第14話

文字数 3,584文字

 次の日の朝、6時45分。男子ロッカールームに入って来た三股さんに、俺は素早く駆け寄って頭を下げた。

「三股さん! 一昨日の飲み会、途中で抜けてすみませんでした!」

 どれだけこの言葉を本人に言いたかったか……。ドキドキしながら顔を上げると、そこにいたはずの三股さんの姿が消えていた。「あれ?」と思い、後ろを向くと、三股さんはロッカーを開けて作業着を取り出し、いそいそと着替えを始めていた。

 作業は7時から始まるので、急いでいるのだろうか。それなら、無視されても仕方がない。そう、思ったが……。

「よう三股! おはよう!」

「おう! おはよう!」

 ロッカールームで着替えをしていた露木さんの声に、三股さんはちゃんと応えていた。
 
 俺の声が聞こえなかったわけがない。目の前で大声を出したのに、それが聞こえなかったなんておかしい。俺はもう一度、三股さんに声をかけてみることにした。

「あの、三股さん?」

「やべえ! 早く着替えて工場に入らねえと!」

「お前、そんなに焦って着替えるなら、もっと早く来ればいいのに……」

「大丈夫だ! 俺の高速着替えなら間に合う!」

「アホかよ……」

 また無視された。話しかけるタイミングを間違えたか。三股さんは着替えるのに夢中で、俺の声が聞こえなかったのだろう。

「あの、三股さん?」

「よし終わった! 行くぞ!」

「マジか。お前マジで早いな」

「先行ってるぞ!」

「おー」

 露木さんに手を振って、三股さんはロッカールームを出て行ってしまった。バタンと閉じたロッカールームのドアを見つめて、俺は呆然とした。三回話しかけて、三回とも無視されることなんてあるだろうか。

「あの、露木さん? 三股さん、この前の飲み会の件でめちゃくちゃ怒っているんですけど……。俺、どうしたらいいですかね?」

 俺は三股さんと仲の良い露木さんに助けを求めた。

「露木さん。俺、本当に困ってまして……」

 バタン、とロッカールームのドアが閉まった。俺の声を無視して、露木さんも出て行った。まだ俺がいるのに、ロッカールームの電気を消して……。

「嘘だろ……」

 暗いロッカールームで、俺は一人、情けなく呟いた。



 作業時間がとんでもなくつまらない。今まで楽しいと思いながら作業していたのが不思議に思えるくらい、パンの成形作業がつまらない。

 そう思うようになった原因は、間違いなく俺だ。俺自身のせいだ。三股さん主催の飲み会を一人勝手に抜けたせいで、飲み会に参加した人たち全員が俺を嫌いになってしまったのだ。

 いつもなら「さいちゅう君!」と笑って話しかけてくれる三股さんが、今日は俺と目も合わせず作業している。露木さんも、日頃市さんも、橋場までもが、俺と一言も口を聞いてくれない。みんなの無視は徹底していて、仕事に関係のある話すらしてくれないのだ。まるで、俺がそこに存在しないかのように黙々とパンの成形を行っている。俺は、完全に孤立していた。

 昼休みになった。俺はいつも、昼は一人だ。工場近くの定食屋で昼食をとっている。作業している人たちに「一緒に食べないか?」と何度か誘われたことがあるが、「一人がいいので」と断って一人ぼっちで食べていた。

 一人で食べる昼食の時間が、俺は好きだった。先輩や上司に気を遣う必要がないし、昼限定で出される〈ニラレバ定食〉が安くて美味いし、食べ終わったあとの余った時間を仮眠に使うことができたから……。

 けれど、今日は違った。今日だけは誰かと一緒に食事をとりたかった。そして、俺の悩みを誰かに聞いてほしかった。三股さんや他のみんなと仲直りする方法を誰かにアドバイスしてもらいたかった。けれど、みんなして俺のことを無視するから、結局俺は、一人で定食屋に入った。苦しくて胸が壊れそうだった。誰かに怒鳴られるのは、短気の父親のおかげで慣れている。だが、誰かに無視された経験はまったく無いから、どうやって今の気持ちを抑えればいいのかわからなかった。

 いつもより不味く感じる〈レバニラ定食〉を完食し、代金を払って外に出る。スマホで時刻を確認して、俺は溜息を吐いた。考え事をしながら食べていたせいで仮眠の時間が無くなってしまった。もう、工場に戻らなくてはいけない時間だ。

 ……戻りたくない。嫌だな、仕事……。

 いっそこのまま、仕事をバックレて家に帰ってしまおうか。そんな考えが一瞬、俺の頭をよぎった。

 でも、駄目だ。逃げたらかえって状況を悪くするだけ。働いて、金を稼いで、給料を得なければ、俺は生きて行くことができない。金が無ければ、シューとソルを養うことができないのだ。どれだけ心が傷ついていようとも、俺の逃げ道は無い。目の前にあるのが血の池でも、針の山でも、俺はそこを進まないといけない。

 工場に入り、午後の仕事が始まる。相変わらず、作業場の人たちの態度は変わらない。誰も俺と口を聞かず、俺以外の作業員同士でのみコミュニケーションをとっている。

 別に、話をするのはいい。俺に人の会話を邪魔する権利は無いから。だけど、できれば俺がいない場所で話をしてほしかった。近くで話をされると俺の耳に入って来るのだ。聞きたくもない、俺の愚痴が……。

 俺が成形したパンのできが悪いとか、俺が胃腸炎で休んだのは実はサボりだったとか(合っているけれど)、橋場がいれば俺はいらないとか、そんな話が聞こえてくる、本当に嫌な仕事場だった。とにかく居心地が悪い。「早く終われ」と願いながら、作業場の壁に取り付けられた時計を十秒に一回のペースで見た。

 掃除が終わり、谷山さんが作業終了の号令を上げたと同時に俺は工場の外に飛び出した。階段を駆け降り、事務所に入ってタイムカードを押す。ロッカールームで着替えを済ませ、出入口ドアに手を伸ばしたところで三股さんが入って来た。目を合わせず、俺の横をすり抜ける。
 
 悪いのは俺。こうなった原因は俺が飲み会を途中で抜けたからだ。それなのに俺は逆ギレし、三股さんに反抗した。ロッカールームを出て、三股さんを驚かせるために、出入口ドアを乱暴に閉めた。その音に驚いた事務員たちの視線が一斉に俺に向けられる。「こいつは何をしているんだ?」と言いたげな事務員たちの目から逃げるように、俺は事務所を出た。そこで、事務所に入ろうとしていた橋場と鉢合わせた。

「お前も俺のこと、無視すんの……?」

 橋場は何も答えてくれない。気まずそうに目を逸らし、事務所に入って行く。それを見て、俺の中で

が壊れた。

 ……上等だ。もういい、知らねえ。俺は誰も信じない。

 工場の奴らは、みんな俺の敵だ。嫌いになりたければ、勝手に嫌いになればいい。工場の作業員(イコール)敵。極端な考えだが、これが一番楽だ。三股さんは俺の敵。橋場も敵。工場の人、みんな敵だ。

「……佐藤」

 敵が何か呟いた。聞く価値無し。かつての友人に背を向け、俺は工場から離れた。



 アパートに着いた。俺は、一旦、部屋のドアの前で立ち止まった。

 ……俺の顔は、ちゃんと笑顔になっているだろうか?

 作業員に嫌われた件は、工場の中だけの問題であって、シューとソルには関係が無い。持ち出して、部屋の空気を悪くし、それと同時にシューとソルの気分も悪くさせてしまうのは嫌だったので、俺はスマホのカメラで自身の顔を映し、表情を整えてからドアを開けた。

「お帰り、お父さん!」

「お帰り! 今日は早かったな!」

「……ああ。ただいま」

 パタパタと駆けて来るシューとソルを見て、俺は心の底から安堵した。

 今日一日、本当に辛かった。人から無視され、愚痴を言われ、目を逸らされた。工場に俺の味方はいないが、ここにはいる。俺の帰りをまだかまだかと待ち望んでいる娘がいる。その事実が、彼女たちの声が、弱っていた俺の心に冷水のように染み渡った。

「お父さん。なんでそんなに悲しそうなの?」

「何か、嫌なことでもあったのか?」

 笑顔を取り繕っていても、シューとソルには俺の心の内側が見えるらしい。純粋な子供の心には、大人の嘘など通用しないのか。それとも、モノノケは人の心の変化に敏感な、感受性の強い生き物なのか。

「何かあったの?」

「聞かせろよ。父さん」

「いや、それは……」

 子供に悩みを語ることは恥ずかしい。……というより、なんだか情けない気がする。

 こんな俺でも、プライドは持っている。娘たちに弱った自分を見せたくないというプライドだ。しかし、それは間違いではないかと、今になって思い始めた。

 俺は今、落ち込んでいる。シューとソルも、直感でそのことに気づいた。つまり、俺がここで「なんでもない」と言って誤魔化せば、それは、シューとソルが嫌がる〈嘘〉になってしまう。

「実は今日、工場で……」

 俺はシューとソルに、工場で起こった一部始終を語った。そのときの俺がどのような心情だったのかも、事細かに説明した。
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