第12話

文字数 4,650文字

 仕事が終わり、成形係の作業員たちは作業場を出てロッカールームに向かう。

「お疲れ! さいちゅう君!」

 俺がロッカールームに入ると、三股さんが笑顔で手を振ってきた。この人が俺の名前を呼び間違えるのは、もう三十回は超えている。多分というか、間違いなくワザとだ。悪意が感じられないから怒りは湧いてこないが、さすがに、そのネタにはもう飽きた。

「今日の飲み会、参加するんだよね?」

「はい」

「じゃあ、今日はご馳走になります!」

「え?」

「いやー、今日は最中君が奢ってくれるから好きなだけ食べられるなー! 悪いね、最中君!」

「い、いやいやいや! なんですかそれ!?」

 飲み会を主催したのは三股さんなのに、代金を俺が全額負担するなんて、どう考えてもおかしい。俺が慌てていると、ロッカールームでどっと笑いが起こった。

「冗談だよ最中君。そんな酷いことするはずないじゃん。からかって悪かったね。でも、先輩のボケにノリよく対応できるスキルを身につけておくと、結構役に立つんだぜ。こいつ面白いな~って思われて、上司に好かれたりすることもある」

 得意げに説明して、三股さんは自分のロッカーにズボンを取りに行く。あまり気にしていなかったが、俺がロッカールームに入ったときから、三股さんはパンツ一丁だった。男子ロッカールームには、女性の目を気にせず上半身裸だったりパンツ一丁で歩き回る人が沢山いて、三股さんもその一人だった。

「今日の飲み会、最中君のために女の子もちゃんと呼んだから心配しないでね」

「はぁ……」

「ただし、浮気だけはしないようにしろよ。社内恋愛はすぐ噂が広まるから、浮気するとバレるんだよ」

 まるで経験したことがあるような口ぶりの三股さん。実は女たらしなのでは、と俺は少し心配になった。

「橋場ちゃんも来るって言ってたから、この機会に一気に仲良くなって……。帰りに一緒にホテル行くといいよ」

「い、行かないですよ! 橋場と一緒に、ホテルなんて……」

 俺の頭にいかがわしい妄想が浮かんだ。頭を振って、浮かんだ妄想を無理やりもみ消す。その動きを見て、俺が何を考えていたのか悟った三股さんがこそっと耳打ちしてくる。

「ちゃんと避妊しろよ」

「しませんよ!」

「避妊しないのか!?」

「ち、違います! 橋場とそんなことしないって意味ですよ!」

「そんなことって?」

「……色々です」

 ニヤニヤ笑っている三股さんの背中を押して、ロッカールームの出口に向かう。

「最中君、ズボン穿くの忘れているよ」

 無言で自分のロッカーに引き返す俺を見て、三股さんは楽しそうに笑っていた。



 工場を出た俺と橋場と三股さんは、新宿三丁目駅の周辺をぶらぶら散歩したあと、17時30分頃に飲み会が行われる居酒屋に入った。

 三股さんが予約を入れた居酒屋は、全国に店舗を置く有名なチェーン店だった。18時になると、三股さんに誘われた工場の作業員たちが暖簾をくぐって続々と入って来た。

「お疲れ。橋場ちゃん、最中君」

 広い座敷部屋で待っていた俺と橋場を見て、日頃市さんはにこやかな笑みを浮かべた。そのうしろにいた男性が、俺と橋場に気づいて手を振る。

「やあ最中君、橋場ちゃん」

「どうも……」

 俺と橋場は同時に会釈する。手を振った男性は、成形係で働いている露木(つゆき)(りょう)さんだ。露木さんは三股さんと同時期に入社した正社員で、年齢も同じ二十一歳。高校生のとき、空手部に所属していたらしく、手足が太く、身体が熊みたいにもっこりしていた。

「こっちこっち。こっちに座って」

 三股さんが、日頃市さんたちと一緒に店に入ってきた人たちを手招きし、長テーブルに座るよう促す。全員が座ったのを見て、日頃市さんは小声で三股さんに訊いた。

「他にも、まだ来るの?」

「多分、もう来ないんじゃないかな。始めちゃおう」

 三股さんは、今ここにいる飲み会参加者全員の人数をかぞえたあと、店員を呼んで人数分の生ビールを注文した。

「えっと、俺と橋場は未成年なんですが……」

「大丈夫。お酒は十八歳からだから」

 そう嘘ぶいて、三股さんは俺にウインクする。周りからクスクスという小さな笑いが起きた。ここで、「お酒飲みません」などと断って三股さんと他の人たちを白けさせたくなかったので、俺と橋場は、「そうですね」と頷いておいた。

「最中君と橋場ちゃんも好きなの頼んでいいよ。二人の分は俺が奢るからさ」

「え、いいんですか!?」

 橋場が嬉しそうな声を上げる。

「おい、二人だけってどういうことだよ。俺の分は払ってくれないのかよ」

 そう言って、露木さんは唇を尖らせる。

「後輩は特別だからね」

「同期は特別じゃないのかよ」

「……あれ、同期だったっけ? ていうかキミ、いつからいたっけ?」

「こ、こいつうぜえ……! 後輩にメシ奢って、金無くなればいいのに!」

 文句を言いながらも、露木さんはなんだか楽しそうだ。三股さんと露木さんがこんな会話をしているところを工場内でも何度か見かけたことがある。同期で同い年ということもあって、色々なことを話しやすい仲なのだろう。

 5分ほどして、店員がビールの入ったジョッキをおぼんにのせて運んできた。全員がビールを持ったところで、三股さんが乾杯の合図をする。そのあとは、集まった各々が自由に好きな物を注文し、仲の良い者同士でトークを始めた。新入生歓迎会のときと違い、三股さん主催の飲み会は、堅苦しい司会無しでフリーに開始されたのだった。



 一時間が経った。集まった者の半分以上が酔っ払っているが、俺は、酒に強い体質だったみたいで、ビールを数杯飲んでもまだ平気だった。

「そういえば今日、佐藤がニヤニヤしながら仕事してたんですよ。なんでニヤニヤしてんのって訊いたら、生きる原動力をみつけた~みたいなこと言われました」

 カクテルをチビチビ飲みながら、橋場が唐突にめんどくさい話を持ち出した。

「生きる原動力?」

「もしかして、彼女できたとか?」

「最中君。女の子に興味なさそうな感じなのに、意外だねえ」

 三股さん、日頃市さん、露木さんは、すぐ橋場の話に食いついた。

「いや、違いますよ! 彼女なんていないですよ!」

「じゃあ、なんなのよ?」

「それはもう工場で話しただろ。目標を見つけたんだよ」

「その目標ってのがなんなのか知りたいの!」

 橋場以外の三人は俺の慌てる姿を見たいだけのように感じられるが、彼女だけは本気で〈真実〉を知りたがっている様子だった。だがしかし、橋場には悪いが、どんなに知りたがっていても真実を教えるつもりはない。シューとソルのことは、誰にも教えられない。

 ……シューとソル?

 ふと、俺の頭に二人の娘の姿が浮かんだ。シューは泣きそうな顔で俺の名前を呼び、ソルは泣きながら「お腹空いた!」を連呼している。

 ……そう言えば、あいつらに飲み会あるって言ってなかったな。

 今頃、シューとソルは俺の名前を呼びながら泣いているかもしれない。俺の帰りを信じながら、空腹に耐えているのかもしれない。

「ま、いっか」

「何が?」

 橋場は口を半開きにし、餌を食べようとする鯉みたいな顔で覗きこんでくる。そのマヌケな顔に苦笑いで応え、俺はビールを一口飲んだ。

 ……別にいいじゃないか。シューとソルだって馬鹿じゃないんだ。レトルト食品などをしまっている戸棚に、ついこの間買ったカップラーメンと、フルーツフレークが入っているから、俺がいなくても、お腹が空いたら勝手に食べるだろ。

 俺はビールを飲もうとジョッキを掴んだ。ジョッキは空だった。

「おっ、さいちゅう君! もう一杯飲むかい?」

「え、ええ。そうですね」

 三股さんは店員を呼んで、俺の分のビールと自分の分のチューハイを注文した。

 ……いいんだ、これで。

 今日は飲み会を楽しむ日。早く帰ると言っておきながら、早く帰らず、飯も作ってやらず、そのくせ俺は先輩たちにタダ飯を食わせてもらって酒を馬鹿みたいに飲んでいる。なんだか、シューとソルを裏切ったみたいで悪いけれど、今から帰ると飲み会を楽しんでいる先輩たちに悪い。だから、今日はこのまま飲み会を楽しむことにする。

 そして家に帰ったら、シューとソルに飯を作ってやれなかったことを謝ろう。シューとソルにはボロクソに怒鳴られるだろうが、どうせ次の日には怒ったことを忘れるはず。だからいいんだ。これで……。

 店員が来て、俺と三股さんの前にビールとチューハイを置く。

「…………」

 いいのか? 本当に、これでいいのだろうか?

 小さい頃、俺はこんな体験をしたことがある。確か、小学三年生のときだったか……。その日、俺は実家の作業場で父親と一緒に大福餅を作っていた。父親が成形した大福餅を番重にのせて運んでいるとき、俺はうっかり足を滑らせて、大福餅を全て床に落としてしまった。父親は、「食べ物を粗末にするな!」と怒鳴って、〈夕食無し〉という刑罰を俺に与えた。そして夕飯時。父親と母親は、腹をぐうぐう鳴らす俺を無視して、見せつけるように夕飯を食べていた。目の前に食べ物があるのに、それを食べることができないというのは、当時の俺にはとんでもなく厳しい拷問に感じられたのを今でも覚えている。

「お腹すいた!」
「お父さん、お母さん! ひどいことやめて!」
「お腹苦しい!」
「ご飯食べさせて!」

 俺は泣きながら、何度も父親と母親に叫んだ。でも、両親は何も言わず、黙って食事をしていた。俺は二人の無反応ぶりに愕然とした。確かに、大福餅をダメにしたのは自分のせいだ。悪いのは全部自分。こうなったのは全て自分の責任。でも、そのときの俺は、そんな風には思わなかった。

 俺は、両親に

と思った。親というのは、子供に飯を食べさせてくれる存在だと当時の俺は信じ込んでいた。だから、飯をもらえなかったあの日、俺は、両親に裏切られた、見捨てられたと思い、大泣きした。

 ……今、俺は、シューとソルに同じことをしているのではないか?

 両親に怒られて、飯を食べさせてもらえなかったのは自分のせいだ。

 でも、シューとソルは何か悪いことをしたか? いや、何もしていない。

 シューとソルは、夕食をただ待っているだけだ。それなのに、俺は腹を空かせた娘たちを無視して、美味しいものを食べ、アルコールを身体に入れている。これは、本当にいいことなのか。

「いいわけないだろ、バカヤローッ!」

「!?」

 突然の大声に驚いた客たちが、一斉に俺の方を向いた。

 俺は自分のバッグを引っ掴んで立ち上がり、その場にいる一人一人に、狂った鳩のようにお辞儀を繰り返した。

「すみません! 俺、先に帰ります!」

「ええっ!? なんでなんでーっ!?」

 橋場は驚愕し、〈ムンクの叫び〉のようなポーズをとった。

「ホント、すみません! 大事な急用を思い出しました!」

「急用!? そんなの、一言も言ってなかったじゃん!」

 裏返った声で、三股さんが叫んだ。

「たった今、思い出したんです。本当に、すみません……」

「え~、つまんないなぁ……。さいちゅう君が帰ったら、つまんないよ……」

 三股さんは白けた顔で、ぐびぐびと豪快にチューハイを飲んだ。

「……まぁ、急用なら仕方ないね。先に帰りな。バイバイ」

 さっきまで元気だったのが嘘のように、三股さんは不快そうに顔を歪め、俺の背中をドンと押した。「お前なんか知らねーよ」と突き放されたような気がして、俺の心がズキッと傷んだ。

「お先に失礼します……」

 俺は三股さん主催の飲み会に参加した人たちに一礼し、出口に向かった。
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