第1話 記憶

文字数 6,109文字

 私はクリスマスイブに目が覚めた。とても、長い夢を見ていた。
 自分がなぜ、病院のベッドにいるのか私は瞬時に把握する事は出来なかった。ただ、分かった事は、自分が生きてはいるが失明したという事実だった。そして、目覚めた事で、中年の男女が泣き出し、看護師と医者がバタバタと部屋に入って来る音がやけに耳についた。
 「蝶子!聞こえる?お母ちゃんの事分かる?」
 「蝶子!お父ちゃんやで!分かるか?」
 泣きながら叫ぶ、この二人が両親だという事も私には理解できた。担当医が、目をおおっていた包帯を外し、細長い懐中電灯のようなもので、私の瞳孔を確認した。
 「眩しい」
 私がそう言うと、医師は、もう大丈夫です。と、安心したように言った。
 その瞬間、感極まった母親が私の手を握り、顔を埋めて泣いた。自分の手が、幼い頃、公園の噴水で遊んだときのようにビジョビジョに濡れているような感覚だった。
 そんな両親の横で、冷ややかに見ている女子高生がいた。そして、私に向かって何かをしきりに呟いていた。両親の鳴く声でかき消されるほどの小さな声で繰り返し呪文を唱えるように何かを言っていた。
 彼女の口元に小さなホクロが縦に二つ並んでいて、それを見た瞬間、姉の砂月だと思い出した。
 「死ねばよかったのに」
 砂月がそう言っているのが、私には、はっきりと分かった。けれど、少しも驚かなかった。そして、その時、自分の身に何が起こったのか、鮮明に思い出した。同時に姉の砂月に貶められたという記憶も戻っていた。
 私と姉は異父姉妹だった。砂月が5歳の時、母親が再婚をし、生まれたのが私だ。母の千夜子より五歳下の父、優作は弁護士を生業とし、真面目で優しい人柄で、連れ子の砂月にも無償の愛情を注ぎ、可愛がった。けれど、砂月は全く懐こうとはしなかった。
 五歳ともなれば、実父の記憶が残っている。砂月は、幼いながらも、母親の裏切りと、それに乗った優作が許せなかった。何より、その二人の間に出来た私を心から憎んでいた。幼い頃から砂月が自分を見る目には違和感があった。それは、唾棄すべき相手を見るような目つきだった。
 けれど、そんな砂月の感情を知っていたにもかかわらず、優作は砂月に無償の愛情を注ぎ続けた。真面目で博愛心を持っていた優作だからこそ、実子でもない砂月を愛せたのだろう。けれど、彼が愛そうとすればするほど、砂月の心は離れていった。
 砂月の実父である、悟は定職にもつかず、アルコール依存者だった。
 体内から酒が消えると震える手で幾度となく母に暴力を振るった。
その日の夜も酔って帰宅した悟は、千夜子にいつものように暴力を振るい、止めに入った幼い砂月の首にまで手をかけた。それに気付いた千夜子は、咄嗟に、飲み干されて転がっていた酒瓶で悟の後頭部を強打した。
膝から下へ落ちるように倒れこんだ悟の頭部からは大量の血が流れ出し、真っ白な絨毯へと広がっていった。
 幼かった砂月は、父親を助けるよう泣いてすがったが、千夜子は滲みながら広がる赤い円を睨みつけたまま動こうとはしなかった。蜘蛛の糸のように細い悟の息が切れてなくなった事を確認した千夜子は、自ら受話器をとった。
 夜中のせいか、千夜子を乗せたパトカーはサイレンを鳴らさず、静かに砂月の視界から消えていった。女性刑事に肩を抱かれた砂月は警察とは違うどこかへ向かう車内で、指についた悟の血を眺めながら千夜子への嫌悪感で一杯になっていた。
 悟は、元々、真面目で内気な性格だった。そのせいか一度酒が入ると人が変わったように獰猛になった。反面、素面の悟は人一倍、娘の砂月を溺愛した。
 電気工事をしていた悟は、足場が崩れ、10メートル下の地面に叩きつけられた。そのせいで、思うように歩く事が出来なくなった悟は、職を失い、酒に溺れた。
 人格が変わっても、砂月は父親である悟を好きだった。故に、父親を殺めた千夜子を許す事が出来ずにいた。留置されていた千夜子は、有能な弁護士により、正当防衛が認められ、温情ある判決が下された。
その時の弁護士が優作だった。
優作は裁判官を示唆されていたほどの逸材だったが、敢えてそれを望まなかった。
 次第に千夜子は神格的な優作に惹かれ、優作もまた、ひたむきな千夜子を愛するようになった。しかし、人を殺めた母との結婚など、由緒正しい優作の眷属が許すはずもなく、千夜子を罵倒し、別れるよう強要した。そんな糾弾から逃れるように、二人は駆け落ちをした。
 それから二年経った頃、施設に入っていた砂月を引き取り、その二年後に蝶子が産まれた。人口の少ない港町で、優作は弁護士として小さな依頼を受けながら、四人は慎ましやかに生活していた。
 けれど、あの日以来、蝶子は自分に対する砂月の憎悪の疑念が確信に変わった。
 蝶子が小五の時、父親の誕生日のプレゼントを買いに行こうと砂月に誘われ、公園で待ち合わせをした。9月に入ると、陽が落ちるのが早くなる。しかし、敢えて砂月は、六時な。と、蝶子に言った。
 蝶子は「早く帰らないとお母ちゃんが心配するで」と、言ったが、砂月は断固として時間を変更しようとはしなかった。砂月の衷心にある恐ろしいものを感じていた蝶子は、幼いころから逆らう事が出来ずにいた。
 そして、その日も同じだった。
 宵の口、辺りも暗くなってきたが、砂月は一向に来る気配がなかった。その日は九州地方に大型の台風が接近し、辺りはものものしい警戒ぶりだった。
 次第に台風が姿を現し始め、公園の木々も大きく音を鳴らすようになった。蝶子は怖くなり砂月を待たず、帰路につこうとした。すると、目の前に黒い服を着た、大柄な男が三人、蝶子を取り囲んだ。唸る風の音と、それに揺さぶられる木々の音で、蝶子の叫喚はかき消された。
 気がついた時には、着衣は乱れ、生理中だった私の下半身は真っ赤な血と、得体の知れない粘液で履いていたスカートの柄すら見えなかった。
 そして、その後の記憶がなくなった。
 蝶子は千切れた記憶を思い出そうと辿れば辿るほど、呼吸をする事すら出来なくなった。そんな蝶子を憂えてか、両親は姉妹を連れて港町を出た。
 私は知っていた。

 あの日、起こった忌々しい出来事は、砂月の悪意ある計略によるものだと蝶子は分かっていた。
 車内から、住み慣れた町を出る際に見えたあの公園を眺めながら砂月は薄笑いを浮かべていた。蝶子の疑念は本当の意味で確信に変わった瞬間だった。
 四人家族を簡単に飲み込んでしまうほどの大きな東京で暮らし始めた私達は、あの日の事は、まるで、無かったかの様にひっそりと暮らした。
 偶々、生理だった事で妊娠を免れた事を除いては、蝶子に向けられた砂月の復讐は遂げられたのだ。
 おそらく、父母も感づいていた。それ故、二人は一層、砂月に心を配った。
 もう、これ以上、妹に何もせぬ様、留意したのが分かったのだろう。そして、砂月は、そんな二人の態度を滑稽だと言わんばかりの眼差しで見ていた。
あの時も蝉の鳴き声が耳に残る程、暑い日で、塾の夏期講習で家を出た蝶子の後を追いかける様に砂月が駆け寄った。
 「なぁ、蝶子、今から渋谷に行かへん?」
 「なんで?」
 「ほら、昨日、テレビで芸能人が行ってたやん!パンケーキがめっちゃ美味しい店!あそこ行かへん?塾の時間には少し早いし!行こう、なっ!」
 「えぇわ。食べたないし。お姉ちゃん、友達と行ったらえぇやん」
 「蝶子はつれないなぁ。たまには姉妹水入らずで、お茶したいねぇん。あかん?」
 砂月は二面性を持ち合わせていた。時々、どちらが本当の姿なのか分からなくなるほど、弱い自分を押し付けてくる。半分とは言え、血の繋がりのある姉を信じたいという気持ちも蝶子にはにあった。
 「分かった。えぇよ。一限目はそんなに重要な授業やないし。えぇよ、行こう」
 「ほんま?えぇの?嬉しいわぁ!有難う、蝶子」
 砂月は、屈託なく笑った。
 蝶子は、砂月に対して戒心している事を悟られたくなかった。同時に、砂月が幼い頃に経験した傷ましい経験に哀れみも感じていた。
 家がある立川から渋谷までの一時間半、二人はたわいもない話をして笑った。そこには憎悪や懐疑など微塵も感じられなかった。
 けれど、乗り換えをした新宿駅のホームで、蝶子は砂月に背中を押された。
 
は前方に倒れる蝶子の体をホームへと勢い良く引き戻してくれた男性がいた。けれど、その反動で後方にあった鏡に顔を打ち付けた私の目には、粉々になった破片が無数に突き刺さった。その瞬間、映ずる事が出来なくなった。けれど、見えなくなったはずの目には、なぜか、砂月の薄笑いだけが映った。そして、私はそのまま意識を失った。
 
 私は夢を見ていた。
 それは、温かく、優しい夢だった。少し要領の悪い妹、そんな妹を愛して見守る姉。そして、個性的だが、愛に満ちた母親。
 欲しくて手を伸ばしても、届かない家族の愛がそこにあった。
 私は、そこに、その場所にいたかった。何より、屈託無く笑う花子になりたかった。
 花子が私ならいいのに。そう、思った。目が覚めなければ、ここに、温かいこの場所で生きていけるのに。私は必死に願っていた。
 
 「なぁ、お姉ちゃん。何で、蝶々は花が好きなん?」
 「アホやなぁ、花子。そんなん、決まってるやん!花はえぇ匂いするし、ふわふわして気持ちえぇんからやぁ」
 「あんたら、姉妹でバカなんか?蝶はお花の蜜を吸って生きてはんねん。お花がなかったら死んでしまうんやで。そんな事も知らんのかいな。先が思いやられるわ」
 「じゃあ、花ちゃんとお姉ちゃんが蝶々で、お母ちゃんはお花やなぁ」
 「なんでやねぇん?」
 「せぇやかて、ご飯食べれんかったら死んでまうやん!なぁ、お姉ちゃん」
 「あぁ、まぁ、そうやなぁ」
 「アホか!お母ちゃんはご飯炊きやないわっ!」
 
 私は眠りながら、その会話に引き戻されるように目が覚めた。
 静かに開けた目には、憔悴仕切った父母が泣き崩れている姿が映った。私の目が見えることを確認した医師は、溜めていた息を一気に吐き出すかのように安堵の表情を浮かべた。
 「もう、大丈夫です」
 医師はそう私達に告げると、ICUを出て行った。
 私は、確かに見えていた。それは、窓越に映る砂月の姿が瞳に映ったからだ。不思議だった。砂月の表情が違って見えた。悲壮感が漂っていた。後悔や失意とも違う、只々、哀しげに見えた。
 私はその時、この目が自身のものではない事を確信した。なぜなら、この目は見るもの全てを穏やかに見せた。以前の目で見たものは、偏狭的で歪んで見えていた。姉の表情も今となれば、仮想だったのかもしえない。これまで見えていた全てのものは、私自身が作り上げた、よこしまな幻像だったのかもしれない。
 蝶子はそう思った瞬間、汚水が一気に流れ出し、それを止める事が出来なかった。
 
 「蝶子」
 そう言って、私の頬につたう汚水を拭った砂月の指は温かかった。
 
 蝶子が新しい自分になった一ヶ月後、ヒグラシが鳴く夕方、病院の屋上に出た。そこには、うっすらとペンキが剥げたベンチとブリキの灰皿が置かれていた。
 蝶子は、その剥げた水色のベンチに座り、空を見上げた。
 「こんなに、青かったのやなぁ」
 「綺麗やねぇ」
 後方から、透き通った声が聞こえた。蝶子は思わず振り返った。すると、そこには色白でとても綺麗な40代後半くらいの女性が立っていた。
 「お隣、座ってもえぇですか?」
 「はい」
 彼女の透き通った肌に見惚れていた蝶子は思わず、声が裏返った。
 彼女は、クスッと笑いながら、
 「ありがとう」
 そう言って、私と少し間をおいて座った。
 「ここから見える空は特別な青色なんよ」
 不思議な感覚だった。物干し竿に吊ってある風鈴と彼女の声が同化して心地よかった。
 それ以上に、なぜか彼女といる空間が、眠っている時に見た、あの夢の中にいる感覚に似ていた。
 「ほんまは」
 彼女はそう呟いて口を閉じた。
 「ほんまは?なんですか?」
 彼女は切り出す事を躊躇しているように見えた。静かに目を閉じて、何も語らず、誰かに何かを聞いているような、そんな風にも取れた。
 そんな静かで穏やかな時間が暫く続いた後、彼女が静かに口を開いた。
 「あなた蝶子さんでしょう?」
 「えっ?」
 「ごめんなさいね、驚かせて。ほんまは、こういう事を言うたらあかんのやけど、どうしても伝えないと、駄目な気がして」
 「何を、ですか?」
 「うん」
 そう言って、再び彼女は口を閉じた。けれど、私は不思議と焦らなかった。
 待とうと思った。
 暫くすると、山の方から、緑色の風が吹いてきて、空もピンク色に染まった。
 「うちのお母ちゃん、十日前に亡くなりました」
 「えっ?」
 彼女の母親が亡くなったと言った後、彼女は静かに私の目を見た。その時、私は、意識のない間に見たものが幻影ではなく、他人の目を通して私に見せた現実なのだと確信した。
 「お母ちゃんは花子って言います。歳のわりには目だけは良くて、子供の頃、勉強せんかったからや言うて、笑ってました。でも、まさか、そんな理由だけでアイバンクに入ってたやなんて、ほんま、お母ちゃんらしいって言うか」
 彼女は、そう言って静かに笑った。
 ピンク色の空にいつの間にか姿を現した一番星を見上げて彼女はこう付け加えた。
 「愛やなぁ」
 空にピンク色が亡くなった頃、彼女はそう呟くと、微笑みながら私に一礼をした後、その場を去って行った。
 彼女が誰なのか、私には分かった。
 蝶は花にとまる。私は、繰り返し、そう呟きながら病室へと戻った。
 病室の白いドアを開けると、ベッドの脇に姉が座っていた。窓から見える夜空は、もう闇ではなくなっていた。
 「蝶子、堪忍してな」
 そう言って泣く砂月の体は風に揺れる水面のように儚く見えた。
 「間に合わんかってぇん。私が鈍臭いばっかりに。あんたを見失ったばっかりに。ほんまに堪忍してな」
 「どういうこと?」
 「あの時、修学旅行の高校生がホームにたくさんおったやろう?覚えてへん?いつもになく、ごった返していて、あんたを見失ってしもうたんよ。私が振り返った時は、あんたの姿が見えなくなって、それでも、流れに逆らって戻ったんや。そしたら、高校生がお土産を落として、あんた、それを拾うとこやった。そこに、誰かがぶつかってきてホームに落ちようとして。私は思わず、目を閉じてしまった。目を開けたら、男の人があんたの手を引いてくれたんやけど、勢い余って鏡に顔があたって血だらけで。あの時、私が、しっかりと、あんたの手を握っていたら、こんなことにはならんかったんや。ほんまにごめん。でも、運良く臓器提供者がいて。その人にはほんまに感謝してる」
 泣いている姉は、私の手の平にのるほど小さく見えた。私は愚かだ。酸鼻を極める状況を作っていたのは私の方だ。そう気がついた時、私の体内の賊心のようなものが消えてなくなった。
 あの時、見た夢が私を救ってくれた。
「蝶は花が好きなんやもんな」蝶子はそう言うと自分の目を優しく覆った。
 
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