第9回 謎に躓く 秘密を明かす

文字数 9,730文字

 神琴の奉納は無事に済んだ。その頃にはセディカも平常に戻っていて、トシュはこっそり安堵を覚える。(わだかま)りがあったわけでもない、慕っていた母親と祖母の供養であり、自ら()き手まで務めたのだ。他人の干渉で異様に沈静化された精神状態で臨むことになってしまっては、不本意極まりなかっただろう。
「あいつ、本当に匿名にしたな」
「匿名でも行けるのかって自分で言ったんじゃないの」
「名前を出したら設定上おかしいだろと思ったんだよ」
 いかにも事情ありげに素性を隠しているセディカが、母親や祖母といった近親の名を明かしてはおかしいのではないか。それは思いつきであって指示のつもりではなかったのだが、セディカは願文に書きつけた二つの名前と、自分の名前も塗り潰してしまった。
 供養される死者の名であれ、供養する生者の名であれ、伏せておきたいなら塗り潰せばよい。そうした作法が定められているということは、即ち認められているということだ。その代わり願文は手ずから書かなくてはならないが、他人に知られないためには自分で書くしかないというだけで、作法や儀礼の問題ではない。
 特別な関係にあったとは明かせない人物のために祈る者もあれば、世間から憎まれている人物のために祈る者もある。正義や裁きといった性格の強い神々の寺院では許さないかもしれないが、愛や救いといった性格の強い神々の寺院であれば、そういった事情を黙って受け止めてくれることが多い。悪用されることを恐れて受けつけない寺院もあるから、一概には言えないが。
「隠されると気になるってんじゃねえけど、隠したいもんなのか、とは思うな」
「隠した方がいいのかなって気を回したのかもしれないよ」
「俺のせいかよ」
「セディって俺らの言うことを聞こうとするじゃない。神琴だって当たり前みたいに弾いてくれたけど、……芸で返せって言ってるみたいだったかなあ」
「やめてやれよ。途方に暮れるぞあいつ」
 ジョイドの言いようにトシュは笑った。あの少女は(むし)ろ、自分にもできることがあったと安堵していただろうに。
 何もセディカに役目を与えてやるための奉納だったわけではない。時間ができたついでだったのでもない。この寺院に(とど)まる口実を作るため、というのが本当だ。太子一人だけを捕まえて秘密の話をするのに、外ではやりにくそうだから、ここの本堂を使いたかったのである。そこにちょうど神琴を弾ける者がいたから、言うなれば利用したという側面はあるわけで、セディカに対して礼を欠いてはいたかもしれない。
 故人に対しても非礼であった、とも言われれば反論はしにくい。が、元々、〈冥府の女王〉の寺院を訪れる機会があるたびに、ジョイドは欠かさず供養を依頼している。本人の言い方を借りれば「お布施を包んでお札を納めるだけの一番安いやつ」であることが多いけれども、今回は巡り合わせでもう少し大がかりになっただけ、とも言えるのだ。たまたま長居をしたいときで、たまたま弾き手になれる者がいたので。
「そういや、ぶっちゃけ、幾らだった?」
 ふと尋ねてみれば、ジョイドは妙にまっすぐな瞳を向けてから金額を口にした。軽く目を(みは)って、トシュは天井を仰ぐ。
「そこそこすんなあ」
「だから、お礼を出してくれるところからは格好つけずに貰っておこうね」
 やけににっこりしているのは、釘を刺された、のかもしれない。助けられた礼だと差し出された金品を、見返りを求めたわけではないと断ったことがあるのだ。が、これといって収入源もない立場でやることではなかっただろう。例の方士がそうしたというように、その辺りで拾った石を金にでも変えてしまうという手もあるけれど。
 さて、とジョイドが両手を打ち合わせた。
「大っぴらにしていいって王子様は言ってたわけね」
 雑談はここまで、ということだ。頷いて、トシュも切り替える。
「王妃殿下も合意だとよ。盛大に暴いてやるか」
 つまり、明日は——本番だ。
 そのためには今日のうちに、何を片づけておくべきかと、昨日の相談を振り返って。
「一応、国王陛下の生まれ故郷に行っとくかな。妥当な理由で恨みを持ってるようなやつがいねえか」
「律義だよねえ」
「思いついちまったからなー。ちょっと調べるつもりがあれば簡単にわかったはずだ、とか後から言われたくもねえし」
 自分で挙げた仮定に、自分で顔を(しか)める。
「で……あー……あっちは、夕飯の後でいいかな……」
「寧ろそうして」
 ジョイドが苦笑で同意した。もう一つの予定は——食事の前にやることでは、ない。

「出かけたの? 今から?」
「明日の準備にね」
 人目につかない方がいいから、とジョイドは説明した。なるほど、日はとうに暮れている。小人にもなれれば雲にも乗れる仙術使いであれば、闇に紛れる以外にも、人目を避ける手段は持っていそうだけれど。
 夕食も終えて湯浴みも終えて、今日はもう寝るばかりだと思ったら、儀式の後でも出かけていたトシュはまた出かけているというし、ジョイドも調べ物をしていたらしかった。本を二冊広げているし、紙切れに何か書きつけているので。
「今日はお疲れ様。午前も午後も大仕事だったね」
「大したことじゃないもの」
 邪魔をしたかと口にする前にねぎらわれて、セディカは反射のように謙(そん)する。本音を言えば、〈慰霊の楽〉を(とどこお)りなく弾けたことには安堵していたし、自ら奏でたそれを母と祖母へと手向けられたことには、満足と一種の興奮とを覚えていた。
 午前中のことは、思い返せば顔から火が出そうではある。小人に憑かれて半ば操られていたということになっているから、僧侶たちから困るようなことを言われたり訊かれたりはしていないけれども、案じられているらしい気配が感じられて心苦しい。が、そんなことよりも——心が普段通りに波立つようになった今では、太子の姿が痛ましく思い出されて辛かった。父を亡くした悲しみには同調できないセディカだが、親を亡くした悲しみには共感できる。
 二人の前で泣いたことだけは早々に忘れたかった。泣いてしまったこと自体も恥ずかしいし、思っていても口に出すものではないことを言ってしまった気がする。二人は呆れることも諭すこともなかったけれど。
「明日、王宮に乗り込むよ。王様は偽物だ、本物の王様はそいつに殺されたんだって、大勢の前で告発してやる」
 ジョイドが軽く(こぶし)を握ってみせる。幾分おどけたような、冗談めかしたような、子供に対するような具合だった。
「その先は偽物がどう出るかによるけど——逃げ出す分には大丈夫だけど、暴れ出すようだとちょっと厄介だね」
「……そうよね」
 あっさり観念するだろうと甘く見積もるわけにはいくまい。
「だから本当は、君にはここで待っててもらって、あっちが片づいてから合流した方がいいんだけど。トシュの〈誓約〉を覚えてる?」
「当たり前じゃないの」
 守ると宣言された少女は少しむっとしたのだったが、
「普通に考えて、ここにいた方が君は安全なんだ。でも、もし、万が一、山にいる間に、君に何かがあると——〈誓約〉を破ったトシュが大変なことになるのね」
 そう続いたところからすると、〈連なる五つの山〉にいる間、という条件のことを言いたかったらしい。
「怖い思いをさせるかもしれないし、危ない目に遭わせるかもしれないけど。トシュのために、一緒に来てほしい」
「うん」
勿論(もちろん)、危ないのは君だけじゃなくて、その場にいる他の人たちも同じだけどね。そもそも人を巻き込まないようにできればいいけど、この場合は人前で暴露することが重要だからなあ」
 内容の割には、深刻そうな口調ではなかった。トシュのために山を下りてほしいと告げたときが、一番真剣に聞こえたくらいだ。
 だが。
「危ないこと、なのよね」
 少女は呟いた。(ひでり)続きの土地に雨を降らせたほどの使い手なのだ。それも、国王を残酷に殺したほど、凶悪な。
「俺ら——っていうよりトシュにとっては、多分君が思ってるほどじゃあないよ。どっちかっていうと、勢いで王宮を半壊させたりしないかってことの方が心配なの」
 ジョイドは変わらず(のん)()そうであったけれども、セディカは疑わしげに唇を(とが)らせた。
「蛇や虎が出てきたときは、もっと焦ってたじゃない」
 ああ、とジョイドは穏やかな顔つきのまま眉を八の字にする。
「トシュはいいやつだからさ。相手を死なせたり、後を引くような怪我をさせたりしたくないものだから、手加減をして——そのせいで、自分の方がしなくていい怪我をすることもあるんだよ」
「手加減……?」
「向こうから襲ってきてるのに、そんな風に気を遣わなくたっていいと思うんだけどね。でも、今回は手心を加えるような相手じゃないから」
 だから(かえ)って心配ないのだ、というのが相棒の見解だった。
 次々に襲ってきた猛獣たちと、狼の正体を現したトシュと、トシュのいる外へ凄い顔をして飛び出していったジョイドとに、(おび)えさせられた記憶のあるセディカは、何だか随分なことを白状されたような気がした。が、心配ないと——危ないことはないと——大丈夫だというのなら、それに越したことはない。
「それなら、いいけど」
「なんか新鮮だなあ。俺らを知ってる人は、大丈夫だってわかってる分、(ろく)に心配してくれないんだよね」
 ジョイドは頬杖をついてにこにこした。
「……笑わないでよ」
「ああごめん、おかしいんじゃないのよ。普通に嬉しい。俺の身内なんて元々、トシュは父親に似て乱暴者だと思ってるのが多いし」
 あ、と声を立てたのは、それですとんと了解されたからだ。父が悪く言う祖母の破魔三味を、神琴の師匠に褒められたときのような——そういう微笑みであると。
「あいつが本当に乱暴者だったら、俺が今まで無事に相棒やってられるわけないと思うんだけどなあ。本気でぶつかったら絶対敵わないもの」
 そうも付け加えたのは、明日のことは心配しなくてよいと繰り返したのでもあり、その強さがこちらを虐げるために振るわれることはない、と安心させるためでもあったかもしれない。
 そんな風に少し話した後で、ジョイドも用事があったようだし、引き上げるべきかとセディカは考えた。頭がそう判断する一方で、けれども、心は(ちゅう)(ちょ)する。向こうの部屋にはつい昨日、亡霊が現れたのだということが、夜の闇が濃くなるに比例してより強く意識されてきたので。
 と、(せっ)(かく)だから読んでみる? と本の片方を差し出された。〈錦鶏集う国〉の歴史書だという。つまりはもうしばらくここにいてよいという許可で、躊躇したことは勿論、その理由も見抜かれていそうである。ありがたいものの、複雑ではあった。
 開いてみれば、冒頭を飾っている散文詩は、断片的に聞いていた建国物語であった。リズミカルで、読み進めやすい。遠き国の若き公子が、跡目争いの末に焼き討ちに遭い、錦鶏に救われて逃げ延びたこと。旅の途中、若き公女を、やはり火事から救い出したこと。畏れ多き女王の膝元に至ったこと——〈冥府の女王〉即ち〈黄泉の君〉の寺院を指すのだろう。国を建て、錦鶏の名をつけたこと。公子と公女は国王と王妃になったこと——。
「ジョー、ちょっといいか。様子がおかしいんだわ」
 現実に引き戻されて、セディカは反射的に本を閉じた。無意識に想像していたよりも早く帰ってきたトシュが、来い、とドアのところから指先で命じている。ジョイドがひょいと立ち上がって寄っていき、声をひそめて話し始めたので、セディカは所在ない気持ちでその様子を眺めたり、目を泳がせたりした。
 やがてジョイドが振り向いた。
「セディ、王様は三年前に亡くなったんだよね?」
「そう(おっしゃ)ったけど……」
「それが、とてもそうは見えねえんだよ。体が傷んでもいなけりゃ、肌がふやけてすらいねえ。冷たいっちゃ冷たいが、生きてるやつの低体温レベルだ」
 トシュが(いぶか)しげに眉を寄せている。
「……え、あの」
「王様を連れてきたんだよ。今は本堂?」
「ああ。大騒ぎだ」
「だろうね」
 セディカは絶句した。連れて……連れてきた? 国王を?
 埋められた井戸、芭蕉の下の井戸を、トシュなら掘り起こせてもおかしくない。そう、芭蕉という目印があるのだ。それは人目を避けるだろう……日が暮れるまで取りかかれないだろう!
「とにかく、見せられねえような状態じゃないわけだ。セダ、夢に出てきたのが本当に王だったか確認できるか」
「え……あ……ええ」
 呆然と答えて、答えたことで頭が幾らか動き出す。
「……連れてきたって」
「今の王が偽物だっつう証拠がいるだろ。本物をつきつけんのが一番早い」
 それはそうかもしれないが。
 乱暴すぎる、と。トシュに対して、初めて思った。

 無言でこくこくと頷いて、セディカは下がった。幼い頃のように、母の陰に隠れたい気持ちだ。
 本堂に安置された亡骸(なきがら)は、昨夜の夢に現れた人物に違いなかった。死に装束には僧侶たちが着替えさせたのだろう。見覚えのある黄金色の衣装や、花の模様のある靴も近くに置いてあった——夢の記憶とは違って、ぐっしょりと濡れている。
「どういうことです」
 院主が問うのは当然であった。否、もっと動転するのが当然であるところを、努めて冷静になろうとしているようだった。我が国の王の亡骸などを持ち込まれては、驚くや慌てるでは済まないのではないかと思うのだが。
 大騒ぎだとトシュは言ったが、実際にはまだ、院主を含めて数人しか知らされていないらしい。とはいえ、亡骸を清めたり着替えさせたりするためには、院主の他にも数人に知らせないわけにはいかなかっただろう。
「お嬢様の夢を通して、王様が告げられたんですよ。三年前に殺されたと」
「三年前ですと?」
()呑みにもできんが知らん顔もできんし、根拠が夢じゃあ相談もしにくくてな。言っていいもんかね、犯人も」
「言うなら全部言うべきでしょ。聞いた話にすぎないけど、筋は通るし。殺すだけならともかく、成り済ます、なんて誰にでもできることじゃない」
 前置きを挟んで、ジョイドは院主に目を向ける。
「五年前に雨を降らせて旱を終わらせ、三年前に姿を消した方士がいるそうですね。彼が王様を殺したと——俺らは聞いただけですが」
「俺らは納得したが、あんたにとってはどうだ。信(ぴょう)性のある話か?」
 反応を待たずにトシュが重ねた。
 しばし、院主は沈黙した。
「ハックどのが仰った通り、筋は通りますな。まだ王宮には知らせるなと止められたのもわかります。しかし——このお姿はとても、三年前に(みまか)られたようには」
 無論、明らかに、それは不自然なことだった。大体、トシュが怪しまれてもおかしくないところだし、何ならトシュに同調するジョイドやセディカまで怪しまれかねないところだ。そうなっても青年たちは、よく回る舌先と華麗な連携で丸め込んでしまったかもしれないけれど。
 だが、嘘にしてはあまりにも信憑性がない、という面もある。方士に罪をなすりつけようという意図があったとしても、だ。院主としては困惑もするだろう。
「それで俺も戸惑ってんだ。小人の野郎もこういうときに出てくりゃいいのに」
「あ、それなんだけどね。箱が消えた」
「あ?」
「小人の箱が。見当たんないのよ。王様が発見されたから満足したんじゃないかな」
「勝手に満足してんじゃねえよ。こんな大問題を放ったらかして」
 どさくさに紛れて小人の存在を片づけてから、トシュは頭を()(むし)った。
「三年だぜ? ミイラ化したとかいうならともかく、こうもそのままだなんてありかよ」
「方士といえば、()(かい)を思い出しますが。殺された方がなるものではないでしょうな」
 院主が呟く。きょとんとするセディカに、死んだように見せかけて仙人になる方法ですよ、とジョイドが教えた。亡骸がずっと温かく柔らかく生きているかのようで、尸解仙になったのだろうと噂された、という話があるらしい。
 それから、幾分自信がないのか、反応を窺うようにトシュを見やった。
「あのね、さっきからずっと考えてるんだけど、実は幾つか可能性は浮かんだ」
「え、マジか」
「魂があの世へ行けないように、呪術か何かで体に閉じ込めてあったとか——あの世へ行けなければ、〈冥府の女王〉に訴えることもできないからね。今になって呪術が緩んで、魂が体を離れられるようになったのかもしれない。それに、龍王が遺体を保存していて、何年も経ってから訪れた遺族に引き渡したっていう話もあるよ。井戸にも龍王がいることはあるでしょ。または——国を建てたような人ならありうる話だけど——天命がはっきり決まっていて、それを果たすまで本当には死なないっていうケースもある。反対に、神罰の一種で本当には死なせてもらえないケースもあるかな」
「……俺らの手に負える話じゃねえかもしれねえってことか」
 トシュが額に(しわ)を寄せる。ジョイドはセディカに向き直った。
「お嬢様、時間をいただけますか。詳しい知人に訊いてみます。その後でまた、相談を」
「知人に?」
 相談を、とは院主に向けた言葉で、院主はその少し前の部分を訊き返した。ジョイドは後を頼むとばかりの視線をトシュへ投げ、主人役のセディカに礼をすると、すたすたと扉に歩み寄って開け放ち——足元に雲を起こして、飛び去った。
 院主の隣りでセディカも口を開けてしまった。鷹であるジョイドは自分の翼で飛ぶのが常だから、雲にも乗れるとは知らなかったのだ。
「黙ってて悪かったが、方士でね」
「合点が行きましたわい」
 トシュが肩を(すく)め、院主は苦笑いを浮かべた。院主の反応に内心首を傾げていると、トシュから察しよく解説が来る。
「お(ひい)さんは知らんだろうが、寺院によっちゃあ方士を毛嫌いしてることもあるんだ。いらん喧嘩は売りたくねえから、特に理由がなけりゃ言わんことにしてる」
 その心理は、セディカには痛いほどわかるものだった。自分が西国の血を引いていることは、明かすに足るだけの理由がなくては明かせない。相手が偏見を持っていると知れてから、初めて隠しても遅いのだ。
 寺院が嫌悪を露骨に表すとは意外であったけれど、寺院同士であっても、宗派や教義の違いで対立することはある。考えられないと驚(がく)するほどではなかった。大体、「方士」という言葉すら最近まで知らなかったセディカに、寺院や僧侶と、その秩序に組み込まれていない方士との間の緊張がどのようなものか、わかるはずがない。
「本当のことを言いますと、方士を嫌うとは言わないまでも、思うところがあるのだろう者はこの寺院にもおります。褒められたものではありませんが、五年前のことがありましたのでな」
 院主が言うのは、僧侶たちには果たせなかった雨乞いを、例の方士が成功させたことだろう。
「小人のことも、我々が気にするまでもなかったわけですな。方士ならそういったことにはお詳しそうだ」
「まあな」
 トシュは涼しい顔で肯定した。
「さて、どうするかな。あいつが帰るのを待ったんじゃいつになるかわからん。とりあえず、うちのお姫さんにはもう休んでもらって構わんと思うんだが」
「そうですな。若い娘さんを付き合わせるのは気が引けます」
 待っていては夜も更けるだろうから、ではないだろう。恐らく、そこに死者が横たわっているから——だ。セディカとて、この場に居続けたいわけではなかったが。
「……部屋にいた方がいい?」
 従者として扱うことをつい忘れて、上目遣いにトシュを見る。眉を上げたのは気に障ったのではなく、意図がわからなかったのだろうけれども、その先を口にするにはちょっとした抵抗に打ち克つ必要があった。
「……怖い」

「危機感のねえやつだな」
「何?」
 聞き取れずに訊き返すと、トシュは何でもないというように手を振って、腕を組んで扉に背を預けた。臆病だと、それとも幼いと、呆れられたろうか。だが、きれいなものだったとはいえ亡骸を目の当たりにした後で、しかもその死者の霊が昨夜訪れた部屋で、穏やかに眠れるとはとても思えない。トシュを外に待たせて寝間着に着替えている間だって、心臓がどれほど戦慄(わなな)いていたか。
 それに、院主や他の僧侶たちがいない方が話しやすい——とも思っていたのだけれど、トシュがそこにいたのでは、扉の向こうに誰かがいたら聞こえてしまいそうだ。故意に盗み聞きする者もいないだろうが。
「あの、すぐに寝るから」
「焦らんでいい。本堂に戻ったって別にやることもねえよ」
 大体、急げば早く寝られるもんでもねえだろ、と至極(もっと)もなことを言われた。それならもう少し喋っても咎められないだろうと、セディカはベッドに向かうのをやめた。
「あの……手に負えないって?」
 引っかかっていた、そこを訊く。トシュには似合わない表明であるような気がしていたのだ。
「ああ、あれか。天命とかいう話になってくると、……何だ、要するに、神サマの領分だからな。地上の俺らが判断を下すようなことじゃねえだろ」
 前世からの因果がどうこうとか言い出されたらわかるわけねえしな、とトシュはまるで神からそのようなことを言われた経験があるかのような言い方をした。
「天命だとしたら、わかるものなの?」
「あー……天の神が鷹に化けて地上に下りてくることがある、って話は知ってるか?」
 首を振る。狼の話は何度か聞いたが、鷹の話はあまり聞かなかった。
「そうやって地上に下りてきた神の子孫だってことになってる血筋があるんだよ。そういうとこには大体、天意やら神意やらを窺う方法ってのが伝わってんだ」
 鷹に化けて地上に下りた神の子孫。
 その子孫とは人間なのだろうか、それとも鷹なのだろうか、とセディカは考えた。鷹に化けて、とことさら言及したことを思えば後者か。鷹の——妖怪、ということだろうか。妖怪となっていない普通の鷹の間で、この血筋は神の子孫に当たるのだ、などという情報が代々伝わるものかどうかもわからないが。
 そうだとしても、今ここでそうとは明言しないだろう。この寺院に、即ち人間社会に足を踏み入れてから、二人はトシュを狼とは呼ばず、ジョイドを鷹とは呼ばない。他の誰に聞かれる(おそれ)もないような場でも、注意深く避けている。セディカを主人に見立てた芝居はそこまで熱心でもないのに。
「ジョイドはそういうやつらに——何だ、伝手(つて)があるからな。国王陛下が天命を負ってるのかどうか、負ってるなら俺らはどうするべきかっつうことはそいつらに訊く気だろ」
 トシュはそんな風に結んだ。身内と言わずに伝手と言うからには、つまり身内ではなくて、同じ鷹同士で交流があるということだろうか、と思ったものの、それは反射のようなもので、別に詳細を追及したくなったわけではなかった。
「っと、引き留めたな。焦るこたあねえが、もう寝な。起きてても仕方ねえだろ」
「そうね。おやすみな——」
「ん?」
 長くもない挨拶を(さえぎ)られた。
 訝しげな顔になったトシュは、壁を透かして空を見上げるようにした。つい視線を追ってしまったが、セディカには壁までしか見えない。
「ちょっと待て、あいつ帰ってきたっぽいぞ」
「……え、ジョイドが?」
「ああ。早くねえか?」
 半回転して扉の方を向くトシュの横に、セディカも歩み寄った。やがてノックされた扉をトシュが開ければ、予告通りのジョイドが立っている。
「こっちにいたのね。あ、ごめん、寝るとこだった?」
「ううん、別に」
 寝るところだったのだからこの返答は間違っているが、別に構わないと言いたかったのである。
「早かったな?」
「なんかね、向こうから来た」
「……はあ?」
「王様が発見されたらわかるようにしてたんじゃないかな。おまえがみつけたのかって、何だか嬉しそうだった」
 ジョイドは片手を差し出した。手の中には、菓子を下に敷いてあった紙ごと握り締めてきたような具合に、大きな包み紙の中に小さな丸薬が鎮座していた。
 それから口にした長い言葉は、セディカにはさっぱり意味が取れなかったが、名前のように聞こえた。最後に「丹」とついた気がしたのだ。トシュの方は通じたらしく——目を瞠った。
 形容しがたい笑みを、口元にだけジョイドは浮かべた。
「これで王様を生き返らせろってさ」
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