第3話

文字数 943文字

 そのバーに入ったのは、その日が初めてだった。
 孤独に殴られて雑然と足を動かしていると、裏通りにあるバーの看板が目に止まった。蛍光灯が切れかけているらしく、不規則に点滅していた。
 扉を開けようという気になったのは、きっとその看板に、希美と彩芽の残影を重ねたのかもしれない。いや重ねたのは屍のような俺自身か。

 足を踏み入れると、そこには往年のジャズが流れていた。オーナーの趣味に違いない。ボリュームが不自然に大きかったが、それが却って心地よく、アルコールに集中できそうに感じた。
 店内にはカウンター席しかなく、色あせたカウンターチェアーが七つ程並んでいた。
 客といえば、一番奥に男がひとりいるだけ。
「いらっしゃいませ」
 とっくに還暦を越えているだろうと思われるシルバーグレーの髪をしたマスターは、一瞬目を合わせると、すぐに視線を落とし、グラスを磨きだした。
 俺はふらふらとカウンターの中央に腰かけると、シルバーグレーのマスターはおもむろに口を動かした。「ご注文はお決まりですか」
 ダンヒルをオン・ザ・ロックで頼み、一気に流し込む。喉が急激に燃え上がり、じんわりと細胞に染み渡る感触を堪能した。
 グラスを置き、すぐさまお代わりを要求すると、そこでじっくりと店内を見廻した。
 間接照明が、うらぶれた煉瓦色の壁を薄いオレンジに染め上げている。ちょうど背中辺りの壁に、トランペットを構えて笑顔を浮かべている黒人男性のポスターが貼られている。おそらく有名なジャズメンなのだろうが、俺の知らない人物だった。
 それにしても気になるのはカウンター席の隅に座る男だ。さっきから背中を丸めながらグラスをちびちびと傾けている。
 彼は俺と同じか少し年上の印象で、くたびれた背広に髪はボサボサ、口の周りには無精ひげが見える。何かと惜別したかのような昏い表情を浮かべ、すでに氷だけになったグラスの縁を指で撫でまわしていた。
 声を掛けようと擦り寄りかけたが、近寄りがたい雰囲気を感じて思い留まり、俺はカウンターに目をやった。
 様々な種類のボトルが整然と並んでいる棚の前で、マスターが慣れた手つきで氷の塊をアイスピックで突き砕いている。ワザとなのか偶然なのか、その響きとジャズの旋律が不思議と調和して俺の心をくすぐった。
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