5.魔女の記憶

文字数 19,363文字

「――すみません。柑奈が人質に捕られてしまいました」
 学園へと戻った俺たちは、理事長室の接客用ソファーにコテツと雅人と何故かいる代田君で向かい合って座っていた。智美ちゃんはアイリさんの仲間の魔女に頼んで、治療中だ。
「奴らは、封じられた命の生まれる地へ来いと行っていました。来なければ、日喰いの時に柑奈の命がないと」
「いいえ。あなたが謝ることではありません。分かっていて、許したのは私です」
「けど、おかげで奴らの目的が大体見えてきましたね。初めは自分たちの魔法力を取戻そうとしているのかと思いましたが、実際は違うようです」
 てっきり蔑みの言葉でもかけてくるかと思った代田君からのフォローに、思わずその顔を凝視してしまった。それに気づいて、コホンと一つ咳払いをする代田君。心なしかその顔が照れているように見えるのは気のせいか?
「ええ。どうやら彼らは、マリアが昔、かの地に封印した古き神を復活させようとしているようです。ツカサに来いと言っているのは、その封印を解くためでしょう。封印はかけた者が解くのが一番簡単な手段ですから」
「古き神?それは一体……」
 尋ねた俺に、アイリさんは言い辛そうに顔を顰める。
「ごめんなさい。それは、私の口からは語ることが出来ないの。魔女の間の取り決めで、その存在については誰も口にしてはいけないことになっているのです」
『ふん“神”などと呼ぶこと事態おかしいのだ。あれはそんな崇高な存在などではない。むしろ開放すれば、間違いなく人も魔女も、そして解放した奴らすらも滅ぼす。そのようなものだ。それになにより……』
「コテツはあったことあるのか?その神様ってやつに」
 随分と棘のあるもの言いが気になって聞けば、コテツは不機嫌そうにうにゃんと鳴いた。
『あったも何も、その時我も傍にいた。だから知ってるのだよ。奴らがやろうとしていることが、どれだけ無駄なことかをな』
「どういうことだ?」
「コテツ。それ以上は」
 俺の問いかけに口を開こうとしたコテツを、アイリさんが制する。これじゃ話が進まないな。語ってはいけないから語らないのでは、なんの解決にもならない。焦りから、俺は立ち上がって頭を下げ、アイリさんに頼み込んだ。
「アイリさん、お願いします。教えてください。俺は、柑奈を助けたいんです!」
「焦るな佐崎。別にアイリおばあ様は、お前に教えないなんて言ってないだろ」
「……お前さ。ずっと思ってたんだけど、最初にあった時と性格変わってないか?」
 思わずつっこんだ俺に、代田君は前髪を掻き上げてフンと鼻を鳴らした。横で雅人も頷いている。心なしか顔が怖いのは、まだ代田君が柑奈に気があると思っているからだろう。本当は柑奈の正体を始めから知っていて、力量を測っていたと教えた方がいいんだろうか。
「これが僕の素なんだよ。転校初日っていうのは猫被っとけば、大体上手くいくものだからね」
「ああ、そう……」
 転校なんて生まれてこの方したことない俺には、良く分からない理屈だ。ま、それは置いておくとして。
「じゃあ、お前が教えてくれるのかよ」
「僕は知らないから無理だね。でも、魔女は記憶を共有することが出来る。そうやって過去の歴史を、アイリおばあ様たちは伝えているんだ」
「記憶の共有…前に柑奈も言っていたな。なんなんだ、その記憶の共有って」
「魔女はみな、その生きた証を残し後世の魔女に伝えようとする風習があります。そのための本を私たち偉大なる古き魔女が創造し、魔女たちはその本に記憶を吹き込むだけで記録することができるのです。本は私たちの力で護られているので、例え記録者が亡くなったとしても、吹き込まれた記憶は永遠に消えることはありません。歴代の魔女たちは、魔法力を習得した後に記憶の共有を許され、過去の先人たちの知恵を学べるようになっているのです。それが“記憶の共有”と呼ばれるものです」
 俺の問いに答えてくれたのはアイリさんだった。
「司には、今回特例として記憶の共有を許可します。すぐにこの建物の地下にある記憶の部屋へ行き、マリアの記憶を共有してください」
「マリア?ああ、俺のご先祖様……だっけ?偉大なる古き魔女(グレート・オールド・ウィッチ)の一人とか言う」
「ええ」
 静に頷くアイリさんの表情はどこか暗い。あまり俺に記憶の共有をさせたくないように見える。それが不思議で、首を傾げた。
「…できれば、古き神の封印場所以外の記憶は共有して欲しくありません。ですが、今回の彼らの目的を本当に理解したいのならば、魔女狩りの記憶も…あなたは見るべきなのかもしれません」
『アイリ、それは司にはまだ早い。魔女のことすら正しく理解していないというのに、いきなりあの記憶は幾ら事が急を要するとはいえ駄目だ。我は許可できない。それに、関係ないかもしれないだろう?』
「コテツ?」
 珍しくアイリさんに食って掛かるコテツの様子に、ますます俺の首は傾く。
 魔女狩りって確か、みんな同じ宗教やらせるために、怪しい儀式やらを当時行ってい人々を“魔女”として裁判にかけて云々だったように思うのだが…。確かに授業でちょろっと触れた時も凄まじい歴史だとは思ったけど、現実はそこまで見せたくないほど酷いものなのだろうか。
『司。魔女狩りの記憶は、我らにとっては人によって魔女が…魔女によって人が殺された記憶。大切なものが目の前で殺され、裏切られた過去だ。そんなものを見たら、お前はきっと誰も信じられなくなる。周りにいる友も家族も、いつかは自分に牙を向くかもしれないという可能性を知りながら生きていくことになるのだ。それは人によっては精神を病むこともある。よって今回はその記憶は共有せず、ただ旧き神々のことを知るのみに集中するように努めよ』
「コテツ…ありがとうな、心配してくれて。俺も正直そんな過去の記憶を見たらどうなるか分からねーけど…今はとにかく、柑奈を助けたいんだ。それが旧き神々の復活を阻止することになるならそれで良し。そのために記憶を見ることになっても、後悔はしねーよ」
「はは、司らしいな。うん、それでいいんじゃないの?俺もそう思うぜ」 
 嬉しくてコテツの頭をぐりぐりと撫でる。手の平の下でコテツが呻くのも気にしない。隣でグッと親指を立てにやりと笑う雅人には、俺も真似をして返しておいた。
「ほんと、お前たちってお気楽というかなんというか。まあ、変に切羽詰って取り返しがつかないことしてくれるよりはましだと思うけど」
「なんか、さっきから気持ち悪いぞお前!なんなの?デレ期?デレ期なのか?!」
 妙に素直で発言が優しい代田君に業を煮やした雅人が叫ぶ。
 まあ、気持ちは分からないでもないな。確かに今日の代田君は気持ち悪い。
「あのな!人が素直に認めてやってるのに、なんなんださっきからお前らは!」
「ぶっ」
 流石に頭にきたのか、代田君が雅人に向かってクッションを投げつけた。どこから出したのかと思ったら、元からソファーに置いてあったものらしい。
「ちょっ、何故に俺だけ?!」
「気分だよ、気分。気がついたら君にクッションが飛んでいたというかなんというか」
「気分で投げられた俺が悲しいわ!」
「おっと」
 強く握り潰したクッションを、代田君に投げ返すもあっさりと避けられる雅人。
「避けるなよ!余計に悲しいじゃないか!」
「はいはい、ふざけるのもそこまで。今はとにかく記憶の部屋へ行くぞ」
 どさりとソファーに座った雅人と入れ替わるように、俺がその場に立ち上がった。
 軽くかけた声に、雅人が困った顔で俺を見上げる。
「えっと…俺も行っていいのかな?現役の魔女じゃないのに……」
「え?えーっと、どうなんですか?アイリさん」
 俺の問いかけに、アイリさんは申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめんなさい。記憶の部屋へは、司一人で行ってください。やはり、魔女以外は見てはいけない決まりですので」
「分かりました。…ということで、悪ぃな雅人。ちょっと行ってくるわ」
「んや、気にすんなよ。いってらっしゃい」
『では、我がついて行こう』
 雅人の変わりにコテツが立ち上がり、俺の足下に寄り添てきた。
「コテツ、司のこと頼むよ」
『うむ』
 うにゃんと鳴いて、雅人へとコテツが答える。
「記憶の部屋は、一階の階段横のドアより行けます。ドアを開けると階段がありますので、下まで降りて下さい。突当りのドアの先が、記憶の共有部屋です。詳しくは、管理人のヴァルツに聞いてください。少々変わった人ですが、とても良い方ですよ」
『少々というか、変人だなあれは』
「分かりました。行ってきます」
 変人という言葉に一抹の不安を抱きつつ俺とコテツは、雅人と代田君そしてアイリさんを残して理事長室を出た。
 廊下を戻り、玄関ロビーへと出る。吹き抜けの壁づたいに伸びる廊下を辿り、一階へと降りた。そのまま中央階段横へと進むコテツについて行く。ここへ来た時は影になって見えなかったが、そこには他の部屋と同じ木製のドアが一つあった。ただ、その色が壁の色と統一されており、パッと見では気づき辛い。
『司、開けてくれ。我も流石にこの類の扉は、自分で開けられない』
「分かった。長く生きてても、不便なことはあるんだな」
 魔女と共に生きて来たと聞いたので、てっきりコテツも何か凄い力を持っているものとばかり思っていた。ドアを開けながらそれについて聞いてみた。
『確かに、我もそれなりに力は持っている。だが、それを人の世で披露するつもりはない。司とて、魔法力を取り戻す以前に我が扉を一人で開けたり、喋っている所を見たら不審に思うだろう?』
「まあ、な」
 コテツが肉球の手でドアノブを開けたり、うにゃうにゃ喋っている所を想像して和んだ半面、それが全部人間らしい仕草だったとすれば、確かに不気味だろう。
「でも、今は俺しかいないけど?」
『こういうのは、普段からの心がけが大切なのだよ』
 妙に胸を張って言うコテツの言葉に、俺は納得して頷いた。
 ドアの先はずっと底へ続く階段だった。アイリさんの言葉通り、下へ下へと降りて行く。どこまでも続くかと思ったそれは、不意に扉へと突き当たった。この建物の玄関扉と同じ、どっしりとした立派な造りの扉だ。両開きの木製の扉を片方だけ金のノブをひねって内側へ押し開く。一歩踏み入った部屋の中は、見渡す限り本だらけだった。等間隔に並べられた天井までの本棚には言うまでもなく。壁という壁、そしてなんと天井も全て本で埋め尽くされていた。しかし、この部屋にはそれらの本を手に取るための階段や二階の通路は一切存在していなかった。手の届く範囲はともかく、届かない場所の本は一体どうやって取っているのだろか?あるものといえば、入口から少し離れた目の前の床に描かれた魔方陣ぐらいだろうか。それと、入口横にうず高く詰まれた本の山に交じって、本を読みふける男性が一人。ロッキングチェアに座り、だらしなく身を投げ出している。
 彼がヴァルツさんなのだろうか。腰までありそうな長い髪を後ろで一つにまとめて縛り、黒いズボンに黒い布靴を履いている。白い少し古いザインのシャツを着て、その上に長方形のベージュの模様が入った布を肩に掛けて前と後ろへ流していた。それをベルトで腰に止めている格好は何処かの民族衣装のようだ。
「…すみませーん」
「……」
 図書室といえば静にするものという考えが働いて、押さえ気味に声をかけて見るが全く反応がない。集中しているのか、はたまた聞えていないのか。すぅっと息を吸って、もう一度声をかけてみる。
「あの、すみませんっ!」
「……」
 だめだこりゃ。こちらに意識すら向いてくれない。
 どうしたものかと悩む俺を他所に、コテツがトコトコと彼に近づいた。そのままポンと彼の膝の上に乗ると、それでも気づかず手に持った本を読み続けるその背表紙に、何の躊躇もなく頭突きを食らわした。
「ぶっ!」
 本がまともに顔へとぶつかり、変な声が聞えた。
 これは流石に…気づかないとやばいだろう。
 ヴァルツさんと思しき人は、ずれた眼鏡を直すと読んでいた本へ栞を挟む。それを近くの本の山へ乗せると、ぶつけた鼻を擦りながら膝の上のコテツへ視線を向けた。そうして口を開いた彼の言葉に、俺の目が点になった。
「あら、嫌だ。お久し振りね、コテツちゃん」
『うむ、久し振りだな、ヴァルツよ』
「まったく、コテツちゃんはいつもいつも、あたしの鼻を低くしようとするんだから」
『お前が客に気づかないのが悪いのだろう。こちらはすでに二回声をかけているぞ』
「あら?それはごめんなさいね。ほんと、あたしって集中すると周りが見えなくなっちゃって…悪い癖ね」
 てへっと肩を竦める彼は、どこにでもいるちょっと顔立ちの整った真面目そうな眼鏡青年の風貌で。その口から飛び出す女言葉が何とも言えないギャップを生み出していた。
「あの~…もしもし?」
 一人と一匹で盛り上がっているところへ、悪いが本来の目的を果たすために勇気を出して声をかけた。こちらへ向いた二つの視線に、居心地の悪さを感じながら歩み寄る。
「すみません。アイリさんの許可をもらって、こちらにある最も偉大なる古き魔女マリアの記憶を共有しに来たんですけど…」
「あらあら、まあまあ!」
 あははと薄く笑いを浮かべて切り出した俺に、ヴァルツさんがすくっと椅子から立ち上がり近寄って来た。トンと床に降りたったコテツを通り越して俺の前に立つと、頭からつま先までじっくりと俺を眺める。それに内心ビクビクしながら、百七十センチの自分よりも、頭二つ分背が高い彼(彼女?)を見上げた。
……な、なんだろう?
「まあまあ、あなたマリアちゃんの子孫の子ね?もしかして、李香ちゃんの子供かしら?」
「え、ええ。そうですけど……」
「やっぱり!顔の輪郭とか雰囲気が良く似てるのよね~、マリアちゃんと李香ちゃんに!とくに…目、かしら?透きとおったエメラルドブルーの瞳は見ていると二人のことを思い出しちゃうわね」
 うんうんとしみじみ頷くヴァルツさんに、曖昧な返事を返した。
 そんなに似ているのだろうか?確かアイリさんも、俺がマリアに似てるって言ってたっけ。母さんに似てるって言われるのはすごく嬉しいけど、顔も知らないご先祖様に似ていると言われても正直良く分からないな。
「ああ、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。あたしはヴァルツ。最も偉大なる古き魔女(グレート・オールド・ウィッチ)たちにこの記憶の書庫の管理をまかされているの。いわば、管理人みたいなものね」
「あ、えっと、俺は佐崎司です。こう見えて四日前から魔女をしている元女の子な男です」
「まあ、複雑ね。でも要するに…あたしと同じってことかしら?」
「いえ、違うと思います」
 嬉しそうに言うヴァルツさんをスッパリと切り捨てる。
 それに対して眉を寄せてくねっとしていじける姿が気持ち悪いことこの上ない。
「あら、冷たい。ま、いいわ。あたしは見ての通り男の()よ。よろしくね」
「主に心が、という意味ですか?」
「そ、心が乙女っていう意味でね」
『自己紹介はそれぐらいでよいだろう。今は記憶の共有が先決だ』
 トコトコと足下まで来たコテツにため息をつかれてしまった。
……いやそれ、さっきまでの俺の台詞だよ。
「そうだったわね。じゃ、そこの魔方陣に立って頂戴」
「はい」
 先ほど入ってすぐに見かけた魔法陣を指し示すヴァルツに従い、直径六十センチほどのその円の中に立った。ここに立つと、今から魔法を使いますという感じがして何だかわくわくしてくるな。
「後は、自分の欲しい魔女の記憶へ呼びかけなさい。そうすれば、本の方からあなたの元へやってくるから」
「そ、そうなんですか?」
「この部屋にある本は、アイリちゃんたちが創造した意志を持った本なのよ。だから、自分を必要とする相手の呼びかけには答えるの。もちろん、用が済めば自分で所定の場所に戻る、とってもお利口さんなの。だから、一々片付けるとか戻すとかしなくていいから、結構助かるのよね」
「へぇ…すごいですね」
 素直に驚いた。でもそうすると、何のために管理人がいるのだろうか。掃除とかお客さんを迎えるとか、本を持ち出さないように見張ってるとかそういう役割か?つくづく不思議な存在の人だ。真っ直ぐに本だらけの部屋を見渡して、朗々と言葉を紡ぐ。まるで魔法の呪文を唱えるように。
最も偉大なる古き魔女(グレート・オールド・ウィッチ)マリアの記憶を俺の元へ」
 俺の声だけが部屋の中に響く。途端、グンとそれほど広くなかったはずの部屋が伸び、目の錯覚でも起しているような気分になった。果てのない本と本棚の遥か彼方、先も見えない黒い点の中から、パサパサと一冊の本がページを羽根のように広げて飛んで来きたのだった。
『また少し本が増えたか』
 背後から聞こえたコテツの言葉に、視界の端でヴァルツが頷いている。
「そうね。最近は魔女でも人と同じように、年を重ねて亡くなる子が多いからね。古い記憶は段々と奥の方へ行ってしまうわ」
『寂しいことだな』
「そうね。でも、彼女たちらしいとあたしは思うの。魔女は自然と共に、ただ全てを見守り生きる者。時の流れに消えるということは、魔法力はすでにこの世界には必要ないものということなんじゃないかしら。だから魔女も、自然の中に消えていく定めなのかもしれない。それがどんなに、悲しい出来事と共に訪れた結果だとしてもね」
『…我にとっては、理解はしても納得はできぬ道理だがな』
「そうね。コテツちゃんとマリアちゃんは、本当に信頼し合ったパートナーだったものね」
『……話が過ぎた』
 背後で交わされていた会話に耳を傾けつつ、俺は両手を差し出して本を受け止める。
 深いモスグリーン色の表紙には、マリアの名前が長い本名で記されていた。閉じた形で手の中に納まったそれをじっと見つめ表紙を撫でた。淡く緑の光に包まれた本の気配に、どこか懐かしい感じさえ覚える。ここに、俺のご先祖様であるマリアの記憶が記されているんだな。
「ツカサちゃん。開く時は、知りたい事柄を思い浮かべながら開くのよ。何も考えずに開くと、永遠と長い記憶に引っ張られて戻ってくるのに一ヶ月以上はかかっちゃうから気をつけてね」
 表紙にかけていた指をピタリと止めた。そう言う事は先に言って欲しい。
『あまりそう、構えるなツカサ。開いたとしても、共有者の求めるものぐらい本は理解しその情報を選び与えてくれる。そのように、アイリたちが創っているから大丈夫だ』
「そ、そっか」
 足下から聞えてきたコテツの言葉に、指に込めていた力を抜く。
「そうね。大体は大丈夫よ。ただ、極稀にそういうことになっちゃう子もいるから、気をつけるにこしたことはないって言いたかったの。ごめんなさいね、驚かせちゃって」
「いえ」
 すまなそうに謝るヴァルツさに、片手を上げて左右に振った。決してヴァルツさんのせいではない。この場合はコテツかアイリさん辺りが、行くと決まった時点で教えておいてくれれば良かったんだ。
『どうしたツカサ。迷っている暇などないぞ』
「わかってるよ」
 コテツに急かされ、再び表紙に指をかけた。ごくりと唾を飲み込み一感覚置いてから、ゆっくりと本を開いた。びっしりと書かれた俺には読めない言語に、一瞬不安を覚えたがすぐに本は俺の意志とは関係なく開いたページをぱらぱらと捲り始めた。
「わ、本が勝手に……」
 暫くパラパラと音が響き、ピタリとあるページでその動きが止まった。それ以上は捲ろうとしても前にも後ろにもピクリとも動かなかった。本が、ここに俺の欲しい情報があると教えてくれているようだ。しかし、これは……。
「開いてくれたのはいいけど、俺この文字読めねーよ」
『大昔に使われていた古代言語の表記だからな。読めなくて当然だ。だが、その本は読む必要はない。ツカサ、その開いたページに触れてみよ』
「え」
 しゅるりと俺の体を上って肩まで辿り着いたコテツが、猫の手で本を指し示す。
『触れるだけで記憶は共有できる』
「…わかった」
 頷いて、開いたページをもう一度見つめる。
 深呼吸を一つしてから、空いているもう片方の手でそっと触れた。瞬間、触れたページから光が溢れた。
「わっ?!」
 それと同時に手の平を通して、色々な光景が流れ込み目の前を星が舞う。
悲鳴なんて上げる間もなく、俺の意識は白い光に包まれた。


「――それしか方法はないかと。私たちも手をつくしましたが、あれはもはや自我すら失っておりまして、話し合いなどとても……」
「そうですか……原因については何かわかりましたか?」
「おそらく、数日前から風穴に発生する自然の力が増したことが原因ではないかと。しかし、その理由についてはわかっておりません」
「…わかりました。ご苦労様でした」
 ぱたぱたと頬に当たる水滴に、雨が降っていることを知った。回りを一面緑に囲まれたここは、どこか森の奥だろうか。目の前には、黒いローブを纏った人が三人雨に濡れながら立っている。小柄な体型から、恐らく三人とも女性であると思われた。緑がかったフードから一房零れ落ちた長い黒髪の人物、他の二人の態度から彼女がこの中で行動の指揮をとるリーダーのような存在であると知れた。
「後は私が。あなたがたは戻っていてください」
「わかりました。くれぐれもお気をつけ下さい、マリア様」
「ええ、ありがとう」
 深々と二人は頭を下げると、女性――マリアだけを残してその場を去って行った。一人になったマリアは暫く二人の去って行った方向を黙って見つめていが、不意に視線を反対の森へ向けると、道無き道を歩き始めた。
『あれが、マリア…』
 ぽつりと呟いた声色の高さに、思わず自分の体を見た。いつもよりも細い手と小さな体。胸の二つの山は、俺が今女に戻っていることを証明していた。幸い服はさっきまで着ていたものが、そのまま体にあってサイズになっているので問題ないけど…。これはやっぱり、ここが本の中だからなのだろうか。そんなこと考えていたら、もそりと肩に柔らかな毛の感触が生まれた。
『ここは魔法力によって作られた過去の世界。ここでは我らはただの傍観者だ。何が起きても過ぎた昔の記憶ゆえ、手を出すなど余計なことはしない方が良いぞ』
『コテツ!お前も来てくれたのか』
『ツカサだけでは不安ゆえついて来た。さあ、マリアの後を追おう』
『サンキュウ。心強いよ』
 コテツの頭を一撫でして、森の奥へと向かうマリアの後ろ姿へ意識を集中させた。それだけで、歩く必要もなく傍まで瞬間的に移動できる。本の中って便利だな。
 マリアは無言のまま、雨の森を奥へ奥へと進む。その横顔をちらりと覗き見てみるが、フードに隠れて表情は読み取れなかった。暫く緑ばかりの中を進むと、目の前に白い岩肌が見えてきた。仰ぎ見ると大きな山の頂が見え、ここがどうやら何処かの山の麓であるらしいと知った。
『行き止まりか?』
『いや、違う。見ておれ』
 ぽつりと呟いた言葉を、コテツが否定する。言われるままに見ていると、マリアは変わらない足取りのまま、岩へと近づいていく。そうしてまるでそこに壁などないかのように、真っ直ぐ岩の中へと入って行ってしまった。驚きの余りポカンとする俺の頬を、コテツがちょいちょいと突く。
『呆けていないで、行くぞ』
『あ、ああ』
 慌てて再びマリアに意識を集中させた。景色が一気に緑から茶色がかった土と暗闇に変わる。これが岩の中なのだろうか。そこは岩をくり貫いて作られたような道が下へと円を描いて伸びている場所だった。階段の先を、フードを脱いだマリアがゆっくりと降りていく背中が見えた。意識を向けると、さっきと違いそのままマリアの意識の中へ自分が入り込んでしまった。
『うわわ、なんだこれ!』
『慌てるな、大丈夫だ。魔法力の波長が近いせいだな。マリアの魔法力で記録されているゆえ、対象の当時の意識に同調しやすいのだろう』
『はぁー…びっくりした。つか、コテツも入っちゃたのか?』
『うむ。肩に乗っていたせいか共に引き込まれたようだ。まあ、本来意識だけの存在とは形を変えやすいものだからな。起こり難いというだけで、こういうことがあっても不思議ではない。ただ、同調し過ぎて戻れなくなることもあるゆえ、十分に気をつけよ』
『ああ、わかった』
 ゆらゆらと、マリアの視点で道を下っていく。
 心なしか、洞穴の奥から吹き付ける風が段々強くなっていく気がした。肌に感じる風の感触。土の匂い。息遣いと微かに薫る香水の華やかな香り。自分は確かに司と言う人物の意識だと自覚しているのに、全ての感覚が今はマリアの感じたものを伝えてくる。
 今の状況を理解しているのにどこかおかしくて、なんだか胸の辺りがもやもやする感じがした。多分、このもやもやが大事なんだろうな。俺が俺であるための、マリアとの境界線のようなものなのだと思う。
 そうこう考えている内に、広い空間に出た。上から下までまるで大きな蛇でも通ったような巨大なトンネルが開いている。その空洞を時折強い風が轟々と吹き抜けていた。その度にバサバサと羽ばたくローブや風に広がる長い黒髪を気に止めることもなく、マリアは平然とした足取りで穴に突き出した崖の上に立った。
 その途端、今で通り過ぎるだけっだ風は、崖の前の空間に集まり吹き荒れ始めた。風と風がぶつかり、パリパリと青い火花が辺りで発生している。じっと見つめるその空間の中心で、何かがここへ現れようとしていた。それが何なのか、知らないはずなのに知っている。奇妙な感覚に襲われながら、じっとその時を待った。ゴボリと何もない空間から、透明なでも粘り気の強そうな水が湧き出す。ゴボゴボと後から後から湧き出したそれは空中に大きく広がり、生きているように小さく収縮を繰り返している。透明な心臓がそのままそこに現れたような、気味の悪さに俺の意識は思わず顔をしかめた。それでも、マリアは平然とした顔でその様子をじっと見つめている。むしろ、伝わってくる感情は家族や友達に向ける親しみのこもった暖かいものだ。マリアは、この気持ち悪いアメーバーのような何かを良く知っているようだった。
「…まだ、私が分かる?ウル。それとも、もう誰も…何もわからないのかしら?」
 優しく憂いを帯びた柔らかな声が空洞に響く。それに答えるように、水の一部が盛り上がり、ぐにゅぐにゅと何度も歪んだ後に透明な人の頭の形を取った。そうして、顔と思われる部分にぽっかりと穴が二つ開いた。暗い二つの闇の奥では、赤い小さな光がチラチラと揺れている。その顔に、先日柑奈と戦っていた勇叔父さんの姿が重なった。
『…助けてくれ、マリア。苦しくてしょうがないんだ。苦しくて苦しくて、自分が誰だか分からなくなりかけるのだ。我は誰だ?何者なんだ?ここは何処だ?何故ここにいる?』
 重たく水中を漂うような響きの声が、息も絶え絶えに直接頭の中へ訴えかけてくる。
「ウル。もう、あなた一人だけ?他のヒトたちはどうなったの?」
『皆、判らなくなってしまったよ。急に押し寄せた大きな力に耐えられず、皆弾けて混ざってしまったよ。我もいずれ混ざるだろう。そうすればもはや、誰も止められぬ。何故だ?何だ?ここは…我は……ああああぁぁ・・・…』
 ぐにゅぐにゅと形が保てず、目の前の盛り上がりが歪む。マリアの心に悲しみが広がっていく。美しい眉をひそめて、その大きな瞳からぽたりと涙がこぼれ落ちた。それでも、彼女は全てを諦めているわけではなかった。同調しているせいか、彼女の心が手に取るように分かる。
マリアは、友として彼を助けるつもりなのだ。
『マリア、マリア…我が友よ。最期の頼みだ、我らが全てを壊す存在となる前に、どうかこの世界より消してくれ。我が皆を押さえ込める今のうちに…さあ!』
 一際強い風が吹き暴れる。まるで目の前の彼の意思を拒むように。バチバチと、青く大きな火花が舞った。
『ぐわぁぁぁぁぁっ……!』
 彼が苦しみで大きく歪む。グンと、彼の後ろの大きな水の塊から幾つもの小さな腕が伸びた。ああこれは、混ざってしまった彼の仲間なんだと何故かわかった。腕の数本は彼に絡みつき溶けて、彼を引き込もうと必死のようだ。残りの数本は宙を舞い、まっすぐにこちらへと向かって伸びてきた。ばちゅばちゅっつという嫌な音をたてて、どろりとした腕がマリアの体に絡みついた。
「……大丈夫。すぐに、助けてあげるわ」
 絡み付いた腕がいくら引っ張ろうとも、マリアの体はその場から少しも動かない。目を閉じて、力を体中に集中させる。胸の奥に暖かなものが溢れ出す。これがマリアの魔法力なのだろう。全てを包み込む優しい思いに溢れた力。アイリさんとよく似ている。彼女たちが最も偉大なる古き魔女と呼ばれる理由が、何となく分かったような気がした。
 絡み付く腕が、危機を察して慌てて取り込まんと方向を転化するも遅かった。光が、マリアの体から溢れ、パシュン!パシュン!と弾ける音と共に、絡み付いていた腕が全て消滅していく。
『ぎゃぐぅあっ!』
 溢れた光がこの空間を全て満たしていく。その光の中で、ばちゅん!と一際大きな音をたてて、彼らの体が弾けて消えた。気がつけば風は、いつの間にか収まっていた。
『…すげぇ……戦わずして圧倒した。これがマリアの力…か』
 ふわふわと空間に漂う光に、マリアがそっと触れた。すると光が、ゆっくりとその手の先に集まり始める。モコモコと形を変えて、それは一つの小さな生き物の形を取った。
『……え、これって……』
 驚く俺の前で、その生き物と思しきものを、マリアはそっと腕に抱きこみ柔らかな笑みを浮かべた。
「さあ、目を開けて。私の大切なお友達」
 そっと額にキスを落すと、腕の中の生物が目を開けた。光が消え、姿を現したのは一匹のキジトラ毛の猫だった。大きな金の瞳が、キョトンと不思議そうにマリアを見上げている。それににっこりとマリアが笑いかけた。それはそれはとても嬉しそうに。
『……我は、生きているのか?』
「助けるって言ったでしょ?私、友達を見殺しにするような真似はしないししたくもないの。だから、あなたもそんなことはさせないで頂戴」
『ふにゃっ?!』
 ピシッと鼻っ面を軽く弾かれ、灰色キジトラ猫が声を上げてびくりと震える。そんな猫を面白そうに眺めていたマリアが、不意にその表情を曇らせる。
「でも、ごめんなさい。あなたの他のお友達は、助けることができなかった」
『…謝る必要はない。この自然の力が集まる風穴で生まれた我らのそれが運命だ。魔女にも生物にも、何者にもなれず運が良ければ自我を持ち新たな生命になれる、偶然の産物たる我らのな。このようなことになったのも、それをマリアが消したのも、全ては自然の役割ゆえよ。むしろ我がこうして自我を持ち、本来相容れぬ存在のはずのマリアと友になったことこそ異変なのかもしれぬ』
 ぱたりと尻尾を揺らして、励ますようにうにゃんと猫が鳴いた。
「ふふ、ありがとう。でも、異変じゃないわ。だって私、あなたと友達になれたことも、こうして今一緒にいられることも全て嬉しくて仕方がないのよ?」
『ありがとう、マリア。…その我侭な友の頼みを、もう一つ聞いてはくれまいか?』
 猫がすまなそうに耳を垂れた。マリアは気にした風もなく今だ笑みを湛えている。
「何かしら?」
『この場を封じでくれ。このまま放置すれば、いずれまた我らのような存在が生まれてくる。それは極自然なことだが、我はこの地で再び我らと同じ思いをする存在を出したくないのだ』
 そう言って、寂しげに穴の底を見つめる猫の頭を、マリアが撫でた。
「お安い御用ね。じゃあ、私からもお願い。いいかしら?」
『なんなりと。我にできる事ならば言ってくれ』
 パタパタと嬉しそうに尻尾が動いて、思わず顔がにやけてしまった。それはマリアも同じようで、くすくすと小さく笑っている。
「うん、あなたにしかできないの。あのね、わたしの傍でこれからもずっと、友達でいて欲しいの。私の命はつきないし、あなたの命もつきることはないから難しいかもしれないけど、あなたが嫌になるまで傍にいて友達でいてくれませんか?」
 首を傾げて笑顔で尋ねるマリアに、猫は胸を張ってフンと一つ鼻を鳴らした。
『もちろん。お安い御用だ』
「ふふ。じゃ、この場を封じるわね」
 そう言うとマリアは地面に彼を降ろし、指に嵌めていた指輪を外す。
『・・・あれ?この指輪は……』
 シンプルな銀の輪に小さな緑の宝石が一つ埋め込まれた指輪。それは俺がアイリさんからもらった、魔法力を制御するための指輪によく似ていた。違うのは宝石の色だけだ。マリアはその指輪を両手で握り込み、祈るように胸に当てた。
と、その時だった。
「――おやおや。これはなんとまあがっかりな結果に終わったものだな」
「!」
 聞えてきた声に、マリアは祈るのを止めて顔を上げた。
「せっかく出来損ないに力を与えてやったというのに。…結局、その程度ということか」
 空中に浮く弓なりに反った目と口を持った白い仮面。声はそこから聞えてきていた。
『な…あいつは!』
 素早く警戒態勢を取るマリアの中で、俺はその見知った仮面に驚きを隠せなかった。忘れるわけが無い、つい先日勇叔父さんを従え柑奈をさらった張本人――アリ・アル。なぜあいつが過去のこの場所に現れているのだろうか?
「その言葉からしてこの風穴に必要以上の力を送り、彼らを苦しめた首謀者はあなたかしら?」
 先ほどまでの優しい声からは想像もつかない、怒りに満ちたマリアの声に心臓が跳ねた。伝わってくる感情は激しく強い。同調している俺までイラつくほどだ。ざわりと、やんでいた風が再び辺りに吹き始め、ふんわりとマリアの髪の毛を揺らしていく。
「その通り。力を与えて、新たな生物を創り私のコレクションにと思ったのだが…とんだ邪魔が入ったな」
「なんですって?」
 パリッと、マリアの周りで火花が散った。
「だってそうだろう?こんなにも力にあふれ、珍しい生命体が生まれる場所なんてそうそうありわしない。実験しないなんて勿体無いと思わないかね?」
「思わないわ。あなたは、命をなんだと思っているの?」
 これ以上ないほどに強くアリ・アルを睨みつけるマリア。しかしそんなものは全く意に介いさず、むしろマリアのそんな反応を楽しむようにくつくつと奴が笑った。逆撫でするような態度に、風がよりいっそう強さを増して吹き荒れる。この場の力が、マリアの怒りに同調しているようだった。
「別に、どうとも思っていやしない。しいて言えば、私以外の生命体は全て暇つぶしだ。私のこの果てのない生を彩るためのな」
  バシュッ!!
 一筋の風が仮面の浮いた空を薙いだ。しかしそれをひょいとかわして、奴は相変わらず仮面一枚が空中に浮いていた。
「おっと、危ない危ない。もう少しで当たるところだったじゃないか」
「当てるつもりですから、当然です」
 スッとマリアがあげた手に答えるように、仮面の真下から風が吹きつけた。ヒュンヒュンと唸るそれはかまいたちを含み、奴を八つ裂きにせんと吹き荒れた。交わし切れずにそのいくつかが仮面をかすり、細かな傷を仮面につけて行く。
「くくく…なかなかいい暇つぶしになりそうだな」
 ゆらりと揺れた仮面の後ろから、あの時のようにばさりと黒い布が広がる。その布のなかから白い二の腕までの手袋を嵌めた腕が二本現れた。ただあの時と違うのは、その腕が細く華奢なものであったこと。しかも、それだけに止まらず、腕の後に黒いハイヒールを履いた白く細い足が二本、更には広がっていた布が集まりまるで黒いドレスを纏った一人の女性の体が仮面の下に現れたのだった。赤く長い付け爪を持った手を仮面にかけると、その後ろから軽くウェーブのかかったふんわりとしたプラチナブロンドの髪が植物の蔓のようにずるずると生えてきた。
……アリ・アルって、女だったんだな。はじめて見たときマッチョ並みの腕が生えてきたんで、男だとばかり思ってたよ。
「さあ、遊ぼうかお嬢さん」
 言葉と同時に、奴の周りに無数の黒い棘が生まれ真っ直ぐにマリアへ向かって飛んだ。それを全て風の壁で叩き落す。落された棘は軌道を変え、主へその頭を向けた。
「やるな」
 パチンと指を鳴らし手に大降りの剣を出現させる。それで空を一撫でしただけで、アリ・アルは全ての棘を叩き消した。その隙をついて追従した青い閃光も、返す刃の一振りで消滅させた。
「では、こちらも」
 嬉しそうに笑うと、剣を空中へと投げ捨てる。奴がぼそりと何かを呟いた瞬間、奴の周りに闇が生まれた。マリアが何かに気づき、先ほどと同じようにかまいたちを起して攻撃するが全て闇によって弾かれてしまった。
「くっ……」
 その間にも闇は濃く大きく広がり、形を成していく。蛇のような頭と体に二つの角。爬虫類の足に蝙蝠の羽を持った、今時ゲームじゃお馴染みどころか王道過ぎるキャラクターのドラゴンを模した生物が、そこに姿を現したのだった。
「どうだね。中々可愛いだろう?私が丹精込めて創り出したコレクションの一つだ。様々な生物とこの場にいた奴らのような生まれたばかりの生命体を、色々と混ぜてみたのだよ」
「…なんてことを…。この世界に生きる命は、私たちがどうこうして良いものではありません!それをあなたは!」
「お前たちの考えなど私には関係ない。先ほども言ったが、私にとってこの世の生命全ては暇つぶしの道具なのだよ。それ以上でも、それ以下でもない。もちろん、君もだ」
「っ!」
 ため息をつき、心底馬鹿にしたようなアリ・アルの態度。マリアの力が一気に膨らんだ。
「さあ、私の可愛い子!あの娘と遊んでおやり!」
 アリ・マリをその頭に乗せたまま、ドラゴンもどきが体の大きさからは考えられないほどの速さで空を舞い、その大きな口から黒い炎を吐いた。その素早い動きに気を配りながらあるいは飛んで避け、あるいは風で吹き飛ばしていく。
「っと?!」
 不意に足がふら付き、気がつけば崖の縁に立っていたことに気がついた。
「しまっ……」
 この気を逃すまいと、ドラゴンが一気に急降下をかけた。それを寸での所で避けたマリアの足下を、鋭い爪が抉る。暗い穴の上に突き出したでっぱりであるここは、それだけで崩れ落ちた。全身を浮遊感が襲う。ああ、今落ちているのかとマリアの中で思った。遠く、遥か上空に白い光が見える。振り返った背後は、漆黒のどこまでも続く闇だった。
「しゃあぁぁぁっ!!」
「!」
 再び振り返った視線の先に見えたのは、光ではなく赤くどす黒い大きな牙だった。
「…可哀想に……」
「あははっ!さあ、どうする?黙ってこの子の餌にでもなってくれるのかね!」
 狂気じみた笑みを湛えアリ・アルが叫ぶ。それに表情をかえることなく、マリアがドラゴンへ向けて片手を伸ばした。アリ・アルの顔から笑みが消え、不快感を露に眉を吊り上げた。
「なんの真似かね?命乞いか?この期に及んで」
「違うわ。開放するのよ、その子たちの命を。あなたのその手の中から!」
「!」
 風が吹き上げた。落下が止まり、マリアは風に乗ってドラゴンへ向かって飛んだ。その澄んだエメラルドブルーの瞳には、一つの曇りも見えない。どこまでも真っ直ぐに、目の前の彼らを見つめていた。
「風よ、大地よ。どうかあの子たちを開放するだけの力を私に!」
 力強く呟いた言葉と同時に、伸ばした片手がドラゴンの牙に触れた。バクンと勢い良くその口が閉じ、俺は声にならない悲鳴を上げた。マリアの腕が、ドラゴンの口に半分以上呑まれているのだ。
「はは、あははは!なんだ、さっきの言葉は単なる強がりか?さあ、私の可愛い子!そのまま腕を食い千切っておしまい!!」
 おかしくて堪らないと言わんばかりに笑い、嬉々として命令をするアリ・マリ。しかし、ドラゴンはその言葉に一切反応せず、ただ腕を銜えたまま微動だにしなかった。アリ・アルが怪訝な表情を浮かべる。
「どうした?さあ、早くしないか!」
 そうしてドラゴンの頭上からその顔を覗きこんだとほぼ同時に、ドラゴンの体が白く光り出した。
「な、なに?!」
 光るドラゴンの体が、空気を送り込まれた風船のように大きく膨らむ。そしてぐにゃりと歪んだかと思うと、ポンという景気のよい音を上げて破裂した。頭に乗っていたアリ・アルは成す術なく不様に空中へと放りだされていた。くるくると弧を描いて回る体を空中になんとか止めた彼女が睨みつけた先に見たのは、ドラゴンになる以前の姿に戻った生物たちだった。風に乗って嬉しそうに鳴く彼らに気を取られて、マリアの行動に気が回らなかった。それが彼女の敗因だろう。
「ば、馬鹿な!私があれほどの魔法力をかけて成したことを、一瞬で無に帰しただと?!」
「余所見をしない方がいいわよ」
 自分の背後から聞えてきたマリアの声に、アリ・アルが慌てて振り返る。
「!」
 振り返ってすぐ目の前に、マリアの手の平が迫りびくりと体を震わせた。
「な、何を…」
 混乱するアリ・アルに構わず、マリアは上げた片手を彼女の前でゆっくりと左右に振って何かを握る動作をする。そうしてもう一度開いたマリアの手には、光の塊が一つ煌々と輝いていた。マリアがゆっくりと顔を上げ、その澄んだ瞳に彼女を捕らえた。それだけで、アリ・アルの口から喉につっかかったような潰れた悲鳴が上がる。がくがくと体が震え、逃げたいのに張り付いたようにその場から動くことができないでいるようだった。
「ありえない、ありえない!こんな小娘が、私よりも優れているというのか?!」
「優れているとかいないとか、そんなことは関係ないわ。ただ、元に戻りたいというこの子たちの意志と、助けたいと思う私の意志があなたの呪術に勝ったというだけのことよ」
 マリアの手に乗っていた光がより一層輝きを増した。それと同時に、アリ・アルの体が干からびたミイラのようにくしゃくしゃになっていく。
「やめろ、やめろぉぉ……!」
 震える手が伸びて、空しく空を切って降ろされる。先ほどまでの面影などないほどに手も足もしわしわのひょろひょろだ。
「…人を憎むことは悲しいことだわ。出来ればそんなことはしたくないし、させたくもない。でも、私はあなたを許すわけにはいかない」
「やめてくれ…やめて…」
 もはや話しを聞く余裕もなく同じ言葉を呟くアリ・アル。そんな彼女にマリアは落ち着いた声で、彼女にとっては死刑宣告に近い言葉をゆっくりと告げた。
「あなたの魔法力を封じます」
「!それだけは…それだけは……!」
「この光はあなたの魔法力です。これは、自然界に帰します」
「やめろぉぉぉぉっ!」
  パシュンッ!
 空気が抜けるような音と共に、光が弾けてキラキラと穴の底へ落ちていく。
「うわあぁぁぁっ!!わた、私の力が私の力…が……――」
 狂ったように叫び舞い落ちる光へと手を伸ばすアリ・アル。すでに魔法力のない彼女の体は、重力に従いぐらりと穴の中へと傾いだ。その体を優しく吹き上げた風が支え、ふんわりと風穴の入口まで運ぶ。地面に降ろされた彼女にはすでに意識がなく、あまりのショックに気絶してしまったようだった。
 そんな彼女へ近づき、膝をついてその顔を覗きこむマリア。
「……気を失っているだけね。とはいえ、ここに放っておくわけにも行かないわ」
『連れて行くのか?マリア』
「ええ。でも、私の家へ連れ帰るわけには行かないから、ここを封じてから近くの村まで送り届けましょう」
『優しいんだな。我ならば、そのような輩は放っておく』
 マリアの横にちょこんと座って、昔のコテツが心底嫌そうにアリ・アルを見る。
「確かに、見殺しにするのは簡単よ。それに、魔法力じゃなくて、彼女自身を封じた方が早いことも分かっているわ。でもね、私は彼女に生きて欲しいの。アリ・アルにとっては屈辱以外の何者でもないだろうけど。でも、今まで自分が行ってきたことを考えながら、私のことを憎んだって最期まで生きて欲しいって思っているの」
 じっとアリ・アルを見つめるマリアの視線には、先ほどまでの憎しみは一つもない。あるのはただ、同じ力を有した相手への思いだけだった。そんなマリアを眺めて、昔のコテツがため息を落してうにゃんと鳴いた。
――記憶は、そこで途絶えた。周りの景色が薄れ、ぐるりと何処を見ても何もない白い世界に俺と俺の肩に乗ったコテツの二人だけで立っていた。
「色々見えてきたな。今起きている事件の黒幕は、アリ・アルと考えて間違いないだろう」
『そのようだ。マリアに魔法力を奪われた上にあの姿で生かされたことに、随分と腹を立てたと見える』
「けど、それにしちゃ随分と回りくどいやり方だよな。マリアに怨みがあるんなら、直接俺を狙えばいいのに」
 いつの間にか男の姿に戻った俺は、腕を組んでため息をついた。俺に辿りつくまでに、一体どれだけの魔女の末裔を襲い、魔女に恨みを持つ人々の思いを利用したのだろうか。
『それは無理な話だ。ツカサがマリアの力を受け継いでいたことがわかったのも、奴らと戦っていて偶然封印が解けたからなのだろう?』
「あ、そっか。そういやそうだったな」
 ぽんとと手を打って納得する俺に、今度はコテツが呆れたようにため息をつく。
 なんか腹立つな。
「とすれば、封印された古き神っていうのは自分のことか?」
『いや、おそらく我々のよう者のことだろう。あの後、マリアがあの場に蓋をして封印を施したのだ。再び我のような生命体が生まれぬようにな』
「で、そこで奴は俺を待っているってわけか」
「なになに?何処で誰が待ってるって?もしかして告白の呼び出しかなにかかしら?そしたらちょっとドキドキものねっ!」
「!!」
 急に耳元から聞えてきたオカマ声に、思わず振り返ると同時に後ずさりしてしまった。
「ヴァ、ヴァルツさん?!な、なんでここに?」
「なんでって、ここはあたしが管理する記憶の部屋の中ですもの。そりゃ、あたしがいるわよ~。嫌だわ、ツカサちゃんったら」
 片方の手をひらひらさせて笑うヴァルツさん。言われて辺りを見渡してみれば、いつの間にやら本で埋め尽くされた部屋へと戻ってきているようだった。すでにマリアの本は俺の手の中にはなく、遥か遠くまで続くように見えた部屋も今は普通の広さに戻っている。
「でも、その様子だと、お目当ての記憶は上手に共有できたみたいね」
「はい、おかげ様で」
「それは良かったわ」
 にこにこと笑うヴァルツにつられて俺もにこりと笑う。
「じゃ、俺たちはこれで」
「あら、お茶でも飲んでいけばいいのに」
「いえ、これからちょっと友達を助けに行きますので」
「…そう、わかったわ。気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
 そう言ってぺこりとお辞儀をすると、ヴァルツさんがくすりと笑ってウィンク一つ。
「今度は、お友達と一緒にいらっしゃいね?とびきり美味しいお菓子と紅茶を用意してまってるから」
「はい。楽しみにしてます」
 それに笑って頷いた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み