第5話 繋げていく事

文字数 5,925文字

駅のホームは、人流という波が折り重なるように同じ方向へと流されて行く。
 それは、蝶子が住んでいる沖縄とは違う景色で、どこか爪先立ちたくなる、そんな感覚だった。
 それは華子も同じだったようで、靴の先を立てながら歩いていた。沖縄から出た事がない華子は、その気忙しい波にのまれる事を恐れたのか、蝶子の腕を両手で強く握りしめていた。
 蝶子にとっても、そこは安息を得る場所ではなかったけれど、向かっている先が、なぜか自分を待っていてくれているような気がして、不思議と足が急いだ。
 大阪から30分ほどで着く港町は、蝶子にとっても初めての場所だった。
 阪急電車に乗り、三ノ宮駅で降りた蝶子と華子は、想像していたものとは違い、余りにも緩やかな街並みで少し驚いた。
 客が来た!と、言わんばかりのタクシーどもを尻目に、二人は、神戸を訪れる多くの観光客が利用する、コベリン。と、いう、真っ赤な自転車をレンタルし、チャ子が入所している老人ホームへと向かう事にした。コベリンは電動自転車で、坂道が多い神戸の街も楽に走れるのだと、愛優美が教えてくれた。
 コベリンは軽やかで、港が見える高台にあるろ老人ホームへと難なく案内してくれた。
 高台にあるホームからは、ポートタワーが見えて、二人は夜の光を想像してみた。

 「なぁ、お母ちゃん。ここに住んでいはる人は、毎日この高い鉄塔みたいなん見られて羨ましい。夜はきっと、綺麗なんやろうなぁ。けど、やっぱり、華子は、うちなーの海が好きやわ。オジィも朱実ちゃんも、いるし、うちなーが一番好きや!お母ちゃんは?」
 「せぇやねぇ。お母ちゃんは華子と一緒ならどこでも幸せや」
 「華子も!」
 「そうかぁ?なんや、うちら、気がおおてますなぁ」
 「せぇやね、かなり、おおてます!早よ、うちなーに帰ろうな」
 「せぇやね。そうしましょうかぁ」
 そんな掛け合いの後、二人は声を出して笑った。
 箱型の老人ホームの白い壁には、イルカが波を跳ねている絵が描かれていて、まるでおもちゃ箱のように見えた。ホームだと知らなければ、美術館に間違えられる程だ。
 お花畑のエントランスを通って中に入った二人にコンシェルジュが近寄って来た。
 身なりの整った、白髪の上品な男性は、フレームの細い小さな丸メガネをかけていて、レンズの奥の瞳がとても優しく見えた。
 「こんにちは。私は甲野技(このぎ)と、申します。お待ちしておりました。遠くからお越し頂き感謝申し上げます」
 そう言った甲野枝は愛おしい表情で蝶子を見つめた。
 「あのぉ、コオロギさん。チャ子さんに会いに来ました」
 このぎを、コオロギと言った華子の愛らしさに、甲野枝が思わず吹き出したが、我に返り、誤魔化すように咳払いをした。その後、少し、はにかみながら二人にこう言った。

 「はい。お伺いしております。オーナーから、お二人がお見えになられたら、連絡するようにと。少々、こちらで、お待ちいただけますでしょうか」
 甲野枝は、ロビーの高級なソファーまで二人を案内した。甲野枝の革靴が黒光りしていて、大理石の床に映って影のように見えた。華子は思わず呟いた。
 「コオロギさんに、コオロギが着いて来てる」
 甲野枝は、自分の足元を見て、今度は腹を抱えて笑った。
「申し訳ございません。あなたが余りにも、わたくしの妻に似ていたものですから」
 「妻?って、奥さん?えぇー!じゃぁ、おばぁって事?嫌やぁー」
 華子が頬を膨らませ、眉を顰めた。
 「いえいえ、そうではありません。わたくしの妻はもう亡くなりましたが、とても、チャーミングな女性でした」
 「チャーミングって何?」
 華子は、首を傾げて蝶子を見た。
 「チャーミングって言うのは、可愛いとか、魅力的とか、女の人には最高の褒め言葉やねんでぇ。怒るとこやないでぇ」
 蝶子はそう言って、ねぇ。と、という表情で甲野枝を見て微笑んだ。すると、そのとき、甲野枝の下がった目尻に何か水滴のようなものが光って見えた。
 懐かしむような、愛しむような、そんな表情を浮かべた甲野枝は蝶子に見入っていた。
 そのとき、蝶子の勘は確信に変わった。おそらく彼は花子の夫に違いない。蝶子はそう思った。そして、わざと大きく瞳を開けた。すると、甲野枝の目尻からは、更に大粒の水滴が大理石の床に落ちて小さな珠になった。
 次から次と止めどなく流れ落ちる水滴は、朱実ちゃんから貰った真珠のネックレスのように見えて、とても美しかった。それは、戦死した旦那さんが、戦地に向かう前に朱実ちゃんにくれたもので、角度によって、色を変える真珠は、旦那さんの遺言だと朱実ちゃんが話してくれた。
 自分が死んでも、あなたは色を変えて、ちゃんと生きて行きなさい。その真珠には、そんな思いが込められていると言っていた。蝶子の中の真珠貝は愛の象徴だと思っていた。
 甲野枝の瞳から落ちる真珠も、愛の塊なのだと思うと、蝶子は、お腹の底が熱くなった。
そして、熱くなったお腹を両手でぐっと抑えた。
 その思いがこぼれ落ちないように、蝶子は力強く抑えていた。
すると、コツコツと心地の良い音が蝶子と華子の側で止まった。その音の先に二人が目をやると、そこには、艶のある黒髪を一つに束ねた美しい女性が立っていた。
 「ようこそ、おいでくださいました。甲野枝桃子と申します」
 桃子は、透き通った声で深々とお辞儀をした。艶のある彼女の黒髪がちょうど、夕日に反射して更に美しく見えた。
 華子は、日に焼けて、パサパサした自分の髪が恥ずかしくなり、慌てて手の平で撫でつけた。
 「今日は本当にありがとうございます。お疲れになったでしょう?叔母と私のわがままを飲聞いてくださって、本当に感謝しております」
 そう言うと、桃子は深々と頭を下げて、更にこう付け加えた。
 「会って頂けますか?祖母に」

 「はい」
 
蝶子はそう言って静かに頷く
と、一拍置いて蝶子の後ろに立っていた甲野枝が深々と頭を下げた。
 「それでは、ご案内させて頂きます」
 甲野枝が、エレベーターの方に向かって歩き出すと、蝶子と華子、そして、桃子も甲野枝の後を着いて行った。
 コツコツ。背後から聞こえるその、なんとも心地の良い音を華子はずっと聞いていたかった。
 エレベータに乗って、7階で降りた四人は、特別室とは書かれてはいないものの、それを醸し出すほど雰囲気のあるドアに二人は慄いた。
 重厚なそのドアを甲野枝が開けた瞬間、蝶子と華子の目の中に壮大な港が飛び混んできた。そして、その大きなガラス窓の前には車椅子に乗った老女が背中を向けて海を見ていた。人の気配など、まるで気にしない様子でただ静かに海を見ていた。
 甲野枝の案内で、中に入った蝶子と華子は、足が埋もれるくらいふかふかの絨毯の上を静かに歩いて、老女に近寄った。
 入り口には、桃子が立っていて、それはまるで、その光景を離れた場所から眺めていたい。と、いう風にもとれた。
 相変わらず、海を眺めている老女に華子は小声で言った。
 「海に誰かいるの?」
 突拍子もない華子の問いかけに、入り口にいた桃子と甲野枝がクスッと笑った。
 すると、今までそっぽを向いていた老女がやんわり振り向き蝶子と華子を見ると、困った顔で笑った。
 「花子が二人おるなぁ」
 それを聞いた桃子と甲野枝が、今度は声を出して笑った。蝶子と華子は想定外な老女の言葉に一瞬言葉を失ったが、華子は大きな目を開いて老女の皺だらけの手の上に自分の手をのせた。
 「これが十歳の私の手」
 そう言うと、華子は蝶子の手を引っ張り、老女の左手の上に蝶子の手を重ねた。
 「ほんでなぁ、これが三十六歳の花子の手やで!分かる?」
 入り口にいた桃子は感慨に浸り、瞳を潤ませていた。それは甲野枝も同じで、きちんとたたまれた真っ白なハンカチを背広の内ポケットから取り出し、時折、目頭にそっとあてた。
 その時、なぜ自分がこの場所に来たのか。蝶子は、その理由がはっきりと分かった。
 花子が、自分の体を使って、母親であるチャ子を見届けに来たのだと、その時、いわれもない実感が蝶子の体の中に混在していた。
 「久しぶりやねぇ」
 蝶子は膝を折り、チャ子を下から見上げて微笑んだ。
 「ほんま、久しぶりやなぁ。あんたは、最後の最後までアホやったなぁ。親より先に死んでからに。子どもの頃から、手がかかったけど、死ぬまで手がかかるとわなぁ。お母ちゃん、びっくりやわぁ。ほんまに、あんたは、あかんたれやなぁ」
 「お母ちゃん、ごめんなぁ。せやけど、あっちの世界も悪ないでぇ。でも、お母ちゃんは、もう少し来んといてなぁ」
 「なんでよ?」
 「せぇやかて、また、説教ばっかりされるし、習い事かて無理強いされる。あっちの世界は、競争とかないねんでぇ。せぇやから、今、お母ちゃんが来ても、おもろないよ」
 蝶子は、ここへ来る前にチャ子が認知症を患っている事を愛優美から聞かされていた。他にも、チャ子と花子の昔話が面白過ぎて、蝶子は両足をばたつかせて笑った。
2人の歴史を体に刻んで蝶子は子の場所へと来たのだ。

 「仕草まで、お姉ちゃんにそっくりやわ。ほんまは、ドナーの事を口外したらあかんの。でも、どうしても、お母ちゃんに、あなたを会わせたくて。ほんまに、ごめんなさい。時間がないの」
 時間がない。その時そう言った愛優美は病院玄関から見える海を鬱屈した顔で見つめていた。
 海を眺めている愛優美の横顔はいつかやってくるであろう恐怖と戦っている様にも見えた。

 「チャ子さんに会わせて下さい」
 蝶子の言葉に愛優美は堰を切ったように泣いた。その泣き声は、とても静かで、優しい音だった。
 優しい音。
 蝶子は、こんな風に泣ける人間でありたいと、心の底から思っていた。
 
蝶子は華子にチャ子に会いに行く事を伝えると、認知症になったチャ子の前では娘の花子になるよう諭した。
 
 九十二歳のチャ子の顔は、夢で見たチャ子とは違って弱々しくなっていたけれど、蝶子を見る表情だけは、まだ、子育てをしている最中の活気に溢れた母親の顔をしていた。
 と、同時に、その表情は母親として愛する我が子に何か教え導く事はないか、考えあぐねているようにも見えた。
 森閑と静まり返った時間の中、チャ子が腕を伸ばして蝶子の瞳に手を伸ばそうとした。
 その腕は、時に削られ、細くなり、爪の色も、正気を無くしたように白かった。
 けれど、蝶子の瞳にに触れた瞬間、チャ子のしわ深い手に赤みがさした。
 後ろで見ていた桃子と甲野枝も驚きを隠せない様子で顔を見合わせた。
 すると、突然、華子がチャ子の前で座り込み、こう言った。
 「なぁ、私、お腹がペコペコやねん」
そう言って頬を膨らませた。
すると驚く事にチャ子が張りのある声でこう言った。
 「あんた、宿題したんか?」
 「してへん」
華子が返すとチャ子は更なる大声で、
 「アホ!明日、先生に叱られるで!また、お母ちゃん、学校に呼び出しくらうやない!ほんまに、あんたは懲りひん子やなっ!」
 そう言った後、チャ子は華子のおかっぱ頭に拳骨を入れた。華子はあまりの痛さに驚きを隠せず目を瞑りながら頭のてっぺんをおさえた。それを見た愛優美と甲野枝が慌てて駆け寄ろうとしたが、蝶子は腕を横に出し、二人を遮った。

蝶子は咄嗟に出た右腕に自分自身驚いたが、蝶子の中にいる花子が昔の様に血気盛んだった母親の姿をもう一度見たかったのかもしれない。故に自分の体を借りて花子がそうしたのに違いない。蝶子はそう思わずにはいられなかった。

 「ほな、今日だけ、デパートでオムライス食べに行こか」
認知症も患っているチャ子は昔にタイムスリップしているかのようで、子育て真っ最中の母親の顔になっていた。
 蝶子は瞳から丸い雫が無自覚に溢れ出て、止めることが出来なくなり、戸惑いがかくせなくなった。
 以前、朱実ちゃんが言っていた。人生は必然で出来ている。亡くなった旦那さんから貰った、真珠のネックレスを指に絡めながら、そう言った朱実ちゃんを蝶子は思い出していた。
 今、ここに、自分がいる事もきっと、そうなのだろう。
 見えないだけで、何かに繋がれて生きているのだろう。
 その時、蝶子は十年会っていない砂月を思い出していた。
 蝶子はお腹に華子を宿して家を飛び出したきり、家族とは一度も会ってはいなかった。
 自分の家族は華子一人。そう思って生きてきた。
 チャ子に別れを告げ、那覇空港に着くや否や華子は真っ先に朱実ちゃんとエイショウおじぃに会いたいと言った。華子が持っていた神戸と大文字で書かれた紙袋には、うちなーの人達への、お土産で破裂しそうくらい膨らんでいた。
華子は、細い腕の関節に真っ赤な跡が付くほど大きな紙袋を持ちながら、待っていてくれている人達の喜ぶ顔を思い浮かべて心が躍った。
 空港から出た蝶子と華子は、薄水色の軽四トラックを見つけると大きく手を振り叫んだ。
 「なまちゃん!(ただいま)」
 華子が大声で叫んだ。
 「おじぃ!朱実ちゃん!ただいま!」
 蝶子は、胸がつまった。たかだか二日会わなかっただけの二人を、こんなに恋しく思っていたのかと、驚くと同時に涙が止まらなかった。それは、蝶子が自分の居場所を再認識した瞬間でもあった。
 この瞳は、幸せの連鎖の為に、自分の元に来たに違いない。蝶子はそう思うと、大きく手を振って、出迎えてくれている、二人をしっかりと目に焼き付けておこうと思った。
 そして、この瞳に幸せの続きを記憶させる事を決めた。
 数日経って蝶子の手元に届いた日本アイバンク協会からの書類に自分達の名前を記載し、二人は、三日に一度しか回収しに来ない古くて赤いポストに投函した。
 「なぁ、目って死んでも使えるん?」
 「使えるで。だって、お母ちゃんの目がそうなんやから」
 「えっ?ほんま?」
 「ほんまや。お母ちゃんが中学生の頃に大怪我して目が見えんようになったんよ。でも、不思議な縁で隣に入院してはる、おばちゃんがくれはってな。だから、お母ちゃんも誰かにあげようと思うたんよ。華子はいややった?登録すんの?」
 それを聞いて華子は首を横に大きく振った。
 「私もな、おばぁになって死んでしもうたら、誰かにあげてもえぇよ。だって、新しい世界を見る事が出来るもん!」
 「せぇやなぁ。ほんまに華子の言う通りや。永遠やな!」
 「永遠や!」
 二人は、指で輪っかを作り、そこから見える、うちなーの海を見て笑った。
 どこまでも青く、緑色の、その海を、瞳にしっかりと焼きつくよう願いながら見入った。
 どうか、次の人が幸せでありますように。
 そう願いながら、青を見ていた。
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み