第39話
文字数 2,676文字
「アユちゃん、ちょっとこっち手伝ってくれないかな」
反物の片づけをしていたら、たまたま傍の台で布を切っていた結城に声を掛けられて、ドキリとした。
見ると、台の上に柄物デニムの反物がたくさん積んであった。
「二メートル着分で頼むって主任に頼まれたんだけど、一緒にやってた主任がお昼に行っちゃったんで、一人なんだ」
睦子は微笑んで、結城の向かい側に立ってハサミを持った。
「むっちゃん、日曜日行くんだろ?」
「えっ?」
顔を上げると、嬉しそうな笑顔に遭遇した。
「ごめん、あたし……」
睦子は再び俯いて布を切りだした。
「行かないの?」
驚いているのが声でわかった。
「うん……」
「どうして?何か用事があるとか?」
「あたし、下手くそだから…」
二人の会話と、デニムにハサミを通す音が重なる。
ザーッと言う音と共に、細かい繊維が飛び散る。
この細かい繊維の飛沫によって、売り場の床はすぐに埃が溜まる。
掃除のおばさんがマメに掃除に来るが、それでも閉店後にみんなで掃き掃除をすると、かなりの埃の固まりになるほどだ。
「そっか…」
力無く言うその言葉に、睦子は顔を上げて結城を見た。
つまらなそうな顔をして布を切っている。その顔を見て、胸が痛くなってきた。
「みんな…、行くのかな」
睦子の問いかけに、結城は下を向いたまま「多分ね」と答えた。
ザーッ、ザーッと、布を切る音だけが暫く続いた。
黙々と布を切っているその状況が、重苦しく感じる。
「むっちゃん、ごめんな…」
いきなりの結城の言葉に睦子は驚いた。
ごめんな、って何?どういう意味?
急に不安になる。
「苦手なのに、大勢とテニスしても、楽しくないよな。俺、単純に、むっちゃんと一緒にテニスが出来ると思って喜んでたんだ。それが出来ないと知って、凄くガッカリしちゃったんだよ。でも考えてみれば、当然だよな。俺がバカだった」
「結城さん…」
睦子はほっとした。そして、その言葉を嬉しく思った。
「確か、来週の木曜日、俺達休みが一緒だよね。その日にさ。一緒にテニスしようよ。俺が教えてあげるから」
「休み、…一緒だった?」
睦子は不思議に思った。同じだったような気がしない。
首を傾げている睦子に、結城は満面の笑みを向けた。八重歯が光る。
「俺、後から変更したの。むっちゃんと逢いたくて」
その言葉に、カーッと顔が熱くなってきた。
「だ、大丈夫なの?」
「大丈夫でしょ。取れたんだから」
そう言って笑う笑顔が眩しい。蛍光灯の灯りの下なのに。
全部の反物を切って、たたみ終わった。二人だと早い。
そこへ、お昼が終わった京子がやってきた。
「着分?」
「そうなの。でも今終わったところ」
「そうなんだ。ところで、今度の日曜日、結城さんは勿論参加するんでしょ?」
「うん。まぁね……」
歯切れが悪い。睦子の前だからだろうか。
「石川さんは?」
「あたしは不参加」
「どうして?」
「だって、むっちゃんが行かないから」
「どうしてアユちゃんが行かないからって、石川さんまで行かないの?」
結城が不思議そうに訊いた。
「だって。多分若い人たちはみんな行くと思うし。その中でむっちゃんだけ行かなかったら、後で肩身の狭い思いをするでしょ?あたしも一緒に欠席だったら、少しは風当たりも少ないかなぁと思って」
「京子ちゃん…」
睦子は驚いた。和子や洵子がいるのに、睦子がいないだけで『面白くないから』と言う理由が今ひとつ理解できないでいたのだが、本当の理由はそう言う事だったのか。
「あたしって、優しいでしょ」
そう言って笑う。そんな京子に、睦子は吹きだした。
この子のお喋りには辟易だが、結局、憎めない。根が優しい。
それに、睦子を思ってくれている。
「ありがとう、京子ちゃん」
「どういたしまして」
そんな二人に、「じゃぁ、俺、お昼行くね」と結城が声を掛けて来た。
睦子は京子と二人で、「行ってらっしゃい」と言って、見送ったのだった。
翌週の木曜日。
睦子は結城と共に、テニスコートにいた。
九月の始めの頃は残暑が厳しいと思ったが、十月を目の前にして涼風が吹きだした。陽射しも幾分衰えて来ている。
全天候型のテニスコートの一面を二人で独占している。
全部で八面あるテニス場だったが、どこもグループで楽しんでいた。
「むっちゃん、下手くそとか言ってたけど、上手いじゃない」
驚いた顔で言われて、睦子の方が驚く。上手いだなんて、初めて言われた。
それに、自分でもそれなりに球を返せているのが不思議だった。
ただ、続けて行くうちに、その理由が解って来た。結城が、睦子の打ちやすい球を送って来るからだ。
結城は睦子がコートのどこへ打っても、ちゃんと返球してくる。しかも、睦子があまり動かなくても楽にフォアで打てる場所に。
大学の体育の授業でやった時には、こんなものじゃ無かった。凄くハードだった。次から次へと色んな打ち方を教わっては、すぐに返す事を要求された。態勢が整わないうちに打つから、
どうしてもコントロールが狂う。
コートの端から端まで走らされては、フォアとバックを繰り返され、前へ出てボレーをするように言われる。
とにかく、ハードだった。
睦子は走るのが遅い。瞬発力はある方だと思うが、とにかく遅いのだった。だから試合なんて、とてもじゃないが無理だった。
結城はフォアとバックを軽く流すと、今度は丁寧にコツを教えてくれた。ボウリングの時にも感じたが、教えるのがとても上手い。
最初にラケットのグリップを調節してくれた。そして、睦子に合った握り方に直された。それだけでも、凄く打ちやすくなった。
苦手なサーブも、まずトスの上げ方をきっちりと教わった。
「むっちゃん、センスあるよ」
「えっ?そんな事、言われた事ないよ」
息切れがする。矢張りテニスは疲れる…。
「むっちゃんさ。スポーツ苦手とは言っても、要領がわかると出来るじゃない。本当に苦手な人は、要領が解っても出来ないんだよ」
この間も似たような事を言われたが、そうなのか、と思う反面、素直に受け止められない部分もあった。
小学校へ入ってから体育の成績はいつも悪くて、まともにこなせたことなど無かった。そんな人間の気持ちなんて、できる人にはわかりっこ無いと思っていた。
大体、体育教師はみんなスパルタで、頑張れば出来る、出来ないのは頑張りが足りないからだ、と根性論を掲げる連中ばかりだった。
そんな人達と結城は違うように思うが、矢張りどこか釈然としない。
「また、やろう」
そう言われて笑って頷いたものの、心の底から笑えない自分がいるのだった。
反物の片づけをしていたら、たまたま傍の台で布を切っていた結城に声を掛けられて、ドキリとした。
見ると、台の上に柄物デニムの反物がたくさん積んであった。
「二メートル着分で頼むって主任に頼まれたんだけど、一緒にやってた主任がお昼に行っちゃったんで、一人なんだ」
睦子は微笑んで、結城の向かい側に立ってハサミを持った。
「むっちゃん、日曜日行くんだろ?」
「えっ?」
顔を上げると、嬉しそうな笑顔に遭遇した。
「ごめん、あたし……」
睦子は再び俯いて布を切りだした。
「行かないの?」
驚いているのが声でわかった。
「うん……」
「どうして?何か用事があるとか?」
「あたし、下手くそだから…」
二人の会話と、デニムにハサミを通す音が重なる。
ザーッと言う音と共に、細かい繊維が飛び散る。
この細かい繊維の飛沫によって、売り場の床はすぐに埃が溜まる。
掃除のおばさんがマメに掃除に来るが、それでも閉店後にみんなで掃き掃除をすると、かなりの埃の固まりになるほどだ。
「そっか…」
力無く言うその言葉に、睦子は顔を上げて結城を見た。
つまらなそうな顔をして布を切っている。その顔を見て、胸が痛くなってきた。
「みんな…、行くのかな」
睦子の問いかけに、結城は下を向いたまま「多分ね」と答えた。
ザーッ、ザーッと、布を切る音だけが暫く続いた。
黙々と布を切っているその状況が、重苦しく感じる。
「むっちゃん、ごめんな…」
いきなりの結城の言葉に睦子は驚いた。
ごめんな、って何?どういう意味?
急に不安になる。
「苦手なのに、大勢とテニスしても、楽しくないよな。俺、単純に、むっちゃんと一緒にテニスが出来ると思って喜んでたんだ。それが出来ないと知って、凄くガッカリしちゃったんだよ。でも考えてみれば、当然だよな。俺がバカだった」
「結城さん…」
睦子はほっとした。そして、その言葉を嬉しく思った。
「確か、来週の木曜日、俺達休みが一緒だよね。その日にさ。一緒にテニスしようよ。俺が教えてあげるから」
「休み、…一緒だった?」
睦子は不思議に思った。同じだったような気がしない。
首を傾げている睦子に、結城は満面の笑みを向けた。八重歯が光る。
「俺、後から変更したの。むっちゃんと逢いたくて」
その言葉に、カーッと顔が熱くなってきた。
「だ、大丈夫なの?」
「大丈夫でしょ。取れたんだから」
そう言って笑う笑顔が眩しい。蛍光灯の灯りの下なのに。
全部の反物を切って、たたみ終わった。二人だと早い。
そこへ、お昼が終わった京子がやってきた。
「着分?」
「そうなの。でも今終わったところ」
「そうなんだ。ところで、今度の日曜日、結城さんは勿論参加するんでしょ?」
「うん。まぁね……」
歯切れが悪い。睦子の前だからだろうか。
「石川さんは?」
「あたしは不参加」
「どうして?」
「だって、むっちゃんが行かないから」
「どうしてアユちゃんが行かないからって、石川さんまで行かないの?」
結城が不思議そうに訊いた。
「だって。多分若い人たちはみんな行くと思うし。その中でむっちゃんだけ行かなかったら、後で肩身の狭い思いをするでしょ?あたしも一緒に欠席だったら、少しは風当たりも少ないかなぁと思って」
「京子ちゃん…」
睦子は驚いた。和子や洵子がいるのに、睦子がいないだけで『面白くないから』と言う理由が今ひとつ理解できないでいたのだが、本当の理由はそう言う事だったのか。
「あたしって、優しいでしょ」
そう言って笑う。そんな京子に、睦子は吹きだした。
この子のお喋りには辟易だが、結局、憎めない。根が優しい。
それに、睦子を思ってくれている。
「ありがとう、京子ちゃん」
「どういたしまして」
そんな二人に、「じゃぁ、俺、お昼行くね」と結城が声を掛けて来た。
睦子は京子と二人で、「行ってらっしゃい」と言って、見送ったのだった。
翌週の木曜日。
睦子は結城と共に、テニスコートにいた。
九月の始めの頃は残暑が厳しいと思ったが、十月を目の前にして涼風が吹きだした。陽射しも幾分衰えて来ている。
全天候型のテニスコートの一面を二人で独占している。
全部で八面あるテニス場だったが、どこもグループで楽しんでいた。
「むっちゃん、下手くそとか言ってたけど、上手いじゃない」
驚いた顔で言われて、睦子の方が驚く。上手いだなんて、初めて言われた。
それに、自分でもそれなりに球を返せているのが不思議だった。
ただ、続けて行くうちに、その理由が解って来た。結城が、睦子の打ちやすい球を送って来るからだ。
結城は睦子がコートのどこへ打っても、ちゃんと返球してくる。しかも、睦子があまり動かなくても楽にフォアで打てる場所に。
大学の体育の授業でやった時には、こんなものじゃ無かった。凄くハードだった。次から次へと色んな打ち方を教わっては、すぐに返す事を要求された。態勢が整わないうちに打つから、
どうしてもコントロールが狂う。
コートの端から端まで走らされては、フォアとバックを繰り返され、前へ出てボレーをするように言われる。
とにかく、ハードだった。
睦子は走るのが遅い。瞬発力はある方だと思うが、とにかく遅いのだった。だから試合なんて、とてもじゃないが無理だった。
結城はフォアとバックを軽く流すと、今度は丁寧にコツを教えてくれた。ボウリングの時にも感じたが、教えるのがとても上手い。
最初にラケットのグリップを調節してくれた。そして、睦子に合った握り方に直された。それだけでも、凄く打ちやすくなった。
苦手なサーブも、まずトスの上げ方をきっちりと教わった。
「むっちゃん、センスあるよ」
「えっ?そんな事、言われた事ないよ」
息切れがする。矢張りテニスは疲れる…。
「むっちゃんさ。スポーツ苦手とは言っても、要領がわかると出来るじゃない。本当に苦手な人は、要領が解っても出来ないんだよ」
この間も似たような事を言われたが、そうなのか、と思う反面、素直に受け止められない部分もあった。
小学校へ入ってから体育の成績はいつも悪くて、まともにこなせたことなど無かった。そんな人間の気持ちなんて、できる人にはわかりっこ無いと思っていた。
大体、体育教師はみんなスパルタで、頑張れば出来る、出来ないのは頑張りが足りないからだ、と根性論を掲げる連中ばかりだった。
そんな人達と結城は違うように思うが、矢張りどこか釈然としない。
「また、やろう」
そう言われて笑って頷いたものの、心の底から笑えない自分がいるのだった。