第5話 トラウマに触れたらどうなんだ?
文字数 5,542文字
金曜日。当たり前だけど明日は土曜日。ということはつまり、華金である。
だが、サトルは朝から社内を駆け回っていた。OSのアップデートでトラブルが続出していたのだ。ネットに繋がらなくなるという不具合のため、その対応はリモートでは出来ず、実機にUSBメモリを挿して復旧プログラムを実行する必要があった。
ヘルプデスク員が総出で社内を周り、不具合のあるパソコンの復旧作業をしていった。なんとか定時内には、トラブルを全て解消し、報告書を作成して、ヘロヘロのまま退勤した。土日が休みで本当に良かったと思う。
サトルは疲れた心と体を引き摺 って電車に乗り、駅の近くの大型ドラッグストアでビールを買い、アパートまでの道のりの途中にあるインドカレー屋でバターチキンとナンのセットをテイクアウトした。
ビニール袋を越えて漂ってくるカレーの匂いにお腹を空かせながらアパートへ着くと、駐輪場に原付を停めるミカの姿があった。
「よっ、サトルくん。どうしたの。なんか疲れた顔してない?」
「分かります? 今日は仕事が大変だったんですよぉ……」
がっくりと肩を落として通り過ぎようとするサトルの肩を、ミカがポンと軽く叩いた。
「それ、カレー? 私も、ほら」
ミカが別のチェーン店で買ったカレーを持ち上げて見せる。
「もう、ギガントパンサーズの試合、始まってるよね」
「そうですね。まだ2回表とかじゃないですかね。先発が打たれまくってなければ」
ミカは、少し考えるような仕草をして、サトルに言う。
「じゃあさ、ウチで一緒に試合観ようか。この前、スポーツバーで一緒に観てたら勝ったんだから、もしかするとサトルくんのバターなんとか……」
「バタフライ・エフェクトですね」
「それ。また、ふたりで観たら勝てるかもよ」
と言われても、いきなり女性の部屋に上がり込むのはどうなんだろうと、サトルは考える。だが確かに、まだその観戦方法は試していないので、是非ともやってみたいところではある。
「僕の部屋じゃ……あっ、ダメだ。今、散らかり放題でした」
家事は土曜日にまとめてやるタイプなので、金曜日は、一番部屋が散らかっている時なのを思い出した。
「ちなみに私、タバコはベランダで吸ってるから、部屋は臭くないよ。あと多分、サトルくんの部屋よりは綺麗だと思う」
「じゃあ、鞄 とか置いて、着替えて行きますよ。今日は社内で走り回ってたんで、汗臭いんです」
「うん。じゃあ、待ってるから。そのカレーもウチに置いとくよ」
サトルはインドカレーの入った袋をミカに渡す。
「ビールは、冷蔵庫にストックがあったと思うんで、持っていきますね」
ミカの部屋の前でいったん別れ、サトルは軽くシャワーを浴びて、ジャージとTシャツに着替える。髪を乾かして、冷蔵庫に今日買ったビールをしまい、元々冷やしてあった500mlのビール缶を出し、ミカの部屋のチャイムを押した。
玄関の扉を開いたミカは、タンクトップにハーフパンツと、やたらラフな格好だった。サトルは少したじろいだが、さすがに中学生じゃあるまいし、平静を装いながら、うながされるままに部屋へ入った。
なんだか少し甘い匂いがする。部屋の間取りは、サトルの部屋とほぼ同じで、1DKだった。キッチンテーブルの中央の花瓶に花が挿してあり、おそらくそれが甘い匂いの正体のようだ。テレビと向かい合うように灰色のソファーが置いてあるが、ベッドは見当たらない。おそらく、ソファーベッドなのだろう。
「適当に座ってて。ちなみに3回表だけど、まだどっちにも点は入ってないよ」
テレビとソファーの間にガラストップのリビングテーブルが置いてある。ラグマットが敷いてあり、ソファーとテーブルの位置は遠いため、サトルはリビングテーブルの上に2本のビール缶を置き、ラグマットの上に座った。
それぞれのカレーのセットを別々のお盆に乗せて、ミカがリビングテーブルの上に置いた。
その時、サトルは、ミカの左の太ももに大きな傷痕 があるのを見てしまった。その視線に気付き、ミカが微笑んで傷痕を指差す。
「3年前まで大型バイクに乗ってたんだけど、ひどい事故を起こして、一時期は車椅子生活してたのよ。なんとか歩けるようになって、今は元気に走ったりも出来るようになったんだ」
「……良かったです。ミカさんが生きててくれたから、こうして一緒にギガントパンサーズの試合を観れるんですよね」
サトルが放ったのは意外な言葉だったのか、ミカは少しの間、静止して彼をじっと見つめた。
「この傷見ても、引かないんだ。サトルくんは優しいね」
その言葉を上書きするかのように、サトルのお腹が盛大に鳴った。
「アハハ。めちゃくちゃお腹空いてたのね。早く食べましょ」
ミカもラグマットの上にあぐらをかいて座る。
ふたりは、ビールのタブを開け、乾杯してからゴクっとひと口、喉を潤す。
「華金のビールは、やっぱり最高です。この一瞬のために5日間働いてる気がします」
「これ、黒ラベルね。これもゲン担ぎ?」
「そうですよ。勝利の黒ビールです」
「サトルくんは、朝テレビでやってる星座占いで一喜一憂するタイプっぽいね」
「たまに見ると、いっつも12位なんですよね。なんででしょう」
ミカは、少し考えて、いたずらな感じで微笑む。
「多分さ、4位とか10位とか、微妙な時のことは忘れちゃうんだよ。それか、気にならないから覚えてないとか。12位だとショックだから、よく覚えてるだけなんじゃない?」
「なるほど。そう言われれば、そうかも知れません」
腹が減って死にそうなサトルは、ミカが温めてくれたナンをちぎり、カレーに浸 し、ゴロゴロしたチキンと共に口に入れる。
「うっっっま!」
いつものネパール人のインドカレーは、今日あった出来事を吹き飛ばすかのように、サトルの口の中に辛さと幸せをもたらしてくれた。
「なんか、試合が全然動かないねぇ。こっちはエースだからいいとして、相手はそんなに打てない感じのピッチャーじゃないのに」
ミカがテレビを観ると、ちょうど四番の伊月選手がセンターフライを打ち上げたところだった。ワンアウトで2、3塁だが、フライが浅すぎて、3塁ランナーはタッチアップのそぶりだけ見せて帰塁してしまった。
「あちゃー。次のモーガンに期待だね」
「モーガンは、今シーズンほとんどソロホームランなんですよ。塁に誰かいると、なぜだか打てなくて。例外は、あの1勝の時のツーランくらいですね」
ミカは、ちらちらとサトルの視線を確かめる。本当に、太ももの大きな傷痕を気にしていないようだ。……というよりも、ナンをちぎって食べるのにやたらと集中していて、試合すらそっちのけでカレーを食べ続けている。
「サトルくんって、やっぱり面白いね」
「えっ。僕、またなんか変なことしました?」
「存在自体が面白いわ。だって……」
テレビから大歓声が再生された。
モーガンの打球は、綺麗な放物線を描いてバックスクリーン横へと突き刺さった。
「ホームラン! ねぇ、3点先制だよ!」
ふたりはビール缶で乾杯する。サトルが、一気に疲れの吹き飛んだような笑顔に変わる。
「僕、もう2本ビール持ってきます! 確かまだストックがあったはずなので!」
サトルは少し酔っているのか、足元をフラつかせながら自分の部屋へ戻って行った。ミカは、タバコを吸いたくなってきたが、今日は我慢することに決めた。
そのまま何度も流れるホームランの映像を観ていると、ビール缶を抱えたサトルが戻ってきた。
もう一度、冷えたビール缶のタブを開けて、乾杯する。
「今日、僕は仕事で1日中大変な思いをして、結構、急かされたり怒られたりしたんですけど、全部、今のホームランでその嫌な記憶が消えました。やっぱり野球って最高ですね」
「そうだね。あ、そうだ。ちょっと聴いてて」
そう言って、テレビの横の台に置かれたDTMキーボードで、ミカが演奏を始めた。
「あっ、これモーガンの応援歌ですね」
「分かる? 何回か聴いてるうちに覚えたのよ」
サトルは、少し俯 いて、少し思い詰めたような表情に変わった。
「サトルくん、どうしたの?」
「……去年、少しの間付き合ってた彼女がいたんです。彼女……元彼 もピアノを弾くのが上手くて、ちょっと思い出してしまいました」
「へぇ、ちなみに、どうして別れたの? あっ、言いたくないかな」
サトルは顔を上げて、首を軽く横に振った。
「僕が悪いんです。去年の最後のギガントパンサーズの試合、覚えてますか?」
「あー。あのAクラスかBクラスかが決まった試合だっけ。勝ちでAクラス、負けか引き分けでBクラスってやつだ」
「そうです。あの日、彼女の誕生日だったんですよ。だから1週間前にレストラン予約してて。でも、まさかの3連勝で、ギガントパンサーズがAクラスに入れるかもってなったんです。どうしてもその試合をリアルタイムで観たくて、彼女に謝って食事を別の日にって……。それでフラれちゃいました」
ミカは天井を仰ぐ。
「引き分けだったよね。あの試合」
「……はい。それでも僕、あんまり後悔してなくて。だって、自分の中で彼女よりもギガントパンサーズの方が上だったんです。ならいずれは、どこかのタイミングでやらかして結局フラれてたと思うんですよね」
「彼女は野球あんまり好きじゃなかったんだ?」
「僕が野球の話ばかりしてるから、時々怒られましたね。多分、好きでも嫌いでもないというか、興味がなかったんだと思います」
「じゃあ、次は野球好きの彼女を作らないとね」
しばらくの間、部屋の中の沈黙をテレビから再生される野球の実況が上書きする。
「そうですね。次はミカさんみたいな人にしたいかな」
サトルの言葉に、ミカの顔が紅潮する。
「いやいや、こんなタバコ臭い女、嫌でしょ」
「例えば、ですよ。野球好き、ギガントパンサーズ好きなら、一緒に球場にも行けますし」
「な、なんだ。例えばね。ふーん」
ミカは、手で顔をパタパタと仰ぐ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
試合は、3対1でギガントパンサーズがリードしたまま進んだ。そして9回裏、あんまり守護できていない守護神がマウンドに登った。敵は三番からの好打順だ。
「ランナーさえ出なければ、ホント良 いピッチングするんですけどね」
「来年は普通に中継ぎやってそうよね。9回の重圧に耐えられないんじゃないかな」
だが、今日の守護神はストレートのキレが良いらしく、厳しいところをついてあっさりと相手打者を追い込んだ。
そして、キャッチャーが取り損ねるほどのフォークで空振り三振。打者は振り逃げするも、1塁にボールが送られてアウトとなった。
続く四番打者は、初球の厳しいアウトコース低めをすくい上げ、ライトがフェンス際で捕球してツーアウト。
「今の、狭い球場だったらホームランだったね」
「ミカさん。野球にタラレバは禁物ですよ」
「あれ? この前、タラレバ妄想してるって言ってなかったっけ」
「フッフッフ。人は変わるものですよ。最近は、ちゃんと結果を受け止める余裕が出てきたのです」
「……負けすぎて諦めただけでしょ」
テレビからひときわ大きな、悲鳴混じりの歓声が上がる。
「げ。ヒット打たれましたね。これで守護神が一気に弱々の別人になりますね」
球場では、ピッチャーの表情が良く見えたが、テレビだと細かく切られて次々と視点が移動するため、一人一人の感情が分かりにくい。
だが、セットポジションで大写しになった守護神は、やっぱり少しキョロキョロとして挙動不審に見えた。
「頼むぞー。あっとひとり、あっとひとり」
サトルは手を叩きながら応援する。ミカも、集中して成り行きを見守る。
守護神はクイックで投球動作に入る。ランナーが走りだす。エンドランか。
バッターは、バットにボールを軽く乗せるような感じで弾き返す。ショートの上を超えて、レフトとセンターの間の微妙な位置にボールが落ちる。深めに守っていたセンターがボールを捕った時、敵チームの3塁コーチは腕を回していた。
走者が勢いそのままに3塁を蹴り、猛然とホームに突っ込んでくる。
センターからの送球は……ドンピシャでキャッチャーに届いた。走者はヘッドスライディングをして、タッチを躱 そうとする。どっちだ?
審判は、アウトのコールをした。
すぐさま、敵チームの監督がリクエストを求める。
審判員が集まり、ビデオ判定が始まる。
「今の、どう見てもアウトでしょ。だって凄いレーザービームだったよ」
「スローで映ってますね……。ギリギリ先に、タッチしてるように見えます」
「アッウット! アッウット!」
今度はミカが手を叩きながら、アウトの声援を送る。
そして、主審が出て来た。
アウトのポーズをする。
「やった! 勝ったよ!」
「勝ちました! やっぱりふたりで観ると勝てますね!」
ふたりは、勢い良くハイタッチを交わした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ゴミとか、ホントにそのままで良かったんですか?」
「うん。私はきちんと分別して捨てるから。心配しないで」
「いや、僕も分別くらいはしますよ」
ミカの部屋の扉を開けて、サトルは廊下に出て振り向く。
「今日も、凄く楽しかったです。ありがとうございました」
「こっちもだよ。ありがと。あと……」
ミカが少し俯 いた。サトルは、首を傾 げ、次の言葉を待つ。
「……私、男の人に足の傷痕を見せたの、初めてなんだからね」
「えっ。……あの……」
「そんだけ」
ミカは、思い切りサトルの頬をつねる。
「気にしないでいてくれたの、嬉しかった。おやすみ」
そう言って、サトルの返事を待たずに、ミカは扉を閉めた。
サトルは、ジンジンと痛む頬を摩 りながら、しばらくの間、呆然とその場に突っ立っていた。
だが、サトルは朝から社内を駆け回っていた。OSのアップデートでトラブルが続出していたのだ。ネットに繋がらなくなるという不具合のため、その対応はリモートでは出来ず、実機にUSBメモリを挿して復旧プログラムを実行する必要があった。
ヘルプデスク員が総出で社内を周り、不具合のあるパソコンの復旧作業をしていった。なんとか定時内には、トラブルを全て解消し、報告書を作成して、ヘロヘロのまま退勤した。土日が休みで本当に良かったと思う。
サトルは疲れた心と体を引き
ビニール袋を越えて漂ってくるカレーの匂いにお腹を空かせながらアパートへ着くと、駐輪場に原付を停めるミカの姿があった。
「よっ、サトルくん。どうしたの。なんか疲れた顔してない?」
「分かります? 今日は仕事が大変だったんですよぉ……」
がっくりと肩を落として通り過ぎようとするサトルの肩を、ミカがポンと軽く叩いた。
「それ、カレー? 私も、ほら」
ミカが別のチェーン店で買ったカレーを持ち上げて見せる。
「もう、ギガントパンサーズの試合、始まってるよね」
「そうですね。まだ2回表とかじゃないですかね。先発が打たれまくってなければ」
ミカは、少し考えるような仕草をして、サトルに言う。
「じゃあさ、ウチで一緒に試合観ようか。この前、スポーツバーで一緒に観てたら勝ったんだから、もしかするとサトルくんのバターなんとか……」
「バタフライ・エフェクトですね」
「それ。また、ふたりで観たら勝てるかもよ」
と言われても、いきなり女性の部屋に上がり込むのはどうなんだろうと、サトルは考える。だが確かに、まだその観戦方法は試していないので、是非ともやってみたいところではある。
「僕の部屋じゃ……あっ、ダメだ。今、散らかり放題でした」
家事は土曜日にまとめてやるタイプなので、金曜日は、一番部屋が散らかっている時なのを思い出した。
「ちなみに私、タバコはベランダで吸ってるから、部屋は臭くないよ。あと多分、サトルくんの部屋よりは綺麗だと思う」
「じゃあ、
「うん。じゃあ、待ってるから。そのカレーもウチに置いとくよ」
サトルはインドカレーの入った袋をミカに渡す。
「ビールは、冷蔵庫にストックがあったと思うんで、持っていきますね」
ミカの部屋の前でいったん別れ、サトルは軽くシャワーを浴びて、ジャージとTシャツに着替える。髪を乾かして、冷蔵庫に今日買ったビールをしまい、元々冷やしてあった500mlのビール缶を出し、ミカの部屋のチャイムを押した。
玄関の扉を開いたミカは、タンクトップにハーフパンツと、やたらラフな格好だった。サトルは少したじろいだが、さすがに中学生じゃあるまいし、平静を装いながら、うながされるままに部屋へ入った。
なんだか少し甘い匂いがする。部屋の間取りは、サトルの部屋とほぼ同じで、1DKだった。キッチンテーブルの中央の花瓶に花が挿してあり、おそらくそれが甘い匂いの正体のようだ。テレビと向かい合うように灰色のソファーが置いてあるが、ベッドは見当たらない。おそらく、ソファーベッドなのだろう。
「適当に座ってて。ちなみに3回表だけど、まだどっちにも点は入ってないよ」
テレビとソファーの間にガラストップのリビングテーブルが置いてある。ラグマットが敷いてあり、ソファーとテーブルの位置は遠いため、サトルはリビングテーブルの上に2本のビール缶を置き、ラグマットの上に座った。
それぞれのカレーのセットを別々のお盆に乗せて、ミカがリビングテーブルの上に置いた。
その時、サトルは、ミカの左の太ももに大きな
「3年前まで大型バイクに乗ってたんだけど、ひどい事故を起こして、一時期は車椅子生活してたのよ。なんとか歩けるようになって、今は元気に走ったりも出来るようになったんだ」
「……良かったです。ミカさんが生きててくれたから、こうして一緒にギガントパンサーズの試合を観れるんですよね」
サトルが放ったのは意外な言葉だったのか、ミカは少しの間、静止して彼をじっと見つめた。
「この傷見ても、引かないんだ。サトルくんは優しいね」
その言葉を上書きするかのように、サトルのお腹が盛大に鳴った。
「アハハ。めちゃくちゃお腹空いてたのね。早く食べましょ」
ミカもラグマットの上にあぐらをかいて座る。
ふたりは、ビールのタブを開け、乾杯してからゴクっとひと口、喉を潤す。
「華金のビールは、やっぱり最高です。この一瞬のために5日間働いてる気がします」
「これ、黒ラベルね。これもゲン担ぎ?」
「そうですよ。勝利の黒ビールです」
「サトルくんは、朝テレビでやってる星座占いで一喜一憂するタイプっぽいね」
「たまに見ると、いっつも12位なんですよね。なんででしょう」
ミカは、少し考えて、いたずらな感じで微笑む。
「多分さ、4位とか10位とか、微妙な時のことは忘れちゃうんだよ。それか、気にならないから覚えてないとか。12位だとショックだから、よく覚えてるだけなんじゃない?」
「なるほど。そう言われれば、そうかも知れません」
腹が減って死にそうなサトルは、ミカが温めてくれたナンをちぎり、カレーに
「うっっっま!」
いつものネパール人のインドカレーは、今日あった出来事を吹き飛ばすかのように、サトルの口の中に辛さと幸せをもたらしてくれた。
「なんか、試合が全然動かないねぇ。こっちはエースだからいいとして、相手はそんなに打てない感じのピッチャーじゃないのに」
ミカがテレビを観ると、ちょうど四番の伊月選手がセンターフライを打ち上げたところだった。ワンアウトで2、3塁だが、フライが浅すぎて、3塁ランナーはタッチアップのそぶりだけ見せて帰塁してしまった。
「あちゃー。次のモーガンに期待だね」
「モーガンは、今シーズンほとんどソロホームランなんですよ。塁に誰かいると、なぜだか打てなくて。例外は、あの1勝の時のツーランくらいですね」
ミカは、ちらちらとサトルの視線を確かめる。本当に、太ももの大きな傷痕を気にしていないようだ。……というよりも、ナンをちぎって食べるのにやたらと集中していて、試合すらそっちのけでカレーを食べ続けている。
「サトルくんって、やっぱり面白いね」
「えっ。僕、またなんか変なことしました?」
「存在自体が面白いわ。だって……」
テレビから大歓声が再生された。
モーガンの打球は、綺麗な放物線を描いてバックスクリーン横へと突き刺さった。
「ホームラン! ねぇ、3点先制だよ!」
ふたりはビール缶で乾杯する。サトルが、一気に疲れの吹き飛んだような笑顔に変わる。
「僕、もう2本ビール持ってきます! 確かまだストックがあったはずなので!」
サトルは少し酔っているのか、足元をフラつかせながら自分の部屋へ戻って行った。ミカは、タバコを吸いたくなってきたが、今日は我慢することに決めた。
そのまま何度も流れるホームランの映像を観ていると、ビール缶を抱えたサトルが戻ってきた。
もう一度、冷えたビール缶のタブを開けて、乾杯する。
「今日、僕は仕事で1日中大変な思いをして、結構、急かされたり怒られたりしたんですけど、全部、今のホームランでその嫌な記憶が消えました。やっぱり野球って最高ですね」
「そうだね。あ、そうだ。ちょっと聴いてて」
そう言って、テレビの横の台に置かれたDTMキーボードで、ミカが演奏を始めた。
「あっ、これモーガンの応援歌ですね」
「分かる? 何回か聴いてるうちに覚えたのよ」
サトルは、少し
「サトルくん、どうしたの?」
「……去年、少しの間付き合ってた彼女がいたんです。彼女……
「へぇ、ちなみに、どうして別れたの? あっ、言いたくないかな」
サトルは顔を上げて、首を軽く横に振った。
「僕が悪いんです。去年の最後のギガントパンサーズの試合、覚えてますか?」
「あー。あのAクラスかBクラスかが決まった試合だっけ。勝ちでAクラス、負けか引き分けでBクラスってやつだ」
「そうです。あの日、彼女の誕生日だったんですよ。だから1週間前にレストラン予約してて。でも、まさかの3連勝で、ギガントパンサーズがAクラスに入れるかもってなったんです。どうしてもその試合をリアルタイムで観たくて、彼女に謝って食事を別の日にって……。それでフラれちゃいました」
ミカは天井を仰ぐ。
「引き分けだったよね。あの試合」
「……はい。それでも僕、あんまり後悔してなくて。だって、自分の中で彼女よりもギガントパンサーズの方が上だったんです。ならいずれは、どこかのタイミングでやらかして結局フラれてたと思うんですよね」
「彼女は野球あんまり好きじゃなかったんだ?」
「僕が野球の話ばかりしてるから、時々怒られましたね。多分、好きでも嫌いでもないというか、興味がなかったんだと思います」
「じゃあ、次は野球好きの彼女を作らないとね」
しばらくの間、部屋の中の沈黙をテレビから再生される野球の実況が上書きする。
「そうですね。次はミカさんみたいな人にしたいかな」
サトルの言葉に、ミカの顔が紅潮する。
「いやいや、こんなタバコ臭い女、嫌でしょ」
「例えば、ですよ。野球好き、ギガントパンサーズ好きなら、一緒に球場にも行けますし」
「な、なんだ。例えばね。ふーん」
ミカは、手で顔をパタパタと仰ぐ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
試合は、3対1でギガントパンサーズがリードしたまま進んだ。そして9回裏、あんまり守護できていない守護神がマウンドに登った。敵は三番からの好打順だ。
「ランナーさえ出なければ、ホント
「来年は普通に中継ぎやってそうよね。9回の重圧に耐えられないんじゃないかな」
だが、今日の守護神はストレートのキレが良いらしく、厳しいところをついてあっさりと相手打者を追い込んだ。
そして、キャッチャーが取り損ねるほどのフォークで空振り三振。打者は振り逃げするも、1塁にボールが送られてアウトとなった。
続く四番打者は、初球の厳しいアウトコース低めをすくい上げ、ライトがフェンス際で捕球してツーアウト。
「今の、狭い球場だったらホームランだったね」
「ミカさん。野球にタラレバは禁物ですよ」
「あれ? この前、タラレバ妄想してるって言ってなかったっけ」
「フッフッフ。人は変わるものですよ。最近は、ちゃんと結果を受け止める余裕が出てきたのです」
「……負けすぎて諦めただけでしょ」
テレビからひときわ大きな、悲鳴混じりの歓声が上がる。
「げ。ヒット打たれましたね。これで守護神が一気に弱々の別人になりますね」
球場では、ピッチャーの表情が良く見えたが、テレビだと細かく切られて次々と視点が移動するため、一人一人の感情が分かりにくい。
だが、セットポジションで大写しになった守護神は、やっぱり少しキョロキョロとして挙動不審に見えた。
「頼むぞー。あっとひとり、あっとひとり」
サトルは手を叩きながら応援する。ミカも、集中して成り行きを見守る。
守護神はクイックで投球動作に入る。ランナーが走りだす。エンドランか。
バッターは、バットにボールを軽く乗せるような感じで弾き返す。ショートの上を超えて、レフトとセンターの間の微妙な位置にボールが落ちる。深めに守っていたセンターがボールを捕った時、敵チームの3塁コーチは腕を回していた。
走者が勢いそのままに3塁を蹴り、猛然とホームに突っ込んでくる。
センターからの送球は……ドンピシャでキャッチャーに届いた。走者はヘッドスライディングをして、タッチを
審判は、アウトのコールをした。
すぐさま、敵チームの監督がリクエストを求める。
審判員が集まり、ビデオ判定が始まる。
「今の、どう見てもアウトでしょ。だって凄いレーザービームだったよ」
「スローで映ってますね……。ギリギリ先に、タッチしてるように見えます」
「アッウット! アッウット!」
今度はミカが手を叩きながら、アウトの声援を送る。
そして、主審が出て来た。
アウトのポーズをする。
「やった! 勝ったよ!」
「勝ちました! やっぱりふたりで観ると勝てますね!」
ふたりは、勢い良くハイタッチを交わした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ゴミとか、ホントにそのままで良かったんですか?」
「うん。私はきちんと分別して捨てるから。心配しないで」
「いや、僕も分別くらいはしますよ」
ミカの部屋の扉を開けて、サトルは廊下に出て振り向く。
「今日も、凄く楽しかったです。ありがとうございました」
「こっちもだよ。ありがと。あと……」
ミカが少し
「……私、男の人に足の傷痕を見せたの、初めてなんだからね」
「えっ。……あの……」
「そんだけ」
ミカは、思い切りサトルの頬をつねる。
「気にしないでいてくれたの、嬉しかった。おやすみ」
そう言って、サトルの返事を待たずに、ミカは扉を閉めた。
サトルは、ジンジンと痛む頬を