日本人としての共通感覚

文字数 1,321文字

 私は霊魂の存在を信じない。
 小学五年生のときに祖父が亡くなり、火葬されて出てきた姿を見て「おじいちゃんはもういない」という強い衝撃を受けたとき以来、変わらぬ信念だ。母が亡くなり、父が亡くなったときも同じ思いだった。サラリーマンの片手間で哲学や宗教をかじってもみたが、その信念は変わらなかった。
 では、お前は神社や寺にお参りしないのかと問われれば、とんでもないと答えたい。
 国土に継承された文化を享受して育った日本人として、初詣に限らず、節目ごとに寺や神社に参拝するし、母の仏壇と遺影には毎朝のように手を合わせる。ジョッギング中でも祠などを見かければ、走りながらのほんの一瞬だが手を合わせる。
 それは習慣や反射的な行為なのだろうが、気持ちとしては祈りであり感謝の表現だ。祈りと言うよりは誓いに近いかもしれない。
 たとえば新型コロナの感染拡大が止まない今日的な状況の中で「無病息災」を祈るとは、それを実現できるように行動を律する誓いでもあるだろう。
 神様や仏様がいるからと思ってするのではなく、そこが祈りを捧げる場所として設けられていて、経験的に自分の中で何かを祈ったり誓ったりする場所として位置づけがなされているからだ。墓や仏壇で手を合わせるのは、霊魂があると思っているからではなく、感謝を捧げている。亡くなった人を思うことによって、自身が生かされていることを改めて確認し、感謝する意味があるからだ。
 戦争の経験はないが「申し訳なさ」を感じることもある。私に限らずこの「申し訳なさ」は、多くの日本人がしばしば抱く感情で、海外の人に比べて「すみません」という言葉が会話の中に多いのも、国土が引き継いでいるDNAとして日本人の基底に「申し訳なさ」が流れているからではないかと思う。
 その「申し訳なさ」は、私には「生かされていること」に対する感謝のように思われる。
 戦争を体験した方々とは感じ方に違いはあるのだろうが、共通した感覚、思いは私にもあるように思う。
 私にとって日本人として抱く何かは、すべてのつながりと関係性の中で支え合いながら、互いに生かし生かされていることへの「申し訳なさ」や「感謝」であり、そうしたつながりと関係性による場所が平穏無事に変化を続けていくことへの「祈りや誓い」だろうと思っている。

 私は原野さんが魂と信じていたものも、原野さんの心にあるひとつの場所だと思う。
 戦友たちとともにした戦場で、互いに助け合い、励まし合い、共感し、ときに反発もしたりしながら築き上げ、共有してきた場所。
 その場所が戦友の死によって、どうにも癒すことのできない場所として変化を終えてしまったことが、原野さんの青春を無気力なものに変えてしまった。
 原野さんは戦友の霊魂が慰められないからだと思ったが、それは原野さんの心をなすひとつの場所とどう向き合うかという問題であったように思える。
 80歳を迎えての決断に至るまでには、その場所から距離を置く時期もあったのではないだろうか。仕事に身を捧げる時期を越え、高齢になって戦友のことを考える中で辿り着いた信仰と悟りから生まれた結論が青春の再構築であり、平和の祈りを捧げることだったのではないだろうか。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み