第5回 旅路を守る 山路を越える

文字数 9,764文字

 捨ててもよいハンカチか何かはないかと問われて荷物を(あさ)っていると、トシュが先にミントグリーンのバンダナをジョイドへと投げつけた。
「おまえの使いさしじゃなあ」
「使ってねえよ。色が気に入らん」
「なんで持ってんのよ、じゃあ」
 ジョイドはバンダナを持ち主の前に広げた。
「服に変えられるんじゃないかと思って。使い捨てで丈夫に作らなくていいとしたら、これから何着取れる?」
「——あ、そういうことか。十……六くらいじゃねえかな。おいセダ、ちょっと立て」
 何なの、と返しながらセディカは従った。背丈をな、とトシュは座ったまま見上げる。
「山を越えるまで着たきり雀ってわけにもいかねえだろ、おまえは」
「……それは、嫌だけど。我慢はできるわよ」
「無理しないでいいよ。山の中だからちょっとは涼しいけど、基本的に暑いでしょ」
 ジョイドがバンダナを半分に裂き、もう半分に裂き、四回繰り返して十六に分割した。バンダナの切れ端を一枚、トシュが摘み上げて息を吹きかければ、ふわりと空中を飛んでいって、床に落ちるなり服に変わる。セディカに合う大きさの、山道を行くのに相応(ふさわ)しい上下一揃いであった。
「色そのまま? 気に入らないって言っといて?」
「俺好みの色にしても仕方ねえだろうよ」
「せめてもうちょっと淡くならない?」
「はいよ、デザイナーどの」
 トシュはミントグリーンの塊を片手でつかんで一振りした。振り落とされたように色が薄くなって、それでジョイドは満足が行ったらしい。
「こんなとこかな。セディ、俺らは先に出てるから、着替えてから出てきなよ。自分の服は町に着くまでしまっておいてさ」
「あ、……うん」
 いいのか、と確かめても仕方ない。バンダナはもう切り裂いてしまったのだから、今から遠慮しても無駄になるだけだ。人が着るものを髪の毛で作るのもなんだし、と付け加えるのには頷く。
 そのトシュが発言権を求めるように挙手をする。
「その……あー……下着は、ないぞ」
「……うん」
「まあ、俺がそんなもん用意できたらその方が気色悪いしな」
 恐らく少女は不満の表情も嫌悪の表情も浮かべなかったのだろう、青年は幾分ほっとしたようだった。少女の方は違うことが気にかかって、そちらにあまり意識を()けなかったということだったのだが。
 今のは仙術なのか、それとも——妖術なのか、と。
 だが、妖術であるとしたらどうなのか、と思うと——自分が何をどう感じているのかわからなくなって、結局、口には出せなかった。セディカはただ大人しく淡い緑の服に着替え、ベールは昨日から使っていたものをそのまま被り直した。
 二日目から着替えにベールが追加された。

 野獣に襲われたあのときを境に、旅路は平穏なものになった。
 無論、セディカにとって山道を歩き続ける日々は楽なものではないし、本当は毎日湯浴みもしたいし、ベールもそろそろ外したいし、調理という工程を経た食事を()りたいのだけれど、そんなことに意識を向けられるのは、その手前の段階が満たされているからこそだ。命の危険、身の危険に(さら)されながらでは、たまにはスープが飲みたいだの、ソースをたっぷりかけた肉が食べたいだのということを思いつく余裕もあるまい。……まさか毎日着替えることができるようになるとは思わなかったけれど。
 妖怪であることを隠さなくなったトシュとジョイドは、かといって特に態度が変わったようでもなかった。そもそも、正体を隠していた期間は丸一日にも満たないのである。時たまジョイドが鷹の姿になって飛び、先の様子を見てきたり、野生の果物や木の実を採ってきたり、水を汲んできたりするようにはなった。なお、トシュは同じことをするのに雲に乗って飛んでいくが、こちらは仙術なのであるから、妖怪であることとは関係がない。
「〈小人の作品〉って聞いたことあるかな? 要は名前の通りなんだけど」
 といった話はこれまでも散々してきたし、これも妖怪ならではの知識ということではなかった。
「神様が持ってるような?」
「そうそう、神様の武器とかアクセサリーとか。ああいうのは超一流の伝説の小人が作ったものでね、普通の小人の〈作品〉には、地上で民間に出回ってるようなものもある」
 これもその一つ、とジョイドは木でできた立方体をセディカに見せてから放り投げた。地面に転がった立方体は見慣れた小屋に変わる。
「衝撃を与えれば自分で組み上がるし、折り畳めばあのサイズになるの。この仕掛けは仙術でも法術でもなくて、飽くまで物理的な技術だけでできてるんだって。小人が仙術や法術を嫌ってるってわけじゃないんだけど、技術だけでどこまでできるかを追究したがる傾向があるらしいのよね」
「言い触らしちゃいかんことを言いまくってねえか」
「見せちゃったからねえ。毎日偶然みつけたふりをするのも苦しいなとは思ってたし」
「まあ、言い触らすなってのも心構えで、知られたらヤバいことになるってわけでもねえけどよ。……兄弟子に術を見せびらかしたっつって師匠に激怒された俺は何だったんだ」
 ぶつくさ言っているトシュに、とはいえセディカが詫びるのもおかしいだろう。大方はジョイドが、時にはトシュ自身が、自分から話し始めるのだから。
 例えばこれも〈小人の作品〉だよと、ジョイドはセディカの知っている名前と知らない名前を幾つか挙げて、知らない名前には説明もつけたが、その中に〈迷いの茨〉はなかった。従って、それが茨の迷路となって城や(やしき)を囲み、防護となるという本来の使い道も、その破片を用いて敵を捕らえたり追っ手を()いたりという応用の使い道も、セディカは知らないままだったし、自分を置いて去る直前に従者がこれを使いはしなかったろうか、と疑うにも至らなかった。
 虎や熊や大蛇といった獣が道にのそりと出てくることもあったが、どれもただ通り過ぎていったり、三人を見て脇に避けたりした。トシュが一々棒を構える一方で、そんなに神経質にならなくたっていいんじゃないの、とジョイドはのんびりしていた。
「誓いを立ててんだよ、俺は」
「正しいっちゃ正しいけど。あんまり危険アピールされても怖くない、セディ?」
「危ないなら危ないって、ちゃんと教えてもらった方がいいけど」
 セディカは強気に答えたのだったが、ジョイドの微笑み方から察するに、強がりと受け取られたらしい。
 大人しいとはいえ紛れもない獣を前にして、かばうように立ち(ふさ)がって武器を構える人の姿を見ていれば、狼としてトシュを恐れる気持ちは育ちにくかった。そもそも狼の姿を見せる機会もあれきりなかった。ジョイドに至っては鷹の姿になれば食事を運んでくるわけで、やはり恐怖は(あお)らない。獲物が小動物でなく果物や木の実であることは、鷹にしては奇妙であるにせよ。
「やっぱりちょっと不安かな? 俺らと食事をするのは」
 ふとジョイドが訊いたのは、何日経ったときだったろうか。
「……だって、大丈夫なように気をつけてくれてるんでしょ」
 正体を明かした後の最初の食事のときに、ジョイドがそれは丁(ねい)に教えてくれた。本気で説明するとね、と前置きした通りで——妖怪が人間にどういった影響を与えるのか、どうすればその影響を防げるか、防ぐのがどの程度容易かあるいは困難か、自分自身が年を経て妖怪に変化した場合と最初から妖怪の子供に生まれた場合ではどう違うか、純血と混血とではどう違うか、木の妖怪と獣の妖怪と鳥の妖怪ではどう違うか、といったことを、人間にも理解できるところまで噛み砕いて。
 正直なところ、情報量に圧倒されてしまって、十分の一もセディカは覚えていない。人間だって人間のことをそこまで詳しくは知らんぞ、とトシュも(あっ)()に取られていた。思い出せるのは、二人が「妖気を抑えている」ことと「妖力の発露を抑えている」ことと、それほど危険な影響をそれほど簡単に防げるにも(かかわ)らず(おこた)ったからこそ、トシュはあの木々にあれだけ怒ったのだと言い添えて、トシュを(むせ)させたことぐらいだ。わかったのは、普段のジョイドは相当手加減して喋っているということと、つまるところ二人と食事を共にしても構わないということと——セディカにはわからないところでも、二人がセディカのために気を配っているということ、だった。
「じゃあ、俺の方が実は気にしてるせいでそう見えるのかな。変なこと聞いてごめんね」
「つうか、単純にもっとまともな飯が食いたくなったんじゃねえか?」
「……そんなに嫌そうな顔してた?」
「嫌そうな顔ではないのよ。だからどうしたのかなと思ったの」
 ジョイドが軽くトシュを睨む。セディカは手元の(あんず)に目を落とした。ジョイドが採ってきて、どこに生えていたのかとトシュがしばらく(きつ)問して、それなら大丈夫だなと納得してからこちらに回してきたものだ。
「……申し訳ない、のかな。何から何まで、助けてもらって」
 恐怖や警戒ではない。そうした気持ちはいつの間にかなくなっていた。油断ではないかと思っても——現に、昨日も今日も、自分は無事だ。
 だが——口にしたのも、建前だった。
「気になるのはわかるけど、俺らとしては気にしなくていいよとしか言えないなあ」
 ジョイドは困ったように笑みながら頭を()いた。()()()すように、セディカは杏を口に含んだ。

 トシュはしばしば破魔三味を、稀に神琴を()いてくれないかと注文した。そのたびに髪を抜いて楽器に変えるわけだから、元より毎日抜けるものとはいえ大丈夫なのかと一時は心配していたのだが、使い終わった後は術を解いて頭に戻しているらしい。そう聞いたときには唖然としたものだ。戻るのか。
「お祖母(ばあ)様が喜んでくれるから教わってたの。お祖母様にとっては、破魔三味はお祖父(じい)様の思い出だから」
 音を合わせながら、セディカは少しだけ語った。祖母が生きていた頃にはよく聴かせに行ったし、その分(けい)古も重ねていた。祖父が置いていった楽譜だけでなく、聞き覚えた曲も、琴の曲も音域が許せば、三味で弾こうと試みたものだ。今、指が覚えている曲は、どれもその時期の(たま)(もの)である。
「トシュは? (なつ)かしいの?」
「懐かしいってほど頻繁に聴いてたわけじゃねえが、破魔三味弾きが村に来たときには、親父が必ず聴かせに連れてったよ。今にして思えば、破魔三味を聴いても平然としてるとこを周りに見せるためだろうな」
「もし破魔三味を聞いて頭が痛くなったりするようなら、悪い妖怪になりかねない(きざ)しが見えたってことだしね。そういうチェックの意味もあったんじゃない?」
 実際のところ破魔三味にどれほどの破魔効果があるのかは、これもジョイドが一度(とう)(とう)と説明したことがある。その音を平気で浴びていられる二人は、悪しき存在ではないととりあえず言えるらしい。ひょっとしたら、トシュがたびたび演奏を要請するのは、自分たちは危険なものではないという主張なのかもしれない。
 とはいえ、強い妖怪と弱い三味がぶつかれば前者に軍配が上がるのだから、絶対的な判断基準にはならないとも聞いている。そもそも当のジョイドに教えられたことだし、貸される三味はトシュが作り出したものだ。証明とするには心許ない。となると、やはり特に深い意味はないのだろうか。
 いずれにせよ、乞われれば弾くだけだ。力の限りに。
 二人にどれほど助けられているか、来る日も来る日も思い知らされる。一人では道にも迷っただろうし、食べ物も水も集められなかっただろうし、獣にぶつかれば一巻の終わりだっただろう。父でもない、従者でもない、本来何の義務も負っていない二人に、こんなにも守られ続けている。
 ありがたさよりも、肩身の狭さよりも。募っていくのは——焦り、なのだ。借金が膨らんでいくような。
 三味や琴の、本職でもない手(すさ)びの演奏が、釣り合うとは思わない。否、本職であっても同じことだろう。直接的な命の危機から救われることと比べて、あまりにも、実がない——のだ。娯楽をよそから提供されなければやっていけないほど、二人に余裕がないわけでもない。自分にできることを精一杯に行ったとて、できること、が的を外していれば何の役にも立たない。
 だが、釣り合わないからと()ねるのも違う。望まれたなら可能な限りに応えるべきだろう。足りないのは腕前であって、意志ではないのだから。
「——〈狼からの逃走〉じゃねえか?」
 一曲弾き終えると、トシュからそんな第一声がやってきた。
「知ってるの?」
 ということは、間違えれば間違えたとわかるということである。わからないだろうと高を(くく)ったから、実は少々自信のない曲に思い切って手を出したのに。
「ま、狼としては押さえときたい曲だわな」
 心成しか得意げにしているから、あまり知られていない曲ではあるのかもしれない。
 自分を狼と呼んだことにはぎょっとしなかった。ぎょっとしなかった自分に気づいたのも、少し経ってからだった。気にも留まらなかった、らしい。
「俺は押さえてなかったなあ、犬の端くれとしては気になるけど。狼は悪役になるんじゃないの?」
「悪役っちゃ悪役だけどな。〈日追い〉と〈日導き〉が題材なんだよ」
「ああ」
「日、何ですって?」
 セディカは聞き咎めた。
「〈日喰い狼〉じゃなくて?」
 それは東の果て——大陸の東ではなく、その東の海を越えた世界の果てに()んでいて、昇る朝日を見ては舌()めずりをしているという巨大な狼である。この狼が太陽を追いかけて食らいつくことで日食が起こるのだ。太陽が〈日喰い狼〉から必死に逃げる情景を、この曲は描いているものと思っていた。月に食らいついて月食を起こす〈月喰い狼〉というのもいるが、曲調からいって太陽の方だろう、という推測は合っていたようだけれど。
「似てるけどな。北の方の伝説で、太陽を憎んで年中追いかけ回してる〈日追い狼〉ってのがいるんだ。その双子の弟が兄貴と仲が悪いもんで、敢えてその太陽を先導して逃がしてやってるんだと。こっちが〈日導き〉な」
「前から気になってるんだけど、〈日喰い狼〉が追いかけてきたときは〈日追い狼〉はどうしてるのかな」
「兄貴に譲ってんじゃねえか? 知らねえけども」
「兄弟なの?」
「あの辺はみんな〈世界狼〉の子供だからな。……あー、兄弟順を全部は知らん。〈月喰い〉が一番上で、〈日喰い〉がその次だったとは思うが」
 この〈世界狼〉も有名な伝説の狼だ。子供たちよりさらに、(はる)かに巨大で、これが飢えて大地を(かじ)り取ったがために、東の大地はかなりの部分が失われてしまったという。世界の中央に位置する帝国の東に、西に比べて陸地が少なく、海が多くなっているのはそのせいであると。
 狼にまつわる曲で思い出したのも、本当は〈狼からの逃走〉よりも〈世界狼の討伐〉が先だった。知名度は高いが、トシュが喜ぶとは思えなくて避けたのだ。主役が〈世界狼〉でなくそれを討伐する〈武神〉の方であることはともかく、普通は拘束されたと言われている〈世界狼〉を、討伐されたことにしてしまっているのだから。
「〈世界狼〉って狼としては憧れなの、コンプレックスなの?」
「神獣にコンプレックス持ってもな」
 ジョイドの質問に、トシュは苦笑で返している。
「じゃあおまえは〈天頂の大鷹〉にコンプレックス持つのか?」
「あれは神獣っていうより()(はや)概念じゃん」
「神獣って?」
「ああ、あんまり聞かない言葉かな? 太古の昔からいる、獣の姿をした神様、みたいなものなんだけど。飽くまで獣であって、神様には含まれないんだけどね」
 鳥や蛇や亀なんかもひっくるめて「獣」ね、と補足がついた。
「例えば、鳳凰は霊獣とか霊鳥っていって、鳳凰っていう種類の鳥なのね。だから鳳凰は古今東西に何羽も何十羽もいるわけなんだけど、〈天頂の大鷹〉は〈天頂の大鷹〉がたった一羽だけいるんだ。〈金烏〉もそうかな。〈慈愛神〉とか〈武神〉みたいなものって言ってもいいかな、〈武神〉っていう種類の神様がたくさんいるわけじゃない」
「もう一個、天獣ってのがあってな。神に仕えて神の乗り物になってるやつだとか、特定の神に仕えるんじゃなくても天に役目を持ってるようなやつを言うんだ。神獣の子供なんかもな」
 余計なことを喋りすぎるとジョイドに苦言を呈したにしては、トシュも大分、話したがりである。
 いつの間にかいつもの講義が始まっていて、セディカはこっそり、三味を下へ置いた。ひょっとしたら、話の聞き役を務めることは、この二人に対しては十分恩返しになるのだろうか。……いや、それは虫のよすぎる考えだ。セディカの方もそこそこ興味深く聞いているのだから。
「天獣の位置づけは微妙だよねえ。神獣の子供が絶対天獣だとも限らないし、地上や冥界に役目がある場合はどうなのってところも曖昧じゃない?」
「〈世界狼〉の子供では、天獣に数えられるのは〈侍従狼〉ぐらいか。〈日喰い〉も〈月喰い〉も〈日導き〉も〈日追い〉も妖怪カウントだもんな」
「〈日導き狼〉は天獣なんじゃないの? あと、〈青天狼母〉は?」
「〈青天狼母〉は神だろ、民族一つの祖先だぞ。〈日導き〉は太陽のために先触れをやってんじゃなくて、〈日追い〉への嫌がらせって扱いだからなあ」
「あ、〈乳母(めのと)狼〉っていうのもいたね。あれは、……あれ、子供じゃなくて孫だっけ?」
 また知らない名前が出てきているが、触れると長くなりそうなので黙っておく。何なら先ほどの〈天頂の大鷹〉も聞いたことがなかったが、狼の話が続いている中では蒸し返しづらい。
「〈日導き〉より、〈日追い〉が化け物扱いされてることの方が気に食わねえな。あれが太陽を憎んでるのは、太陽が不公平で北をちゃんと照らさねえからだぞ」
「ちゃんと照らされてない、なんて思うのは北とよそとの照らされ具合を知っててこそだからねえ。北に住んでたらそれが普通だもの」
「……じゃあ、〈日追い狼〉は不公平に怒ってるんだ、っていうのは誰が言ってるの?」
 口を挟むと、トシュは矛盾を衝かれたかのように固まった。確かに、とジョイドがさりげなく相棒を見捨てる。
「……親父に聞いたんだと思うが。狼関係の話は」
「じゃ、お父さんの個人的な見解かもしれないね」
 知ったかぶりを暴かれたときのような調子で狼の息子は(うな)った。至って人間らしい呻り声であった。
 そのような一幕はいささか不満足なものであったかもしれないが、
「珍しいもん聴いたわ。サンキュな」
 最後はしっかり三味に戻ってきて、トシュは白い歯を見せた。この選曲は当たりだったようだ、とセディカも微笑んだ。

 寺院が見えた。
 朝のうちにジョイドが空からみつけて、夕方には着きそうだよと予告されてはいたものの、自分自身の目で認めたときには安堵で膝をつきそうになった。
 客観的には、山の中である。大抵の人間は山の外から、山の中に入っていって、この寺院に辿(たど)り着くのだろう。が、帝国側から来たセディカにとっては、山を越えて辿り着いたゴールであり、山の終わりであった。父も従者たちも越えられるとは思っていなかっただろう、〈連なる五つの山〉を越えたのだ。
「国としては〈錦鶏〉になんのか?」
「〈錦鶏〉?」
「〈錦鶏(つど)う国〉。小さい国だから、帝国じゃそんなに意識してないかもね」
 〈五つの山〉の陰に隠れちゃうもの、というジョイドの言が、冗談なのか事実なのかは判然としなかった。今の王が建国した新しい国で、国といっても帝国の一都市ほどの大きさしかないという。
 普段なら〈錦鶏集う国〉の概要と建国史でも語り始めそうなところだったが、寺院を目と鼻の先にして足を止めるのもどうかと思ったのか、それ以上は続かなかった。
「ここから先は人間社会ってわけだな。妖怪の秘密を聞き出したかったら今のうちだぜ、セダ」
「お腹いっぱいよ」
 代わりのようにトシュがにやりとして、セディカは苦笑した。
 それからトシュはくるりと体の向きを変えると、どこへ向けてか呼びかけた。
「野牛どの、あんた一人か。もう一人いるかな」
 応えるように、がさがさと繁みが音を立てる。セディカがつい一歩離れたのとほぼ同時に現れた、学生らしい青い制服を着た姿には見覚えがあった。
「その人間が(おび)えないように隠れていろと、熊の兄者に注意されたのに。そんな風に呼ばれたんじゃ台無しだ」
 声の方に聞き覚えはないが、それで正しいはずだ。確か、首領と共にいた二人のうちの一人である。学生の制服をこの山で見たのはあのときだけだ。
「熊どのにも礼を言っといてくれ。交代で護衛してくれたろ」
「護衛というわけでもないんだが」
 野牛——らしい——は眉を寄せた。そんな話は聞いていなかったセディカも、内心でやはり眉を寄せる。
「おまえの父上もおかしなやつだったが、おまえも父上に似ておかしいな。本気だということはわかったが、だからこそ、わからん」
「俺はあんたと違ってせっかちなんだよ。あんたは敵も味方もじっくり吟味してから決めるんだろう」
 ちらとセディカを見やってから、吟味してる時間なんぞなかったんだけどな、とトシュはぼやくように付け加えた。おかしい、とは人間に味方していることを言っているのだろうか。トシュからもジョイドからも解説が入らないが。
「虎どのはどうしてんだ? 見かけてない気がするが」
「松の爺様とずっと詩の競作をしているよ。芸術の力と徳を信じているからな」
「芸術の……ああ、詩を通して教化してやろうってことか? まあ、詩が好きなやつには効くかもしれねえな」
 これは解説というより、トシュ本人も自信がないので確認したのかもしれない。野牛はことさら頷きもしなかったが、訂正もしなかった。
「で、そっちは何の用だ」
 もう一度呼ばれてもう一人、四十歳ほどの色黒の男性が現れる。最初の晩のあの集まりの中にいた、つまり木の精の一人であるとセディカは思い出した。黒い肌をしているのは一人しかいなかったから記憶に残っている。
「あんたか」
 トシュはそうとだけ言った。
「あなたは竹かな。俺らを最初に受け入れてくれたね」
 ジョイドが覚えているよと示すように続ける。
「乱暴なやつだと思ったが、普段はそうでもないんだな。あのときの我々はよほど危ないことをしていたようだ。——と、自分で悟ったわけじゃあなくて、熊どのに諭されたんだがね」
「俺も言ったわ」
「そうだったな。すまない」
 むっつりするトシュに、竹——だそうだ——は笑いつつも詫びた。悪かったなとこちらにも謝られて、セディカは反応に困る。居心地は悪かったけれども、危険な目に遭っている自覚はなかったし、今だって実感があるわけではない。
「わかってくれてよかったよ。この先また人間が迷い込むことがあったら、この子みたいな目には遭わせないでね」
 ジョイドが助け船を出した。おうとも、と胸を張る竹は、正直なところ安請け合いに見えたが、そうとは指摘しない方が賢明だろう。
 トシュは野牛に視線を戻した。
「俺らはこれから人間の領分に踏み込むんでな、あんたらとはここまでだ。他に何か聞いとくことはあるか?」
「いや、特にはないな。父上のためにも達者で過ごせ。……ああ、いや」
 不意にこちらを向いたから驚く。トシュでもジョイドでもなく、自分に?
「あんたの三味は聴き応えがあったよ。わたしは琴の方をもっと聴きたかったが」
「どうせなら虎どのに聴かせたかったんだけどなあ」
 琴も案外聞こえたのか、とトシュが呟いた。
 セディカは目を()いた。
「聴いてたの?」
 破魔三味を、時に神琴を、弾かせていたのはトシュだ。護衛をしていた、即ち近くに(ひそ)んでいたと、セディカは聞かされていないがトシュは気づいていたらしい。破魔三味の激しい音なら、小屋の外でも聞き取れただろう!
「言ってよ!」
「聴衆がいるなんて知ったら緊張するだろ」
「聴衆っていうほどいたの?」
「聴衆っていうほどはいないよ」
 トシュはけろりとしているし、ジョイドのフォローもフォローとしては力及ばずであった。知らぬ間に知らぬ相手に聴かれていた事実は減じないし、つまりはジョイドも知っていたわけだ。
「もう……! 嫌い!」
 少女は恩人相手とは思えない剣幕で怒鳴った。三人が(しゃく)に障るほど微笑ましげにしている横で、野牛だけが目をぱちくりさせていた。
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