第47話

文字数 3,223文字

 結城は睦子の驚く顔を見て、優しく頷いた。

「あの人、やたらと俺と松本さんをくっつけようとするんだよ。何だかよく分からないけど、どうにも断りにくい状況にいつもなってるんだ。このままじゃ、進退極りそうな状況に追い込まれ
かねないし。今日も帰り際に、誘われたんだよ。みんなで飲みに行こうって」

「えっ?そうなの?」

「うん。みんなの中には、当然、松本さんもいる。だから俺、この際だからはっきり言った方がいいと思ったんだ」

 はっきり言わないと、いつまでも誘われ続ける。
 いつもいつも断ってばかり、と言う訳にもいかないだろう。だから言った。

「俺、この後彼女と約束してるんで、って言ったんだ。意味が分からないって顔をされたから、今付き合ってる彼女がいるって言った」

 その言葉に、胸が締め付けられた。

「あ、あたし…、みんなが『あの二人は怪しい』って言うのを聞いて、胸が痛かった。凄く仲睦まじい雰囲気だって、みんな言うんだもの。涼のことは信じてた。でも、不安で…」

「ごめん…」

 結城は睦子を抱きしめた。

「浜田さんに言われたんだ。一体、どうなってるの?って。むっちゃんが、凄く不安そうだって。まさか、河嶋さんと同じ事をするんじゃないでしょうね、って」

 仕事中、たまたま二人きりになった時に浜田が言った。

「鮎川さん、凄く不安そうよ。あなたと松本さんの事で。一体、どうなってるのよ。まさか、河嶋さんみたいに二股かけたりしてるんじゃないでしょうね」

 浜田にそう言われて、結城は驚いた。
 元々、人の噂には無頓着な方だった。しかも噂は女子の間では相当なものだが、男子の間ではあまり話題にならない。

 河嶋の件に関しては、和子と同じ売り場と言う事もあって、弓田主任が河嶋に忠告していた。
 あまりにも大ごとになってしまったからだ。

 だが、結城と松本の噂に関しては、あまり自分の耳には入ってきていなかった。自分的には、今までと変わっていない。
 今までと同じように、休み時間に周囲に寄って来る女の子たちと、今まで通りに普通に話している。

 その中で、松本あかりが特に親しげに寄ってきて、何かと誘って来るが、その(たび)に断っている。それだけなのに、噂になっていると聞いて、結城にとっては寝耳に水に近かった。

「俺、全然知らなかったんだよ、そんなに噂になってたなんて。君が、そんなに不安な気持ちになってるなんて。ほんとにごめんよ」

 睦子は結城の腕の中で首を振った。

「俺が好きなのは、むっちゃんだけだから。俺にはむっちゃんしかいないんだ。だから、俺を信じてくれないか?」

 胸が熱くなった。

「本当に?」
「本当だよ。君だけだ」

「信じて、いいのね?」
「当たり前だろ?俺を信じてくれ」

「わかった。…信じる……。信じてるから…」

 震える睦子の唇に、熱い唇が重なった。
 甘く切ない想いが、胸いっぱいに広がるのだった。


 翌日。

 結城に彼女がいると言う噂が、あっと言う間に広がった。

 河嶋から木村洵子と松本あかりに伝わり、洵子が他の従業員へ話したのが広がったようだ。昼休みには殆どの社員が知ると言う、何とも早い伝播力(でんぱりょく)だった。

「やっぱり、彼女いたんだね」

 和子がのんびりした口調で言った。最近やっと、元に戻りつつある。

「なんかビックリ~。だって、松本さんといい雰囲気だったじゃん」
「うん。でも、後から考えてみると、適当に相手してたって感じもするんだよね」

 結城の昼の便に合わせて、同じ便を取っていた松本あかりだったが、彼女がいると知っても尚、昼に誘いに来たのだった。

だが結城は「悪いけど、先に行っててくれる?」と、一緒に食堂に行く事をやんわりとだが断った。

 何の気なしに、その様子を見ていた睦子は、心のおもりが軽くなってゆくのを感じるのだった。
 そして、そんな睦子の視線を感じたのか、結城が睦子の方を見た。

 視線が重なった。
 微かに微笑まれて顔が熱くなった。
 睦子も微かに笑みを返した。

 とても嬉しい。
 もう、あかりの事で気をもむ必要は無い。
 彼を信じよう。
 むっちゃんだけだと言ってくれた彼を。

「ちょっと、すみません…」

 声を掛けられて振り向くと、中高年の女性だった。お客だ。

「はい。何でしょう?」
「ちょっとね。布を切って欲しいんですけど、いいかしら?」

「はい」
 と返事をしたものの、女性は反物を手にしていない。

「こっちへ来てくれる?」
 そう言われて後を着いて行くと、台の上にたくさんの反物が置いてあった。

「全部、十メートルずつ、頂けるかしら」

「全部って、これらを全部ですか?」

 一体、幾つ置いてあるのだろう。百十センチ幅のデニム系の安い布が二十以上は有りそうだ。

「まだ、これで全部じゃないのよ。選んで持って来るから、どんどん切って下さいね」

 女性はそう言うと、新たな布を物色に行った。

(え?まだあるの?)

 驚きながらも睦子は反物を手に取って十メートル計ると切りだした。

 大変な作業だった。十メートル切ってはたたむ。
 デニム系と言っても安い薄手タイプではあるが、それでも十メートルともなると重たい。
 それを屏風たたみにしては、次の布を計って切ってたたむ、をひたすら繰り返した。

 切っているそばから、女性は新しい反物を持って来る。
 そんな状況に気付いた浜田が応援に来てくれたが、売り場全体が混みだして、結局は睦子一人になった。

 食事から帰って来た結城が、驚いた顔をしてそばへやってきた。

「どうしたの、これ?」
「うん…」
 睦子は布にハサミをいれながら、事情を話した。

「ちょっと俺、主任に話して来るよ」
「えっ?」
 睦子は結城が何故そんな事を言うのか解らなかった。

「どうして主任に?」
「だって、こんなに大量に切らせて、本当に買ってくのかな?どうやって持って帰るの」

 そう言われれば、そうだ。
 来ているのは少し年配の婦人だった。

 既に、どれだけ切っただろう。ざっと見ても二十以上はある。
 一メートル二百九十円の反物ばかりだが、既に五万円分以上の布を切っている事になる。
 大した金額だ。

「ちょっと行って来る」
 結城はそう言って、バックヤードの中へと姿を消した。

 婦人はまだ布を台へと持ってきていた。

「十メートル無いものは、要りませんから」
「はい…」

 一センチ足りなくても要らないと言う。それはそれで迷惑な話しだ。
 また巻き直さなくてはならない。
 大抵の反物には、残量が分かる紙紐が布と一緒に巻かれている。それを見ればどのくらい残っているか一目瞭然なのだが、反物メーカーによっては、付いて無い物もある。

 主任が結城と共にやってきた。

「お客様。ちょっと、お話しを伺いたいのですが、よろしいですか?」

 主任は睦子に、暫くの間、布を切るのを止めるように言うと、客を少し離れた空いている場所へと連れて行って話しだした。

 睦子はひとまず息を吐いた。
 なんだか、疲れた。

「大変だったね。俺片づけるよ。切った反物はこっちでいいのかな?」
「あ、ありがとう。助かる」

 結城が片づけようと、切り終わった反物を持ったら、主任と話していた客が大慌てで走って来た。

「駄目よ、片づけちゃ。まだ布選びが終わってないんだから、戻しちゃったら、切り終わったものか分からずに、また持って来ちゃうかもしれないじゃないの」

 その言葉に仰天した。
 まだ、持って来るつもりなのか。

 結局、このお客は教会関係の人間だと言う事が分かり、施設の催事その他諸々で大量に必要だと言う事で、全てを現金で支払い、切った布は宅配便で送って欲しいと頼まれた。

 冷やかしではなく、れっきとしたお客だったので、大量に購入されて万々歳だが、切るのも、たたむのも、ダンボールを用意して詰めるのも、大変な作業だった。

(あ~、なんだか腰が痛いかも……。)

 勿論、肩や腕も痛かった。

「お疲れ様。大変だったね、アユちゃん」

 主任もみんなも労《ねぎら)ってくれたが、つくづく、ここは大変だな、と身に沁みたのだった。
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登場人物紹介

鮎川睦子  22歳。大学を中退し、度重なる就活の末にやっと今の職場に。

      彼氏にふられて自信を無くしている。

結城涼  24歳。睦子より半年後に入社してきた明るく大らかな男性。見た目、サーファー。

恩田和子 20歳。高卒で入社したので年下だが睦子にとっては先輩となる。

     のんびりしてて、ちょっと天然。

石川京子  18歳。この春、高校を卒業して入社してきた。

      学生時代からの彼氏と熱烈。少し気が強い。

河嶋明  前にいた副主任が退職した為、平から昇格した20歳。黙っていればカッコイイが、

     話すと途端にチャラくなる。 恩田和子の彼氏。社内では人気が突出している。

浜田雪子  睦子よりひと回り年上の36歳独身の先輩。なんでもハッキリ言うので他人からは

      誤解されやすいが根はいい人。 

      つっけんどんな態度が多いせいか、客からクレームが来ることもある。

佐々木昭子  職場の先輩。40代の主婦。のんびりした雰囲気なのに、

       時々出てくる言葉は毒舌気味。

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