第3話 輪廻

文字数 2,929文字

机の上に熟れた枇杷が籠一杯に積んであった。華子は海色のランドセルを放り投げ、枇杷を鷲掴みし、皮ごと食べた。一つ食べる毎に大きな種を庭に向かって口から飛ばすと、それが、どれだけ面白いのか、華子は次々と枇杷を食べては庭に種を飛ばし、笑い転げた。
 苔が生えて、手入れが行き届いた庭には、華子が口から勢い良く飛ばした茶色の種が光って、緑の上に群がるチャバネゴキブリのように見えた。
 華子はそれを見て、更に大声で笑った。
 「トービーラー(ゴキブリ)の大群さぁー」
 華子は、腹を抱えて笑った。
 私は近所に住んでいる、漁港の組合長をしていたエイコウおじぃの口利きで事務員をしていた。エイコウおじぃは、巷ではイェーンダーイユ(優しい魚)と言われて、人望を集めていた。彼は
アオブダイそっくりだった。アオブダイは毒を持つ魚だが、それは体内に持っているのではなく、捕食対象にしているスナギンチャクが毒を持っているからで、ブダイにはなんら罪はないのだ。
そのブダイの特性と、エイコウおじぃの性質も似ていた。おじぃは、強面の割には面倒見が良く、酒の席に誘われると絶対に断らない人間だった。それだけ、人との繋がりを大切にしていたのだ。
学びは人から受けるものである!と、我流の名言を吐いては毎晩、酒場に入り浸っていた。そのせいで、持病の糖尿病は悪化し、最後は透析をするはめとなった。それでも、おじぃは酒の席を断ることはなかった。
 アオブダイのように、毒だと分かっていても、自分なりのアイデンティティーを大事にしていたのだ。
 けれど、エイコウおじぃは、行きつけの飲み屋のカウンターで、座ったまま眠るように死んだ。
 右手には、ほとんど口をつけていない泡盛が入ったグラスと、左手には漁港の組合長をしている金城さん宛の手紙を握りしめていた。
 おじぃの火葬がおわると、金城さんは蝶子にその手紙をそっと渡してくれた。
 その内容は、せめて華子が高校を卒業するまで、親子が困らない程度の給料を払ってやってくれという内容だった。そして、追伸。蝶子、華子、ゆたさるぐどぅ うにげーさびら(よろしくお願いします)」
 そう書かれてあった。
 沖縄の秋は、夜になると満天の星空を眺めることが出来る。
 八十八星座のうち、八四星座が見れて、波の音と散らばる星屑が一体化する。
 そんな優しい季節に、優しいおじぃが星の一つに加わった。沖縄は通夜もなにもなく、納棺から納骨までを一日で済ます為、親戚達は段取りに追われ、忙しそうだった。その中、エイコウおじぃの奥さんで、75歳になるマツおばぁが、夜空をゆったりと仰ぎ見て微笑んでいた。
 華子と蝶子はおばぁに近寄り、何も喋らず、ただ一緒に空を見上げた。
 騒がしい音も、忙しそうな足音も一切遮断して、三人はただ、どこまでも続く沖縄の空を眺めていた。
 「またん いちゃやびら(また、会いましょう)」
 マツは静かにそう言った。
 「またん いちぇうがなびら」
 蝶子も呟いた。
 「お母ちゃん、何て言うたん?」
 不思議そうに、大きな目をクルクルとさせながら、華子が蝶子に尋ねた。
 「また、会いましょうねって、言うたんよ」
 「へぇー」
 華子は、再び大きな目をこじ開けると、両手を口に添えながら大きな声で叫んだ。
 「またん!いちぇうがならぁー!おじぃー!」
 そして、青い空に向かって体一杯手を振った。
 周りで、気ぜわしくしていた親族や友人達も、動くのをやめて空を仰ぎ見た。その時、偶然にも星が一つだけ、点滅した。それはまるでエイコウおじぃが返事をしてくれているかの様なリズムだった。人が死んで無くなるのは肉体だけで魂は残された者に宿る事を蝶子は実感した。
 「おじぃが返事したぁ」
 華子の、その一言で、その場にいた全員の心の糸が切れた。静かな鳴き声が真っ暗な空に溶けていった。
 朱実ちゃんはマツおばぁの肩を抱きながら、優しく摩った。朱実ちゃんのしわしわの手の平と、マツおばぁの黒のレースのカーディガンが擦れる音があまりにも優し過ぎて、蝶子の胸に熱くて焼けるような感覚が込み上げて、息が苦しくなった。
 「我慢出来ひん」
 蝶子は、朱実ちゃんとマツおばぁの膝に顔を埋めて叫喚した。
 「しからーさん、しからーさん(とても、寂しい、辛いねぇ)蝶子。でも、またん いちゃやびら。よぉ」
 朱実ちゃんのもう一つの手の平は、蝶子の背中を摩る音がした。すると、一向に泣き止もうとしない蝶子を見ていた華子が突然歌い出した。
 「一期ままとぅむてぃ 語らたる二人やしが情ねん無蔵や我身捨てぃてぃ 捨てぃてぃ行ちゅさ 思無蔵や情ねらん」
 「花子ぉ、ヌーンチ(どうして)?」
 それを聞いて、驚いた朱実ちゃんが華子に尋ねた。
 「エイコウおじぃに教えて貰うた!もし、自分がおらんようになったら、マツおばぁに唄って欲しいって。それと、もし、自分がいなくなって不安で、泣いている人がおったら、唄ってやって欲しいって。頼むって。何回も聞かせてくれたんよ!」
 さっきまで、大声で泣いていた蝶子が泣き止んだ。そして、華子を抱いた。
 「堪忍な華子。弱いお母ちゃんで堪忍な。これからは強くなる!強くなるから。チャ子さんみたいに」
 「お母ちゃん、チャ子さんって誰なん?」
 「究極の愛の人なんよ」
 「何それ?」
 「今に分かる」
 「ふぅん」
 不思議そうに首を傾げる華子を見て私は泣くのをやめて笑った。朱実ちゃんもマツおばぁも笑った。
 「にふぇーでーびる、おじぃ」
 マツおばぁは、そう言って空に向かって手を、合わせ、目を瞑った。
 群青色の空には、一番星が光っていて、こっちの世界を見て笑っているようにも見えた。華子は、その星を手の平ですくって口に入れた。
 「華子、なに?」
 朱実ちゃんが華子に尋ねると、
 「エイコウおじぃを、お腹の中に入れたんやで!だから、おじぃは死んでないねん。私のお腹で生きてぇんねん。でな、私が大人になったら、おじぃを産んであげんねん!それまでに、赤ちゃんになっていてくれたらえぇんやけどなぁー」
 腕を組み、真面目な面持ちでそう言った華子の言葉に皆んなが声を出して笑った。
 腹を抱え、華子を指差し笑うおじぃ達、空を見上げて笑うおばぁ達、そして、泣きながら笑うマツおばぁが叫んだ。
 「ぬちどぅたから(命こそ宝)おじぃ」
そう言ってマツばぁは華子のポコンと前に飛び出したお腹を愛おしそうに撫でた。
 「なぁ、お母ちゃん、おじぃは、もうお腹に入った?」
 「入ったで。間違いない、入った。せぇやかて、一番光っていた星がおらんようになったもんなぁ。今頃、華子のお腹の中で、生まれる準備してはるわ。せぇやから、御飯一杯食べて、大きくならんとなぁ」
 「せぇやなぁ。頑張るわ!」
 蝶子はそう言うと華子を再び抱きしめながら
華子のポコンと飛び出した下腹を摩り、心の中で繰り返し言った。
 「ぬちどぅたから。めんそーれ、おじぃ」
 その時の蝶子は少しだけチャ子さんに近づけた気がして、胸が熱くなった。と、同時に目の奥に会った事もない彼女がはっきりと見えた。
その彼女はまいかけをし、大きな口を開けて少女を怒鳴っていた。
すると蝶子は両手を手の平で優しくおさえ、笑った。
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