第16回 救いの証明 出会いの証拠

文字数 7,877文字

 槍をガチリと棒で受け止める。振り払った。
「そんなにあのマントが欲しいか、この火事場泥棒っ」
「貴様に責められる筋合いはないわ、放火犯が」
「俺は焼かれた方だっつってんだろうが!」
 セディカには離れが焼け落ちたことだけ告げたけれども、実際のところ、〈慈愛の寺〉は全焼していた。否、一番奥にあった院主の部屋が辛うじて焼け残っていた。土地神に話を聞いたというのも嘘ではないが、本当はトシュも自ら足を運んでいる。トシュが再び現れたことに震え上がった僧侶たちは、急いでマントを返そうとして、みつからないことに恐慌を起こしたから、セディカにも以前使った術で落ち着かせてやらねばならなかった。
 山中の寺院にこっそりやってきてこっそり逃げられるのは妖怪だろうか、と推測して尋ねてみれば、院主と親交があった、南の山に()んでいるという黒熊の精が浮上した。そこまで聞き出した上で、一度は捨て置くことにしたのだが。
 その南の山に飛んでいってしばらく探し、三人連れの妖怪が山を見回っているのをみつけた。あれだなと当たりをつけてその前に飛び降り、〈慈愛の寺〉でマントを見なかったかと切り込んで——恐らく黒熊なのだろう、真ん中にいた黒尽くめが、いきなり槍をしごいて突き出してきたから、応戦して今に至るのだった。
 黒熊はトシュが火を点けたものとすっかり決めてしまって、こちらは被害者だろうと言おうが加害者は僧侶たちだと言おうが耳を貸さなかった。院主と親しかったというから、犯人に並々ならぬ憤りを覚えているのも、院主がやったのだとは信じないのも、わかるはわかる。が、迷惑千万な話だ。三人がかりでないことがせめてもかと思いきや、
「ちっ」
 飛び下がり、再び飛び出そうとした途端、がくんと引き留められてトシュは舌打ちをした。右足に白蛇が巻きついたのだ。二人がかりになったではないか。
 と、黒熊も動きを止めた。
「おい、余計なことをするな」
「こんなやつに気を遣ってやる必要があるか」
 白蛇は(わめ)いた。
「〈慈愛の寺〉を焼いたんだぞ!」
「悪党相手だからといって俺まで堕ちる気はない」
 槍使いは本気で憤然としているようだった。
「……火を点けたのは俺らじゃないと言っとろうに」
 この姿勢だけを取れば感心してしまいそうだが、そもそもが冤罪なのである。
「それとも、火消しを手伝わなかったんなら火を点けたのと同じだってか? え?」
「誰がそんな屁理屈を言った!」
「一旦止めてくれないか。俺に免じて」
 横から三人目の声がした。見れば、三人連れの最後の一人であった。
「おまえさん、狼だろう。それも方士と見た。俺も狼で方士なんでね、話ぐらいは聞いてやりたいのさ。それにお客がもうお一方お見えだ」
 その後ろから背の高い女性が現れた瞬間、黒熊ははっと片膝をついた。白蛇も慌てて人の姿に変わって(かしこ)まり、方士も胸に手を当ててゆるゆると(ひざまず)く。
 トシュは一人立ったまま、その女性を凝視した。
「貴様も跪かんか! この御方はなっ」
「出やがったな。〈慈愛天女〉」
 〈慈愛天女〉。〈慈愛神〉。〈慈しみの君〉。〈慈愛の御方〉。
 〈世界狼〉を〈武神〉の拘束から解き放った——天の、女神。
「貴様、なん、知っていて、わかっていてその口の()き方」
「よいのだよ。天神に表立って敬意を示さないことは、これにとって大きな意味を持つのだから」
 泡を食っている黒熊を、女神が自ら(なだ)めている。大っぴらに認めんじゃねえよとトシュは顔を(しか)めた。受け入れられては反抗にならない。
 ……訪問をありがたがりこそすれ、訪問自体には驚いていないところを見ると、この三人もただの妖怪ではなく、それだけ修行を積んでいるのかもしれない。
 〈慈愛天女〉は黒熊の前へしずしずと歩み出た。
「おまえはどうしてあのマントを持っているのだね?」
 う、と黒熊の目が泳ぐ。
「……寺院が燃えてるのが見えて……火消しを手伝ってやろうと出かけたんですが、そのう……光ってるから火元かと思ったら、あのマントで……ちょっとその、魔が差して」
 なるほど、院主が広げて眺めていたのだとすれば、炎と紛うほど光り輝いていたかもしれない。信(ぴょう)性のある言い分である。
 と思う間もなく、〈慈愛天女〉がすいとトシュの前に移った。
「院主はどうしてあのマントを持っていたのだね?」
 今度はトシュが目を()らす番だった。
「あー……俺らが見せびらかしたから、かな……」
「二人とも、素直ないい子だね」
 にこにこしている。トシュは歯噛みした。どうせ全部見通しているくせに。
「さ、返しておやり」
 黒熊は大人しく姿を消すと、やがて包みを抱えて戻ってきた。ほどいてみせれば、中身は確かにあのマントである。火のような。
「この子たちもあの寺院も、これで赦しておやり。この子はきちんと()ったものを返したのだし、寺院の者たちは報いを受けたのだから」
 唇を(とが)らせたものの、こちらも大人しく受け取る。何せ神(じき)(じき)の仲裁だ、逆らっては(ろく)なことにならない。
 それに——こう言うからには恐らく、僧侶たちは心底から反省したのだ。同じような悪事を働くことは、もう、まず、ないのだろう。ひょっとしたら反省よりも恐怖のせいかもしれないが、いずれにせよ、神の見立てなら信用は置ける。
「……〈慈愛天女〉に跪く気があるんなら、俺の言い分もちっとは聞けよな」
「すまん。知人の災難に気が立ってた。——いや、自分が火消しに手を貸していればと悔いてる。そのつもりで行ったのにな」
「院主に天罰が当たったんだろうよ。天は地上のやつらを駒にするからな」
 じろ、と天神代表を睨んだのは、精一杯の不快の表明であった。
 寺院が丸ごと焼け落ちる中で、人間も全くの無傷では済まなかった。トシュたちが、このマントが、あの火事の遠因になったことも、純粋に因果関係としては事実である。その辺りに言及されないのは、責めない、責任を問わないということだろう。ジョイドが火()けを借りられなかったのも、天罰として全焼することが定まっていたためかもしれない。
 きちんと罰されたのだと思えば、あの寺院に追い打ちをかける気にはならないが。罰の一環として知らず組み込まれたと思えば、やはり、腹立たしい。
「そう怖い顔をおしでない。わたしは、おまえが気にしている青獅子と〈錦鶏集う国〉の国王のことを教えてやろうと思って来たのだよ」
 睨まれたとて無論たじろぐはずもない天神は、そう言って青年の方をたじろがせた。(まさ)しく気になっていたことだ。
「あの国王は確かに、人を水に落としたことがある。前世でのことだが、(つぐな)いきらぬまま生まれ変わってしまってね。だから三年の間だけ、彷徨(さまよ)う苦しみを科せられたのだよ。水に落とされたのはあの獅子とは縁のない人間であったし、天があの獅子を遣わしたのでもないが、よい折だからその受難を償いに充ててやったわけだね」
「じゃあ嘘かよ」
 ここで悪態を()いても仕方ないが、吐き捨てずにはいられなかった。ひょっとしたら霊獣ゆえに国王の前世を感じ取るか読み取るかしたのかもしれないけれど、いずれにせよ、嘘だったわけだ。事実を踏まえた分だけ性質(たち)の悪い。
「あの獅子はどうなった」
「おまえはあの獅子を〈武神〉に委ねたのだろう。どうしてわたしに訊くのだね」
 にこやかに拒絶された。
 天で最も自分に甘いだろう〈慈愛天女〉なら、あるいは、と思ったのだが。……まあ、神に(ゆだ)ねるのが〈神前送り〉なのだから、結果を知ることはできないのが前提だ。
 どうしても知りたければ、〈慈愛天女〉で済ませようとせずに、〈武神〉に直接突撃するべきなのだ。〈武神〉に近づくぐらいなら、何も知れない方がマシだ——ということであれば、そうすればよいのだし。
「じゃあ、それはいいが、もう一つ。〈武神〉の子孫を俺に押しつけたのはあんたか」
「おまえが自分でみつけたのではないか」
「仕組んだんだろうっつってんだ」
 トシュは苛々と言った。通じているだろうに。
「あんたか、でなけりゃ爺さんか。それこそ〈武神〉か? ご先祖様御自ら」
「責任感の強いことだね。関わったことの結末を知ろうとすることもそうだし、根本を知ろうとすることもそうだ。そうあり続けてほしいものだけれど、思ったような答えでないからと否定するのは感心しないよ」
 対する女神は穏やかだった。
「おまえが自分でみつけたのだよ」
 要するに、違う答えを()()す気はないということである。むすっとしながらトシュは口を閉じた。
 実のところ、他の神ならともかく〈慈愛天女〉が言うのであればそうなのだろうと、心のどこかで既に受け入れている。慈愛の神であって峻厳な正義の神ではないから、嘘を()かないわけでもなかろうが——優しい嘘で()()()さなければならないような、知れば(かえ)って傷つくような事実が、こんなところに隠れているとも思われない。セディカとの出会いは偶然だったのだろうし、獅子だって適切に処分されたのだろう。
 信用はしている。(しゃく)に障るだけだ。
「どうしてそう無礼な口を利くんだ。御方様がお赦しになっても俺は気に食わん」
 黒熊が眉根を寄せる。ふん、とトシュはそっぽを向いたのだが。
「ちゃんとした理由があるのだから教えてやればよいだろうに。〈末の狼〉や」
 〈慈愛天女〉が言うから目を()いた。待て。
「これは天帝の足元に侍る〈侍従狼〉の息子なのだよ。今のところ、兄弟の一番下だ」
 すらすらと続けるのに口をぱくぱくさせる。熊と狼と蛇が、喜劇のように一斉にこちらへ向き直った。()()みの食事処にふらっと入ってきた客が、(ちまた)で評判の人気役者であったとでも気づいたときのような顔で。
「——違う!」
 悲鳴に近い声がようやく(のど)を突き破った。
「人の血入りだ! 人の血入りの人里育ちだっ今おまえらが思ったのとは絶対違う!」
 〈侍従狼〉。
 〈月喰い狼〉、〈日喰い狼〉。
 〈日追い狼〉に〈日導き狼〉。
 〈青空狼母〉。〈乳母狼〉。
 華々しい名前の末席に同じ一族でございと並ぶなど、悪い冗談かと乾いた笑いが出るほど、貧弱な自分なのに。
「何が慈愛だこの!!
 絶叫は虚しく山に木霊した。

「行く前と同じじゃない」
 ベッドに突っ伏しているトシュに、ジョイドが情け知らずに言った。
 あの後の三人は、急に(へりくだ)ったりするようなことはなかったものの、すっかり感激してしまって——最初は一番冷静に見えた狼方士が、一番頬を上気させている始末だった。獅子一匹に()()()るような半人前を捕まえて。
 三人に逆恨みをされるような心配は、あの様子では完全になくなったろう。本気で敵対することになったら厄介そうだったし、〈侍従狼〉の息子であるとはトシュの口からは絶対に言わないことだから、助かったと言えば助かったのだ。全く嬉しくないが。
 本当は他にも行くところがあったのだが、疲れ果てたので戻ってきた。続きは明日だ。今日はもうやっていられない。
「信奉者が本人に会った後の反応じゃないのよねえ」
「俺が信奉してんのは教義であって本人じゃない」
「そこを切り分けて(とら)えられてるのはいいことだけど」
 いいことどころか、生命線である。〈慈愛天女〉の教えではなく、〈慈愛天女〉自身に入れ込んでしまったら、父の息子であるという誇りが——いや、いや、そうではない。自分の主体性が、散じてしまう気がする。
 自分の信念だ。自分の道義だ。〈慈愛天女〉を喜ばせたいから励んでいるのではない。〈慈愛天女〉の手柄に数えられたくて媚びているのではない。
 ……だが、〈慈愛天女〉の教えに共感して、その規範に(のっと)って行動していれば、〈慈愛天女〉の御心に適うのは然るべき帰結なのであって。
「……なんで俺はやつのしもべだなんて名乗るようになっちまったんだろうなあ」
「そりゃ、おまえはいいやつだもの。相性がいいんじゃないの」
 どうしようもないという宣告のようなことを言われた。
「おまえがセディを嫌うようなら指さして笑ってやろうと思ってた人たちは、実際、いると思うけど。よし、じゃあ見返してやるためにもうちょっと世話を焼いてやろう、とは普通ならないのよ」
「……元々引っかかってたことを、やっぱしやってやることにしたってだけだ」
「元々引っかかってたんじゃない」
「……」
 もう駄目だ。何をどうしても負ける。
 トシュが黙ったので、少しの間、沈黙が下りた。やがて、ジョイドがそれを破る。
「本気で悔しがれるんだから、やっぱりお父さんの息子だよねえ。あの人たちに対抗心持てるなんて」
 あの人たち。天の神々。
 例えば、〈慈愛天女〉。〈武神〉。〈天帝〉。その相談役——「ご老公」。
「おまえだって結構な血だろうよ」
「俺は父親に育てられてないもの。おまえみたいに身も心も父親の息子ってわけじゃあないのよ」
 ややあって、トシュは起き上がって溜め息を()いた。父の息子であることをおだてられると——そして、敬愛する誇らしき父の息子であるという、計り知れない幸運をつつかれると、弱い。
「……親父の息子なんだよ。誰が〈侍従〉の息子だ畜生」
「そういうときのために猶子になってるんでしょ?」
「なったんじゃない。されたんだ」
 自分の意志ではない。ほんの二十年ばかり前の父が、子供を儲けられるほど自由な身でいたことを、地上に広められたくないのは自分ではない。
 ……不用意に広めてよいようなことではないとは、理解しているし、同意もするが。
 天からも一目置かれる、強大な力を持つ、偉大な父。
 〈世界狼〉。

 考えてみれば血縁がない方である従伯母(いとこおば)がより熱心に構ってくれることだとか。庶民といっても裕福な家であり店であることだとか。帝国の外といっても帝国の影響が強くてあまり異文化に戸惑わずに済んでいることだとか。
 どうにも話が上手すぎる気がしてしばらく戸惑っていたものの、トシュとジョイドに拾われたことからして話が上手すぎたではないか、と思い出してからは受け止めやすくなった。トシュとジョイドに出会えたような人生なら、トシュとジョイドの他にも幸運は巡ってくるだろう。
「方士さんたちがいらしてますよ」
 そう教わって店頭に出ていけば、そのトシュとジョイドに従伯母が挨拶をしていた。
「上がってくださいな。お茶を()れますわ」
「お構いなく。()つ前に顔を見に来ただけですから、すぐに行きます」
 もう旅立つのだろうことは、背中の荷物を見れば察しはついた。他にトシュは見慣れないケースを提げ、ジョイドは包みを抱えている。行ってしまう——のか。
 ——否、ケースには見覚えがあることに気がついて、セディカの目は釘づけになった。
「でも、小部屋はちょっとお借りしていいですか。内緒話しようよ、セディ」
 ジョイドがウィンクをした。
 どうぞと従伯母が示した小部屋にトシュがさっさと入っていき、テーブルの上にケースを置く。追いかけるように続いたセディカは、慌ただしく(ふた)を開けた。
「あたしの、三味……」
 祖母にとっては祖父の思い出だった、セディカにとっては祖母の思い出。
「どう、どうして? どうやって」
「何とでもなる」
 トシュが肩を竦めた。盗んだのだろうか。
「取ってきたの……取ってきてくれたの?」
「そっちはついでだ。おまえの町まで行ったからな」
 捨てられんのも癪だろ、と言われればその通りだが。放っておけばそのうち捨てられただろうという点も。
「あと、これね」
 ジョイドがもう一つ差し出した包みは、もっと新しい記憶にあった。
「え、……あ、あの、マント……?」
「どうせ国王陛下に悪いとか思ってたんだろうよ」
「……わざわざ……」
 どう言ってよいかわからなくて、ようよう、それだけ呟いた。人間が思うほど大変なことではないとトシュは言うかもしれないが、一度見逃したぐらいには、少なくとも面倒ではあったはずだ。
「同じことなら三味より欲しいものがあったかもしれんが、それは諦めてくれ。……で、だ。本題なんだが」
 切り出して、トシュは頭を()いた。
「おまえの父親だが、偽物の線はないわ。土地の精霊に聞いてきた」
「……そう」
「だから、もし、万一な——おまえの本物の父親だと名乗るやつが出てきても、そいつは偽物だ」
 セディカは口を開けてトシュを見上げた。
「ひょっとしたら偽物じゃないかって期待が頭の(すみ)にあったんじゃ、ころっと騙されるかもしれねえからな」
 そうした穴には気づいていなかった。騙されそうだと自分でも思った。本物が別にいたらという想像の、胸の締めつけられるような魅力——。
 マントの包みをセディカは抱き締めた。
「……ありがとう……」
 破魔三味もマントも、諦められるものではあった。祖母にすまなかろうと、国王に申し訳なかろうと。実の父親を称する詐欺師がいつか本当に現れるとも限らない。
 だが、何よりも。——証拠を示そうとしてくれた、ことが。安心させようとしてくれたことが。
 父の殺意から救い出してくれたトシュを、父ゆえに失うことはなかったのだと——。
「……ありがとう」
 繰り返して、少女は微笑んだ。
「二人のこと、忘れない」
「忘れろ忘れろ、んな怖い経験」
 トシュがひらひら手を振るから、わざとらしく、睨んでみせる。
「駄目よ。十五年経ったら二人の無事を祈るんだから」
 何だったかと考えるように一拍置いてから、そうだったなと、ちゃんと返ってきた。
 大体、この三味とこのマントが手元にあって、それがどうしてここにあるのかを忘れることもできるまい。自分がどうしてここにいるのかを忘れることだって。
 怖い目には遭った。危ない目には遭った。だが、それらを優に(しの)ぐだけ——救われた。
 二人がどんなに謂れのない慈しみを注いでくれたか、どうして忘れられるだろう。

「大丈夫?」
「悲しいせいじゃないですから」
 涙を(ぬぐ)うと、気遣わしげな従伯母にセディカは笑いかけた。
「破魔三味、今度聴いてくれますか」
「勿論よ。〈金烏〉の三味とどう違うのか楽しみだわ」
 ともあれ、ここにこのまま置いてはおけない、中へ持っていかねばと、三味とマントを置いたままの小部屋へ目をやったとき、店の入り口ががらりと音を立てた。反射的に振り返れば、ジョイドが息を弾ませている。一人で駆け戻ってきたらしい。
「セディ、ちょっといい」
「どうしたの」
 慌てて飛んでいくと、ジョイドは指を一本立てた。
「一つ、呪文を教えておくよ。召喚呪とまでは言えないけど、俺らがそんなに遠くまで行かないうちなら、トシュに届くから。もしも何か——妖怪騒ぎとか、俺らに手助けしてほしいことがあったら、これでトシュを呼んだらいい」
 セディカは目を見開いた。
 二人が親切で世話焼きなことは十分わかったけれど。無事に親戚に引き渡して、温かく受け入れられたことを確認した後で、——そこまで?
 にこ、と青年は目を細めた。
「お母様のお祈りを元にして、トシュを助けてって祈ったでしょ」
「……き、聞こえてたの?」
 かあっと頬が燃え上がった。一度も触れられなかったから気づかれていないと思っていたし、何なら今の今まで自分でも忘れていた。
 偽国王を追ってトシュが去り、一人遠くで戦っていたとき。母に教わった〈慈愛天女〉の守護呪を、こっそり、繰り返し、唱えていたのだ。ジョイドに教わった「我」を意味する単語を、「トシュ」に置き換えて。
 それで成立するものかどうかはわからなかったし、成立したとてどれほどの効き目があるかもわからなかったけれど。
「ありがとうね」
 狼の友人の微笑みは、母を真っ当に扱われたときの混血の少女と同じものであったかもしれない。
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