文字数 956文字

 子供のころ、姉のへその緒と出会った。

 あのころは、死が恐ろしかった。死について考えると、ジタバタと犬の尻尾のようにじっとしていられない。父親はそんなぼくをからかった。ぼくの人生への死のあらわれは、突然、得体の知れない怪物としてかもしれないし、あるいは徐々に、取り返しのつかない病気のように忍び寄ったのかもしれない。とにかく、人生を0からnへの一本の直線とするとき、きわめて0に近い点において、ぼくは死と目があっていた。そう、死はずいぶんと遠くから、あいだにあるものを全部無視して、ぼくを見つめていた。
 母さんは、ぼくが怖い夢をみないように、ぼくに自分の寿命をわけるよう神様に祈ってくれた。それから十数年後に、わけあたえた分に利息をつけて母親に戻すようその子から頼まれることになるとは、神様も思わなかっただろう。

 姉のへその緒は、両親の寝室にあった。母さんのひきだしにしまってあった、小さな桐の箱に納まり、敷かれた綿に横たわっていた。干からびたミミズのようだった。切り取られた鳥の脚のようでもあった。はじめてみたとき、ぼくは手を滑らせて、それを畳の上に落とした。箱から飛び出したそれに触れることができなくて、ぼくは逃げ出した。母さんはそのとき、たしか台所にいたはずだ。
 姉が死んだのはぼくが生まれる前だ。
 彼女の命は一日ももたなかった。
 生物学的には、へその緒は、赤ん坊の一部とはいえないかもしれない。けれどもぼくは、それは彼女の一部であると考えた。
 彼女の一部は、桐の部屋と綿の布団で湿気やカビから守られ、何年も過ぎたあと、墓荒らしのようなぼくの手によって、畳の上に放り出された。ぼくはそれを怖がって、夕暮れの空へ逃げ出したのだ。
 母さんがぼくだけのものではなかったという気持ちもあって、ぼくは彼女とすぐには向き合わなかった。

 彼女の一部は、やがて母親とともに灰になるために取り出されるまで、それまでと同じようにしまわれた。ぼくは成長するにつれ、それが怖くはなくなった。それは母さんのぼくへの愛情を半分にするものではないことがわかってきた。ぼくのそれへの愛着は、一緒に虫取りをしたり、映画を見に行ったり、母さんに対してはできない内容のぼくの相談を受けたりするための肉付けをそれに施した。
 いい間柄だった。

つづく
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