第28話 天からの授かり物

文字数 2,482文字

 それから少し経ってまたブザーが鳴った。わたしはあいつがまた戻って来たんじゃないかと暫く出なかった。そしたら玄関で聞き覚えのある声が聞こえた。
「ごめんくださーい」
 隙間だらけのボロ屋だったのでその声は中までよく聞こえた。聞き覚えのある声だ。修一郎さんだった。
 わたしは慌てて靴も履かずにガラガラっと扉を開けると、手にケーキの入った紙袋を提げて麻のスーツに身を包んだ彼がにこにこしながら立っていた。
「あ、山崎さん……」
「お父さんは……ああ、留守かな。またパチンコ?」
「ええたぶん」
「どうしたの? そんな怖い顔して」
「いいえ、何でもないです」
「はいこれ。ケーキ」
「あ、いつもすみません」
「夕食もまだだろ?」
「はい……」
 わたしはおなかがすいて倒れそうだった。
「よし、じゃあ何かうまいものでも食べに行こうか」
「いいえ、わたし、その、服とか持ってなくて。学校の制服ぐらいしか」
「いいよ。制服で。とにかく行こう」
 空腹には勝てず。仕方がないので、わたしはさっき洗濯して干したばかりの白いセーラー服に着替えた。まだ湿っていた。乾き切っていない。じっとり汗ばんだ肌に張り付く。少し気持ちが悪かった。
「お待たせしました」
 修一郎さんは夏服姿のわたしを見るなり、少し驚いたように言った。
「あ、それ、ちょいまずいね」
「え? 何がですか? やっぱり制服じゃダメですか?」
「あ、いや。制服でかまわないんだけど。うーん」
「わたし、やっぱりやめておきます。お父さん帰って来るかもしれないし」
「よし、じゃあ、食事の前にちょっと寄り道するよ。川を渡ったとこに松高屋あったよね。いっしょに来て」
そう言って修一郎さんはわたしを川向こうのデパートに連れて行った。

    2

 一階の大きなガラスの扉を抜けると、たちまち良い匂いがする。デパートの匂いだ。うちからすぐの大きな川を渡ったところにあるのに、ここはまるで別世界のように感じられる。
 通路の両側には、きらきら輝く宝石の散りばめられたアクセサリーや、高そうなハンドバッグやカラフルな化粧品などのショーウィンドウがずらりと並ぶ。
 その華やかな店内を堂々と歩く修一郎さんの後に隠れるように、薄汚れた制服姿のわたしが歩いている。どこをどう見ても不釣り合いなわたしなのに、修一郎さんはまったく気にすることもなく、何度もわたしの方を振り返る。その目はやさしい。
 そのフロアの突き当りに、店舗らしくない受付カウンターがあった。その横から中を覗くと、手前にソファーがあり、その奥は事務所のようだった。
 修一郎さんが受付の女性に何か告げていた。
 すぐに一人の上品そうな女性がわたしたちのところへやって来た。スーツ姿の彼女は販売員ではなさそうだ。胸に外商部と書かれた名札を付けている。
「忙しいところ悪いね。この子に適当なのを見繕ってやって」
「かしこまりました、山崎様」
「うん。行って来て。俺はそこの椅子に座ってお茶飲んで待ってるから」
 そう言う修一郎さんを残し、わたしはその女性に案内されてエレベーターに乗り、売り場へと向かった。そこは高級ランジェリー売り場だった。目に鮮やかな女性下着がずらりと陳列されていた。
 彼女は売り場の店員に何か話す。四十代ぐらいに見えるその販売員はわたしに笑顔を見せる。
「山崎様、いらっしゃいませ。よくお越しくださいました」
 山崎様! そうだ、わたしは今、山崎なのだ。妹か親戚か、おそらくそんなところなのだろう。わたしは目を伏せる。
「あの、山崎様、本日はブラジャーをお買い求めとお伺いいたしましたが……」
 ブラジャー!!
 わたしはハッとした。その言葉でようやく修一郎さんの「それちょいまずいね」の意味に気付いた。濡れた白いセーラー服は、わたしの胸を如実に目立たせていた。よく見ると着衣の上からでも小さな突起がわかる。黙ってうつむくわたしに彼女は言った。
「そうでございますか。では採寸いたしますので」
 そう言うと彼女は、すぐにメジャーを手に私の前に現れた。
「どうぞ、試着室へ」
 私はその女性に案内されて、大きな試着室へと入った。
「あの、ここで服を脱ぐんですか?」
 わたしは小さな声で尋ねる。
「採寸は初めてでいらっしゃいますか?」
「あ、はい」
「着たままでもできますが、できれば上だけ脱いでいただいた方がより正確にできますので」
「わかりました」
 そう言いながら、わたしはセーラー服を脱ぐ。
「あっ」
 彼女はわたしのあらわになった胸を見て、少し驚いたような声を出した。
 クラスの女子たちはほぼみんなブラジャーを持っていたが、うちは貧乏だったし、父子家庭でもあったのでわたしはなかなか言い出せなかった。わたし自身もまだ幼くて、そんなに必要だと感じてはいなかったこともある。わたしは世間の感覚から、かなりずれていたのだろう。目の当たりにした彼女の驚きよう。思わず頬が火照るのを感じた。
 でも彼女はもう表情を変えることなく、「失礼いたしますね」と言いながら、正確に何か所もわたしの胸にメジャーを当てる。そして彼女は測りながら大袈裟に賛辞を呈した。
「大変お美しいバストでございますね。私どもも毎日大勢のお客様の採寸をいたしておりますが、日本人でここまで均整の取れたバストは滅多にお見受けいたしません」
 それまでわたしはまったくそんなこと気にしてはいなかった。すべてを測り終えた彼女は、感心したように「天からの授かり物」だと言った。なぜか心が満たされるような気持ちになった。
 十五才の夏。わたしは生まれて初めてブラジャーを身に着けた。それはジュニア用ではなくパルファージュと言う大人向けの銘柄だった。薄いピンクの花柄レース、着け心地もとてもやさしく胸にフィットする。まるで着けていないようだ。こんなのクラスの誰も持ってはいない。ブラ一つでこんなにも気持ちが凛とするものなのだと驚く。                                                   
                                    続く
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