第53話 お母さんって呼んで

文字数 2,530文字

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 時刻はもうすぐ午後十時。マンションを出たところでたまたま通り掛かったタクシーに飛び乗った。ここから病院まで、車なら十分もあれば着く。お釣りはいらないからと千円札一枚を運転手に渡し、わたしたちは急いで救急入口のドアをくぐり抜けてヒロ姉さんのいる部屋を目指した。
 部屋に飛び込む。数人の看護師がベッドを取り囲む中、担当医が懸命にヒロ姉さんに呼びかけていた。三十分ほど前に大量に吐血したらしい。シーツが点々と赤く染まっていた。
 わたしたちがベッドに駆け寄り、大きな声で「ヒロ姉さん!」「ヒロ姉ちゃん!」と呼びかけると、薄っすらと目を開けて、じっとこちらを見つめながら、かすかに微笑んだように見えた。
「患者様ご本人のご希望で心肺蘇生は行いませんが、ご家族様はそれでよろしいですか?」
 神妙な面持ちで主治医が聞いた。
それ、今聞くか? わたしは少し驚いて修二の顔を見る。
「もし可能性がないなら」
 修二は冷静だ。
「百%とは言いませんが、おそらく。それと人工呼吸器を入れますので意志の疎通はできなくなります」
「なら、いいです。苦しめるだけなので」
「わかりました。今はまだ少しは意識がある状態です。話し掛けてあげて下さい。聞こえているはずですから」
「息子さん、お母様の手を握ってあげて」
 年配の看護師が修二に言った。
 ああそうだ。ヒロ姉ちゃんじゃない。
「修二、お母さんよ! お母さんって呼んで!」
 わたしが強く言うと、修二はハッと思い出したように、ヒロ姉さんの痩せ細った手を握り、そして大きな声で話し掛けた。
「か、あ、さ、ん……」
 その後の言葉が出ない。ヒロ姉さんの唇がかすかに動いている。何かを懸命に伝えようとしていた。
「ごめんね。しゅう、ぼう。わたし……あなたの、お母さんに、なりたかったの」
「かあさん! 死なないで」
 ああダメだ。涙がこぼれる。わたしは辛かったヒロ姉さんの過去を思い出した。どれほど母と名乗りたかったか。今の今まで、母として子供と接することを禁じられて来たヒロ姉さん。いっしょに寝たり、ご飯を食べさせたり、遊んだり、母としてそんな当たり前のこともできなかったんだ。歪んでしまった愛情表現。誰も彼女を責められない。
「ゆ、う、ちゃん、しゅう、ぼうを、おねがいね」
 ヒロ姉さんは最期の力を振り絞ってわたしの手を握った。わたしは手を握りながら、ただうんうんと頷くしかできない。ヒロ姉さんはにっこりと微笑んだ。
「しゅういちろう、さん……」
 それがヒロ姉さんの最期の言葉だった。
 午後十時四十五分。ヒロ姉さんは眠るように天国に旅立った。きっと修一郎さんが迎えに来ていたに違いない。
 点滴も管もすべてが取り外された。「山崎さん、これで楽になったね」と看護師の一人がやさしく言った。
 わたしと修二はヒロ姉さんの死に水を取り、「もう最期だからこれできれいにしてあげてくださいね」と手渡されたアルコールとガーゼを受け取り、裸になったヒロ姉さんをじっと見つめた。 左の胸が酷く歪んでいた。痛々しい。けれどそれ以外は、まるで生きているように瑞々しい。薄いチョコレート色の乳首も、きれいに処理された下半身すら、この人は死して尚、美しい。 
 まるで何もなかったように「優ちゃん、修坊、」と起き出すような気さえした。そんなこともあるはずもないのに。そしてわたしと修二はヒロ姉さんの体を一生懸命に丁寧に拭いてあげた。修二の目には涙が光っていた。拭きながらわたしは不謹慎だとは思ったが、あの三人でベッドに入った夜のことを思い出していた。あの時に、戻りたい。 
 わたしたちは立ち会って下さった病院の方々に丁重にお礼を述べると、その時、あの関西弁の看護師さんがスマホをわたしに差し出した。
「あの、これ」
「何ですか?」
「お母様から、お亡くなりになったら、ご家族様にお渡しするようにと」
 ヒロ姉さんのスマホだ。
「今日の夜、あなたがお帰りになった後で、お母さん、一度お目覚めになりはって、それで、ご自分でメッセージを動画に残さはったようです」
「ねえ修二、お母さんをうちに連れて帰りましょう」
 修二はただうんうんと強く頷いた。
 それからわたしたちは葬儀屋に連絡して、自宅マンションまでヒロ姉さんを搬送するように交渉した。葬儀屋は、「高層マンションにですか? 手前どもでご葬儀まできちんとお預かりします」と言ったけれど、わたしと修二は頑としてそれを断り、せめて一晩だけでも家に連れて帰るように頼んだ。幸いマンションのエレベーターにはトランクボックスが設置されていて、ヒロ姉さんが倒れた時に、救急のストレッチャーを載せることができたことは知っていた。まさか担いで上がることはないだろう。もっともオンブして上がれと言われたなら、修二は喜んでそうするだろうが。
 無理を言って一晩だけ家で夜とぎをさせてもらえることになった。
「さあ、母さん、帰って来たよ」
 部屋に搬送されたヒロ姉さんに修二がやさしく言った。寝室の大きなベッドにまるで眠るように横たえているヒロ姉さん。運び込んだ葬儀屋がベッドサイドの大きな拘束椅子を見て驚いていた。
「今は季節がら大丈夫だとは思いますが、暖房は入れないようにしてください。それと、まああんまりいませんけど、たまに添い寝したりする人もいらっしゃいますが、それは止めて下さい」
 帰る時にそういい残して出て行った。
「アハハ、おかしい! 椅子見た時のあの驚きようったら!」
業者が帰った後で二人は笑った。ヒロ姉さんも笑っているような気がした。そして笑いながら泣いた。
「添い寝したっていいじゃないか」
 修二が不満げに呟いた。まったくだ。たった一晩ぐらい。
「修二、あのヒロ姉さんの最後のメッセージ見てみない?」
「そうだな」
 早速スマートフォンの電源を入れ、ビデオ再生アプリを立ち上げた。
 ガサガサっと言うノイズと共に目まぐるしく変わる背景。ゴトっと言う音。すぐにヒロ姉さんの顔が映し出された。ベッドテーブルの上にスマホが置かれたようだ。かなり顔色が悪い。
「はい。わたしの顔、見えてますか?」
 ヒロ姉さん……。
                                   続く
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