第4話 理性と感情の狭間で

文字数 1,802文字

 「実はさ。野口さんが咽頭炎らしい。38度以上の熱があるのに、さっき会社に這って来たから、俺が追い返して休ませた。最低でも、2〜3日は、仕事にならないと思う。彼が抱えちゃってた一番足の短い宿題の締切が、明日午前中なんだ。羽多さんも忙しいのに悪いけど、引き取ってもらえないかな」

 彼の話を聞いている途中から、携帯を握る自分の手が震えていることに気付いた。

 私だって、昨夜も徹夜だ。

 野口さんの抱えてた宿題って、確か、けっこう手間が掛かるデータ分析だったはずだ。どこまで進んでるのか分からないけど、もし私がこのお願いを引き受けたら、たぶん今日も終電でも帰れない。体力的にも、精神的にも、限界だった。

 「申し訳ないですけど、私も、手一杯です。他の方に頼んでいただけませんか?」手だけでなく、声も震えていた。

 落ち着け。
 感情的になるな。
 私が苛立つべき相手は、穂村さんじゃない。
 彼が悪いわけじゃない。

 懸命に、自分にそう言い聞かせ、あえて丁寧に返事をした。

 でなければ、大声で泣いて、子供のように駄々をこねそうだった。それは私の甘えだ。肩と腕に、ものすごい力が入って強張っていることに気づいた。マッサージに行ったら、バッキバキに凝っているだろう。

 「羽多さんの負荷が重いことは、俺が一番わかってるつもり。いつもありがとう。ただ、今、あまりに状況が酷くて、他のメンバーもみんな一杯一杯だ。こんな時、急に新しいタスクを頼んで、こなせる能力があるのも、俺がこんな無理なお願いを言えるほど信頼できるのも、羽多さんだけなんだ」

 穂村さんは、なおも熱心に私を説得する。彼の声は少し掠れている。呼吸音に時々ゼイゼイという音も混じっている。

 そう言えば、数日前から、時々咳込んでいた。プロジェクトの混乱を収拾しようと、1番不眠不休で奮闘していたのは、他ならぬ穂村さんなのは、私もよく分かっていた。

 こんなに良い人が、彼本人のせいでない炎上プロジェクトで心身をボロボロにしているのに、私は、大して力にもなれないどころか、仕事一つ引き取るかどうかでゴネて、彼に気を遣わせ、彼の貴重な時間を奪っている。彼を困らせたくないのに。

 同時に、電話の向こうで、飼い主に叱られた犬のように困ったような顔をして、背中を丸めて机に向かっているであろう彼の顔が思い浮かんだ。胸が締め付けられて、苦しい。

 他方、私は、彼への恋心を持て余していた。

 仕事を頑張ったからと言って、彼が私の気持ちに応えてくれる訳じゃない。

 個人的な恋愛感情と仕事は、切り分けるのが筋なのは、分かっているけど、「君だけ」という言葉に一人勝手に踊らされて、睡眠時間をさらに削っている自分自身に、私は、一番戸惑い、苛立っていた。

 「・・・分かりました。野口さんからの引継ぎ資料、送ってください」掌に粘っこい汗がやたらと湧いている。

 私の理性は、彼を助けたいと思っているけれど、身体は、仕事の追加に対して、猛烈に反発し、悲鳴を上げている。

 私の理性は、プロジェクトやチームの状況を客観的に判断すれば、穂村さんが一番仕事を振りやすいのが私だと、理解しているけれど、感情は、仕事と恋愛をうまく切り分けられなくて苦しんでいる。

 感情と理性。
 精神と肉体。

 矛盾を無理矢理ねじ伏せようとする私を嘲笑うように、胃とこめかみが軽く痛み始めた。

 「羽多さん、ほんとにありがとう。野口さんの資料は、すぐに送るね」彼の優しい声に滲んでいる労わりが、かさついた肌に塗り込まれたクリームみたいで、心地よさに、肩の力が緩んだ。必死に抑え込んでいた弱音が、唇から零れ落ちる。

 「・・・穂村さんが一番頑張ってくださってるって、私たちを守ろうと身体を張ってくださってるって、分かってます。けど・・・、私も辛いです・・・。」

 尊敬する彼が苦しんでいるのが辛い。何とか窮地を助けてあげたい。
ここまで頼りにしてもらって、断れない。
でも、自分も限界だ。

 色んな感情が一気に噴き上がってきて、私は、堪えきれず、コンビニの前で大泣きしていた。

 穂村さんに甘えている私は、悪い子だ。

 「ごめんな…ごめん。羽多さんありがとう…。」穂村さんは、電話越しに私が泣いていることに気付いたのか、切なそうな声で謝った。
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