五十円

文字数 1,222文字

 その男はタバコ臭かった。ポケットの中のタバコとライターと車の鍵と小銭をテーブルの上に出したズボンを脱いで床に寝転がり、手元に置いた缶コーヒーの空き缶を灰皿にタバコを吸い、時々尻を掻き、テレビを見たまま、何か困っていることや心配事はないか、とぶちねこに訊く。ぶちねこは十歳。
「べつに。」とぶちねこはいう。
 あるとき、男はズボンを穿き、テーブルの上のタバコとライターと車の鍵と小銭をポケットに突っ込むと、ぶちねこを町中華へ連れていった。ぶちねこの少し前を歩いた。カウンター席で並んで酢豚やギョーザを食べた。ぶちねこは左利きだったのに男は左側に座ったから、二つの肘がぶつかった。それは鹿のオス同士の戦いのようだった。困っていることがあったらなんでもいえよ、と男はいった。
 戻ってくると、ポケットの中のタバコとライターと車の鍵と小銭をテーブルの上に出したズボンを脱いで、男はふたたび横になった。しばらくするといびきが聞こえてきた。ぶちねこはその小銭を数えてみた。町中華へ行く前にテーブルの上にあった小銭に、町中華での支払い分を差し引きすると、五十円多い。
 ぶちねこは会計を見ていた。絶対に五十円多い。
 むかしの郵便ポストを模した陶器の貯金箱が満タンになれば、そのお金で灰皿を買おう、それを男がいつもポケットの中のタバコとライターと車の鍵と小銭を置く場所にさりげなく置いておこう、だって空き缶を倒されてはたまったものではないから、とぶちねこは考えていた。貯金箱はぶちねこより背の高い本棚の一番上の棚に置いていた。その本棚の前で男は眠っていた。
 ぶちねこは男の五十円に手を出した。
 ぶちねこは男をまたいだまま貯金箱を取ろうとした。するとぶちねこは手を滑らせ、貯金箱は男の額で鈍い音を立てた。男は呻き声をあげた。
 男は怒らなかった。ぶちねこはわざとではないと弁明しようとしたが、言葉が出なかった。男はからだを起こすと、何もいわずタバコをくわえて、それを吸い終わらないうちに部屋を出ていった。それが男のその部屋での最後のタバコだった。
 男がその部屋にくる頻度はそれまでの半分になり、やがて四分の一になり、加えてポケットの中のタバコとライターと車の鍵と小銭をテーブルの上に出すことはなくなった。何か困っていることや心配事はないか、とぶちねこに訊くこともなくなった。
 ひょっとしたら、男はそれを訊くことでぶちねこの心に近づきたかったのかもしれない。そのための儀式が、ポケットの中のタバコとライターと車の鍵と小銭をテーブルの上に出すことだったのかもしれない。そう考えることもできた。それがある日、頭に貯金箱が落ちてくることで、それらのすべては無駄だったと感じたのだ。かれはすべてを悟ったと感じた。もうそこでタバコとライターと車の鍵と小銭を出す必要はない。
 けれども、ぶちねこはまだ完全にはあきらめていないと思う。テーブルの上にはアルミニウムの灰皿が置かれたままだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み