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 一
 
 そうなってしまう予感はうっすらしていたけど、披露宴会場の扉の前で Maia Hirasawa の『Boom!』のイントロが中から聞こえてくるだけで俺は泣いてしまう。潤んだりちょちょちょっと頬を伝うかわいいレベルではなく号泣。ホテルの人が扉を開けて中へと誘導してくれる時、俺の顔を見て一瞬ギョッとしちゃったくらい泣く。
 当然二次会では友人にそのことをがっつりイジられるし、翔子にいたっては「最初楽しく盛り上がって終盤になるにつれてしんみり、からの私の『両親への手紙』っていう緩急があるからこその感動でしょ? 出オチすぎて逆に感動するんだけど」と容赦ない。さらに「結婚式での男の涙ほど無駄なものはない」と続けられて俺の心は完全に折れる。
「でも考えようによってはそんだけ感動したってことでさ、悠介は翔子ちゃんとの結婚が嬉しくてしょうがないってことだよ。な?」
 (かかと)ってバンドをやっている大学時代からの友人、磯目圭吾が俺を見る。
「さすが二十八歳でフリーターやってる人は言うことが違うな」
「せっかくフォローしてやってんのにそういう言い方ねえだろ」と圭吾は声を荒げる。「誰がフリーターじゃい! ミュージシャンだって!」
「プロバイダーのプロバイターでしょ?」
「プロバイタ……? プロバイダ?」
 翔子の隣にいた彼女の学生時代の友人かなんかで出席してくれた女の子が話に入ってくる。
「インターネットプロバイダーでバイトしてんのか彼。で、あまりにバイト入りすぎて、バイトのレベルを超えてるってことでバイト仲間からそういう称号を得てるっていうね」
「へーすごいですね!」
「それはどっちの意味でですか? 音楽やってるからなのか、プロバイターって呼ばれてる事なのか……」
「バイトに決まってんだろ」
「どっちもです!」
 女の子の屈託無い言葉に俺の言葉はかき消される。
「全然嬉しくないな……」
「つか、なんで俺の話になってんだよ。悠介が披露宴始まる前から泣いたって話だろ!」
「たしかに扉開いた瞬間に泣き崩れてる悠介さんには正直驚きました!」
「泣き崩れてまではいってないから!」
「どんだけ自分の結婚式に感動してんだよって感じだよね」
「翔子さんの目、結婚式直後とは思えないくらい冷たい!」
 女の子がそういうけど、俺は怖くて目を合わせられない。
「いや、あれは……演出だから演出! 披露宴盛り上げるための!」
「でも、でもでも私も磯目さんと同じ感想持って、翔子さん愛されてるんだーと思ったらなんか凄く感動しましたよあれ」
「まあ、それなら結果オーライだけど」
 翔子はしぶしぶといった感じで納得してくれる。
 俺が式の決め事で唯一、自分の意見を通してもらったのが披露宴の入場曲選びで、だからここで俺が感動するのは当然ではあるのだ。
 Maia Hirasawaの『Boom!』を知ったのは、九州新幹線開通のCMだった。当時俺はこのCMが好きで好きで好きすぎてたまらなく大好きで、あのCMを見てる時、見終わった後に全身に広がる多幸感といったら! 仕事が休みの日、You TubeでそのCMをヘビーリピート、やっぱ一八〇秒バージョンは見ごたえあるわと、昼から酒を飲みながら脳内麻薬ドバァ~、なぜかわからないけど出てくる涙を垂れ流しまくったせいで、この曲聴くだけで俺の涙腺はパブロフなのだ。あのCMが流れてから何年も経っているが、俺は未だに聴くだけで感動できる、涙を流すことが出来る。
 つまり、これから始まる披露宴に感動していたというよりは、この曲自体に涙していたのだ。
 けれどまあ、普段冷たいとか何考えてるかわからないみたいなパブリックイメージを持たれることが多い俺がいきなり涙ダラダラだったもんだから、翔子以外のみんなからはギャップ萌えみたいで概ね好評だったようだし、詳細を言ってみんなを白けさせるような無粋なことはしない。それぞれがそう思いたいように感動したり楽しんでくれればいいのだ結婚式なんて。
 披露宴は俺たちが主役だが、二次会はここに来てくれた人たちに楽しんでもらいたいという思いから幹事やってくれた人たちにはけっこう無理言ってビンゴ大会の商品は俺たちも自腹切るからと良い物を集めてもらったり手間をかけさせてしまったけど、一等の商品、ディズニーランド宿泊ペアチケットが発表になったときみんなすごい盛り上がってくれたし、それが翔子の友達のさっき俺と圭吾の話に入ってきた黒瀬海に当たった時、「私ディズニー大好きなんです!!」と飛び上がって喜んでくれたのを見て良い二次会になったなとほくほくだ。
 ビンゴが終わり一段落してトイレに立った俺は、トイレから出てきた黒瀬海と鉢合わせする。
「お、ラッキーガール」
「え、あぁ! チケットですよね! すごいびっくりしちゃった」
「おめでとう! 黒瀬さん、だっけ?」
「はい、あ、さっきちゃんと自己紹介してなかったですね。黒瀬海です。改めて、ご結婚おめでとうございます」
 黒瀬海がパチパチと拍手してくれて、俺は頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「翔子の高校の友達?」
「はい、二、三年クラス一緒で。翔子ともすごい久しぶりだったんですけど、相変わらず綺麗だし、イケメンの旦那さん捕まえて羨ましすぎですよ」
「おだててももうチケット出ないよ?」
「あははっ! お世辞じゃないです! まあチケットはもうあるんでどちらかと言うと一緒に行ってくれる人がほしいんですけどね」
「彼氏とかいないの?」
「はい……。あ、ひどい! 今残念な奴って思った!」
「思ってない思ってない」
「幸せの渦中にいる人は良いですよね。なんか凄い余裕な空気出てる」
「そんなことないって! じゃあほらなんならあれだよ、ここ来てるやつで俺の友達大体彼女いないから、いいなって思う奴いたら誘っちゃえば?」
「今日会ったばかりでいきなりディズニー誘うとか積極的すぎますよ! しかも宿泊ついてるんですよこれ!」
「そんなもんバスルームに閉じ込めときゃいいんだよ。お土産とかは買ってもらって」
「いやいや! まあ……ぶっちゃけた話、随分彼氏いないんで誰か良い人いたら紹介してほしいのは正直なところですけど……」
「今度合コンする?」
「合コンかー……最近してないな。って、悠介さんはまずいでしょ!」
「あそっか、まずいか」と言いつつ、俺の右手はポケットに入っているスマホを握っていて、取り出すタイミングを伺っている。「もし本当に海ちゃんがしたいんなら、セッティングするとかだけでもするよ?」
「……ほんとですか?」
「あれか、合コンて言い方が変な誤解を生むんだな。紹介だな紹介」
「んー……かなり興味ありますね、ぶっちゃけ!」
「じゃあ、やる?」
「いいですか? お願いしちゃって」 
 俺はトイレの前で黒瀬海と連絡先を交換する。今、誰かに、つーか翔子に目撃されたら誤解生じちゃいそうだなと緊張が走るけど無事に終わる。別に悪い事はしてないしと言い訳しつつ、だとしてもこういう場合は翔子経由で話を進めるものだろ? ってくらいの常識はあるが分別がない。
 数日後、合コンする前に一度ご飯でもどうですか? 的な連絡が黒瀬海から入る。翔子も一緒かと思ったけど、文面から察するに二人きりっぽくて友人の新婚旦那をサシで誘うとか根性座ってる。あるいはそこまで切実に男紹介してほしいのか。ま、後者か。
 結婚式から一週間後、池袋のサンシャインの裏にあるイタリアンでご飯食べた後、俺たちはラブホに入る。どちらからということもなく、しいていえばどちらからともという感じで、すでにご飯を食べているときからそういう雰囲気はあったし、もっと言えばトイレの前で番号を交換しているときから俺は確信に近い形でその予感を感じていた。こういうことが俺はビビッドに分かる。あるいはそう思い込んで行動するから実際にそうなることが多いのかもしれない。要は自信だ。
 海ちゃんはここ半年くらいホットヨガにハマっているらしく、そういうだけあって体は柔らかく華奢なようでいて皮膚の向こうにしっかりと引き締まった筋肉が付いているのが体位を変えたり腕を引っ張ったりしたときにスッと現れる筋や筋肉から見て取れる。海ちゃんのかっこいい体に俺の興奮は高まる。
 俺がイクとき、イキそうになったやつを海ちゃんから出してそのキュっと締まった腹筋に射精しようとしたとき、俺が自分のチンポを掴むより早く海ちゃんの右手が伸びてきて俺のチンポを掴みしごく!? そのスムーズな手さばきに俺はまた興奮し同時にいたく感動して、やばいこのコ好きかもと思ってしまうのだった。
 完璧元カレに仕込まれた技だわなあとアゴまで飛んだ俺の精液をティッシュで拭きとる姿をニヤニヤ見ていると「なに笑ってんの?」と海ちゃんはここで初めてタメ口になる。俺は緩んだ顔を抑えられない。
「あーすっごく興奮した!」
 ベッドに横になって海ちゃんが天井を見ながら言う。
「俺も」
「今、翔子の旦那さんとしてるんだって思ったらかなりやばかったわ……」
「……」
「……あれ無視?」
 並んで寝ている俺の横顔を海ちゃんがじっと見ている視線を感じる。
「聞こえない振りですか?」海ちゃんは俺の耳に顔を寄せる。「一週間前に! 結婚式をあげたばかりの! 私の友達の旦那さんと! エッチしてると思うと興奮したっ!」
「ちょ!」俺は声を上げて笑う。「俺も……そういう意味で、それは、かなりの興奮がありました」
 結婚している状態での浮気は全然違うわ。これはまずい。
「俺も、って悠介君大丈夫なの?」
「それ終わったあと聞いちゃう?」
「あ、ごめんなさい。でもなんかすっごくあっさりセックス出来ちゃって拍子抜けなんだけど」
「あっさりって。海ちゃん的にはどの辺りで俺としてもいいかなって思った?」
 ナンパでも合コンでもそうだけど、付き合う前にセックスしたときに心が動いたポイントを相手にフィードバックしてもらうことは重要だ。そういうことが知識として蓄積されセックスに至るための傾向と対策が出来る。モテる=セックスできる、ってことではあるが、モテない=セックスできない、ってことではない。
「結婚式で見た時かな。いいなーって」
「トイレの前で話したとき?」
「ううん。式始まる前の廊下で一瞬すれ違ってたんだよ私たち」
「一目惚れ?」
「自分で言う?それ」
「あぁ、確かに感じ悪いね」
「悠介君すごい自信あるよね。まあ、そう言うのが良いんだけど」
「自信家ってのはたまに言われるかも」
「なんかさ、あ、いいなこの人。セックスしてみたいな、みたいのあるじゃん」
「好きとかとはまた別の感じでね」
「そうそう、そういう感じ。でもまさかこういう関係になるとはだよ。この人遊んでそうだなーと思ったけど、私のファーストインプレッションに間違いはなかったね」
「そんなチャラチャラしてるか俺……」
「これ気分害したらごめんねなんだけど……」
 俺は海ちゃんの方を見る。海ちゃんは体をこちらに向けて俺を見る。ベッドと腕に挟まれておっぱいがぎゅってなってる。
「さっき高校時代翔子と仲良かったって話したじゃん? そうなんだけど同時にライバルみたいな関係? んーライバルとはまた違うんだけどなんて言うのかな」
「刺激し合うみたいな?」
「そんな感じ。自分で言うのもなんだけど私も翔子けっこうイケてるグループにいて、その中でも特に私たち抜けてる感じだったのね。ってなんか感じ悪いけどさふふふ」
「そういう話嫌いじゃない」
「ライバルなんだけどお互い認めあってて、みたいな。二人でいれば最強の存在? クラスでなんか決めるときもみんな私達の顔色伺うみたいな。先生にも一目置かれるくらいで、テストの成績とか大して良くないのに通知表はいいし推薦ももらえちゃうし、正直無敵って感じだったのですよ」
「感じ悪いな」
「まあ、今思えばね。ねえ、もっとこっちきてギュってして」
 俺は海ちゃんと距離をつめて抱きしめて頭を撫でる。
「うふふふ。えーと、だから高校のとき、正直人生イージーモードやんって思ってたのね」
「モテるグループにいて目立ってる女子とかそんな感じだったかもね」
「私なんかよりかわいい子いたよ? 志津宮鈴蘭って子とかほんと凄いの」
「それ本名?」
「そう。名前からしてかっこいいよね。あの子には絶対勝てなかった。大人しくて目立ったことが嫌いなのに、鈴蘭が空間にいるだけでバーン! て存在感あるんだもん」
「学年に一人くらいそういう奴いるよな。孤独じゃなくて孤高って感じの異彩放ってる系」
「そう! まさに孤高タイプ。一人でご飯食べてても全然惨めに見えないし、むしろそれがスタイル、ポリシーに見えるの。背伸びしてるんじゃなくて」
「何してもかっこよく見えちゃう人ね」
「しかも目立とうとかモテようとかないのに」
「でもそういう子って派手なグループに一方的に敵視されるか。調子乗ってるとか言われて」
「うん、まさに鈴蘭それやられてて」
「やられてて、っていうか海ちゃんもやってたんじゃないの?」
「や、私は本当そういうの直接やってはなかった! 止めはしなかったけど……」
「翔子はやるタイプかも」
「さすが旦那さん、そこはわかるんだ」
「まあねえ」
「誰かとコンビってのは強いんだよね。私一人じゃ絶対鈴蘭に勝てなかったと思うけど、翔子と常に一緒にいる事で一人ですごい人気あったから。なんだろうね、男子ってよく誰々とどっちがかわいいとか比べるじゃん?」
「うん」
「そういうとき私と翔子は必ず比べられたしそうなると必然的に会話にあがる率も高いみたいな」
 集団生活で一定の目立つ位置に居場所を確保するテクニックだ。ピンで目立ったり人気者になるって相当な素質かスキルがないと厳しい面があるけど、それなりに良い感じのやつがそれと同等あるいはそれ以上の人間と一緒にいればお互いがお互いを引っ張り上げあう事がある。
「ちなみに海ちゃんと翔子ってどっちが人気あったの?」
「秘密ー」
「なにそれ」
「トントンて感じだったかなー。タイプ違うから私たちのこと良いっていう男はぱっくり分かれてた感じ」
「翔子がかわいい服来てたらもっとかわいい服見つけて、あの子がイケメンの彼氏作ったら私はもっとかっこいい彼氏作るみたいにしてて。すごい翔子意識してた」
 あくびをかみ殺しながら、不毛な切磋琢磨だなあとは思うけれど、それは今だからで学生の頃にそんな風には思えない。
「翔子の持ってるものは私も持ってないと我慢できなかったし、それ以上のものが欲しかった」
 俺が気になるのは海ちゃんは未だにまだそのマインドから抜け出せてないっぽいってこと。
「でも、翔子の結婚式行って決定的に私には持っていないものを、しかもすぐには手に入れられないものを彼女は手にしてしまったんだなーって実感したらなんかやっぱり我慢できなくて」
「それで今俺の隣で寝てるのか」
「未だに高校の時の気持ち引きずってるとか絶対幸せになれないよね」
 なれないだろうなあと思う。
 でも、そう自己分析出来てるだけまし、なのか?
 人気者だった高校時代を未だに引きずっているという意味では翔子もきっと同じだし、あいつの場合ここまで客観視できていないだろう。
 チアリーダーで人気者でアメフトの彼氏がいたのにハイスクールを卒業して数年後今は……みたいな話はアメリカ映画で見たことあるけど、その呪縛から主人公が逃れ今の自分を肯定するには価値観の転換が起こるべきで、そこにはイニシエーション的なイベントが必要だ。
 海ちゃんがその呪縛から本気で逃れたいと思っているのであれば、解決策は俺とセックスすることではない。ティーンエイジャーで拗らせたものって後を引くし、それらの鬱屈した思いが次にジャンプするための「バネ」であるならいいけれど、そういうのって大抵溜めすぎていざジャンプしようとしたらバネがバカになっちゃってるもんだ。
「そういう価値観に縛られて生きていても疲れるだけっていうのが分かるくらいには私も大人になったつもりでいるんだけど」
 若い頃にチヤホヤされてると、そのフィーバーが終わったときに苦労しますよね、って話でもある。海ちゃんは今はもうない、そしてもうやってこない高校時代を未だに追いかけている。自分の努力や才能でチヤホヤされているのだったら問題ないけれど、高校という極めて特殊な環境と不安定な自意識の元での人気だ。逆にいえば些細な振る舞いでどうとでも転んでいただろう。そんな脆弱な過去の人気をよりどころにこの先も生きていくとしたら辛いことしかないぞ?
 彼女を救ってあげるために「もう俺とは会わない方がいい」と俺は言ってあげた方がいいのだろうか?
 例えそうだとしても俺は言えないし言わない。それは対処療法だから、ってのは一つの理由だけど、それよりも海ちゃんとセックスできなくなるのが嫌なだけだ。
 俺はクズなんだ。結婚式から一週間で浮気してるんだからそれは否定しようがないんだけど、自覚しているところが他のクズな奴よりよりクズの高みに立っている。
 これがまずいなと思うのは、ここからの景色の眺めが意外にいいこと。a.k.a 泥のぬるま湯。ここにいたらずぶずぶと地核まで沈むぞ、俺よ。
「結婚してこういうことして罪悪感とかないの? って感じてたらしてないか」
「セックスし終わった後、しなきゃよかったがっくし……みたいに肩落としてほしい? そんなん嫌じゃね?」と笑うと「あはは、たしかに」と海ちゃんも笑う。
「罪悪感とか正直ない、かも。なんだろ。やばいかな俺」
「やばいだろ」
「海ちゃんのかわいさが犯罪級だからじゃね?」
「そういうこと言って何人の女の子泣かせてきたの」
「俺も泣いてきた」
「はいはい。なんか、ある意味出会うタイミング完璧だったかも」
「どういう意味?」
「悠介君が彼氏とか旦那さんだったら辛くて死ぬ」
「俺わりとちゃんと彼氏するよ?」
「だから嫌なの。浮気しててもそつなくこなしちゃうところが。せめて罪悪感感じて、次会うの気まずいとか思ってほしい。ないでしょそういうの?」
 言いながら海ちゃんは俺に背を向けて壁を向く。俺は海ちゃんの背中に自分の体をぴったりと押し付けて目を閉じる。
 翔子と付き合う前、いや結婚する前に出会っていたら海ちゃんに乗り換えていたということもあり得ただろうか。
 恋愛はタイミングだ。普段だったら絶対合わない性格の男女もたまたま出会ったタイミング、飯食ったタイミング、話をしたタイミングで波長が合えば結婚までいっちゃうこともあるだろうしと俺は思っているのだけど……、ということはその逆もあるだろう。
 トイレの前で鉢合わせしなければこうはならず、今俺はフラット35で購入した3LDKの我が家のリビングで翔子と向かい合って今日も野菜いっぱいの夜ご飯を食べていた未来だってあったのだ。
 しばらくじっとしていたけど、海ちゃんがもぞもぞ寝返りを打ち始め俺もそれに会わせて体勢を変えたりしている間にまたいちゃいちゃし始めて、二回目が終わったのが休憩二時間が終わる一〇分前。一緒にシャワー浴びてホテルを出たのが二十二時三十分。
 あー誰かさんのせいで腰がくがく、と言う海ちゃんの手を取ってJRの改札まで歩く。
「海ちゃんはあっち?」
 改札に入ったところで立ち止まり、俺は山手線外回りのホームへと続く階段を指す。
「上野まで。悠介君は……」
「目白だから逆だね」
「じゃあ……」
「うん。じゃあ、ね」
 また、を言わないのは気を使ったのかな? というのは俺の勘違いで五段くらい階段を上がったところで「あ!」と言って振り返ったと思ったら、下で見送っていた俺のところまで戻ってくる。
「この前のディズニーのチケット」
「ビンゴのやつ」
「一緒に行ってくれる人探してるんだけど……誰かいないかな~?」
「まだ見つかってないんだ?」
「だから行く人いないって言ったじゃん! というか今日は行く人見つけてくれる合コンの打ち合わせだったはずじゃん」
「確かに」
「責任取ってよ!」
 俺じゃなくて二次会の幹事が……、じゃなくてチケットは俺が用意したんだ。
「わかったわかった、近いうち行く?」
「ほんとに!? なんかヤリ捨てようと思ったけど彼女気取りのめんどくさい展開になったとか思ってない? 思ってない? はい思ってるー」
「思ってないわ! 少なくとも海ちゃんには思わない」
「出たー! 私だけは特別、みたいに思わせるやつ。ほんと油断も隙もないわこの人」
「行ける日できたら連絡するよ」
「マジで? 本当に行ってくれるの? でも、やっぱり面倒くせえなとか思っちゃったら遠慮せずに言ってね。ディズニーほど嫌々行くのが似合わないところはないんだから」
「海ちゃんは気使い屋さんだな」
「もう、ほんっとそういうことムカつく!」
 と言う海ちゃんの顔は照れている。
 スッ、と身長が一〇センチ伸びた海ちゃんは俺にキスした後、階段を駆け上がっていった。
 俺は内回りの階段に……向かわず改札に戻り駅員さんのところへ行く。
「すいません、間違えて入っちゃったんで……」と頼み Suica の入場記録を消してもらって改札を出る。東口を出て一風堂に行き赤玉食べながら俺は思う。セフレとセックスした後に一人になって食べるご飯がこの世で一番うまい。

 土曜日、翔子がベジフルビューティーの講座から帰ってきて袋いっぱいに買ってきた野菜や果物を冷蔵庫にしまいながら言う。
「うちのクラスにお試し体験で入ってきた子が大学の友達で本気でびっくりした」
 俺は観ていた映画を一時停止させる。
「偶然?」
「そう。卒業して以来まったく連絡とってなかったんだけど凄い偶然じゃない?」
「だね。仲良かったの?」
「全然。同じサークルだったけど地味だったし、遊ぶグループも違ったからほとんど話したことない。でもそれがめちゃくちゃ派手で垢抜けてんの。髪とか巻いちゃって」
「女の子は変わるからなあ」
「中学とか高校の友達が成人式であったら変わってたとかならわかるよ。でも二〇半ばでそういうの痛くない?」
「何してる人なの?」
「なんだっけな……あ、出版社。雑誌の表紙とかデザインしてるとか言ってた。帰りに立ち話程度しかしなかったから詳しく聞いてないけど」
「バリバリ働いてそう」
「やっぱ男の影響かな。でも由美、彼氏二年いないって言ってたしなー」
 立ち話程度でその部分は年数までしっかり聞いてることに俺は驚く。
「あの子が受かって私が落ちるとかなったらマジ悪夢すぎるから本気で勉強しよ」
 毎週銀座まで通って勉強している「ベジフルビューティー」って講座で翔子が何を学んでいるのか何度聞いても俺はいまいち理解できないのだけど、まあ要するに、果物や野菜を食べて体の中から綺麗を目指すための知識、みたいなものだったと思う。
 一年ちょっと前、翔子が突然そういうことをやりたいと言い出したとき、学生の頃みんなでわいわいやってた人気グループの中心だった人間の完璧な着地点だなーなんて妙に納得したのを覚えている。
 ベジフルビューティーを学んでいく中で、翔子は野菜ソムリエの資格にも興味を持ち始めて勉強を始め、試験を受けるための受験資格であるジュニア野菜ソムリエに先日翔子は合格した。
 翔子の夢はベジフルビューティーアドバイザーとして教室を開いて、講師をしたり講演したりするのを仕事にしたいらしい。さらにその先もあって、野菜ソムリエの上級資格であるシニアソムリエの資格も取って、料理教室に留まらずコンサル的なこともやりたいとか言っていてけっこう壮大。そこらへん俺はノータッチでそれがどのくらいの難易度で、果たして職業として成り立つのか全然知らないけど、翔子がやりたいと思う事を俺は全力で応援する。俺の主な応援の仕方は、やりたいことを思う存分やらせても家計が傾かないくらいに稼ぐことだ。
「二十歳超えて路線変更とかって恥ずかしくないのかな」 
「路線変更って」
「ある程度のところまで地味で来てたんだから、ならもうそのままでもよかったじゃん。なんかみっともなくない」
「……そういうコは一生地味であり続けるべきなのだろうか」
「なにそれ、批判?」
「自問自答」
「無理したり背伸びして着飾ったりしても意味ないじゃん。見てて痛々しいだけだよ」
 俺はリモコンの再生ボタンを押す。
 テーブルには野菜や果物が並べられ始めワインもやってくる。
 講座に通っているのは女性が多くて、夫が一流企業勤めだったり、経営者だったり、独身の女性でも高収入で生活水準が高いみたいみたいなことを翔子は話す。イメージ通りだ。生活水準が近いってことは趣味や話も合うらしく翔子が楽しめているのはけっこうなんだが、必ず土曜の夜が野菜ばっかりの食事なるのは……しょうがないか。
 その日の夜、俺は翔子が寝てる横で眠れない。
 ベジフルビューティーで久々に出会った由美ちゃんのことを翔子は上から目線で小馬鹿にしていたようだけど、由美ちゃんはどう思ったのだろう。地味だった私もとうとうここまでこれたなのか、見た目はそれなりに垢抜けたけど背伸びをしていてやっぱり居心地が悪いと感じているのか。
 やっぱり、って俺が決めつけるのは失礼か。
 しかし、見た目を変えても自分が馴染めていると思えるかどうかはまた別の話だよな。
 って、これこそ本当に大きなお世話だ。俺も翔子と似た価値観を持っていて、収入や会社や肩書きで人を見ているところがあるからだろう。こういうのはいけないとも違うし、正しいか正しくないとも違うんだけど、この先入観でいると損をすることだってきっとあるし、少なくとも自覚だけは持っておこうと思っている。
 翔子が由美ちゃんを蔑むのと同様、俺も同い年のやりたいことがなくてフリーターしている奴らを少し馬鹿にしているときがある。
 やりたいことがないやつだけか?
 フリーターがどうのこうのってのは、俺が二次会で磯目圭吾に対して言った発言だけど、もちろんあれは冗談だ。冗談ではあるんだけど、一〇〇パーセント冗談であるかと言われたら……、日頃そういうことを意識せずとも潜在的に思っていることが冗談という形で出てきたという可能性もあり得るんじゃないか。
? あり得る。
 俺と翔子が彼らを小馬鹿しているのだとして、けれどその理由は大分違う。
 俺はいい歳して夢を追っかけたりしているやつに現実を見て大人になれと憤るのだけど、翔子の場合、翔子が考えるヒエラルキーの上位にいる人間が絶対正義であり、その場所への執着が強い。翔子が由美ちゃんを馬鹿にするのは、当時相手にもしていなかった地味だった人間が自分のステージまで上がってきていることへの焦り? 怯え? であり、それを小馬鹿にすることでまだ上にいる自分を演出して安心を得ていたりする、のか?
 だとしても、俺は翔子を嫌いにならないしそれに対して批判も別にない。そこに焦りや恐怖を感じているのであれば、それは今ある地位が崩れさることへの危機感の裏返しで、それを恐怖に感じているのであれば今いる場所に満足せずいつまでも綺麗になろうと努力して素敵な奥さんでいてくれるだろう。俺はそれを歓迎する。
 そんな翔子が生きるためのモチベーションにしている外向きのためのステータスを追い求めることに、以前は同じところにいたけど疲れてしまって、でも完全にはなかなか捨てられずに悩んでいるのが黒瀬海だ。そして二人の星に百万光年遥か彼方から突然やってきたのが由美ちゃん。
 けれど俺のその読みを「浅はかすぎて、ほら、歯が取れちゃったよ」と取れた差し歯を俺に見せてきやがるのは高校時代の友人の飯山統真(とうま)


 会うのは二年ぶりだった。
 都内の会計事務所で会計士をしている飯山統真は、学生時代に公認会計士の資格を取った優秀な奴で今じゃ二十八歳にして事務所のエース級だそうだ。同年代の中ではそこそこいい給料をもらっている俺だがこいつにはかなわない。
「相変わらず弓削君て頭いいように見えるし、そう見えるように話すのはうまいけど、僕からしたらそう演出するがうまいってだけの話だな」
 久しぶりに会うってことで、せっかく恵比寿にあるワインがうまい店に連れてきたというのに統真はずっとコーラを飲んでいる。こいつが下戸だと思い出したのは店に入ってからだった。
「ハッタリだけってことかよ」
「んー弓削君あんま頭良くないよね。あ、気分悪くしないで」
「気分悪くするかしないかまでお前に指図されるつもりはない」
 とはいえ、この指摘自体は過去に統真から何度も受けてることであり、俺自身自覚しているところはあるし昔からこいつに言われる分には何を言われても平気なところがある。
 高校時代、俺は他人より頭の回転が早く冷静ってところで学校内でのある程度の地位を確立していたところがあったから、高三で初めてこいつとクラスが一緒になって一ヶ月でそれをズバリ指摘されたときは俺は焦りまくって、罵倒することでどうにか自分を保つという醜態を晒してしまったのは恥ずべき過去だ。
「そんなの価値観がどうかとかの話じゃないよ」
「というと?」
「そのなんだっけ、ベジタブルビューティー?」翔子が聞いたら大きい声出して訂正するし前は俺もよく間違えたけど、俺は翔子じゃないからいちいち訂正しない。「を、由美って人は単に習いたいだけかもしれないじゃん。外見が変わったということと同じカルチャースクールに通いだしたってだけで価値観が変わった? なんか違うでしょそれ」
「そりゃまあそうだけど」
「人ってけっこう複雑だよ。価値観が変わらなくてもそれまでと全然違うことも違う格好も出来るよ? あるいは違う価値観を二つ持って同居させることもできるんじゃないの?」
「価値観を二つ持つ?」
「思いついただけの言葉遊びだけど」
「なんだそれ」
「でもその女の子の場合、きっとそのどれでも無くて、ただ単に趣味趣向が変わったってレベルの話かもしれないじゃん。価値観なんて大げさな話じゃなくて」
 俺はもしかしたら海ちゃんが言っていた昔と価値観が変わってきたという話に引きずられて、由美ちゃんにもそれに当てはめてしまっただけかもしれない。
 統真は「これおいしいねえ」とのんびり言いながら自家製レバーパテをフランスパンに塗って食べている。ここのお勧めでそれはまじうまいやつだ。
「価値観てもっと善悪とか生き死にとか、生き方に直接的に関わるファンダメンタルな部分のことをいうんだと思うんですよ」
「真面目だった子がカルチャースクールに通い始めたってくらいで価値観変わったってのは深読みしすぎか」
「深読みっていうか早とちり?」
「なるほどね。そうかもな」
「いや、違うね」
「は?」ワインを口に運ぶ俺の手が止まる。「今、そういう話だっただろ」
「もしかしたら弓削君の言う通り、価値観が変わったからってのも捨てきれないってこと。価値観てのは生き方にかなり大きく反映されるわけじゃん? だとしたら外見だとか趣味とかそういう表層的な部分まで変える可能性もあるし」
「どっちなんだよ!」
「人の心なんてそう簡単に読めないし理解なんてできないって話だよ」
「普通のこと言ってる!」
「僕は普通の人間だから」そういって統真はコーラをお代わりする。
「それにしても二年ぶりなのに、そこで切り出してきたのが自分のことじゃなくて知り合いの話ってのが弓削君らしいよね」
「なんだよそれ」
「自分のこと話さないのは相変わらずってこと。未だに他人に聞いてすぐに答えを求めたくないとかいうポリシーあるの?」
 同じクラスになり俺の薄っぺらい処世術を一瞬で見抜かれた当時は敵だなんて思ったけど、それ以上にこいつとの話に魅力を感じた俺はその後すぐに仲良くなって当時色々相談をした。けれどある時、統真に悩みを相談していたらいつもいつも答えを求めてしまって何も自分で考えなくなる!って恐怖したことがあって、それからはあまり自分のことをこいつには話さなくなったのだ。あるときからあえて会わないように距離を置いているところも意図的なところがないわけじゃない。
 って話をこいつに俺はしたことあったっけ? 多分ない。
「弓削君が自分の話しないなら、僕が僕の話をしなくちゃいけなくなるわけなんだけど」
 下を向いて iPhone をいじっていた統真が顔を上げる。
 俺が自分の話をしないのは統真に限ったことじゃない。そして海ちゃんと全く接点のない統真にも浮気の話はしない。
 浮気をするなら絶対にバレちゃいけなくて、バレちゃいけないってことは誰であろうと絶対にしゃべてはいけないってことだ。例え翔子や海ちゃんと一切繋がりがない奴にもだ。「時効の話だけど」と断りを入れて過去にした浮気の話もしてはいけない。酒を飲んでいようが、場が盛り上がりそうだからだろうが、懺悔大会になろうが浮気の話はしないというのが俺ルール。
「似たような話かわかんないけど、ぼくの話で言うとさ、最近異常にモテるようになったんだよね」
 今までが全然だったから、と断って話し始めた統真の話はこうだ。
 最近友達の誘いで合コンに行くようになったが、そこでやたらモテる。学生時代は会計士の勉強一筋で一切遊んでこなかったし、働き始めても仕事だけでほとんど女性と付き合ったことはおろか、しゃべったこともないから当然女ウケは悪いし、統真自体恋愛方面にあまり興味がなくここまできたのに急にモテ始めたことにびっくりしている、とのこと。
 だとすると思いつく答えは一つしかない。
「お前の収入と将来性だろ?」
「そう、それなんだよ」
「それしかないよな」
「それしかって。酷い、と言いたいところだけ否定する材料がないんだよねえ」
 早い話が俺たちと同年代の女性が結婚を考える年齢になってきていて、男を選ぶ基準が今まで顔だけだった女子も性格とか収入とかを重視するようになったってことだろ。
「いいことなんじゃん? 俺みたいなイケメンと戦える武器が増えたわけだから」
「俺みたいなイケメン? そういうボケ、学生時代からやってるけど相変わらずだね」
「っさいわ!」
 ツッコミ入れてくれるにしても、真顔はやめてくれよ……。
「この話はさ、彼女たちの価値観が変わったって話でもあるよね。選ぶ基準が変わったわけだから」
 俺はこの辺りから価値観価値観言ったり聞いたりしすぎて価値観てのがなんなのかわからなくなってくる。
 「価値観」といった時、それは統真が言ったように趣味趣向というレベルよりももっと深いところの部分をいっているというのは感覚的にわかるんだけど、じゃあ一体どの辺りまでが価値観の範囲なのだろう。結婚観や異性を選ぶ基準というのは価値観に関係している気がするけど。
 例えばヘッドフォンを選ぶ基準は? それは趣味趣向レベルの話だと思えるけど五万円十万円以上となるとそれは一定のこだわり、哲学といってもいいくらいのものが反映されてくる気がするし、そうだとするとそれも価値観の一つじゃないのか? 
 いや、そうじゃない。価値観というのは値段じゃない。例え五百円のヘッドフォンでもこれしか駄目っていう人もいるだろう。
 ……あれ、これこだわりの話になってないか?
 価値観とはこだわりのことなのだろうか。
 俺は iPhone で辞書アプリを立ち上げる。
「なにしてんの?」
「価値観がゲシュタルト崩壊した」
 

 いかなる物事に価値を認めるかという個人個人の評価的判断。(大辞林)


 何を大事に想い、評価するかってことか。言い換えればそれは優先順位をつけるときの物差しでもあったりするだろう。
「なあ、統真の価値観てなんだ?」
「どんな場面、どんな状況かにもよるし、そもそも価値観てのは何かに付随して出てくるのが価値観だよ」
「質問を変えるわ。生きることの価値ってなんだ?」
「子孫を残す」
「それは人類の、みたいな大局的な見方だろ。そうじゃなくて、俺がここで聞いてるのは飯山統真個人の生きることの意味」
「急に大きいこと聞くなあ」と言いながら統真は考えながら答えてくれる。「ぼくは堅実な人生、ってのが大前提にあって、だから手に職とか食いっぱくれないってのがあったからこの職業選んだってのはある」
「なんで堅実な人生なの? お前学生時代からずっと勉強勉強だったけど、やりたいこととかなかったわけ?」一人でワイン一本空けて顔が熱いし頭がぐらぐらしてきたがまだ飲む。「お前も少しは飲めよ」
「酔うとその後使い物ならなくなって何もできなくなるじゃん」
「それがいいんじゃん」
「家帰って本も読めないし勉強も出来なくなるっていうのに? 頭脳労働ができなくなるのが嫌なんだよ」
「だからそれがいいのに! ……まあ、いいや。続き続き」
「うち母子家庭じゃん」
「あ、そうだったっけ」
「お金に苦労してきたから。僕が大学行けたのが奇跡ってくらいの貧乏で。母親の苦労とか見てるから一生食べていけて給料がいいところに就職しようって思って大学入ったんだよ。でもさあ、いかんせんうちらの大学からじゃ一流企業なんて」
「それこそ奇跡」
 俺たちの大学は学業よりもサークル活動を優先する三流大学。お世辞にも頭がいい大学とは言えない。
「そう考えると ACT に入れた弓削君はやっぱすげーよね。うちの大学のOBとかいないでしょ」
「俺が初めてらしいけど、だからといって業界じゃ全然だよ、多少最近注目されてるだけで」
「学生が就職したい企業ランキングでこの前名前見たよ」
 俺が勤めている株式界社 ACT は広告代理店の中でも小規模な会社だ。ただここ一、二年、ACC グランプリ取ったり世界的な賞に入選したりうちの会社辞めた人が映画監督になったりする人が出てきて世間的な注目を集めている。
「今の人気はバブル的なもんだよ」俺のことはどうでもよくて、と話題を戻す。「でもなんで会計士だったの?」
「一流企業は狭き門、となると資格系だなあって考えてたときに、貧乏してたとき色々気にかけてくれた叔父さんが昔会計事務所で働いた人でその影響かな」
「なりたくてって感じでもなかったのか」
「それはまったくなかった。でも他にやりたいこととかもなかったしねえ。それは今もだけど。だからなんか価値観とか言われてもなあ、そんなこと考える余裕なかったんだよね」
「やりたいことはなくても将来こうなりたいとか、こういう暮らしがしたいとかもないわけ?」
「食べるのどうしようって人間がそんな贅沢いってらんないよ」
「今はもうそれなりに稼いでるだろ。遊んでもよくね?」
「まあそうなんだけど。……ん、このチーズおいしい」とピザを頬張りながら統真が尋ねてくる。「逆に聞きたいんだけどさ、この歳で遊ぶってみんな何してるの?」
「え、そりゃ……なんだろ」そう言われてパッと思い浮かぶのが「合コンとか……?」くらいしかない。働き始めると、普段遊ぶっていっても飲みに行ったり飯行ったりくらいしかしていない。「ほら、若い頃遊びまくった男はおっさんになったとき落ち着くけど、あまり遊んでないと年取ったとき大変みたいに言うじゃん。それになっちゃうんじゃねえの?」
「彼女ほしくないとは言わないけどさあ……そんなヤりたい?」
「いやまあ俺はほら、もう結婚してるし」
「じゃあする前は? 浮気とかしたことある?」
「え……?」
「ん?」
「うわー弓削君したことあるのか」
 俺が答えに窮しているというか、否定できずにとりあえずグラスを口につけてワインを飲むことで時間を稼いでいると、ポケットの中のケータイがバイブする。
「モテるからってほどほどにしなよ」
 ケータイは海ちゃんからで、明日仕事終わりとか会える? というメッセージ。その文字列を読みながら帰る時間が遅くなる翔子への言い訳を考えている。
 しかしなぜこのタイミング……!
「ないよ」
 ようやく俺ルール発動。浮気してることは誰であっても話してはいけない。
「なに、今の間」
「ほんとほんと。それと浮気はモテるモテないの話じゃないから」
「そういうものなのか」
「そういうものなのだ。統真は休みの日なにしてんの?」
「だから何すればいいかわかんないから勉強」
「なんの?」
「ん、まあ、色々とね。あ、僕再来週海外行くんだよ。初海外」
「旅行?」
「二週間休みもらえたから、イタリアとかフランスとかヨーロッパ転々としてスペインあたりまで行こうかなって」
「一人?」
「大学の友達で海外放浪しながらカメラマンしてる人がいるんだけど、その友達に相談したらガイドしてくれるって」
「ツアーとかじゃないんだ? カメラマンと一緒とか楽しそうだな」
「カメラの仕事はあんまなくて実態は貧乏バックパッカーだけど」
「そんな旅慣れたバックパッカーと初海外だなんてガツンとカルチャーショック受けて帰ってきちゃうんじゃないっすか?」
「ね、どうなんだろうね。それはそれでちょっと楽しみかも」
 どのくらいのレベルのバックパッカーかわからないけど、放浪してるってことは少なくともただの観光地じゃ絶対物足りなくなってて、ツアー客がいかないところとかガイドブックに載っていない少々危険なローカルなところに行って現地人と交流したりすることに楽しみを見いだしてるかもしれない。もしかしたら薬とかにも手を出してるかもしれない。
「インドの北部とかブラジルのファベーラとかも行ってる相当な猛者だからかなり頼りになりそうだし」
 ファベーラって……う~ん、国内では味わえない危険な目に会うことが目的化しているバックパッカー廃人である可能性が出てきたぞ。
「最近は、半年くらい? ずっとバングラデシュにいたらしいけどね」
 おまけに沈没型バックパッカー。
「その友達にあんま無理して合わせたりすんなよ、初めてなんだし」
「なにが?」
 こいつの場合、クスリやハッパを薦められてもちゃんと断りそうだからそういうのは心配してないけど。
「不潔なのとかそういうの大丈夫な人?」
「ものすごい不衛生なところはきついかもしれないけどそこまで酷くなければ。泊まるとこは多分安宿になりそうだけど、いってもヨーロッパだしね。そういうの東南アジアとかインドあたりはキツそうだけどヨーロッパならなんとかなるでしょ」
「まあとりあえず帰ってきたら旅の話、報告しなさい」
「うん、ブログにも書いてくつもりだから見てよ」
「ブログやってんだ、意外」
「URL 後で送るね」
 店を出て駅までの道すがら、「価値観、海外行ったら変わるかな」と夜空を見上げながら統真はつぶやく。俺もつられて全然暗くないほとんど星の見えない空を見上げる。
「この空も、遠くにいるあなたが見てる空と同じなのね」
「何それ?」
「さあ……?」
 二十三時過ぎの渋谷のスクランブル交差点は足早に駅に向かう人で溢れている。統真と別れた後、大学生くらいの女の子捕まえてカフェバーみたいなところに入ってまったりおしゃべりしたいなと頭によぎる。ホットパンツでトンボみたいなサングラスした今からクラブ行く感じのギャルもいいが、今の気分は涼しげな色のワンピースなんか着ている国公立行ってそうな知的な女子がいい。法学とか哲学とか学んでると最高だ。文学部とかSFの話とかできたら尚良い。
 でも明日は仕事だし、家では翔子が待っている。ナンパしない代わりじゃないけど、さっき来た海ちゃんからの連絡に了解の返信をする。送信ボタンを押すときに自分のことがクソすぎると自覚はするけど、思っていながらこうやって何度も不倫をするっていうのは、そういう自覚はポーズであり、罪悪感を持っている自分を演出して罪の意識から逃れようとしている、のかもしれない。
 いや……。
 そもそも俺に罪の意識なんてあるのだろうか?
 それは、ある。海ちゃんには罪悪感はないかもと言ったけど、やっぱある。人よりも薄いかもしれないけど翔子に悪いという気持ちは持っている。
 じゃあなんで俺は不倫するんだ?
 逆に不倫しないやつはなんでしないのだ?
 結婚相手に悪いから、っていう話もあるがそれはなんか違う気がする。それって消極的な拒否であって、その罪悪感が薄まったりなくなってしまえばそいつはすることになるだろう。本来、付き合っている相手がいれば別の人とセックスするなんていうのは考えられないってのが理想だろう。
 いやいや違う違う。こんな言葉遊びで本質なんて見つけられない。パートナーがいるのに他の女の子としたいと思おうが思うまいが大きく線が引かれるところは、セックスしたかしてないかなのだ。その手前の話はどうでもいい。
 俺が言葉にして理解したいのは、なぜ俺は不倫をするのかということだ。それを知ればもしかしたら止められるかもしれない。
 感情や本能から発せられる衝動を理屈で押し込めることができるのが人間で、それができなければ俺は病気か動物だ。
 で、どうやら俺は動物か病気らしいのだった。 
 海ちゃんとの関係を止めることが出来ずダラダラ付き合い、っていってもさすがにディズニーペアチケットは宿泊がついているので勘弁してもらって、品川と池袋の水族館に行く。お腹に子供を乗せた親子のラッコのぬいぐるみを買って、俺が親の方を、海ちゃんが子供のラッコをそれぞれプレゼントし合い翔子には会社の飲み会で当たったと言うのだけど、「私、あまりこういうの置きたくないんだけど」と渋る翔子は無事に野菜ソムリエの資格を取る。
 この時、統真の人生に大きな転機が訪れていて、俺がそれを知るのはこの七ヶ月後。
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