第27話

文字数 2,470文字

   ***

 目を覚ますと、頭がしびれたように重くて、体を起こすだけでも億劫だった。ティールはどうにか起き上がり、辺りを見回すが、薄暗くてよく見えなかった。
 地面には湿っぽい土の感触があって、なんだか不快な匂いが立ちこめている。ここはどこなのだろうかと思って、その瞬間、記憶がよみがえった。

「サスム……」

 口を動かすと痛みが走り、触れてみると頬が腫れているのがわかった。
 あわてて立ち上がると、よろよろと薄く光の射す方へ行き、手探りで扉を探り当てて押してみると、扉は難なく開いた。そのことに、ティールは全身が冷たくなるのを感じた。

 外は薄暗く、まだ早朝のようだった。ひんやりと湿った空気が全身を包む。
 走りたいのに、足に力が入らず、思うように進めなかった。

(サスム、どうか──)

 祈るような気持ちでティールは馬屋へ向かった。いや、向かおうとした。
 黒金を作っている鍛冶場のそばを通りかかったとき、ふと違和感を覚えて立ち止まる。
 ふり返ると、鍛冶場のすぐ脇に生えている(くすのき)の大木で、何かが風に揺れているのが見えた。いつもは火虫を呼ぶための骨がぶら下がっている所である。

 近頃、火虫が集まらないので、わりと大きな獣を吊すこともあった。
 だが、揺らめいているそれは、獣とは比べものにならないほどの大きさがあった。

 青い衣、黒い髪──

 ひゅっと、のどが鳴った。

「──サスム」

 世界が真っ黒に塗りつぶされてゆく。

 ティールは自分の破れたような声を、どこか遠くで聞いていた。
 わななく手で縄をほどいて彼を木から降ろし、地面に横たわる彼のそばへ、まろぶようにして駆け寄る。
 彼に巻き付いた縄をほどき、抱き起こそうと触れた手を、冷たさが這い上った。
 体の奥から全身が冷えてゆく。

「サスム……サスム……」

 眠っているように見えた。
 声をかければ、こちらを見て、笑って起き上がるように思えた。
 乾いた血がこびりついた頬に触れると、また、ひんやりとした感触が指先を凍りつかせた。

 胸に広がる赤黒いしみの他に、首にも乾いた傷が残っていた。あの時、サスムの首にはこんな傷はなかった。

──中へは誰も入れるな。俺が始末する

「嘘だ。こんなこと──」

 冷たく重い体を掻き抱くと、全身ががたがたとふるえた。
 自分の荒い息づかいだけが、いやに大きく聞こえた。

「サスム、しっかりしてよ。また、旅に戻るんでしょう? サスム……返事をして。お願い。お願いだから──」

 どんなに抱きしめても、さすっても、その体は温かくはならなかった。だらりと地面に落ちた手は、ティールの背をなでてもくれなかった。


「……ティール」
 そばで遠慮がちな声がした。
「ティール、大丈夫か?」
 振り向かなくてもわかる。エオーの声だった。
 足音が近づき、そっと手が肩に触れた。それを力一杯払いのける。
「──来るな」
「ティール、弔うなら、俺も……」
「来るな!! 誰も! 誰も、サスムに触るな!!」
 声の限りにわめいた。



 ティールはいつまでもそうしていた。ぬくもりを与えれば、サスムが目を覚ますかのように、ずいぶんと長い間、そうしていた。




 やがて日が昇り、里が目を覚ますと、ティールは馬屋からサスムと作った(さなき)を提げた鹿毛の馬を連れ出した。その背にサスムを乗せ、里の外へ引いていった。

 里のはずれの山際(やまぎわ)まで来ると、馬をつなぎ、サスムを草の上へ降ろした。
 いつもここから、(ペオース)の渡りを見に、山へ入って行くのだった。
 サスムの死を、山人の仲間へ伝えるすべを知らない。山人の弔い方もわからない。ただ、山に近いこの場所なら、いつか、誰かに伝えられるかもしれないと、そう思って、ティールは里で採れた木の実を、いつもの切り株の上に置いて祈った。

 後は黙々と、(すき)で地面に穴を掘った。黒い腐葉土の下は思ったより硬く、ティールは長い時間をかけて土を掘り続けた。ようやくサスムを横たえられるだけの穴を掘り終える頃には日も傾きかけ、何気なく見上げると(さなき)と同じ色をした雲が空を渡っていた。
 日の光が木の葉を通して煌めき、森は美しく輝いていた。
 景色が霞むと思って、ティールはそこで初めて、自分が泣いていたことに気がついた。

「──始めに生まれたのは白、そして最後に生まれたのが黒。その合間に揺らめく金色の炎の内より生まれ出でた青い煙の中に、()の魂が生じ……」
 祈りの言葉を口にしながら、ティールは横たえたサスムの顔にこびりついた血を拭う。
「火の中に生まれ、風に生き、空にあっては消えゆく。()の魂は今解き放たれ……」
 わなないた唇を噛みしめる。ぽたぽたとサスムの青い衣の上に雫が落ちた。自分を殺した渡り者の祈りの言葉などでは、少しも彼の魂を安らげることなどできない気がした。

「サスム、ごめん。僕は、サスムを助けられなかった。サスムを助けたくて、僕は剣を振ってきたのに、全然、力が足りなかった。サスムはこの世界にたった一人しかいないのに。他の誰も、サスムにはなれないのに」

 サスムは、阿成に来ることが危険だということを知っていたのだ。自分が淋しがったりしなければ、サスムは阿成に来ることもなく、こんな風に殺されずにすんだ。こんなことになるぐらいなら、もう一生会わないでいた方が良かった。

「僕になんか出会わなければ良かったね。僕に会わなければ、サスムは死なずにすんだのに。ごめんなさい、ごめん……」

 歯を食いしばると、ティールは立ち上がって、鋤を手に取る。土をすくって、サスムの上へ放る。何度か繰り返して、サスムの姿が土の下に隠れてゆくと、ティールは手を止めた。それ以上動けなかった。

 この土をかけてしまえば、もう二度と──

 全てが痛かった。息が詰まり、ティールはその場に膝をついた。鋤につかまって立ち上がろうとしたが、また、あの黒い霧が視界をおおい始める。酷く息が苦しい。

「──大丈夫かい」
 遠くで、誰かの声がした。

「ちょっと、君、息を──」

 声はまだ何か言っていたが、それは水の底で聞くように遠くなり、ティールには、もうそれを聞き取ることができなかった。
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