場所ということ

文字数 1,028文字

 私は宗教もそれを信仰する人々や自然、ものなどとのつながりと関係性の相互作用によるひとつの場所だと考えている。
 その場所にあってこそ共有される真実の中には、場所にいない人にとって理解できないものもあるだろう。そのことを互いに認め合ったうえで、心の問題について助け合えることがあれば、それは望ましいことだろうと思う。
 ところが宗教によっては、その場所の境界がとてもかたかったり、他の場所を一方的に包み込んでしまうような勢いで、心の中を占めるように働くものがあるように思える。
 私はもう少し自由に自分の場所を積み重ね、柔軟に変化させながら、その場所場所を貫き通す私という存在を見出していきたいと思う。

 我が家には母の仏壇があり、少し離れたところに墓もある。法要は母が亡くなったときの縁で臨済宗の和尚にお願いし、三十三回忌を越えたいまも臨済宗の寺にお願いしている。
 母が亡くなってから一年間は毎日いくつかのお経を唱え続け、いまでも母の法要などでは唱えている。意味はよく分かっていないが、いくつか心に残る言葉を見い出すこともある。
 最初にお世話になった和尚が法事を終えて、妻が用意した饅頭とお茶を前にしたとき、「饅頭にも仏様がいます。感謝して食べましょう」と言った。
 私はその言葉が奇異に思えた。仏様がいると信じているのに食べるとはどういうことなのか。その後僧侶は亡くなり意味を聞く機会も失ったが、いまではそれは場所のことを言っていたのではないかと思っている。
 饅頭ひとつであってもさまざまなつながりと関係性があってはじめて生まれるもので、そのつながりと関係性の相互作用によって生まれている力の総体を、仏様と抽象的に表現したのではなかったか。

 私に信仰心はない。ただ、仏教という場所には(やわ)らかさがあるように感じている。
 この和らかさが国土に引き継がれてきた文化の和らかさや曖昧さにもつながっているように思える。そして、場所という考えにもつながっているようにも思えてくる。

 最初に語ったように、私は生前の原野さんをまったく知らない。
 遺族の方や原野さんを知る親しい方には不愉快な話もあったかもしれない。
 私が語ってきた原野さんは、もちろん私の場所にある私の原野さん像だ。
 せめて原野さんの日記やメモに触れることができて、原野さんとの対話を深めることができれば、もう少し原野さんの実像に近づくことができ、思いを一つにして平和への祈りを捧げることができるのかも知れない。
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