第46話 じゃあうち来る?

文字数 2,041文字

「俺、下で救急車待ってる」
 そう言って修二は下に降りて行った。残されたわたしは何をすればいいのかわからない。ただヒロ姉さんの背中をさすることぐらいしか。
 十分ぐらいして修二とストレッチャーを押す三人の救急隊員がやって来た。
「お母さん、気分悪いですか?」
 白いヘルメットを被った隊員が尋ねるが、床の吐しゃ物にちらりと目を遣り、「目はちゃんと見えていますか?」と尋ねる。
 しかしヒロ姉さんは頭を抱えて首を振るばかりで言葉にならない。
「あなたは娘さん?」
「え、あ、いいえ」
「俺、息子です」
 わたしは修二の顔を見る。
「かかり付けの病院はありますか?」
「はい。あります」
「では今からそちらへ搬送します。診察券と保険証もお持ちになってください。置いてある場所わかりますか?」
「あ、わかります」
 修二はそう言ってすぐにリビングの戸棚の引き出しから、ヒロ姉さんの大事な物入れを持って来て救急隊員に渡した。わたしは何もできずに、ただてきぱき動く修二を見ているだけだった。
 そしてすぐにヒロ姉さんは病院へ搬送されて行った。わたしと修二も先ほどから修二が待たせていたタクシーで病院へと向かった。修二はとても冷静で頼りになった。きっとわたしならタクシーのことまで頭は回らない。
 救急車はサイレンを鳴らし、赤色灯を回しながらわたしたちの乗ったタクシーの前を行く。途中、赤信号で離れてしまい、サイレンが遠ざかって行った。わたしはちらりと修二を見る。修二がそっとわたしの手を握る。行先はわかっている。時刻は午前二時になろうとしていた。
タクシーは十五分ほどで病院に着いた。夜間入り口には赤色灯を回した救急車が横付けされて停まっていた。人影はない。わたしたちは急いで中へ入った。
 入り口で先ほどの救急隊員と出くわした。ストレッチャーには誰も載っていない。わたしと修二は丁寧に頭を下げる。玄関の警備員によれば、ヒロ姉さんはすでにERに運び込まれたとのことで、わたしたちはその前の廊下で座って待つように言われた。
 二人とも何もしゃべらず、だまってうつむいていた。けっこう長い時間待っていたように思う。ちらりと時計を見ると、もうすぐ午前三時だ。と、その時、一人の看護師がわたしたちのところへやって来た。
 先生から話があるからと、わたしたちは別室に呼ばれた。パソコンモニターに映し出されたCT写真を前に、職人のような顔をした四十代ぐらいの医者が修二に尋ねる。その表情は厳しい。
「えっと、あなたと患者さんのご関係は?」
「ヒロ子はわたしの母です」
「え? 息子さんですか。随分とお若いお母様ですね」
 その救急医は画面のカルテと修二の顔を見比べながら驚いた声を出した。
「はい。母は十六の時にわたしを産みました」
「それはそれは。そちらは奥様ですか?」
「ええそうです」
 修二はきっぱりと言った。
「そうですか。それでは、率直に申しまして、お母さんの状態は大変厳しいです」
「厳しい?」
「ええ。お母様の癌はすでに多臓器への転移が認められます。特に今回、この頭痛の原因は、脳の〝視床下部付近への転移〟のためです」
 ウソであってほしい。夢であってほしい。何度もわたしは祈ったが、CT写真に映る影はそれが現実であることを物語っている。
「今夜は時間も時間ですし、担当の主治医もおりませんので、とりあえず救急で入院していただくことになりますが、今後は主治医と相談していただいて、おそらく緩和ケアを中心に進めて行くことになるかと思います」
 緩和ケア、つまり、たぶん、考えたくはないがそういうことなのだろう。
「あの、母は後どれぐらいですか?」
 わたしは修二の方を見た。
「三ヶ月。持てば良い方かと。予想以上に進行が早いようです」
「そんなに!」
 わたしは言葉を失った。
「お辛いとは思いますが、どうぞ最後まであきらめずにできるだけのことをしてあげてください」
 医者は淡々と語った。覚悟を決めなければならない。
「今夜面会はできますか?」
「ええ。でも今は薬でよく眠っています。待合の長椅子でお待ちになっても構いませんが、おそらく朝まで目が覚めることはないでしょう。もし容態が急変しましたらすぐに連絡させていただきますよ」
「ありがとうございます」
 わたしたちは丁重に礼を述べて一旦はその場を離れようとした、その時、担当医は言った。
「これから長丁場になります。ご家族の方もなるべく体力を温存して休める時には上手にお休みになった方がいいですよ」
「優ちゃん、どうする?」
「うん。わたし一旦うちに帰ろうと思う。ここからならわたしのマンションまで歩いてでも帰れるから。シャワーも浴びたいし。あなたは?」
「俺、一人でいたくない」
「じゃあうち来る?」
「行ってもいい?」
「ええ。でも狭いよ。ベッドはシングル一つだし」
「いいよ。俺はどこででも寝る。どうせもう三時だ。今からなら仮眠程度だろうから」
「じゃあ行きましょう」
                                続く
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