第5話 Other side

文字数 1,796文字

 電話を切った私は、ハンカチで目頭をぎゅっと抑えて、気持ちを切り替えた。泣いても問題は解決しない。自分がコントロールできない外部要因に対して、怒ったり苛々したりしても、エネルギーの無駄遣いだ。それに、腹が減っては、戦は出来ぬ。さぁ、戦闘モードだ。

 コンビニでお握りだけでなく、滅多に飲まないエナジードリンクも買い込み、オフィスに戻った。もともと自分の持ち分だった仕事を片付け、引き継いだアンケート結果データの集計に取り組み、どうにか明日提出できるレベルの考察はできた。

 だけど、予想通り、やっぱり終電には間に合わなかった。

 大きく溜息をついて、すっかり冷たくなったコーヒーを、一気に喉に流し込んだ。仰向けた顔を正面に戻すと、いつの間にか、穂村さんが私のデスクの横に立っていた。

 「今日も、ありがとう」彼は、目尻を下げて私に微笑みかけた。「終電、逃しちゃったなぁ。折角だから、ちょっと一杯飲んでこう」

 私は、感情を爆発させてしまった自分の大人げなさが、今となっては恥ずかしかった。どうせ謝るなら、素面よりも謝りやすいかもしれない。彼のお誘いに、黙って頷いた。

 会社の近くの雑居ビル5階の庶民的な居酒屋の縄のれんをくぐった。あっという間に、日本酒のお銚子が二、三本空いた。

 「こういうこと聞くと、今日び、セクハラって言われそうだけど。ナオちゃんて、こんな可愛くて、素直で性格も良いのに、なんでまだ結婚してないの?今年35歳だっけ?」彼は真顔だった。

 普段は苗字なのに、仕事のスイッチが切れた瞬間に、私を名前で呼ぶのが彼の癖だ。

 奥様のマユミさんも、私が新人の頃からずっと「ナオちゃん」と呼んでいるから。

 きっと、私がやらかした失敗についてとか、ご夫婦で話し合っているのだろう。

 彼に名前で呼ばれると、嬉しいだけでなく、ちょっと苦しくて切ない。

 「私、男を見る目が無いみたいです。彼氏にしちゃいけない、“3B”って知ってます?美容師、バーテンダー、バンドマンなんですけど。私、歴代彼氏でバンド組めそうなぐらい、バンド男とばかり付き合ってたんですよ」冗談めかして、正直に告白した。

 「へー、それ面白いな!」
穂村さんは、ゴシップ話も好きなので、すぐに食い付いた。

 「ちなみに、歴代彼氏のポジションは?」

 「・・・それは、」

 私は、一度、瞼を伏せた。フフッと笑いながら少し挑むような上目遣いで彼を見つめた。

 「秘密」

 「・・・キーボードは?」穂村さんが、一瞬固まった後、表情を変えず、私のお猪口にお代わりを注いでくれた。

 「ああ、そう言えば、居ないですね」穂村さんが、お猪口を持ち上げようとした私の手の上から、自分の手を重ねて、握ってきた。

 私から挑発した癖に、こんなにすぐに反応されて驚き、彼の顔を見上げたら、「じゃ、キーボードは、俺のポジションね。これでも、学生時代、けっこうやってたんだ」と、飲みに誘ってくれた時と同じ優しい微笑を浮かべていた。

 返答に困って俯き、重ねられた彼の手を見る。白くて長い指。少し関節と筋が浮いている。男らしいけどきれいな手が、私の身体の小さな先端を弄っているところを想像した。下腹部の奥の方が熱くなる。

 居酒屋を出て、雑居ビルの狭いエレベーターに乗り込んだ。

 扉が閉じた瞬間、彼が、壁に手をつき、その腕の中に私を閉じ込めながら、顔を覗き込んできた。真剣で熱っぽい男の表情になった。

 私は、彼の首に手を置いて、顔を引き寄せ、唇を重ねた。彼の舌は、緻密で繊細な仕事ぶりとは異なり、力強くて大胆だった。私の口内を隅々まで味わおうとするかのように、貪欲に動き回る。

 エレベーターが1階に着いた。無言で、最寄りのビジネスホテルにチェックインした。終電を逃した同僚たちの定宿だ。

 さも、さっきまで働いていた同僚同士が、終電を逃して宿舎に来た、みたいな顔をしている自分は、悪い子なだけでなく、嘘つきだ。

 彼は、ドアを開け、優しく私の背中を押し、先に部屋に入らせる。

 背後でドアが閉まる音がした瞬間、私の身体は180度回転して、彼の胸に抱き寄せられていた。

 彼の背中に手を回すと、思っていたより広くて逞しかった。言葉を交わす時間すら惜しむかのように、唇を貪り合った。
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