2.変身!魔法少女?

文字数 15,952文字

――夜空を見上げると、昨晩と違って綺麗な月が煌々と地上を照らしていた。目を閉じて、その光を全身に浴びる。こうしているだけで、今までざわめいていた気持ちが治まり、少年は静かな気持ちになるのだ。
『――戻ったのか』
「ええ」
『で、今回も成功したんだろうな?』
「もちろん。ただ……」
『やはりそれでは弱すぎる…か』
 振り返ることなく、背後の人物に少年は頷いた。
「もう、時間もあまりありませんし、僕はそろそろ、良い餌にありつこうかと思います」
『…しかし、まだ早くはないか?』
「早い?何をそんなに恐れているのです?元々、根絶やしにするために始めたことではないですか。遅かれ早かれ…ですよ。」
 くるりと振り返ると、少年はにっこりと笑みを浮かべた。端から見れば人の良い笑みも、少年を良く知る声の相手にとっては恐怖しか覚えない微笑だった。
「それに……止めても無駄ですからね?」
『…好きにしろ。ただし、失敗は許されないぞ』
「了解しました」
 少年の有無を言わせない雰囲気に、声の主も諦めたのか不承不承頷いた。 

  * * * * *

「ふぁー……眠い」
 大きな欠伸をしながら、眠い目を擦る。最悪の夢見に真夜中途中で目が覚めると、仰向けに眠る俺の顔の上でうちの灰キジトラの雄猫・コテツが香箱をして座りこんでいたのだった。どうやら、晩飯をあげるのを忘れて俺が眠ってしまったことに対するコテツなりの主張らしい。しかし、どう考えても殺す気満々のポジションだよな…人の顔の上とか。おかげでその後よく眠れなくて今日は寝不足気味だ。
「あー…今日は一日、授業中も寝て過ごしそうだな……」
 もう一つ欠伸をしてから、ぐったりと机に突っ伏し目を閉じた。瞬間、今一番聞きたくない声が俺の鼓膜を震わせた。
「おはよう、司!ほらほら、良い天気なんだから、しゃきっとしなよ」
 せっかく閉じた目を再び開いて顔を上げると、いつも通り満面の笑みを浮かべた柑奈が片手を挙げて立っていた。それに半眼で唸って返事を返す。そんな俺の様子に、いつもと違うことを察したのか、柑奈もテンションを下げて空いていた前の席へと腰を下した。
「あらら。今日は本当にダメみたいね」
「まあ、な。昨日色々とありまして…」
「ふーん」
 頬杖をついてあまり興味無さそうに相槌を打つ柑奈。全く、半分はお前のせいだって言うのに……。いや、正確に言えば、雅人のせいか?
「あ、ねぇねぇ!見た?今朝のニュース」
「うーん?ニュース?いやあ、今朝は寝坊して見てねーな」
 気を取り直して話題を変えた柑奈に、俺は相変わらず気の抜けた返事をする。
「また連続通り魔の被害者が出たんだって!」
「…ああ、なんだそれか」
「あ、なんだ。知ってたの?」
「あーうん。まあ…な」
 知ってるもなにも、その第一発見者は俺なんだけどな。しかし、そんなことを言えば柑奈のことだ、興奮のあまり俺を大声で質問攻めにするに決まっている。クラスの好奇の目にも晒されたくない。…昨日の転校生みたいな状態になるのはごめんである。
「発見された場所を聞いてびっくりしたんだけど、司の家の近くなんだね」
「あー…そうだったかな?」
 ぴくりと思わず反応してしまった。が、幸いなことに柑奈は気づいていないようだ。
「そうだよ。ほら、小さい公園があったじゃない?あそこみたいだよ」
「うーん、そうだったっけ」
「しかも!被害者はうちの女子生徒だっていうじゃん!もう、これは私たちでなんとかするしかないって思わない?」
「うーん、そうだね……え?」
 生半可な返事で聞き流していた俺は、最後の台詞に同意しかけてやめた。真面目に柑奈へ視線を向ければ、もはややる気に満ちた瞳でこちらを見ている。……ああ、また俺も勝手に含まれているわけか、その中に。
「おいおい、待てよ柑奈。相手は連続通り魔だぞ?襲われた相手が不可解な状態にされている以上、一般人が首を突っ込むことじゃねーよ。警察に任せておけって」
「警察なんて役にたたないわよ!現に、被害者はすでに十一人も出てるのよ?これで黙ってるなんて、出来るわけないじゃないっ!」
 ガタリと席から勢いよく立ち上がり、拳を天に突き上げ力説しだした柑奈に慌てた。
「いや、だからってそれでお前がどんな役に立つと――」
「良いですね、それ!是非僕も同行させて下さい!」
「――へ?」
 柑奈をなだめようとした俺の耳に、昨日知り合ったばかりの声が聞えてきた。しかも、柑奈の勢いを煽る台詞付きで。声の聞えた方へ視線を向ければ、やはりそこに立っていたのは首からカメラを提げた彼であった。
「やっぱり。お前は昨日の『逃げ足速男(にげあしはやお)』こと、新聞部員の牧原徹君」
「逃げ足速男って…。佐崎先輩、昨日置いて帰ってしまったことをそうとう根に持っていらっしゃるんですね」
「当たり前だ。あんな場面で撮るもん撮ったら置いて行くとか。根に持たない方がおかしいだろ。お前、後で俺に奢りな」
「後輩にたかるとか、プライドないんですか先輩には」
 カメラを手に持って呆れ顔の牧原君に、にやりと笑って答えれば「まあ、いいですけど」と約束を取り付けた。よし、これで今日の夕飯代は浮いたな。…じゃなくて。
「とにかく、事件に首を突っ込むなって。危ないだろ?」
「なによ、司。怖いの?」
「いや、怖いとか怖くないとかそういう問題じゃ…」
 不満げに眉をしかめて腕組みをする柑奈。
元々言って聞く性格じゃない上に、こうなると余計に手が点けられなくなるんだよな…こいつは。
「えーっと…すみません。お名前を聞いていなかったのですが…」
 どうしたもんかと頭を抱える俺の前で、牧原記者がちょいちょいと柑奈の肩を叩く。ああ、そう言えばこの二人は初対面だったな。
「私?私は大森柑奈。司とは幼馴染なの。よろしくね」
「はい、よろしくお願いしますっ!牧原徹、一年生です!あ、さっき佐崎先輩が言ってましたね」
 にっこりと笑って差し出された手を取って、元気な返事一つぶんぶんと振り回す牧原君。ほんと元気だな、少年。
「で、ちょっといいですか?そこの席変わってもらっても」
「え、ああ、いいわよ。はい、どうぞ」
 そう言って席を譲ってもらうと、俺の目の前の席に座ってコホンと咳払いを一つ。何をする気なのかと眺めていた俺に、ちょいちょいと手招きをするので、顔を近づけた。と、耳を貸せと自分の耳を叩くので、左耳を貸して見る。
『……実は僕、佐崎先輩が昨日の連続通り魔事件の第一発見者だって、知ってるんですよ?』
 囁くように告げられた言葉に、目を見開いた。
「?!なっ、お前どうしてっ!」
「しーっ」
 思わず声を上げてしまい、人差し指を口に当ててる牧原君に慌てて口を閉ざした。怪訝そうな顔の柑奈に二人で曖昧に笑って誤魔化す。なんだってこいつは…!
『僕の父の知り合いが刑事でして。そこからの情報です』
『おいおい、刑事が未解決現在進行形の事件情報もらしちゃまずいんじゃ…』
『大丈夫です。僕が聞いたのはうちの生徒が第一発見者だということだけです。で、近くに佐崎先輩の家があったんで、手始めに鎌をかけてみました。そしたら、なんかビンゴなようで』
『……』
 えへっと笑ってとても嬉しそうな牧原記者に、してやられた俺は二の句が告げなかった。
先輩のプライド云々以前に、後輩に嵌められてしまうとは…夕飯奢らせるぐらいじゃ納得いかないな。悔しいが、とりあえず仕返しは後で考えるとして…今は話を進めよう。
 今度は俺が咳払い一つ。
「で?俺にどうしろと?」
聞きながらも、嫌な予感に自然とやる気が削がれて行く思いがした。
「僕と柑奈さんの調査に付き合って下さい」
「なんで俺が…二人で行けばいいだろっ…あ、いえ。行かせて頂きます。是非同行させてくださいっ」
 抗議の声を上げかけて、牧原君の笑顔のあまりの眩しさに納得出来ないが渋々承諾した。
……流石、腐っても新聞部部員だな。取材のためなら汚い手も平気で使うとは。絶対に後で覚えてろよ!
「じゃ、決まりね!」
「決まりですね。では、今日の放課後に、昨日の事件現場の公園へ行ってみましょう」
 意気込む柑奈に、スクープ期待でくふくふと嫌な笑みを浮かべる牧原君。そしてげんなりとする俺の三人で放課後強行突撃取材が決定したのであった。
「…あれ?そういえば、雅人がこの状況で突っ込んでこないなって珍しいな」
 ふと思い出して、教室のほぼ中央にある雅人の席へ目を向ける。茶色い木目の机と椅子はきちんとしまわれ、椅子を引き出した後も鞄がかかっている様子もなかった。
「ありゃ、もしかして雅人今日休み?」
「あ、そうそう。森くん今日はお休みなんだって。何でも、智美ちゃんが風邪をひいちゃってその看病とか」
「そっか…あいつの家、母方の叔父さんと三人暮らしだもんな。叔父さんは昼間働いてるし、病弱な智美ちゃん一人じゃ残せないよな」
「誰か変わりに頼れそうな人はいないんですか?」
 雅人の事情を知らない牧原君は不思議そうに首を傾げている。
この質問には、流石の柑奈も曖昧に笑うだけだ。
「ま、ちーっとばかし色々事情ってもんがあってだな。残念ながらいないんだよ」
 ぽりぽりと鼻を掻きながらさらっと伝える。納得したのか察したのか…はたまた解っていないのか、牧原君は「ふーん」と呟いたきりそれ以上は聞いてこなかった。
 雅人と智美ちゃんは雅人が十二歳の時に車の事故で両親を亡くしている。その後少しの間施設にいたらしいのだが、一年後に母親の弟に当たる今の勇叔父さんのところに引き取られたのだった。叔父さんは物静かだけど、二人にはとても優しい良い人なのだが、実家との中があまりよろしくないようなのだ。遊びに行ってたまたま実家との電話で珍しく声を荒げる叔父さんを見てしまったことがある。叔父さんは自分が若い頃に少し無茶をしてしまったのがいけなかったのだと笑っていたけど、今の叔父さんしか知らない俺にはとても信じられないことだった。
「…雅人も智美ちゃんも、大丈夫かな……」
 晴れた空を教室の窓から眺めながら、ぼんやりとこぼした。
寝不足も手伝って、その日の授業はあまり頭に入って来なかった。お昼休みに雅人へ電話をかけて見たのだが、呼び出し音が永遠に鳴るだけで誰も出なかった。病院にでも行っていたのだろうか。
 そうして、雅人のいない静かな一日がゆっくりと過ぎて行った。相変わらず代田君の周りに女子が群がる以外は本当に何もない平和な日。柑奈には代田君へ犯人かどうか問質すことの色々な意味での危険性を力説したところ、あっさりと納得してくれた。とはいえ、代田連続通り魔犯説が柑奈の中で消えたわけでもなく、今後の調査の結果で聞くか聞かないかは決めるらしい。…というか、今後の調査ってことは、今回の放課後直撃取材以降もなにかやるってことなんだろうな。そして、俺もメンバーとして含まれているんだろうな。きっと。
「……勘弁して欲しいよ。まったく」
 雅人といい柑奈といい、牧原君といい何故に俺を巻き込む?出来れば俺抜きでめんどうくさいことはやっていただけないだろうか。
 放課後のことを考えるだけで憂鬱になって、今日始めての深い深いため息を一つ落とした。


「…なるほど、ここが例の公園ですね」
 着くなりパシャパシャと、所構わずシャッターを切る牧原君。
「久し振りに着たけど、結構なんも変わってないものね」
「そっか。そいや、柑奈は小さい頃以来になるのか」
「まあね。流石にもう公園で遊ぶ機会もないし、今はバイトと塾が忙しくって中々ね。家の近くに、公園らしい公園もないからなあ」
 幼い頃ここで俺と良く遊んだ柑奈は、懐かしそうに辺りを見回している。
そんな二人を遠くから眺めていた俺の視線は、自然に公園の一角へと向かう。昨日彼女が倒れていた場所に、今は何も残されていなかった。テレビで良く見る例の“キープアウト”とか書いてあるテープが貼ってあったり、見張りの警官が残っているかなと思っていたのだが、すでに調査は終わっているようだ。
 自然と足が向いて、木の後ろの茂みに今日も立ってみる。仰向けになって白く細い足を揃えて横たわる少女。芝に綺麗に広がった彼女のおさげとプリッツスカート。ただ眠っているだけの、おおよそ襲われたとは思えない綺麗な姿は、連続事件の被害者だと言われてもいまいちピンと来なかった。犯人は一体、何がしたくて彼女を襲ったのだろうか?
「あ、そこですか?例の十一人目の被害者が倒れていた場所って」
「ああ」
 言うなり走り寄ってきてパシャパシャと撮り始める牧原君。それに写らないよう身を引いた俺の横に、柑奈がやって来て並ぶ。
「へぇ、そんな所に倒れてたんだ。そこじゃあ、公園の入口からは見えないね。…でも、詳しいね、司。やっぱり近所で噂になってた?」
 首を伸ばして茂みの向こうを覗き、続いて入口からこちらへ視線を巡らせてから最後に俺へと止める。それに少し視線を外して「あー…えーっと、な」と、話して良いものかどうか迷った。なんといっても柑奈だしなぁ…。
 そんな俺に構うことなく首だけ捻って視線をこちらへと寄こし、牧原君がにっこりと笑って言ってしまった。
「それは、佐崎先輩が十一番目の事件の第一発見者だからですよ」
「へぇ……え?えぇぇぇっ?!うそ、本当?な、なんで教えてくれなかったの!」
 耳の痛い高い声で叫んだかと思えば、今度は俺の両腕をつかんで揺さぶってきた。
当の俺は柑奈の叫び声に鼓膜がやられて頭がクラクラして答えるどころではない。ったく、牧原記者め、余計なことを……。
「…そ、そうなるから嫌だったんだよ」
「そうなるって?」
「教室で教えたらお前、他の生徒がいる前でも叫んで俺を質問攻めにするだろ?そうなったら、俺が回りから面白い目で見られたりお前以外の奴からも、質問攻めにあったりして面倒臭いことになるから嫌だったの!」
 今度は俺が大きな声で捲し立てて、柑奈の鼓膜にダメージを与えてやった。
「な、なるほど。良く分かった、わ」
 耳を押さえて頷く柑奈に、揺さぶられてふらつきながらも心の中で勝利のガッツポーズを取った。
「それで、倒れていた女子生徒はどんな感じでここに倒れていたんですか?」
「うん?そうだな。仰向けになって足を揃えていたな。手は体の横に投げ出されていたけど、衣服に乱れは一切なかったよ。むしろ、誰かが綺麗に整えたみたいだったな。ぱっと見、眠ってるみたいだった。…まあ、実際本当に眠っていたわけだけども……」
「ふんふん、なるほど、なるほど。靴は履いていました?」
 カメラをペンと手に収まるぐらいのノートに持ち替えて、牧原記者は俺の証言を一字一句逃さない構えでメモを取っているようだった。それに俺も気を良くして、問われたことに次々と答えていく。
「靴?そうだな…履いてなかったな。白い靴下だったかな」
「怪我とかはしていなかったんですか?」
「うーん、俺もそこまで詳しく見てないんだけど…なかったと思うぞ。見た限りでは」
「鞄はありました?」
 昨日の事とは言え、現場の状況に半分頭が回っていなかった俺は、懸命にあの時の少女以外の事を思い出そうと目を閉じた。
「鞄?鞄は発見した時は見てないな。携帯電話はあったけど」
「そうですか…。うーん、実は鞄は持ってきてないみたいなんですよね。そこが、他の十件と違う点ですかね?」
「ふーん。それも親父さんの知り合いの刑事から聞いた情報?」
「ええ。そうですよ」
 ダメだろ、やっぱりその刑事。知り合いの子供に情報もらすとか、刑事ドラマでよく見かける“懲戒免職”とかにならないか?なにより犯人に警察の捜査状況とかが、牧原君からもれる可能性については考えないのだろうか?
「スマートフォンはどこにあったんですか?」
「ああ、えーっと…そこ、だな。木の左横のちょっと手前辺り。コーラルピンクの可愛らしいやつだったよ。見つけたとき暗かったから手持ちの小さな懐中電灯を点けたんだよ。その光をスマートフォンの画面が反射して、近づいて見たら女の子が倒れていたってわけ」
「なるほど、なるほど」
 鞄からいつも持ち歩いている懐中電灯を取り出して、点けたり消したりして見せる。それを意味有り気に眺めてから、牧原記者は何事か考えながら公園の真ん中へと歩いて行く。何とはなしに、俺と柑奈も彼の後について移動した。
 気がつけばあたりは夕闇に包まれて、調度昨日、俺がここに来た時と同じ表情を公園が見せていた。それで、ずっと忘れていたことを不意に思い出した。その後に起こったことがあまりに大事だったせいで、今まですっかり記憶から吹っ飛んでいた。そのせいで、このことは警察にも言っていない。
「そうだ。今思い出したんだけど…」
 そう言って口を開いた俺に、夕焼け色に染まる二人の視線が集まる。
「あの時俺、公園から出てきた転校生君を見たんだよ」
「転校生って、え、代田くんを?」
「うん。で、何んだろうなぁーって思って入って…」
「佐崎先輩は倒れている女子生徒を見つけたんですね!」
「あ、ああ」
 なにやら、冷静な俺とは逆に二人のテンションが上がっているようだ。牧原君はペンを握る手がぷるぷると震えているし、柑奈は拳を握るその両腕が震えていた。一体全体何だと言うんだ。
「す、すっごいですよ、佐崎先輩!大スクープです!」
「凄いじゃない司!それって、動かぬ証拠ってやつよね?!」
「え?いや、待て待て二人とも!だからって、代田君が犯人と決まったわけじゃないぞ?」
 詰め寄る二人の迫力に、俺はたじろぎながらも落ち着かせようと慌てた。
 確かに非常に怪しいが、本当に田代が犯人だったらそれはそれで危ないし、違ったら違ったで彼に迷惑をかけてしまう。
「わかってますって!ですから、明日にでも直撃取材をですね…」
「わかってるわよ!でも、これで怪しさが更に増したってことよね?それを理由に、本当のことが聞きだせるかも…」
「ストップ、ストーップ!!二人とも落ち着――」
 俺の静止も空しく、ちっとも分かっていない二人を宥めようと大声を上げた。そんな俺自身、ぞわりと嫌な寒気が体中を走ってピタリと動きを止めた。
「……え?な、何?これ……」
「なんですか、これ。辺りが…薄緑色に光ってる?」
「……」
 二人も周囲の様子がおかしいことに気がついたのか、不安そうに辺りを見回している。それはそうだろう。さっきまで夕日に染まって朱色と黒だった周りが、今は薄暗い緑の光に包まれているのだから。
「は!これはもしかしなくても、スクープじゃないですか!」
が、流石に記者根性を忘れない牧原君は直ぐに立ち直ってカメラを構えていた。ほんと、尊敬するよ。そのポジティブシンキングな性格。
「――こんばんは。約二名、関係ない人も巻き込んじゃったけど…ま、いいか」
「…誰だ?」
 公園の入口とは逆の方向に、その人物はいつの間にか立っていた。これだけ薄明るい中にあって、その人物の顔は影がかかったようにここからでは良く見えない。唯一、口元だけがまるで光が当たっているようにここからはっきりと見てとれる。それは緩く、弧を描き笑みを浮かべているようだった。
「残念。その質問には答えられないんだ」
「…は?」
「それと、用があるのは男子諸君じゃなくて、そこの女の子一人ね」
 すっとまっすぐに腕が伸びて、ピタリと俺たちの間にいた柑奈を指し示す。思わず二人揃って柑奈の方を振り返った。驚くか怯えるか、そうでなければ興奮しているかと思った柑奈は、以外に神妙な顔をして指さされた相手を睨み返していた。一体なんだっていうんだ?
「もう、隠さなくてもいいんじゃないかな?どうせ、そのままじゃ僕には勝てないよ?」
「……っ」
「柑奈?」
「え?え?大森先輩、あの人と知り合いなんですか?それと、隠すって一体……?」
 困惑する俺たちの前で、柑奈は目を閉じて深呼吸を一つするとゆっくりと目を開いた。その瞬間、ぞわりと背筋を寒気のような電流のようなものが走った。あの、代田君に感じたものと同じ、ビリビリとした感覚だ。
「柑……」
 声をかけようとして、途中でそれを飲み込んだ。薄緑暗い中にあって、柑奈の体が微かに赤い光を纏っているように見えたのだ。そのまま、俺たちよりも五歩前に出てピタリと足を止める。そこに漂う雰囲気がそうさせないのか、構えたカメラのシャッターを一度も切ることなく牧原君もその場で固まってしまっている。
「嬉しいよ。やっと本気になってくれて」
「あなたなんて、本気になる必要もないわ」
 気持ち悪い猫なで声の相手に、柑奈は硬く一切感情の載らない声で答えた。こんなに冷たい声は俺も聞いたことがない。戸惑う俺たちの前で、柑奈の纏う赤い光が強さを増した。
「わっ…ま、眩しいっ」
 それが一瞬強くなり、あまりの眩しさに手をかざして目を細めた。牧原君はカメラを光の盾にしている。便利なカメラだ。
 そうして光が収まった後に現れた柑奈の姿に、俺と牧原君はぽかんとしてしまった。さっきまで来ていたセーラー服から、裾の短い着物のような格好に変わっていたのだった。臙脂に近い赤っぽい色を基調に、足には足首までのブーツを履き、太ももまでの白いタイツ。黒い短めのプリッツスカート、腰にも同じ色の帯を巻いている。頭に指されたピンクの花の飾りのついた銀色の簪がキラキラと揺れている。
……えーっとこれは…俗に言うあれだろうか。少女が変身して魔法少女になるっていう女の子の永遠の夢的な、

なんだろうか。この展開は、馴染みとして物凄く反応に困るのだが…。
「司!」
「お、おう!なんだ?」
 急に声をかけられて思わず声が裏返ってしまった。
「危ないから、牧原くんを連れて離れてて!」
「わ、わかった!」
 何もない空中から刀を取り出して構える柑奈。色々とツッコミたいことは山のようにあるが、今は後だ。
 言われた通りまだ呆けている牧原君を引きずって、後ろにある少し大きめの木の後ろに身を隠す。とりあえずこれで、何か飛んでくることがあっても安心だろう。いや、何かが飛んで来られても困るんだけど……。
「ふふ、じゃ、始めようか。君は美味しそうだね。食べがいがありそうだ」
 気持ち悪いことを呟くと、持ち上げた腕がぐにゃりと歪んだように見えた。そのままぐにゃぐにゃと形をかえる腕を振り上げると、それを柑奈目がけて叩きつける。しかしそれは素早く後ろに飛んだ柑奈に避けられ、手前の地面をえぐって突き刺さった。
「…あいつ、人間じゃないのか?」
 戻っていく腕の形は、先端の尖ったでっかい針のようになっていた。
「まるでアメーバーみたいな人物ですね」
「おお、復活したか牧原記者」
 返ってきた声に隣を見れば、牧原君がカメラを構えてじっと柑奈たちを見つめていた。
「まあ、ちょっとびっくりしましたけど、あれぐらいではへこたれませんよ」
「なるほど、さすが記者根性。スクープのためなら…か?」
「ええ、スクープのためなら!です」
 そう言ってグッと親指を立ててみせる。タフな奴。
「避けられちゃったか。じゃ、これはどうかな?」
 そう言うと、今度は腕が付け根から十個の針に分かれた。それが、ぐにぐにと動き、あらゆる方向から柑奈目がけて飛んで行く。
「柑奈!」
「はっ!」
 思わず叫んだ俺の心配を余所に、柑奈は全ての腕を刀で弾き飛ばしたり切り落としたりしていく。切り落とされた腕は地面へ落ちると、ばしゃりと弾けて水になって溶け消えてしまった。そのまま一気に間合いを詰めると、下からすくい上げるように奴を切りつけた。しかし、相手は避けることなく素直にその刃を受ける。微かだが、口元に性質の悪い笑みが薄く浮かんでいるように見えた。
と、その全身がぐにゃりと歪んだ。
「まずい!」
「嬉しいよ。君の方から来てくれるなんて!」
 嬉しくてたまらないと言いたげな声と共に、歪んだ体が柑奈を包み込もうと大きく伸びてその体を飲み込んだ。
「お、大森先輩!佐崎先輩、あれ大丈夫ですよね?ね?」
「俺だってわかんねーよ!一体なんなんだよあいつは…」
 目の前でぐにゃぐにゃと動く水のようなヌメッとした塊を、俺たち二人はただ凝視するしかない。
「あはは、だから言ったのに。本気を出さないから、僕に食べられちゃうんだよ」
 もはや勝利を確信して、いい気分で高らかに笑い続ける相手。俺たちの希望も絶望に変わりかけよとしていた時。
「あはははははっ…はっ…?な、なんだ。う、ぐぐっ!」
 高らかに笑っていた奴が急に苦しみ出した。膨らんだ腹がぐにゃぐにゃと形を変え、一瞬大きく膨らんだかと思うとそのまま一気に弾け飛んだ。その勢いで腹の破れた奴は後ろに吹っ飛び、背後にあった木に叩きつけられる。何が起きたのか解らないまま、トンと軽い音をたてて、飲み込まれた時となんら変わりのない姿で柑奈が俺たちの前に降り立った。
「柑奈!」
「よ、良かった!大森先輩、生きてましたよ!佐崎先輩!本当に良かった~」
「ああ」
 泣いて喜ぶ牧原記者。俺も詰めていた息を吐き出して肩の力を抜いた。大丈夫という保証がないだけに、柑奈の戦いは危なっかしくて心臓に悪い。
 ホッとする俺たちを後目に、柑奈は警戒心を解くことなく再び刀を構えた。その視線の先で、木に打ちつけられた奴がズルズルと伸びたままの液体状の体を引きずって立ち上がっていた。
「うわ……もう、なんか本当に化け物って感じですね」
 そう言い顔を顰めながらも、その手元ではカシャカシャとシャッター音が響いていた。……うん。もう、何も言うまい。
「だな。人が人の形をしていないって結構気持ち悪いもんだな」
 肩で息をしてその場で暫く突っ立っていたが、深く息を吸い込むと垂下がっていた体がまるで巻き戻しを見ているように奴の体へと集まりだした。次に息を吐き出し時には、元の通り黒い服に身を包んだ奴がそこに立っていた。それと同時にカランと目の部分だけの黒い仮面が落ちた。どうりで目の辺りが見えないと思ったら、そう言うことだったのか。それに気づいてゆっくりとした動作で拾い再び被り直した。神経質に服を直すと、柑奈に向き直ってにっこりと口許が笑った。
「ふふふ。今の痛かったよ。前の言葉は取り消そう。中々やるね」
「あなたに私を食べることはできないわ」
「おやおや。随分と自信があるね。何かあるのかな?」
「それが解らないのなら、やっぱりあなたは私を食べることは出来ないわね」
 少し余裕が出たのか、柑奈の声がさっきよりも明るい。ここからでは顔は見えないが、笑っているようにすら思える。
「でも、あの刀が役にたたないのは本当の話ですよね?あれだけぐにゃぐにゃ体が変えられるわけだし」
「そうだな。今受けてるダメージはどっちかというと、柑奈が何かして破裂させた時のだけみたいだ。RPG風に言うなら、物理攻撃無効、みたな?」
「ですね。…なんか、その言葉がぴったり当てはまる場面に、生きている中で自分が遭遇するとは思いませんでしたけど…」
「だな」
 改めて今の状況のおかしさを認識して、二人渇いた声で笑った。
「ふーん…じゃ、これはどうかな?」
 そう言って奴が指を鳴らした瞬間、がくりと柑奈の体が傾いだ。
「!」
 何が起こったのか一瞬よくわからなかった。が、柑奈がしきりに足下の何かを振り払おうとしていることから、どうやら地面から出た何かが柑奈の足に絡み付いているらしいとわかった。動きを封じられたと言うことか?
「君がさっき切り落とした、僕の腕だよ」
「くっ!」
「……動けないでしょ?」
 もがいてなんとか逃れようとする柑奈をあざ笑うように、奴がゆっくりと腕を上げて一歩一歩と柑奈へと近づいて行く。
「本当は弱らせてからって嫌いなんだけど…しょうがないね」
 そう言って肩をすくめる。
「ど、どどど、どうしましょう!こ、このままじゃ大森先輩が死んじゃいますよ!」
 横でおろおろする牧原記者のカメラを見て、奴を見た。
 あの仮面、柑奈の動きが見えるってことは目の部分だけは開いてるよな?あいつの気が一瞬でも柑奈を捕らえることから離れれば、その隙に柑奈を助けることが出来るかもしれない。とは言え、これは単なる俺の仮説であって、絶対に成功する確証は全くない。だからと言って、ここで何もせずに柑奈を見捨てるなんてもっと出来るわけがない。
「カメラ、貸せ」
「へ?」
 差し出した手に何がなんだか解らず、キョトンとした顔で俺と手を交互に見る牧原君。
「いいから貸せ!柑奈を助けるんだよ!」
「は、はい!」
 思わず荒げた声にビクリと牧原君が肩を震わせた。そうして慌てて首からカメラを外し、俺の手の上に乗せる。それをしっかり両手で持って、タイマー撮影を設定する。
「いいか。今から俺の言う通りに動いてくれ。ただ、危ないと思ったらすぐに逃げろ。…逃げられるかどうかはわかんねーけどな」
 そう言って小さく苦笑を浮かべれば、牧原記者はいずまいを正して首を横に振った。
「可能性がなくても、今大森先輩を助けられる可能性があるのなら、言ってください。その通りに動きます」
「ありがとな。じゃ、一丁やってみるか」
「はい!」
 お互いににやりと笑って頷きあった。
「――お、おい!この化け物!おおお、大森先輩から離れろ!」
「ま、牧原くん?!」
「おやおや、姫の危機を助ける騎士にでもなったつもりかな?」
 ザッと隠れていた茂みから飛び出ると、手に持った太めの木の枝を野球のバットのように握って柑奈と奴の間に立ちふさがる牧原記者。
「う、うるさい!いいから離れろ!」
「牧原くんやめて!下がって!相手はそんなことで引くような奴じゃないのよ!!」
 この展開には柑奈も驚き、慌てて牧原君を止めようと手を伸ばす。しかし、ちょっとの距離でその肩にとどかな。
「うーん。足が震えているようだけど、無理はしない方が身のためだよ?最初に言ったけど、僕が用があるのは彼女なんだよ。君じゃなくて」
「こ、これはあれです!む、武者震い!!」
「ふむ。じゃあ、しょうがない。君から死んでもらおうかな?」
「ひっ……」
 上げていた腕がぐにゅりと歪み、先の尖った槍のような形へと変化する。
そろそろ、牧原君の気力も限界だろう。だけど、おかげでやつの気が柑奈ではなく牧原君に向いている。
「バイバイ」
 明るい声が告げて、柑奈も牧原君自身も目を閉じたその一瞬。俺の狙っていたチャンスが訪れた。手に持ったカメラのタイマーが切れるタイミングを確認してから、勢い良く茂みを飛び出した。
「おいこら!アメーバーお化け!」
 声の限りに呼びかけて、奴がこちらを見るよりも先にカメラをその顔面目がけて投げつけた。その視線がこちらを向くのと、カメラが奴の目の前に辿り着いたのはほぼ同時だった。
(よしっ!)
 心の中で叫んで、ガッツポーズを小さく取る。後はあのタイマーが働き、カメラのフラッシュであいつの目が潰れれば作戦成功のはず――
  ゴガッ!!
「ぐあっ…!」
――だったんですけどね?
 大きな鈍い音がして、カメラは見事に奴の仮面を被った両目にヒットしていた。
 カメラはその後、パシャリとフラッシュを焚きゴトリと地面に落ちたのだった。
 やつの押さえている目の辺りからぱらぱらと仮面の破片がいくつも落ちてくるところを見ると、衝突の衝撃は相当のものだったのだろう。どうやら俺が投げるとき力の入れ加減を間違えたらしい。
「あ…ありゃ?」
「……ウソ。ぼ、僕のカメラが…貯金をためてようやく買った五万円のカメラが…はふぅ」
 目を点にして首を傾げる俺の後ろで、魂の抜けたような牧原君の呟きが聞え継いでパタリと倒れる音がする。そ、そうか。あのカメラ五万円もしたんだ…そりゃ倒れたくもなるよな。ごめん俺、弁償できる自信ないや。
「司!どいて!」
「え?」
 呆けているところへ、背後から柑奈の声が響き、反射的に身を引いた。その直ぐ横を凄いスピードで柑奈が駆け抜ける。奴がダメージを受けたせいか、柑奈を縛り付けていた戒めは解けたようだ。だとすれば、一応作戦は成功したってわけか。カメラという高額な犠牲を払って。
「はあぁぁぁぁぁぁっ!」
 刀を片手に、素早い動きで奴のまん前まで走り抜ける。柑奈の狙いは、奴の顔面。砕けかけた仮面裏の目。あんなに切りつけて全くダメージが通らなかったのに、俺の投げたカメラによる痛みはしっかりと受けて今も悶絶している。そのことから考えられるのは只一つ、恐らくあそこがあいつの弱点なのだろう。仮面はそれを護るための鎧みたいなものだったというわけだ。
「はぁっ!」
 気合一つ。渾身の力を込めて、柑奈は刃を奴の眉間を斬りつけた。
「あぁぁぁぁぁっ!このっ!」
「きゃあっ…!」
 少し離れた位置に着地した柑奈を、痛みで錯乱した奴がぐにゃぐにゃの腕を伸ばして薙ぎ払う。吹き飛ばされた柑奈はそのままブランコの鉄柵に背中を打ち付け落ちた。気を失ってしまったようで、ぐったりとして動く様子がない。
「柑奈!…くそっ……!」
 ダメージを受けているとはいえ、奴はまだ健在。今の状況で、唯一戦える柑奈が動けないとなると、非常にまずい状況だ。
「はあ、はあ、ふ…ふふフフフ…。驚イタヨ。マサカ、君ニココマデヤラレチャウナンテネ。オカゲデ人ノフリヲスルノモママナラナイヨ」
 ぐちゃりと音をたてて、奴が柑奈へ近づいていた。もはや人と言うよりも何かヌラヌラと光る質量のある緑色の濁った液体が、人の形を取っていると言った方が正しいかもしれない。
「君、ヲ取リ込ンデ、僕ハ、モ、モモモモモトニ……モトニ戻ルゥゥゥゥ」
 がくがくと何度も痙攣を繰り返しながら、それでもその足が止まる様子はない。
ダメだ。これ以上柑奈に近づけさせる訳にはいかない。
「どうする?どうするよ、俺!」
 必死で考え、打開策を見つけようと辺りを見回した俺の目に、地面に突き刺さった刀が目に入った。これだと思うが早いか、駆け寄りその柄を両手で握った。
 その瞬間、パリッと電流のようなものが体を駆け巡った。この感覚は、知っている。一度目は、代田君と初めて言葉を交わした時に、二度目はあいつが現れた後柑奈の様子が変わった時だ。不可思議な現象に首を傾げたくなるが、今はそんなことに思考を巡らせている場合ではない。迷っている暇はない。構うことなく力を込めて握り直すと、地面から引き抜いて構えた。重くて振れないかと思ったが、そんなこともなくまるで羽根のように軽い。
 まっすぐに奴の背中を捕らえて深呼吸を一つする。
刀なんて、ゲームの中でしか扱ったことがない。ましてや人を切るなんて、やったことあるわけがない。
「ははっ、人かどうかも怪しいけどな」
 軽口を叩いてにやりと笑う。
やるしか、ないのだ。
「やってやるさ。俺も男だ!」
 気合を入れて走り出す。狙うのならやはり眉間だ。しかし、前に回りこんではあのぐにゃぐにゃの腕で弾き飛ばされてしまうだろう。
 なるべく音をたてないように、静に素早く後ろに回りこめるよう努める。ピリピリと俺の周りで青い静電気のようなものが舞う。けど、そんなものに一々目を止めてはいられない。これで、終わりにするんだ。
「――柑奈ばかり見てるから、背後ががら空きだぞ?」
 出切るだけ余裕のある声で、静かにそっと囁いた。
「ナニ――ッ……」
 奴がぐにゃりと形を変え、背後に顔が現れた瞬間を見逃さない。
 両手で目の高さまで刀を振り上げ、そのまま真っ直ぐ正確に奴の眉間を貫いた。パリパリと静電気が更に煩く瞬いて、もう俺はただ奴を倒すことだけに必死になっていた。
「グアッ!グアァァァァッ!!」
 最後の悪あがきか、ぐにゅりと刀を掴んでいた手に奴が這い上がって来た。
「――っ?!」
 しかし、手首に巻きついたところで力尽き、質量を失った液体はするりと滑り落ちて地面へ辿り着く前に消えてしまった。薄緑色の闇が消え、辺りを夜の闇が包み込む。遠くで車の行きかう音が聞こえ、サワサワと少し肌寒い風が頬を撫でて行く。
 暫くしてようやく、呆けていた俺はがくりと地面に膝をついてへたりこんだ。柑奈の刀はいつの間にかなくなっており、柑奈の格好もいつも通りのセーラー服に戻っていた。牧原君にいたっては、未だに気を失ったままだ。
「……元に、戻ったのか……」
 掠れた声で呟く自分のこえが、安堵のせいか微妙に裏返って聞える。今更ながら体が震えて止まらなくなってきていた。震える両手を自分で眺めて、そのいつもとは違う見え方に首を傾げた。
「…あれ?俺ってこんなに指細かったっけ?なんか色も白いような……」
 何度も裏と表をひっくり返して眺めて、やっぱりおかしいと言う結論に達する。これじゃあまるで、女の子の手みたいだ。
「なーんて。そんなことあるわけないか」
 あははとわらいながら、手を置いた頭には短髪の自分にはないはずの長い髪があった。笑い顔が引きつり、置いた手をそのまま下へと流しながら髪を一房掴んで持ち上げてみる。長さは腰まであるだろうか。いつの間にか俺の髪は黒い長髪に変わってしまったようだ。
 嫌な予感に、今度は別の意味で震える両手を前に出した。そうして、意を決して自分の胸を触ってみる。
 むにゅっ。
「…………」
 男なら絶対にありえない感触に、俺の頭は真っ白になった。え、だって。何この柔らかい感触。しかも結構……サイズでかくないか?
「あ、そうか。きっとこれ、偽者だよね。うん。だからこうして握っても……」
と、二つの山をギュッと力いっぱい握り潰して、あまりの痛みに悶絶した。違う。これ、本物だ。
 認めたくない気持ちがそれでも否定しようと心の中で暴れるが、現実は非常なことに本当のことしか俺に伝えてこない。つまり俺は……女の子になっちゃった…のかな?
「うそぉぉぉぉぉぉっ!!」
 真夜中の閑静な住宅街に、俺の悲惨な叫びがこだました。どこからか、つられてないた犬の遠吠えが聞えてきた。
 とにかく!とにかく、だ。ここで泣き喚いてもらちが開かない。
 俺は一人現実逃避気味に頷いて立ち上がると、茂みに投げ出されていた鞄を持ち上げた。中をあさってスマートフォンを取り出すと、自宅に電話する。いくらなんでも、気絶した二人を俺一人で運ぶのはきつい。電話に出たのはばあちゃんで、なるべく低い声で喋るように努める俺に何の不信感も抱いた様子はなかった。詳しいことは言わず、とにかく友人ふたりが気を失って倒れているので迎えに来て欲しいと伝えた。ばあちゃんは逆に俺が気持ち悪く感じるぐらいあっさりと納得し、親父を迎えに寄こすと言った。
 そうして電話を切ってしばらくしてから車で迎えに来てくれた親父の姿を見て気が緩んだのか、俺はそのまま気を失ってしまった。

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