第4話 イヌビワコバチ

文字数 4,555文字

 華子は右目の違和感で目が覚めた。瞬きをすると、瞼に何かくっついている感覚とジクジクとした鈍痛で、卓上用の鏡に手を伸ばした。
 鏡に映った自分の顔を見た華子は愕然とした。上瞼に丸くて赤いものが垂れ下がっていて、イヌビワのように見えた。
華子はイヌビワが大好物だった。昨晩も、蝶子が止めるのも聞かず、朱実ちゃんから籠いっぱいに貰ったイヌビワ(沖縄のイチジク)を、一人で全部食べ切ってしまった。
 蝶子もイヌビワが大好きだったけれど、蝶子の好きは、華子の好きとは少し違った。
実の中に花を咲かせるイヌビワは、一種の蜂と共存しながら生きている。その形態が自分と似ていると思ったからだ。
 イヌビワを利用し、イヌビワコバチのオスとメスは交尾して命を宿す。
 オスだけが死んでしまうけれど、羽のあるメスはイヌビワに受粉し、実をつける。それを知った時、蝶子は、自分の生き方と重ね合わせていた。
 
 華子のミーインデー(目もらい)は、朝より大きくなって、右目の視界を妨げるほど大きくなっていた。蝶子はエイショウおじぃに電話をかけ、那覇の市立病院まで乗せて行ってくれるよう頼んだ。
 電話を切って五分もたたないうちに、おじぃは朱実ちゃんを乗せてアパートまで来てくれた。おじぃは到着すると、必ず、年期の入った軽四トラックのかすれた音しか出ないクラクションを決まって二回鳴らす。
 なま ちゃん(今、来たよ)。そう言う意味だ。
 なま ちゃん。が、鳴ると、蝶子は華子をおぶってアパートを出た。朱実ちゃんは荷台に乗っていて、二人に手招きをしながら、
 「蝶子と華子はおじぃの横に乗りなさいよぉ」
 「そんなぁ、朱実ちゃん危ないからえぇよ。うちらが荷台に乗るさかいに」
 「なんくるないさぁ。それに、風が当たると、ミーインデーがもっと腫れるよ。私なら、大丈夫だから、おじぃの横に早く乗りなさい」
 朱実ちゃんはそう言うと、シワシワの手の平を空に向けて蝶子と華子に車内へ入るような仕草をした。
 「にふぇーでーびる(ありがとう)」
 蝶子は、そう言って朱実ちゃんに頭を下げた。
 「なんくるないさぁ」
 朱実ちゃんの、なんくるないさぁ。は、二人にとって勇気をくれる言葉だった。優しい声、面持ち、そして、何より愛があった。
ガタガタの田舎道を揺られ、市民病院に着くまでの間、エイショウおじぃが沖縄の唄を歌った。
 おじぃの唄はお世辞にも上手いとは言えなかったが、海から運ばれる風に乗って、蝶子と花子の体を優しく包んでくれた。
 「ゆる(夜)は(走)らす ふに(船)や に(子)に ぬ ふぁ(方) ぶし(星)
みあて(目当て)てぃ 」
 華子は、ミーインデーがおじぃの唄で少し小さくなった気がして、
 「おじぃの唄で、治ってきたみたいや!」
 華子はそう言って、片目だけを器用に瞬きをした。
  そして、蝶子が華子の目を覗き込むと、驚いた顔で、
 「ほんまや!さっきと大きさが全然違う!」
 「おじぃの唄で治ったんやぁ!絶対にそうや!おじぃ凄いなっ!」
 「ほんまやなぁ、凄いなぁおじぃの唄。華子のミーインデーは病院に着く頃には引っ込んどるかもしれへんなぁ」
 「おじぃ、もう少し唄ってほしい」
 華子が、おじぃを不安気に見つめると、
 「うがどーびーん(かしこまりました)」
 そう言って、おじぃは再び唄った。その声は、どんな不安も消し去って、安心感をくれた。
 そして、その時、蝶子は不思議な感覚を抱いた。
 冷え切った体に甘くて、温かな、何かが入ってきた感覚だ。それは、とても不思議な感覚だったが、蝶子は、時を移さず腑に落ちた。
 目だ。蝶子は瞬時にそう思った。この目が、優しい記憶を残してくれて、自分を真っ直ぐに導いてくれているのだと確信した。
 蝶子は揺られる車内で、おじぃの優しい唄を聴きながら、目を閉じてみた。
 すると、目の奥に映った記憶の残像は、少女をおぶった母親が凄まじい形相で歯科医院の玄関ドアを力一杯に叩きながら叫んでいた。             

「先生!先生!うちの娘の歯が、前歯がのうなりましてん!先生、お願いします!開けてください!うちの可愛い娘の前歯がのうなって、血ぃー出てますねん!開けてー!」

母親の手は真っ赤になり、声が枯れるまで叫び続けていた。
 蝶子は涙が止めどなく流れている事に自身が驚いた。そして、それを見た華子もポカンと口を開けていた。
 けれど華子は、まん丸の光る涙を流す母親に、その理由を聞かなかった。聞かずに、蝶子の手をそっと握った。
 前だけを見ている二人の体におじぃの唄が更に染み込んでいった。
 バックミラー越しに見える、朱実ちゃんもおじぃと一緒に唄っているのが見えた。
 それは、とても穏やかで、時間が止まっているようにさえ感じた。
 サトウキビの擦れる音が聞こえ、フロントガラスには青い海が写った。
 車の振動が体に伝わらなくなった頃、目の前に白くて大きな病院が見えてきた。
 「華子、病院んかい、着いたよ!へーく、お医者みーちんかい診てもらなましょう!」
 「にふぇーでーびる、おじぃ」
 蝶子と華子はおじぃに深々と頭を下げた。エイショウおじぃは、荷台にいる朱実ちゃんを、自分の肩を貸しながら、ゆっくりと降ろした。そして、華子をおぶって駆けて行った蝶子の後を追った。
その光景は、紛れもなく愛の塊で、家族そのものだった。
 息を切らせ、華子をおぶった蝶子達を見た看護師長が小走りで近寄って来た。彼女は、呼吸が荒い蝶子の肩を優しく支えながら、眼下の方へと案内してくれた。そして、ときたま後ろを振り返りながら、心配そうに着いてくる老人に、こちらです。と、言わんばかりに、優しくうなずいた。
 看護師長の案内で蝶子と華子は診察室に入って行った。エイショウおじぃと朱実ちゃんは長椅子に腰掛け、心配そうにペンキの禿げたドアを見つめていた。
 
 華子が蝶子の背中から滑り降りると、丸い椅子に腰掛けた。すると、薄ピンク色のカーテンを開けて白髪の女医がゆっくりと二人に近づいてきた。
 凛とした美人で、それでいて穏やかな空気感を身にまとった上品な彼女は、心地の良い声で二人に言った。
 「こんにちは。山田愛優美と言います。今年から、こちらの病院に来ました。よろしくお願いします」
 彼女は、そう言って二人にお辞儀をした。ただ、そのイントネーションが少し関西訛りで、蝶子はどこか懐かしく、以前、どこかで会ったような、不思議な感覚を覚えた。
彼女は、動きの悪い小さなタイヤがついた丸椅子に座ると、それをひきずる様に華子に近寄り、ミーインデーがひっいた目を覗き込んだ。そして、そっと瞼を持ち上げた。
 その手の動きが、あまりにも優しく丁寧で二人は病院にいる事を一瞬、忘れてしまう程だった。
 「お電話で聞いていた程、腫れてないですね。良かった。これなら、切らなくても良さそうね。炎症止めのお薬と、目薬で治りますよ。華子ちゃんでしたよね?痛かったら、いつでも、いらっしゃい」
 彼女は、潮風でパサパサした華子のおかっぱ頭を優しく撫でてそう言った。
 ミーインデーにメスが入る事を覚悟していた華子は、強張った青白い顔から桜色にと、戻っていった。
 蝶子も、胸を撫で下ろし、女医に深々と頭を下げた。
 「蝶子さんよね」
 愛優美は、そう言って、澄んだ目で蝶子を見た。
 蝶子を。と、言うよりも、蝶子の目を見ていた。驚いた蝶子は、少し間を置いて大きな目を見開いた。
 「愛優美さん?」
蝶子は辿々しく尋ねると、

 「はい。花子の妹の愛優美です。あぁ、やっぱり、こういう事ってあるのね。今の医学では解明が出来ない不思議な事ってあるんだわ。あなたの瞳は。そう、私の姉、花子の瞳です。あなたが中学生の時、事故にあって、緊急で運ばれた病院に姉もいたの。でもね、不思議なの」
 「不思議?」
 「そう、不思議なの。だって、あの時、姉は昏睡状態だったもの。なのに、あなたが隣のICUに入った瞬間、目を開けたの。そして私に言ったのよ。あゆちゃん、あの子に私の目をあげて欲しいねぇん。お願いしたで。って。そして息を引き取ったの。それで、私が移植手術をしてね。あなたの記憶はきっと、姉のものね。だけど、驚いた。あなたのお嬢さんも華子だなんて。こんな事ってあるのね。なんや、信じられんけど」
そう話した愛優美の目は少し濡れていた。
 「あの」
 蝶子は躊躇いながら、それでいて聞いてしまうのが怖いような、そんな表情で言葉を詰まらせた。

 愛優美が蝶子を優しく見ると、蝶子は意を決し、尋ねてみた。
 「あの、お母さんは?チャ子さんはお元気でしょうか?」
 それを聞いて愛優美は凛としていた背中を少し丸め、娘の顔に戻った。そして蝶子には彼女が白髪の女医ではなく、幼い頃の愛優美に見えた。
 目の前の彼女は、紛れもなく、面長の利発で愛らしい幼い頃の愛優美に戻っていた。
 「本当、こんな事があるやなんて。私は目に見えるものしか信じてこんかったから、目の見えへん事実を受け入れる事にとまどってしまうわ。ありえへんと思うんやけど、あるんやなぁ」
 愛優美の大きくて、整った綺麗な瞳から、涙が止めどなく流れて落ちた。
 蝶子は、関西訛りの、愛らしい愛優美の頭を優しく撫でた。すると、彼女は、蝶子の目を見て更に泣いた。それは、子供の頃の愛優美の泣き声だった。声を殺して、静かに泣く愛優美の泣き方だった。
 きっと、私の目の奥の花子を感じたに違いない。蝶子はそう思った。
 隣に立っていた婦長は愛優美の幼馴染で、泣いている彼女の背中を摩りながら微笑んでいた。
 その時、蝶子は、一瞬、細い糸のようなものが見えた。それは、どんなに鋭い刃を以ってしても、絶対に切れる事のない縁という糸がある事を初めて知った。
 廊下で二人を心配して待っていた、エイショウおじぃと朱実ちゃんは、婦長から華子のミーインデーが大した事がないと聞くと、安心して眠ってしまった。
 
 「お母ちゃんは生きてるよ。花ちゃんの娘が経営している老人ホームにいるの。痴呆が進んでいて、私や恵子姉ちゃんの事も忘れているんやけど、花ちゃんの事だけは覚えてんのよ。親より先に死ぬやなんて、あの子は最後まで、アホな子ぉや!言うて、怒ってはるわ」
 愛優美はそう言うと、目頭に溜まった涙を中指で拭いながら、屈託なく笑った。
 同時に廊下からは、おじぃと朱実ちゃんの歯ぎしりと、いびきが聞こえてきて、思わず、三人は顔を見合わせて笑った。
 廊下の二人に寄り添っている婦長も微笑んでいた。
 不思議な空間に入り込んだ、何か不思議な感覚が今まで感じた事のない安らぎを蝶子に与えた。

 いつのまにか、ミーインデーも赤みが取れ、華子のクルクルと大きな目に戻っていた。
 華子の大きな瞳には、海に溶けていく夕陽が写っていて、それを見た愛優美と蝶子は、満ち足りた気分になった。 
間を空けて、愛優美は姿勢を正し、口を開いた。
 「蝶子さん、お母ちゃんに会ってくれませんか?」
愛優美はそう言うと静かに頭を下げた。

間を空けず蝶子は「はい」と答えた。
診察室の窓からは赤く染まった海が見え、廊下からは相変わらず聞こえてくるエイショウおじぃのいびきと、朱実ちゃんの歯ぎしりが心地よい音を奏でていた。
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