国土を思う
文字数 1,387文字
ひとつは、原野さんが亡くなった日が沖縄県慰霊の日の二日後だったことだ。
ちょうどこのころから終戦記念日あたりまで、マスコミなどでも戦争関連や戦争体験の報道が多くなる。原野さんも自らの戦争体験が自転車での日本一周へと導くこととなった。
先の旅館の女将のブログによれば、原野さんは次のように語っていたようだ。
「私は戦争のせいで青春がありませんでした。多くの友人が戦死しました。彼らの青春は永久にありません。残された私が青春を楽しまなかったら、あの世に行ったときに彼らにあわせる顔がないんです。だから、今、青春をしてます。彼らが私と一緒に日本一周旅行を楽しんでいるのを感じながら走っています」
原野さんにとっての日本一周の意味は、平穏な国土を実感することにあったのではないかと思う。海に囲まれた美しい国土の風景は戦友たちが命を懸けて守った証で、その風景をともに楽しむことが、青春のやり直しだったのだろう。
国土とは、領土とは異なる日本独特の概念で、私流に言えば、日本と名前の付けられた大地に展開される人と人、大地に広がる自然や動物などとのつながりと関係性の相互作用の総体で、ひとつの場所だ。
「国」や「国家」を守ると言うと、守るべき実態が抽象的に表現された国体なのか政府のような組織のことなのか、あるいは国民なのかよく分からなくなるが、この「国」に大地である「土」がつくと、そこに展開されている人や自然の営みが見えてくる。
国土にはひとりひとりの具体的な生活を成立させている土台としての実態がある。
戦地に赴いた人にとって家族の住む場所の営みは、国土にあるひとつの営みに位置づけられる。「国土を守る」ことが、家族や親しい人々を守ることと直結しているという意識が使命感を生んでいたのではないかと思う。
私は大阪万博の年に中学二年生だった。「戦争を知らない子供たち」のひとりだ。身内に戦争で犠牲になったという人がいたという話も聞いたことがない。
世界ではベトナム戦争もあれば中東戦争も依然としてくすぶっていて、決して戦争がない時代ではなかったが、幸い日本にいて戦争を身近に感じたことはなかった。
私には戦争との直接的なつながりや関係性を有する場所はない。
私は国土が世界に開かれていく中で育った。経済の高度成長を牽引するかのように土地の利用や交通体系のあり方が大きく様変わりし、企業を中心とした文化が促進され、核家族化も進んだ。在住する外国人の増加や外国人と婚姻関係を結ぶ人、その二世、三世も増え、日本語を主言語としない人も増えていく中で、日本人という定義そのものも曖昧になっていった。
国土の有様が柔軟に変化していく時代に育ったのだ。
しかし、その国土には戦争の傷跡がある。私は幼いころからその傷跡について聞く機会があったし、いつごろからだったか終戦記念日には黙祷を捧げるのが習慣になった。
国土は私の場所のひとつであり、日本に暮らす人々と共有する場所だ。そこに戦争はあった。
国土を感じながら毎日を過ごす日本人として、私は原野さんの戦友への強い思いと80歳になっての決断に心動かされ共感した。それは日本人という漠然とした枠組みの中で感じる共感だ。
ただ同時に、戦争の持つイメージが私の中の国土いう場所に、ある種のかたさを生む瞬間でもあった。
原野さんはそのかたさで苦しんだ。
ちょうどこのころから終戦記念日あたりまで、マスコミなどでも戦争関連や戦争体験の報道が多くなる。原野さんも自らの戦争体験が自転車での日本一周へと導くこととなった。
先の旅館の女将のブログによれば、原野さんは次のように語っていたようだ。
「私は戦争のせいで青春がありませんでした。多くの友人が戦死しました。彼らの青春は永久にありません。残された私が青春を楽しまなかったら、あの世に行ったときに彼らにあわせる顔がないんです。だから、今、青春をしてます。彼らが私と一緒に日本一周旅行を楽しんでいるのを感じながら走っています」
原野さんにとっての日本一周の意味は、平穏な国土を実感することにあったのではないかと思う。海に囲まれた美しい国土の風景は戦友たちが命を懸けて守った証で、その風景をともに楽しむことが、青春のやり直しだったのだろう。
国土とは、領土とは異なる日本独特の概念で、私流に言えば、日本と名前の付けられた大地に展開される人と人、大地に広がる自然や動物などとのつながりと関係性の相互作用の総体で、ひとつの場所だ。
「国」や「国家」を守ると言うと、守るべき実態が抽象的に表現された国体なのか政府のような組織のことなのか、あるいは国民なのかよく分からなくなるが、この「国」に大地である「土」がつくと、そこに展開されている人や自然の営みが見えてくる。
国土にはひとりひとりの具体的な生活を成立させている土台としての実態がある。
戦地に赴いた人にとって家族の住む場所の営みは、国土にあるひとつの営みに位置づけられる。「国土を守る」ことが、家族や親しい人々を守ることと直結しているという意識が使命感を生んでいたのではないかと思う。
私は大阪万博の年に中学二年生だった。「戦争を知らない子供たち」のひとりだ。身内に戦争で犠牲になったという人がいたという話も聞いたことがない。
世界ではベトナム戦争もあれば中東戦争も依然としてくすぶっていて、決して戦争がない時代ではなかったが、幸い日本にいて戦争を身近に感じたことはなかった。
私には戦争との直接的なつながりや関係性を有する場所はない。
私は国土が世界に開かれていく中で育った。経済の高度成長を牽引するかのように土地の利用や交通体系のあり方が大きく様変わりし、企業を中心とした文化が促進され、核家族化も進んだ。在住する外国人の増加や外国人と婚姻関係を結ぶ人、その二世、三世も増え、日本語を主言語としない人も増えていく中で、日本人という定義そのものも曖昧になっていった。
国土の有様が柔軟に変化していく時代に育ったのだ。
しかし、その国土には戦争の傷跡がある。私は幼いころからその傷跡について聞く機会があったし、いつごろからだったか終戦記念日には黙祷を捧げるのが習慣になった。
国土は私の場所のひとつであり、日本に暮らす人々と共有する場所だ。そこに戦争はあった。
国土を感じながら毎日を過ごす日本人として、私は原野さんの戦友への強い思いと80歳になっての決断に心動かされ共感した。それは日本人という漠然とした枠組みの中で感じる共感だ。
ただ同時に、戦争の持つイメージが私の中の国土いう場所に、ある種のかたさを生む瞬間でもあった。
原野さんはそのかたさで苦しんだ。