「願う 鎮魂」

文字数 1,467文字

 原野さんは、戦友が「私と一緒に日本一周旅行を楽しんでいるのを感じながら走っています」と言った。
 Tシャツの胸側には「願う 鎮魂 大東亜戦争で 御霊と化せられし 同胞 我友」とあった(先のNHK番組より読み取った内容。一部不明瞭な個所は類推)。
 若いころからしみ込んだ言葉を用いたのか、意識的に使用したのかは分からないが、「大東亜戦争で御霊と化せられし」と言っているので、靖国神社に(まつ)られ御霊(みたま)となっている戦友ということなのだろうと思う。
 原野さんは神道を信じ、戦友たちが御霊となって、原野さんとともにあると信じていることがわかる。
 ただ、「願う 鎮魂」とは、「戦友の霊魂の平安を祈っている」という慰霊の表現なのか、それとも文字通り「戦争のせいで青春を永久に奪われ御霊となってさまよう戦友たちの魂を鎮めてくれ」と願ったと考えるべきなのかはわからない。

 古代人の思考や霊魂について研究した折口信夫は、霊魂は「たま」で、「たましひ」は霊魂の作用のことで、少なくとも目に見える光を持ったもの、尾を曳いたものではないと言う。
 たまは霊体で多くの場合はものに内在していて、その霊を包んでいるものをたまと言う。宝石、貝殻や単なる石であってもたまと呼ぶことがあるのは、そのためだそうだ。
 この霊魂観が、物質としての身体に対して、霊的な「たま」すなわち霊魂があって、不死の霊魂が「容れ物」としての身体を求めて移動するという宗教観を生んでいる。
 カトリック教会でも、人間は物質的身体と霊的で不死の霊魂から成る存在と考えられているという(以上、主に林浩平『折口信夫 霊性の思索者』平凡社2009年参照)。
 だから、三浦朱門は神道を宗教としては認めないことを前提に、幼なじみの霊魂が祀られているとされる靖国神社に参拝しているのだろう。

 鎮魂については、「近世神道で考えてゐる鎮魂の意味は多少誤解からして、変化してゐるやうである。即遊離した魂を再、身につけるたましづめの意味になっているが、古くは外来魂(威霊)を身につける、たまふりの意味であった」と折口は言っている。
 ここで外来魂(威霊)とあるのは、天皇が有する日本の国を治める根本的な力の泉のことだ(折口信夫『古代人の思考』青空文庫)。
 そして、「たまふり」とは霊威を帯びた「衣」を振り動かすことで、魂はその「依り代」としての「衣」を仲介して、肉体から肉体へと乗り継いでいくもので、大嘗会における鎮魂(みたまふり)も、新天皇が()ないし(かさね)と呼ばれる特有の衣装にくるまって引き籠ることで、魂を自分の身体に入れようとする行事のことだと言う(主に松浦寿輝『折口信夫論』ちくま学芸文庫2008年参照)。
 神道のよき精神を普遍化し宗教化することを唱えた折口が、神道に基づく靖国神社の根本精神である鎮魂の意味が「多少の誤解」で変化しているとしているのは、靖国信仰によって本来の意義が見失われることを懸念したからだろう。
 いずれにしても、原野さんにとっては、靖国神社の精神「たましづめ」を願った。
 幾多の苦難に耐えながら、日本一周の目前までたどり着くことができたのは、この鎮魂の願いと平和の祈りだった。
 亡くなる瞬間には、戦友の霊魂も鎮まり、思い残すことがなかったかも知れない。
 その思いはとても尊いものだし、80歳の高齢者が日本一周を果たしたという感動だけではない、日本人として奥底に抱く何かが共振することに違いはない。
 だとするなら、霊魂の存在を信ずるか信じないかは、心の問題をどう整理するかという方法論の違いに過ぎないのだろうか。
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