第2話 奇跡

文字数 4,138文字

 蝶子。
私は自分の名前が嫌いだった。姉の名は砂月。姉が以前私に言った事を今も忘れない。
「お互い人殺しの血が流れているけど、父親が違うからあんたの方が私より自由やわ。蝶子。あんたは蝶のように自由に生きたらえぇわ。私とあんたは全然違う」

そう言った姉の目は濁ったビー玉みたいに見えて戦慄が走った。
私は姉に気を使って生活する事に疲れ、そんな彼女を後ろから必死に支えている両親にも嫌気がさしていた。
家族ごっこ。初めから私達家族は偽物だったのだろう。そうだとしたら、一刻も早くこの狂った輪の中から抜け出さねばならないと思った。だから、何か理由が欲しかった。誰でもよかった。私は本物の家族をつくる事を決めて何も言わず家を出た。
そして、誰も来ない、陸続きではない所をあてもなく探した。汚れている自分さへも、あなたなんだよ。と、受け入れてくれる場所を祈りの中探し、ようやく見つける事が出来た。しかし、それは必然ともとれ、逸れた鳥が群れに戻るような、とても自然なものだった。
そして、その穏やかな暖かい場所で、私のお腹が日に日に膨らんでいった。
 築50年のアパートの窓から、黒揚羽蝶が、ひび割れた花瓶に挿した黄色い菊に止まった。
 菊に黒揚羽蝶ってどうなのよ。私は思わず呟いた。
 菊は、アケビ荘の大家である朱実ちゃんから貰ったものだ。朱実ちゃんは83歳のおばあちゃんで、独身だった。独身と言っているのは本人だけで、本当は戦争未亡人だ。
 彼女は高額な遺族年金が支給されていたにもかかわらず、質素な生活を送り、高齢でありながら、自給自足をメインとした生計をたて、菊の花もその一つだった。朱実ちゃんが作る花は菊だけで、それを、不思議に思った私は、以前、朱実ちゃんに聞いた事があった。
 「なぁ朱実ちゃん。なんで、菊ばっかりなん?」
 菊の手入れをしている朱実ちゃんに、そう尋ねると、
 「旦那様の初恋のお相手のお名前が菊さんだったからなのよ」
 元々、地主の娘さんで、生粋のお嬢様だった彼女は上品な口調でそう答えた。
 私は正直驚いた。なぜ、愛する添いあいの、ましてや、初恋の女性と同じ名前の花を育てているのか、私には全く理解できなかった。
 私はシングルマザーとして、お腹の子を育てる事を決めた時、適当に付き合っていた男が病的な程の浮気ぐせがあり、SEXをしている間じゅう、あまたの女が登場した。本人は無自覚に叫んでいたらしいが、最初から種馬として見ていなかった私には取るに足らない事だった。
けれど、そんなくだらない男のお陰で私と私に宿った大切な命が、小さい事にとらわれない優しい場所に導いてくれたのだから感謝の気持ちはあった。
そして、何より朱美ちゃんとの出会いが私の人生に一縷の光をさした。
 六月二十三日。この日を語る時の朱実ちゃんの表情は無に近く、怨嗟という言葉はふさわしくなかった。
 けれど、添いあいに子供を抱かせてやれなかった事だけが口惜しいと、よく言っていた。
 それ故、彼女は私の体を気遣ってくれた。そして、優しく私のお腹に手を当て、
 「カナサン(愛しているよ)」
 「ジョーイ マジュン(ずっと、一緒)」
 朱実ちゃんは、優しく繰り返し、そう言ってくれた。その言葉は何よりも私の精神を安定させ、勇気をくれた。ある時、朱実ちゃんが私に言った。
 「蝶子ちゃん。この子の名前を華子ちゃんにしなさい」
 そんな古典的な名前をすすめる朱実ちゃんの意図がどこにあるのかわからないまま、私は不思議とそれを受け入れた。おそらく、私にとって朱実ちゃんは、この世で一番信頼出来る人物だったからだろう。
 私の中の信頼は、イコール血の繋がりではなかったからだ。それは、説明のつかない勘に近い何かがあった。
 そんな感覚を持ち始めたのは、目の移植手術後、しばらくしてからで、妊娠をして更に強く感じる様になった。それまでは、自分以外は全員敵だと思っていた。なぜ、そんな事を思っていたのかも、ここに来てからは思い出せない程、穏やかな自分になっていた。
 私のお腹の大きさがピークに達し、朝方、激しい痛みで目が覚めた。枕元に置いてある骨董品のような時計を見ると、0時一分だった。
 六月二十三日、午前0時一分。私は何か奇跡が起こる気がした。
 朱実ちゃんの特別な日に、陣痛が始まるこの奇跡に私は感謝せずにはいられなかった。きっと、すごい子が生まれてくる。私はそう確信した。
 陣痛の感覚が既に十分を切り、携帯電話から、助産師の東江(あがりえ)ウサちゃんに電話をした。ウサちゃんは朱実ちゃんの親友で幼馴染だった。84歳のウサちゃんは、とても若々しくて、おばぁというには違和感があるほど肌もツヤツヤしていた。
 手の甲には、皺一つなく張りがあった。彼女が以前、私に言っていた。助産師は夥しいほどの胎盤を触るから、手だけは娘のようだと話してくれた事を痛みの最中思い出した。けれど、彼女は手だけではなく、心意気も若々しかった。嫌な事があった時は尚更、てぃん(天)を仰いで、かなさんどー、と、叫んだらいい。そう教えてくれた。
 そして、子育てや、生きる事に疲れたときは、てぃんを仰いで、かなさんどー!と、言いなさいと励ましてくれた。
 私はそんなウサちゃんが大好きだった。
 痛みが強くなり、立つことも出来なくなった私が玄関で倒れこんでいると、朧げに朱実ちゃんの神々しい笑顔だけが目に映った。
 「しわ、さんけー、なんくるないよぉ」
 朱実ちゃんの、綿菓子のような、それでいて、どこか懐かしい、その声に引き上げられるように私は立ちあがり、玄関を出た。そこには既に近所に住む、エイショウおじぃが軽四トラックで待っていてくれていた。朱実ちゃんが、寝ているおじぃを叩き起こして連れてきてくれたのだ。
 私は、激しい痛みのせいで、視界も狭くなっていたが、荷台には、おじぃがひいてくれたであろう、眩しいほど真っ赤な花柄の敷き布団と、厚手の座布団が二つ見えた。
 おじぃと朱実ちゃんは、二人分の体を支えながら、私を荷台に乗せてくれた。
 「蝶子!くうが(股)はさめぇ」
 おじぃはそう言って、座布団を二つ折りにして私の股に挟んでくれた。おじぃの亡くなったおばぁが子供を産む時に必ずそうしたのだと言っていた。股に挟む事で、痛みが和らぐとも言っていた。
 そして、朱実ちゃんは荷台に上がると、痛みに耐える私の手をギュッとに握り、
 「ぬちどぅたからさぁ!(命こそ宝だ!)」
 その言葉を繰り返し言いながら、私の手を握りしめた。
 「蝶子、華子!かなさんどー(愛しているよ)!忘んなぁ!」
 そう叫ぶ、朱実ちゃんの大きな瞳が涙でにじんでいるのが私にははっきりと分かった。
 そして、真っ暗な細いガタガタ道を、おじぃが気を使いながら運転してくれている事は、背中から微かに伝わる振動で分かった。
 その優しい振動は、痛みさえも和らぐほどだった。
 
 お腹の痛みが増してくる程、私に家族が出来る事を実感させ、そんな気持ちを察したかのように、朱実ちゃんが私の背中を力強く摩りながら繰り返し言った。
 「カリー、カリー」
 カリーは沖縄の言葉で、幸せを意味する最強の言葉だ。幼いころから人間という生き物を信用していなかった私が、ここに来て、その言葉を知って報われた言葉だ。
 そして、血の繋がりほど、薄っぺらなものはないと実感した言葉だった。
 
 「チャービタン!(来たよ!)」
 おじいの甲高い声が聞こえた。
 その瞬間、私の到着を待っていてくれたウサちゃんと、娘の文さんが駆け寄ってきた。
  「トー(よし!)トー(よし!)」
 そう言って、ウサちゃんと文さんは、私の脇を持ち抱えながら中へと入れてくれた。
 痛みが最高潮に達した私は思わず、
 「痛い!もう!いややぁ!赤ちゃんなんかいらんわっ!」
 思わず、そう叫んでいた。激しくなっていく痛みと、そう言ってしまった後悔で、私はカオス状態に陥った。
 「シワサンケー!チバリヨ!(心配ない!大丈夫!)」
 猥雑状態の私をなだめるかのように、ウサちゃんは、透き通った声でそう言った後、私の額にキスをした。
 ウサちゃんの薄い唇から、力強い、何かを吹き込まれたような気がした。
 子宮口は全開になり、天井から吊るされた紐を握りしめると、文さんの言う通りに呼吸をし、自分の体がバラバラになってもいいから、私に家族を下さい!と、神様に願いながら必死にいきんだ。
 その間、朱実ちゃんが必死に私の肩を撫でながら何度もなんども繰り返し言っていた。
 「カリー、カリー」
 何百回、何千回と、その言葉を繰り返した朱実ちゃんの口角には、白い泡がたっていて、それを見た時に初めて自分の存在を許せる気がした。
 最後の絶叫が、産院に響き渡った、と、同時に、大きくて力強い鳴き声がした。
 握っていた紐は、手の汗で色が変わっていた。
 ウサちゃんは、すぐにへその緒を切った後、まだ、ふやけた華子を私の胸元においてくれた。
 産まれたばかりの華子は、本能なのだろう、自力で私のおっぱいまで這いずり上がってきた。驚いた私が思わずウサちゃんを見た。
 「ぬちどぅたからさぁー」
 そう言うと、ウサちゃんは華子の頬を、人差指で優しく摩りながら、こう付け加えた。
 「メンソーレ、華子」
 ウサちゃんの言葉に私は、胸の奥にずっとひっかかって取れなかったドブ色の不安がストンと子宮口から落ちた気がした。
 まだ目の見えない華子が最初に見るものが幸せな世界だと確信した瞬間、私は涙が溢れ出て止まらなくなった。
 部屋には、絶対に入ってこようとしないエイショウおじぃの背中が影となって、すりガラスの窓にうつっていた。そして、その影が小刻みに震えている事に気づいた時、
 「イチャリバチョーデー(仲良くしようね)、華子」
 おじぃの優しい独り言が聞こえた。
 イチャリバチョーデ。私は、華子の小さな顔を覗き込んでそう言った。私の目に映った小さな彼女は、いつか夢に見た、おっちょこちょいで、チャ子に叱られても、まるで、めげることのない、あの少女にそっくりだった。
 
 私は、この子のチャ子になろうと決めた。そして、この世界には愛が溢れているという事を教えていこうと心に誓った。
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