第16話
文字数 3,152文字
自分が主催した飲み会の和やかな空気を、後輩の自分勝手な行動でぶち壊された。三股さんが怒る気持ちはわかる。だから俺は、三股さんにちゃんと謝って仲直りがしたかった。でも、ダメだった。三股さんは俺と一言も口を聞かず、透明人間と接するような態度をとった。
三股さんがいつまで経っても口を聞いてくれないから、段々と、俺も苛々してきた。後輩が犯した、たった一度のミスも許せない器の小さい奴に思えた途端、俺の中から〈仲直り〉という言葉が消えた。俺が何をしても三股さんは許してくれないのなら、別にそれでいいと開き直り、嫌われたままの生活を選んだ。自分が名の無い機械の歯車になったような気分で、黙々と仕事をした。
「お疲れ様です」
誰に対して言っているのか自分でもわからない挨拶を告げ、俺は工場を出た。
「佐藤……」
ふいに、聞こえた声に俺はぴくりと反応する。正面を向くと、敵が立っていた。
敵は、もの悲しい目を俺に向けている。俺が哀れな生き物に見えて、同情しているのだろうか。
「無視したことは謝るよ。ごめん。少しだけ私の話を聞いて? 私、佐藤にだけは嫌われたくないから……」
俺だって、橋場に嫌われたくない。本音を隠していた俺に対して、橋場の言葉は効果抜群の威力を持っていた。
何か、俺を無視していた理由があるのだろう。三股はともかく、橋場は本来、人を無視したりする陰湿な奴ではない。
「わかった」
俺は頷いた。
「すぐ近くに公園があるから、そこで話そう」
工場傍の脇道に入り、しばらく直進すると、民家とアパートに周りをぐるっと囲まれた小さな公園がある。設置されている遊具はブランコと滑り台だけで、その他、ベンチとトイレ、四角い石柱に蛇口が二つ付いた水場があった。
俺と橋場はベンチに並んで腰を下ろした。子供が落としたと思われるポテチの切れっ端が散らばっていたので、手でサッと払い落とし、俺は言った。
「それで、どうしたの?」
「あ、うん。えっとね……。佐藤って今、成形係の作業員みんなから無視されているでしょ?」
「俺が三股さんに嫌われる理由は想像がつくが、他の人たちからも嫌われる意味がわからない」
「三股さんだよ。あの人、成形係で働く作業員みんなの弱みを握っているの。それを餌に使って、みんなを操っている。だからあの人だけ、周りに敵がいないの」
そう言われて、俺は気づいた。確かに、作業員の中で、みんなと仲良くしているのは三股さんだけだ。三股さんを除く、作業員の誰もが、誰かしらに不満を持って働いていた。作業のやり方が気に入らないとか、成形の仕方が自分と違うからだとか、陰で文句を言っている。
しかし、三股さんだけは違う。俺は三股さんの悪い噂を耳にしたことがない。不満の声も、一切聞かない。その理由は、作業員の誰もが弱みを持っていて、それら全てを、三股さんに把握されているからだったのだ。
「ということは、橋場も? 三股さんに秘密を握られているってことなのか?」
「まぁ、そうだね……」
橋場は苦笑する。
「私、佐藤に言ってなかったことがある。というか、言いたくなかった……」
「言いたくないなら、言わなくていいよ」
橋場が話しそうになったのを俺は止めた。誰だって、人に知られたくない秘密の一つや二つある。俺だって、シューとソルのことを田中以外の誰にも話したくない。だから、橋場も無理して秘密を話さなくてもいいと思った。
「いや、言うよ。私、このままずっと三股さんの操り人形でいたくないもん。あの人の指示に従って、佐藤をひいきするのはもう嫌だ……」
橋場は首を横に振って、
「三股さんと二人でご飯食べたって話、したでしょ?」
「ああ。あの人のおごりで、仕事帰りに二人で食事したんだろ」
「そのあと、私と三股さんでホテルに行った」
「……え?」
ただ泊まった、はずがない。寝泊まりするだけなら、家に帰ればいい。それをせず、男女二人きりでホテルに行ったとなれば、もう、やることは一つしか無い。
「お前、三股さんと……」
「うん……」
猫が幼女になったときよりも俺はショックを受けた。別に、橋場が誰と付き合おうが、俺には何も関係の無いことだ。しかし、三股 はないだろ……。
「佐藤が飲み会を抜けた日の帰りに三股さんから言われたの。『明日から佐藤を無視してね。しなかったら、俺と一緒にホテルに行ったことを本人にバラすから』って。私、佐藤に軽い女だって思われたくなかったから、無視することに同意したの……」
「思わないよ」
「あのときは、酒飲んで酔っ払っていたから、判断能力が鈍っていた。まぁ、今更こんなこと言っても……」
「いや、話してくれてありがとう。三股が最低なクズだと確信した」
俺はスッと立ち上がって、誰もいない空間を睨んだ。
「何をする気なの?」
「三股とタイマンだ」
「はぁ!?」
「あの野郎が全ての元凶だ。ぶん殴ってボコボコにして、工場から追い出してやる」
「バッカじゃないの!?」
橋場に腕を掴まれ、俺はベンチに引き戻された。
「追い出されるのは、自分だって! なんで男って、すぐ暴力で解決しようとするのかな!?」
「でも、それ以外に三股からみんなを救う方法は無いだろ」
「みんなを救う必要なんて無いよ! 私が、私だけがずっと佐藤の味方でいるから! 佐藤をもう、独りぼっちにさせないと約束するから! あいつのことは無視して、普通に仕事しようよ!」
「俺の味方をしたら、お前も他のみんなから無視されるかもしれないぞ?」
「構わない! それに、佐藤は私のこと無視しないでしょ? 佐藤が私の味方をしてくれるなら、他の人たちに嫌われてもいい!」
「人に無視されながら仕事するのって、滅茶苦茶辛いぞ? 仕事、辞めたくなるかもしれないぞ?」
「じゃあ辞めればいい! あんなクソみたいな工場で働くくらいなら、別の仕事探す!」
こいつも俺に似て口が悪い。あるいは、今の彼女が、素の橋場結菜なのか。秘密を打ち明けたことで胸の中がスッキリして、感情を表に出しやすくなったのかもしれない。
「言いたくなかったことを話してくれてありがとう。明日から、二人で頑張ろうな」
「そうだね……」
橋場はまだ何か言いたそうにしている。
「なんだよ。まだ何か、気になることがあるのか?」
「いや、まぁ……。佐藤は、本当に、私のこと軽い女だと思ってない?」
「思ってない。三股とのアレは不可抗力だ。仕方がなかった。俺はお前のことを軽い女だとも、俺を無視した敵だとも思っていない」
「本当に?」
「しつけーな。本当だっつーの。なんだよお前、そんなに俺が気になるのか? お前、俺のことが好きなのか?」
最後のは冗談だった。橋場をからかって、怒らせて、元気にしてやろうと思って言った。
「……うん」
しかし、橋場はまんざらでもなさそうに、俺から視線を逸らす。
「え? いや、『うん』ってなんだよ」
「佐藤のこと、好きって意味……」
「友達として、だろ?」
橋場は無言になる。
……違うのか。じゃあ、俺の何が好きなんだ?
さすがに、恋人にしたいとか、そういう意味の好きではないだろう。
「ま、まぁ……。話は終わりだ、帰ろう」
そそくさと立ち上がろうとした俺の腕を橋場が掴む
「な、なんだよ?」
「座って」
「お、おう」
何回繰り返すんだこのやり取り、と思いながら俺はベンチに座る。
「で、なんだよ?」
「佐藤って、私の元カレにすごくそっくりなんだよね。優しいとことか、言葉使いとか、結構似てる。 だからかな? 私、佐藤のこと、直感で好きになっちゃったんだよね……」
「それは、ただ単に、俺と元カレを重ね合わせているだけだろ」
「……そうかもしれないね」
橋場はフッと微笑み、立ち上がった。
「帰ろっか」
「ああ」
俺たちは公園を出て、いつも歩いている通りに戻った。
三股さんがいつまで経っても口を聞いてくれないから、段々と、俺も苛々してきた。後輩が犯した、たった一度のミスも許せない器の小さい奴に思えた途端、俺の中から〈仲直り〉という言葉が消えた。俺が何をしても三股さんは許してくれないのなら、別にそれでいいと開き直り、嫌われたままの生活を選んだ。自分が名の無い機械の歯車になったような気分で、黙々と仕事をした。
「お疲れ様です」
誰に対して言っているのか自分でもわからない挨拶を告げ、俺は工場を出た。
「佐藤……」
ふいに、聞こえた声に俺はぴくりと反応する。正面を向くと、敵が立っていた。
敵は、もの悲しい目を俺に向けている。俺が哀れな生き物に見えて、同情しているのだろうか。
「無視したことは謝るよ。ごめん。少しだけ私の話を聞いて? 私、佐藤にだけは嫌われたくないから……」
俺だって、橋場に嫌われたくない。本音を隠していた俺に対して、橋場の言葉は効果抜群の威力を持っていた。
何か、俺を無視していた理由があるのだろう。三股はともかく、橋場は本来、人を無視したりする陰湿な奴ではない。
「わかった」
俺は頷いた。
「すぐ近くに公園があるから、そこで話そう」
工場傍の脇道に入り、しばらく直進すると、民家とアパートに周りをぐるっと囲まれた小さな公園がある。設置されている遊具はブランコと滑り台だけで、その他、ベンチとトイレ、四角い石柱に蛇口が二つ付いた水場があった。
俺と橋場はベンチに並んで腰を下ろした。子供が落としたと思われるポテチの切れっ端が散らばっていたので、手でサッと払い落とし、俺は言った。
「それで、どうしたの?」
「あ、うん。えっとね……。佐藤って今、成形係の作業員みんなから無視されているでしょ?」
「俺が三股さんに嫌われる理由は想像がつくが、他の人たちからも嫌われる意味がわからない」
「三股さんだよ。あの人、成形係で働く作業員みんなの弱みを握っているの。それを餌に使って、みんなを操っている。だからあの人だけ、周りに敵がいないの」
そう言われて、俺は気づいた。確かに、作業員の中で、みんなと仲良くしているのは三股さんだけだ。三股さんを除く、作業員の誰もが、誰かしらに不満を持って働いていた。作業のやり方が気に入らないとか、成形の仕方が自分と違うからだとか、陰で文句を言っている。
しかし、三股さんだけは違う。俺は三股さんの悪い噂を耳にしたことがない。不満の声も、一切聞かない。その理由は、作業員の誰もが弱みを持っていて、それら全てを、三股さんに把握されているからだったのだ。
「ということは、橋場も? 三股さんに秘密を握られているってことなのか?」
「まぁ、そうだね……」
橋場は苦笑する。
「私、佐藤に言ってなかったことがある。というか、言いたくなかった……」
「言いたくないなら、言わなくていいよ」
橋場が話しそうになったのを俺は止めた。誰だって、人に知られたくない秘密の一つや二つある。俺だって、シューとソルのことを田中以外の誰にも話したくない。だから、橋場も無理して秘密を話さなくてもいいと思った。
「いや、言うよ。私、このままずっと三股さんの操り人形でいたくないもん。あの人の指示に従って、佐藤をひいきするのはもう嫌だ……」
橋場は首を横に振って、
「三股さんと二人でご飯食べたって話、したでしょ?」
「ああ。あの人のおごりで、仕事帰りに二人で食事したんだろ」
「そのあと、私と三股さんでホテルに行った」
「……え?」
ただ泊まった、はずがない。寝泊まりするだけなら、家に帰ればいい。それをせず、男女二人きりでホテルに行ったとなれば、もう、やることは一つしか無い。
「お前、三股さんと……」
「うん……」
猫が幼女になったときよりも俺はショックを受けた。別に、橋場が誰と付き合おうが、俺には何も関係の無いことだ。しかし、
「佐藤が飲み会を抜けた日の帰りに三股さんから言われたの。『明日から佐藤を無視してね。しなかったら、俺と一緒にホテルに行ったことを本人にバラすから』って。私、佐藤に軽い女だって思われたくなかったから、無視することに同意したの……」
「思わないよ」
「あのときは、酒飲んで酔っ払っていたから、判断能力が鈍っていた。まぁ、今更こんなこと言っても……」
「いや、話してくれてありがとう。三股が最低なクズだと確信した」
俺はスッと立ち上がって、誰もいない空間を睨んだ。
「何をする気なの?」
「三股とタイマンだ」
「はぁ!?」
「あの野郎が全ての元凶だ。ぶん殴ってボコボコにして、工場から追い出してやる」
「バッカじゃないの!?」
橋場に腕を掴まれ、俺はベンチに引き戻された。
「追い出されるのは、自分だって! なんで男って、すぐ暴力で解決しようとするのかな!?」
「でも、それ以外に三股からみんなを救う方法は無いだろ」
「みんなを救う必要なんて無いよ! 私が、私だけがずっと佐藤の味方でいるから! 佐藤をもう、独りぼっちにさせないと約束するから! あいつのことは無視して、普通に仕事しようよ!」
「俺の味方をしたら、お前も他のみんなから無視されるかもしれないぞ?」
「構わない! それに、佐藤は私のこと無視しないでしょ? 佐藤が私の味方をしてくれるなら、他の人たちに嫌われてもいい!」
「人に無視されながら仕事するのって、滅茶苦茶辛いぞ? 仕事、辞めたくなるかもしれないぞ?」
「じゃあ辞めればいい! あんなクソみたいな工場で働くくらいなら、別の仕事探す!」
こいつも俺に似て口が悪い。あるいは、今の彼女が、素の橋場結菜なのか。秘密を打ち明けたことで胸の中がスッキリして、感情を表に出しやすくなったのかもしれない。
「言いたくなかったことを話してくれてありがとう。明日から、二人で頑張ろうな」
「そうだね……」
橋場はまだ何か言いたそうにしている。
「なんだよ。まだ何か、気になることがあるのか?」
「いや、まぁ……。佐藤は、本当に、私のこと軽い女だと思ってない?」
「思ってない。三股とのアレは不可抗力だ。仕方がなかった。俺はお前のことを軽い女だとも、俺を無視した敵だとも思っていない」
「本当に?」
「しつけーな。本当だっつーの。なんだよお前、そんなに俺が気になるのか? お前、俺のことが好きなのか?」
最後のは冗談だった。橋場をからかって、怒らせて、元気にしてやろうと思って言った。
「……うん」
しかし、橋場はまんざらでもなさそうに、俺から視線を逸らす。
「え? いや、『うん』ってなんだよ」
「佐藤のこと、好きって意味……」
「友達として、だろ?」
橋場は無言になる。
……違うのか。じゃあ、俺の何が好きなんだ?
さすがに、恋人にしたいとか、そういう意味の好きではないだろう。
「ま、まぁ……。話は終わりだ、帰ろう」
そそくさと立ち上がろうとした俺の腕を橋場が掴む
「な、なんだよ?」
「座って」
「お、おう」
何回繰り返すんだこのやり取り、と思いながら俺はベンチに座る。
「で、なんだよ?」
「佐藤って、私の元カレにすごくそっくりなんだよね。優しいとことか、言葉使いとか、結構似てる。 だからかな? 私、佐藤のこと、直感で好きになっちゃったんだよね……」
「それは、ただ単に、俺と元カレを重ね合わせているだけだろ」
「……そうかもしれないね」
橋場はフッと微笑み、立ち上がった。
「帰ろっか」
「ああ」
俺たちは公園を出て、いつも歩いている通りに戻った。