統真が話すそれは、たしかにこの前の海外旅行とはまったく関係ないところで起こっていた。
 アフリカから帰ってきた統真は、二日ほど残っていた休日の一日をレンタカーを借りて山梨のほったらかし温泉に日帰り旅行に行く。東京から山梨くらいで高速を使うと日帰りにしても時間的には余裕たっぷりなので行きは下道で行ってみようと考えた統真は、甲州街道で行ってもつまらないから奥多摩湖を見て柳沢峠を超える大菩薩ラインを通って山梨に入るルートを計画。
 しかし、奥多摩湖の直前で計画にはないことが起きる。
「白丸ダムが目に入ったんだよね」
 白丸ダムは首都圏の水瓶で有名な小河内ダムの下流十キロの場所にある小さな発電用のダム。規模、知名度ともに有名な小河内ダムの影に隠れてしまっていて……、というか小河内ダムが無くたって高さ三十メートルの小さなダムが注目を集めることもないだろうけどね、と統真は言う。
「僕、それまで魚道の存在すら知らなかったんだけどそこで白丸ダムの魚道見た瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けたんだよ!」 
「雷に打たれた、とか使い古されまくった慣用句をこの二十一世紀に実際に口にするやつがいることに、俺は今雷に打たれたような衝撃を受けてるぞ」
「茶化すなー。でもあそこの魚道見たことないでしょ?」
「ない」
「すごい規模なんだよ!」
 魚や水生生物が遡上や降下できなくなるのを配慮して魚道は作られる。魚道の種類はさまざまだけど、基本的にはその河川横断物を乗りこえられるように勾配のゆるいスロープや階段が設置されるのが一般的のようだ。けれど堤体が何十メートルにもなるダムになると、大きく迂回して作らないといけないわけで、必然工事費もかさむし工期も伸びるしでダムに魚道が設置されることは珍しいらしい。
「けどあそこには魚道がついてるんだよ、ダムなのに」
「それで規模もでかいのか」
 俺はもう一度川を覗きこむ。ゲートを超え下流で折り返されダム直下まで伸びてきている階段状の水路のような魚道。俺の記憶の中にあるいくつかのものよりここのものもかなり長く規模も大きいように思うが、これだって間違いなく魚道だろ?
「ダムなのにここにも魚道あるじゃん」
「ここはけっこうそういうことに対する意識が高いみたい」
「そういうのって?」
「昔はこの川サケがよく遡上していたみたいなんだけど、ダムが出来て以来あまり見られなくなってたらしいのね。それでもう一度サケを呼び戻そうっていうキャンペーンが起こって、それまでも魚道はあったんだけどもっと魚が遡上しやすいように改良されて出来たのがこれ。ほかにも河川維持放流っていって、下流にも水が行くように発電するための取水を制限したりとかけっこう色々やってんのよ」
「適当にスロープみたいの付ければ勝手に上っていきそうな気もするんだけどそういうもんでもないの?」
「魚道の形によって遡上する魚の数って全然違う」
「魚ってそんなデリケートなの?」
「だって魚道の幅って川幅の何分の一よ?」
 ゲートの脇にある魚道の幅は俺の身長の二倍以上余裕でありそうだ。それでも、川幅から考えたらそれはとても小さいし、果たして魚が川の一番端にある川幅に比べたら細すぎるといってもいいくらいの魚道に水の中から気づくことができるかと言われたら確かにそうだな。
「そこが魚道を設計する人の腕の見せ所で、僕はそれになりたいってわけ」
「魚道の設計士かー。まったく想像してないところにいくな!」
 統真は白丸ダムのそれを見て、ドーン! その瞬間、彼の人生が一大転換するほどの衝撃を受けた。
「それで、会社辞めたわけ?」
「そう。あれ……なんかくだらねえみたいに思ってる?」
「思うわけないだろ!ふとしたきっかけが人生思いもしなかった方向に転がるなんて面白いじゃん」
「自分でも不思議でしょうがないんだよね」
「こんな水路みてーなもんに人生動かさるとかわからないもんだな」
「遡上能力が高い魚もいるしそうじゃないのもいるし、雨なんかで水量が増減してもちゃんと機能するようにしないといけないし、こう見えていろんな技術が入ってるんだよ。魚道の入口に魚を誘導するのにも技術があったりしてね」
「かなり専門的なこと勉強しないと難しそう」
「そうだよ? 水利学は当然知っていないといけないし、生物の生態も知識として必要だよね。作るだけならゼネコンとか建設会社に入ればいいのかもしれないけど、僕がやりたいのは設計だから。低コストでメンテフリーでしかも魚にも優しいっていうのが理想だよね」
「大学院レベルの話だなそれ。ゼロから勉強しようってなると軽く十年コースじゃん」
「そのくらいは覚悟してる。今はまだ独学で勉強中だけど」
 その覚悟が出来てるなら何も言うことはない。じゃあ次の疑問。
「でもなんでここなの?」体を柵に預け、もう一度下を覗いてみる。ゲートからの放水される水量の力強さに吸い込まれそうになって足が竦む。「勉強するなら東京にいる方が便利じゃん」
「今までの人生振り返ると、ぼくは頭だけで考えて生きてきすぎた。お金に困らない生活をおくるには、計画を立ててリスクヘッジして生きていかないといけなかったからね。でも一度くらい将来のこと考えずに自分のしたいことに飛び込んでみるのもいいかなって思っちゃったんだよね」統真は柵に背中を預けて空を仰ぐ。「そういう意味じゃたしかに長野である必要は特にないんだけど、調べものしててたまたまここのダム知ったのと、もうちょっと行ったところに親戚が住んでて子供の頃よく行ったことがあって馴染みがあったってのが理由、かな」
「つまりほぼほぼ衝動的に選んだってことね」
「この前会ったとき弓削君言ってたじゃん。もうお金にはある程度困らないんだから遊んでみたらって。別にその発言に触発されたわけじゃないけど、もしかしたら影響されたのかもね」
「いや、それは統真が自分で決めたんだよ」
 誰でもない統真自身が決めたものだ。成功するも失敗するもその責任は自分にしかない。
「……かな。そうか、僕か」統真は言い聞かせるようにつぶやく。「でもやっぱ衝動的に動くと色々大変だよねー」
「まさかもう後悔してる?」
「それはないけど……う〜ん」
「なんだよ、吹っ切れてないの?」
「こっちに引っ越してきて良かったと思ってるよ。自然が多い中に暮らしてこそわかるみたいなことがあったし。そもそも引っ越したらどうなっちゃうかとか考えたら、仕事すら辞めれてないと思うし」
「そりゃそうだけど」
「退路を断って決意を固めたってのも、正直あるかな」 
 俺の言葉を遮って、統真は強く言う。
 衝動的に動いてまでやりたいことを初めて獲得したことに俺は素直に嬉しいし頑張ってほしいとも思うのだが、統真の話を聞いているうちに十代ならいざ知らず、そんなに悠長にやっている時間はないからこそ今まで通りそこはもっと戦略を持ってやるべきなんじゃないかって思いも出てくる。まあ、それを考えていたらこんな決断できないってわかってるから衝動的に動いたんだろうけど。
 でも、やっぱりまだ統真の言葉の端々に根本的な部分で、魚道の道に本当に進んでいいのか悩んでいる節が俺には見える。 
「ま、なるようになるだね!」
「死ぬ気で勉強していい魚道設計してくれよ」
 俺は俺が感じた不安を言わない。
「ありがとう」
「でも弱いものの側に立って考えれるってすげーな。俺なんて自分のことで精一杯で自然にまで気にかける余裕ねえよ」
「それって気にかけるかけないの問題じゃないでしょ」統真の声のトーンがちょっと変わるのおやっ? と思う。「気にかけなきゃいけないことだと思うよ。もちろんだからそれを仕事にしろってまではないし、別に特別なアクションを起こさなくても本当に気にかけるレベルでいいと思うんだけど」
「……」
「あ、別に弓削君も深い意味があって言ったわけではないのはわかるけど」
「別に俺は自然をないがしろにしていいとかそういうつもりはないよ」
「わかってる。ただちょっと、自分に余裕がないから他のこと考えられないってのは違う気がして。それに僕は、たまたまやりたいことが自然に関わることだったって話で、仕事ってなんだって世の中の役に立ってると思うし」
「新卒みたいなまっすぐなこと言うな」俺のいまの仕事はどうだろう? と考える。「誰かを幸せにしたり……うーん、そういうこともあるけどどうなんだろうなあ。俺の今のルーティーンの仕事にそれを感じられるかどうかは疑問だな」
 こういう俺の考え方は普段でもわりと根底に流れていて「弓削は斜に構えすぎているし、あまりに広告の力を信じていなさすぎる」と上司によく酒の席で説教される。それはそうなんだろうし、実際広告の力ってあるだろう。けれど、同時に広告なんて所詮広告と割り切ってしまっているところがある。もちろんビジネスという枠組みを越えて新しい価値観や幸せの形を提供しているものもあるのは俺も多く知っている。が、しかし俺は俺の前に並べられた自分の仕事をそれらと同じようには結びつけることができない。
 俺の仕事は所詮「媒体を埋める」みたいなところがある。その原因は俺にもはっきりとわかっている。
 そう思ってしまっているところにこそ、最大の原因があるのだ。
 九州新幹線の開業CMは、人々の涙を掠め取ろうと思って作られたものではない。
 どんなにしょぼそうな案件や少ない予算だって、それをどうにかするには自分の力なのだ。
 つまり俺は、広告の力以前に自分の力を信頼していない。
「仕事してれば利益を生み出すんだから。そうなると税金を納めることになるじゃん、納税ってかなりの社会貢献だと思うよ」それはたしかにそうで異論はない。「あと、僕は魚道を作って魚のために! とか自然環境のために! っていうより自分にも今までの人生すべて投げ捨ててしまってもいいと思えるくらいやりたいことが見つかったことの方が嬉しいんだよね。なんていうのかな、その高揚感の中にいるっていう感じかな。ようやく生きがいって思えるもの見つけられたっていうか」
 統真にまだ迷いがあると感じたのは俺の杞憂なのかもしれない。というかここまで環境変わればそりゃ覚悟してたって不安はあるはずだ。
 ダムを後にした俺たちは、俺のリクエストに応じて統真おすすめの信州蕎麦の店に連れていってくれた。蕎麦自体はまあまあだったが、天ぷらと蕎麦湯が美味しかった。
 昼飯を食べた後、築五年2DK家賃五万円、日当たり良好の統真のアパートに行く。
「風呂は追い炊き、トイレはシャワートイレ、駐車場付でこの家賃か」
「こっちはあまり駅近物件とかいう概念がないんだよね」
「駅で時刻表見たけど本数めちゃくちゃ少なくてびっくりしたもん」
 リビングのローテーブルの上には、難しそうな専門書や参考書がずんと積んであり存在感を放っている。ちゃんと勉強してる。
「それにしてもさあ」俺は専門書を一冊取ってパラパラめくる。「もうこっち来て半年以上だろ? 大学行くのか、とりあえず仕事就いて働きながら勉強するのかとかそろそろ決めた方がよくね?」
「自分で勉強しながらしっかり考えて決めようとか思ってたらあっという間に過ぎちゃって」
 俺はさっきの俺の疑問がまたぶり返す。
 やりたいことが見つかったと雄弁に語り、ほぼその初期衝動だけでここまできてしまったわりには、こっちにきてから動いてなさすぎるんじゃないか? ってことだ。「ようやく生きがいって思えるものみつけられたっていうか」と強く言うのは、そう言うことで自分自身を納得させるため?
「今収入は?」
「バイト。一応まだ貯金もあるから。あ、あのさ、悪いんだけどちょっと風呂入ってきていい?」
「え、今? 入ってないの?」
「昨日徹夜しちゃってさ」
「勉強で?」俺は机に積まれていた参考書に視線を落とす。「すげーな徹夜とか」
「テレビとか適当に見てていいしパソコン使いたかったからそれ蓋開ければ使えるから」
 統真が風呂に行き、俺は部屋の角に置かれたパソコンデスクの前に座る。
 ブラウザを開いて適当にニュースを見たりして時間を潰す。それらも見尽くしたところで、ふとブラウザの上の部分に目がいく。よく見るサイトだと思われるものがいくつかワンクリックで飛べるように登録されている。俺の目は一つのサイト名に釘付けになる。
 リクナビネクスト。
 転職? もう? だってこれから魚道の勉強……いや、会計士辞めるときに使ったのかもしれないし、今後魚道を仕事にできる会社選びに使っているのかもしれないのだから不思議ではない。
 しかしそれらを否定する考えが浮かんできてしまい拭い去ることができない。
 他人のブックマークを見るのは、他人のケータイの電話帳やメールをチェックするようでそういうことが基本的に大嫌いなのだが……。
 ほんとこれサイテーだよなと思いながらもリクナビネクストの文字をクリックしまう。
 最悪! ちゃんとログアウトしとけよ! ログインされっぱなしで全部見えてしまう。
 これまでエントリした会社一覧のページに飛ぶ。
 ……。
 立花会計事務所
 ひいらぎ会計事務所
 中野一二三税理士事務所
 雨宮宗吾税理士事務所
 会計事務所がずらりと並ぶ。その他一般企業もあるが、それらはどれも経理を募集しているところだ。
 いや、待て待て。これはこっちに来る前に使っただけのことで……と思いながら一番上にあったひいらぎ会計事務所にエントリした時間を見ると、今日の午前五時二十分……。
 俺は、今俺が思いついたことの否定に繋がってくれることを探す。そんなの簡単でさっき統真が言っていたとおり、バイト的に働く場所を探しているのだ。食うためには働かなくてはいけないのだから。 
 けれどそれが絶対に違うことは、これまたエントリした企業名をクリックすることでわかってしまう。
 新宿、御茶ノ水、赤坂、渋谷……エントリしてる事務所の場所がどれも東京だ。
 廊下の奥から聞こえていたシャワーの音が止まる。俺はブラウザを閉じてそっとノートパソコンの蓋を閉める。
 ふむ。
 結局この程度、と言っっちゃうのは簡単だけど、そういうことは言わないし今見た事ももちろん言わない。


 俺の車は百三十キロで長野から群馬の県境を駆け抜ける。八風山トンネルのSFめいた白い光の中で軽く全能感に浸りながら今日の出来事を思い返す。
 あいつが魚道の道へと進むことを白紙撤回しようとしていることはリクナビの件で明らかで、それまで語っていた夢は嘘だったのかよ死ね! と思うほど俺はイラついたわけだけど、でもその軌道修正も別に間違った事じゃないなと今は思う。
 人生に一度くらい後先考えず赴くままに突っ走ることがあってもいいし、特にあいつの場合そういうことが今までなかったのだから、例えそれが成就しなくたってよかったのだ。その道が難しそうなことに気がついて、今再び軌道を修正してようとしていることに関して俺は怒る権利はないし、批判するのも違う。「この程度」なんていって斬って捨てるなんて勘違いもはなはだしい。間違ったと気がついたのなら、考えを改めるのは早ければ早いだけいいのは当たり前で、そういう意味で今あいつがとっている行動は正しい。
 正しい。
 正しいのだけれど、もうちょっと頑張ってみろよとも思うのは、夢を追っかけているのは格好いいし、特にそれがこの歳で挑戦すると聞いて少なからず感動したし、その決心に俺には真似出来ないものを感じて応援したくなったからだ。そして腹が立ったのはそういう気持ちを裏切られたように感じたからだ。でもそこに裏切るも裏切られるもない。俺はあいつに何もしていないのだから。
 いや、ちょっと待て。俺はそういうやつが嫌いなんじゃなかったのか? 三十手前にもなって、夢を追いかけている『踵』のボーカル、磯目圭吾のことを俺は馬鹿にしていたんじゃなかったか?
 ああ……これ、もしかして、馬鹿にしていたんじゃなくて、羨ましくて嫉妬していただけなのかもしれない。 
 趣味がなくこれといってやりたいことがなく生きてきたという意味では、程度の差はあれ俺も統真と同じなのだ。
 将来どうなるかもわからずに夢に飛び込むなんてことができない俺には、そういうことをしているやつが羨ましいし早く大人になれと思うしかっこよく見えるし憎いし憧れがあるというアンビバレントな気持ちがそこにある。
 統真のことを応援したくなり、圭吾のことを馬鹿にしていたかもしれない、その違いは統真が統真だからであり、圭吾が圭吾だからだ。深い理由はなく、強いて言うなら人が違うからだ。
 藤岡JCTで関越に合流して三車線になって俺はアクセルを踏み込みさらに飛ばす。東北新幹線の高架をアンダーパスするとき、闇の中、光の帯としてやってきた上りの新幹線とちょうどクロスする。
 他人の人生だから俺は諦めずにもうちょっと頑張ってほしいと言えるわけで、そんなこと思っておいてあいつがその道に進んでマジで袋小路に迷い込んだとき、俺は手を差し伸べてあげられるのか? その時俺に出来る事はきっと金を貸すくらいだがそれだって限度があるし、あいつのためにずーっと何かしてあげられるわけじゃない。そういう立場の俺が自分の気持ちが裏切られたみたいなことで反射的に批判するのは違う。もっとコミットしてやるならともかく、今の俺にそんな気はないわけだし。
 練馬ICに近づくにつれて徐々に上がっていくインパネの外気温を示す温度計がこのドライブの終わりを感じさせた。


 家に帰ると翔子は寝ていて、横に潜り込んで寝ようとするけれどなかなか寝付けない。
「お帰りー、どうだった?」
 まだ起きていたみたいで俺に背中を向けたまま、翔子は眠そうな声を上げた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「楽しかった?」
「なかなか刺激的だったわ」
「そう……よかったね」
「この歳から新しいこと始めるのは大変だなって」
 統真のことは大体説明してある。
「やりたいことって楽しいことだけど、そればっかりじゃないからね」
「趣味レベルなら楽しいだけで終われるんだけどな」
「趣味レベルでもだよ?」翔子はぐるっと反転して俺の方を向く。「物事の本質的な楽しさを知るためには、知るための努力とか労力は必要だもん」
「趣味だよ趣味。遊びだぜ?」
「野菜のこととかもさ、習ってるだけでも楽しいんだけど、そこから自分で調べたりもっと詳しくなって知識を得た方が楽しさのバリエーションが広がるんだよ」楽しさのバリエーション、か。「物事にはさ、その物事の深さが見える入口みたいなところがあって、そこに立つとそれまでと全然景色が違って見えるんだよね」
「深いな」
 その感覚はなんとなくわかる、気がする。
「でもその入口に立つためには、ある程度それに触れている最低限の時間ていうのものが必要だったりすると思うんだよね」
 中学の時は陸上でインターハイ、高校はテニスで都大会、大学の時はワインが好きすぎて個人輸入しちゃったらしいし、今はベジフルビューティーにはまっている趣味人の翔子が言うんだから間違っていないだろう。一方、俺には今まで翔子ほどハマったと言えるような趣味もなく、今翔子が言ったような「物事の深さが見える入口」に立ったことがないけれど、これは何にでも当てはまる話だと感覚的に理解できる。
「ある程度のところから先に行こうとするとその趣味の広がりというか深さ? がなんとなくわかるから、何か犠牲にしていかないと進めなかったりするけど」
「翔子はずっとやりたいことやってるよな」
「そうだね。でも今までそれが出来たのは親のおかげだし、今は悠介のおかげ。生きるのに精一杯じゃ趣味なんてできないもん。やっぱりお金って大事だよね」
 お金が大事ってことには同意するけど、生きるのに精一杯だと趣味はできないのだろうか。金がなくても、あるいは生活を犠牲にしてまでやりたいことやってるやつはいっぱいいる。金がないと出来ないならその程度のことだってことの裏返しなんじゃないか。
「趣味とか自分のしたいことが出来ないほど困窮してたら、生きてるの嫌になっちゃうよ絶対」
「うーん。それはどうなんだろうなあ」
「どうって?」
「金なんか度外視でやりたいことがあれば、それが生きる糧になるって場合もあんじゃね?」
「あー私、生き甲斐みたいな話信じてないかも」
「それさえあれば、どんなに辛い状況でも生きていけるみたいな話ってことを?」
「それってそういう状況をポジティブに解釈してるだけなんじゃないの? もし生きるのが大変なほどお金なかったら、やりたいことうんぬんよりもっとやるべきことがあるじゃん。でもそれをしたくないからの言い訳とか正当化してるだけだと思う」
「その人にとってはお金より大事なことってあるだろ」
 翔子のお金への執着具合を目の当たりにするとたまに不安になることがある。金の切れ目が縁の切れ目ってことで、今の生活レベルを維持できる収入が稼げなくなったら俺も切り捨てられるんじゃないか、と。
「食べていくのも大変て状況でのお金より大事って、ほぼイコール生きる事より大事ってことだよね? おかしくないそんなの」
「別におかしく——」
「それで死んでもいいって言うわけ? そんなの馬鹿じゃん。めちゃくちゃかっこ悪いよ。なんかさ、自分のしたいことしてそれでお金なくなって野たれ死んでもいいみたいなポリシー? アーティスト思考? 武士は食わねど高楊枝スピリッツ? そういうの賞賛したりすんの止めた方がいいと思うんだよね、世の中的にも。むしろ生きるために、家族のために自分のしたいことではないけれど仕事してる人の方が断然かっこいい」
 俺の勘違いだ。お金こそ至上! って話だと思っていたけどそうじゃない。むしろ逆の話だった。
 やりたいことがあるとか、自分にはもっと向いている仕事があるとか、特に若いうちはそういうことを思い込んでしまいがちだけど、仕事っていうのはやりたいことや生き甲斐とはまったく別のものだ。自分の時間を切り売りして対価を得ているのに、そこにやりたいやりたくないは関係ない。そもそも仕事にやりがいなんかを最初から過剰に期待するのは間違っている。
「それに私思うんだけどさ、やりたいことを持っている人って世間が言うほど幸せじゃないと思う」
「好きなことを金にするのは簡単じゃないからな」
「それもそうだし、叶わない夢を追ってさ、気がついたときには時間だけが過ぎていたってことにもなりかねないし。それってやりたいことに縛られて、生活とか恋愛とか壊しちゃってるかもしれないじゃん」
 成功しないかもしれない夢を追うことは不幸になる可能性を秘めている。続ければ続けるほどサンクコストが大きくなりすぎてやめられなくなっちゃうって話だ。
「やっぱり自分のしたいことで食べていくみたいのが絶賛されすぎなんだよ。それと……統真君みたいな人、私あまり信じてない」
「みたいな人って?」
「やりたいこと見つかったから、今やってること全て捨ててそっちの道に行く人。そういう人が言うやりたいことって、今やっていることの辞めたい言い訳に使っている気がしてならないもん」
 はあん。俺が感じた統真の煮え切らなさを翔子のこの言葉は完全に説明してくれている。
「中二で陸上のインターハイ出れたけど、中三で辞めたって話したっけ?」
「燃え尽き症候群で辞めちゃったって話ね」
「その話もうちょっと複雑なんだよね、実は」
 翔子は俺に背中を向け、俺の手首を握り後ろから抱きしめる格好を取るように誘導してくる。
「陸上辞めるのと前後して英語の塾通い始めたんだけど、そのときの私の心境は陸上はある程度やり尽くしたし英語も勉強したい、でも両立はどう考えても無理だから、もう陸上はいいやって辞めてるわけ。インターハイ出ちゃったことで陸上のモチベーションが無くなってたころでタイミングよく英語が入ってきたのね」
「うん」
「そのときは本気でそう思ってるの。陸上はもうやり尽くした、それ以上に英語の勉強がしたいって。でも後々振り返ると、英語なんか本当はやりたくなかったのかもって」
 密着してる翔子の体はいつも俺より0・五度くらい暖かい。
「インターハイで負けたことがむちゃくちゃ悔しかったんだよね。そこそこ才能あると思ってたから初めての挫折だったかも。でもやっぱり、そういうの認めたくないし素直に認められないじゃん? 才能がない自分と、苦しいところから逃げようとしてる自分なんて二つも同時に無理。だから本当の気持ちを偽るために英語を持ち出したのかなって。実際、塾通うことになっても全然続かなかった」
「だから辞めたい事の言い訳にやりたいこと、か」
「英語だってまったくやりたくなかったわけじゃないよ? ただ陸上を辞めるための口実に盛ってる可能性はあったよね。少なくともあのタイミングじゃないと私英語なんて習ってない」
「そういう自分の気持ち、辞めてからどのくらいで気がついたの?」
「……う〜ん」翔子はため息まじりの声を漏らす。「悠介はまだこの私の気持ちの微妙具合、まだわかってないなあ」
「え?」
「いつって言われたら、陸上辞めるって思った瞬間に気づいてたよ。でも当時は気がつかないふりしてたし、思い返したらの話だからよくわかんない。だってわからないように心の裏側に隠してたことだから」
「でもそこに何かあることはわかるんだ」
「それはね。そこに見たくないものがあるってわかってるから、わざわざ自分からは見にいかないし、でも見なくたって消えるわけじゃないから。たまにふと意識の上に上がってきちゃってやっぱ私駄目人間だ〜とか思って落ち込むけど、慌ててすぐ裏に隠してなかったことにして」
「そういうことなら一応分かる。大なり小なり誰にでも心当たりある話だろ」
「うん、ごめん。わかってないとか言って」
「……」
「こういうのってさ、ちゃんと自覚して、あ、自覚はしてんだけど、認めてちゃんと言えるようになった方がいいのかな」
「言葉にして口にするってこと?」
「中学時代の友達にたまに会うじゃん? そんときに『翔子が陸上いきなり辞めて焦ったよー』って思い出話になるとき英語やりたくてって辞めたことにしてるの、未だに。ちゃんと向き合った方がいいのかなって」
 でもそれは向き合えている向き合えていないという話ではなく、プライドや体裁の問題だろう。
「自覚してるならいいんじゃない?」
 大人になるってことの定義はいくつか考えられるけど、その一つに自分の弱いところを認められるっていうのはあるかもな。
 もしかして統真も翔子と同じタイプで、元々魚道なんて設計したいわけじゃなくて、仕事を辞めたくてそこから逃げるための口実だったのか?  
 そう考えるとリクナビの件とか、魚道に携わりたいと思って何ヶ月も経っているのに引っ越した以外未だに具体的に動いていないことが腑に落ちる……。
 世の中には他人から見たら絶対に不可能だと思う事に挑戦する人たちがいる。そして不可能に挑戦して成し遂げられなかった人と不可能を可能にしてしまう人の差は、自分は絶対に出来ると嘘でも思い込んでその気持ちを本当にしてしまう力なんじゃないだろうか。自分の中の信念に基づいて突き進み成功した姿を思い描きモチベーションを保ち続けることこそが、実は夢を叶えるために一番必要なものだったりするのかもしれない。夢を追いかけるのが辛くなって諦めてしまうのは、いつになったら報われるのか分からず、結果が出るまで確実に自分の人生の時間が消えていくからだ。
 や、やっぱこれ違うな。
 人間はそんな思い込みだけで自分のやりたいことを追いかけ続けて達成するのは難しい。計画と努力と成長速度と達成度を複合的に考えて進むか退くかを考えるのだ。自分で思っていたよりも成長速度や達成度が高いうちは諦める人は少ないだろうし、努力のわりに満足いく結果が出なければ計画を変えてチャレンジする。そういうことを何度も繰り返してそれでも駄目だとなったとき、そこからは思い込みの力だ。
 自分には出来ると思い込む力。
「でも色々あるけど、私は今やりたいことあるから別にいいかなって気もする」
「それでいいと思うよ。そんな今更悩むことでもないでしょ」
「特別悩んでるわけじゃないんだけどね。食べ物のこと考えるの本当に好きだし、私わりと本気で野菜ソムリエで成功出来ると思ってるから」
「翔子なら出来るよ。応援してる」
 言った後で統真にも同じこと言ってることに気づいて、俺は本当にそう思っているわけじゃなくて条件反射でただ口に出してるだけじゃないかって自分の言葉に自信がなくなる。決して気持ちに嘘はないはずなのに。
 野菜ソムリエで成功することがどのくらいの困難さなのか俺は知らない。セレブな芸能人なんかが資格を取り、どこかのレストランのアドバイザーになってたりするから簡単そうに見えるけど、あれは知名度を活かしてのことだろう。でも俺は本気で翔子なら出来ると信じている。
 出来る奴は何やっても食っていけるってなことを俺は思っていて、学生時代から要領良い奴は社会人になっても要領いい。学ぶことや体得したことを自分の力にする技術が長けているからだ。あるいは手の抜きどころを知っているというか。カロリーを使うべきところとサボるべきところが見極められるのだ。勉強するってことにも得手不得手ってのはあるし、なにかに失敗してもそこから何を得るかもうまい下手がある。
 その点、統真は要領があまり良くないかもしれない。
 俺はそういうことをあいつに言ってやるべきなのだろうか。リクナビを見て何も言わずに帰ってきたけど、どういうつもりなのか聞いた方がよかったのだろうか。それとも統真の方から俺に伝えてくるのを待つべきなのだろうか。
 もしそういうことがあったとして、その時統真は俺になんて言ってくるのだろう。自分には無理だったと潔く諦めを口にするのか。でもこれはダウトな答えで、本当のところは翔子と同様、魚道に携わりたかったのではなくて、それを口実に会計士の仕事を辞めたいと思っているはずなのだ。
 ん? 
 ちょっと待てよ……。
 おかしい、話が合わないじゃないか。
 会計士が嫌になって辞めて魚道の道に進むということだったのだとしたら、なんであいつまた会計士に再就職しようとしてるんだ? 
 会計士を離れたことによって、改めて自分は会計士の仕事が好きだと実感したのか? それとも手っ取り早い仕事先としてとりあえず会計事務所で働く事を選んだのか?
 まあいいわ、これ以上他人のことを考えるのは疲れた。
 寝る。
 俺のこの疑問が片付くのは、それから一週間後のことだった。
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