第1話

文字数 1,853文字



 まえがき

 これは2016~2020年に書かれた詩やスケッチなども含めた雑記である。内面世界についても書いてあり、時おり、著者のイメージが先行して、読みづらくなる箇所があるのを先に謝っておきたい。

1
今日は、休日ですので、いずみ中央の自宅から、車で二三十分ほどの鎌倉や七里ヶ浜、江ノ島などの湘南海岸ドライブを、母と共にしてきました。鎌倉では、先ずは、『高徳院』で御参拝をさせて頂きまして、有名な阿弥陀如来像の御前で、静かに合掌させて頂きました。

日和が良く、ほのかに初夏の馨(かお)りが立ち、松の葉も、消えゆき舞踊する雲を嫋(たお)やかに歌い、行き交う人々の陰影には、雲雀(ひばり)の囀ずりが、聴こえてくるかのようでした。ぼうぼうと、あたりの風情を感じておりますと、外国人の方に声をかけられて、一枚の写真を取る機会が御座いました。僕はその場で、しゃがみ込み、声を高々に上げて、シャッターを切りました。その時に、ふと「一期一会」という言葉が胸に浮かび、その刹那に、泰平を祈る言葉の数々が湧き上がり、心のなかで詠いました。

また、車窓から眺める湘南海岸の煌めきは、まるで湘南の神々が宴を催し、琴の音を鳴らしたり、彩雲を描いたり、舞を舞っているようでいて、一枚織の天衣無縫の羽衣(はごろも)を、僕に授けて下さるかのようでした。悠久なる海の女神の手のひらの内で、神々と共に、僕達は、極小と極大の呼吸をしているのです。僕達の息吹きは、やがて、豊かな木々や海を育み、星を創造して、古来からのご恩を返していくのでしょう。

こんなことを想いながら、ハンドルを廻し、アクセルをかけていけば、心が次第に、湘南の潮の精霊達に溶けていき、意識の扉が開かれて、広がっていきます。なんとも未知なる豊潤な世界が、息を潜めていたことでしょう。日々の僕は、かりそめの姿だったのでしょうか…。心のどこかにあった牢獄や悲鳴、嘆きの数々が、音を立てながら崩れ、散らばっていき、再び、新生をおび、息を吹き還しながら、統合され、宇宙と一体となる和音が弾み、甘美な色彩をもつ、プリズムの閃光となって、あまねく僕という大地、精神や躰(からだ)という神殿に舞い降りてくるのです。その力によって、まことの幸福とは、自らの内奥の奥にあります霊根の力と神の共同創造によって、授けられると、伝わってきます。

それから僕と母は、江ノ島の本土に車を駐車して、アンティークな『カフェーマル』というカフェにて、時おり母と歓談し、時おり詩を書き、お店の雰囲気を味わいながら、珈琲を呑みました。

今日という黄昏の休日は、頭のなかでは、いつの日にか、忘れてしまう日が来るかも、知れませんが、命や心の記憶に、生きた経験と体験として、残り続けていくことでしょう。きっと、それは僕のなかで、始まり、僕のなかだけでは、終わらず、留まらずに「他」のなかにも、吹き込まれ、豊かに実っていくことでしょう。このように、個が、いつの日にか、全体に捧げられていくことは、ごくごく自然なことです。一輪の花が個として咲く、有限性の状態から、いつの日にか、花粉をこの世界中に散らばらせて、幾つもの「他」にその種や生命を広げ、「個」の有限性から、「全」への無限性へと移行していくのと、同様なのです。

いつでも風は、過去や前世の僕を知っており、水鏡には、未来の僕をも、映し出されていくものです。個や全の関係性とは、海の一滴がやがて、寄せては返す、恒久のさざ波になっていくのと同様です。個と全とは元々、一つの生き物であることが、よくよく僕には、感じとれるのです。意味の無いものは、何もなく、関係性の無いものや事柄も、何もありません。全てが一つなぎであり、全てが、一つだけの生命体だという、一体性や融即性、マンダラで顕されているような世界こそが、自然の営みであり、秩序であり、事事無礙法界(じじむげほっかい)であり、生きとしいける全ての命の理(ことわり)や規律(カノン)なのでしょう。

これからも、湘南に限らず、街や自然を散策していく機会があると、思いますが、ますます楽しみになっていくものです。楽しいことにこそ、少しずつ、ゆっくりと時間をかけて、熟成させていきたいものです。きっと「大器晩成」という言葉は、日の目を浴びない、若い人々への単なる気休めの言葉ではなく、花にも咲く時期や季節がありますように、人にも、花開いていく季節や目覚めていく時期というものがある、という史実や事実から派生された言葉なのでしょう。






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