第7話:イランイラク戦争、投資と妻の非業の死

文字数 1,681文字

 事故による高濃度の放射性物質で、汚染されたチェルノブイリ周辺は、住民の居住が、不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われた。事故発生から1か月後までに原発から30km以内に居住する約11万6千人の全てが、移住したとソ連によって発表されている。

 事故処理従事者86万人中5万5千人が、既に死亡しており、ウクライナ国内「人口約5千万人」の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は、約87%が放射能による病気に罹っている。また、周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。こんな大災害が追い打ちを掛けるように、世界の不安の増大と、共に、経済も、音を立てて崩れおちてきた。

 翌年1987年10月15日にはイラン・イラク戦争のアーネスト・ウィル作戦で米軍の護衛を受けていたタンカーがイラン海軍の攻撃を受け、ミサイルを被弾する出来事があった。米軍は報復として当日未明、イランがペルシャ湾に持っていた石油プラットフォーム2基を爆撃(ニムバル・アーチャー作戦)し、市場参加者の間には原油市場に対する不安が沸き起こった。

 嫌な予感がした、1987年、七郎は、翌日、ソニー株、トヨタ株を全株、成り行きで売った。ソニー株とトヨタ株、32万株づづ、合計64万株、金額で、合計19.2億円で売れ、資産合計が19億3600万円。だた、日本経済は、依然、好調なので下げた所を買う心づもりで市場を見ていた。

 1987年10月19日のブラックマンデーの当日は、ニューヨーク証券取引所のダウ30種平均の終値が、前週末より508ドルも下がった。この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった、1929年の暗黒の木曜日「ブラック・サーズデー、下落率12.8%」を上回った。これを見て、七郎は震え上がった。

 そこで、リチャードに相談すると、米国市場の混乱は1年以上、続くかも知れないが、日本の景気は良いから一気に下げるであろう明日か、もう一段さげた所を買うか、上げ始めた所を買い始めるか、この3つのどれを選ぶべきだと思うと言われた。七郎は、指示通り1987年10月20日が9時前、ソニーとトヨタ株を成り行き10万株ずつ計20万株を成り行き買いした。

 米国での株安を受け、日本では1987年10月20日、日経平均株価が前日比で 3837円安「-14.9%」という大きな下げを記録した。1988年があけて1月にソニーとトヨタ株を成り行きで25万株づつ合計50万株を6億円で指値を入れ買えた。この時点での残金1億11840万円。やがて1987年も終わりを告げて1988年の新春を迎えた。

 1988年から、日本株は再び急上昇し初め、1988年8月には、40%も上昇した。1988年末から、再び、日本株が上昇を始めた。1989年1月から上昇が加速していった。1989年11月も急上昇したので、ピークが近いと考え1989年末高値売りを狙った。12月の最終日に残りのソニーとトヨタ株を25万株づつ計50万株、130000万円で売却。

 そして、資産合計が14億1840万円となった。1990年が始まり大発会から平成バブルがはじけた。それと共に、円高が進んできて、日本株の低迷が続いた。そんな時、七郎も大きな不幸が忍び寄ってきた。この年の夏、七郎の奥さんが体調を崩し入院した。1週間にわたり東京の慶応病院で精密検査をし、原因不明の白血病だとわかった。
 
 七郎は、一気に不幸のどん底に突き落とされ、どうして良いかわからなくなった。リチャードに相談すると、最善を尽くすしかないと言われた。後は、七郎の気持ちの持ち方だと言った。「そこで、どうしようと聞くと、七郎、君の人生は、君自身で考えるべきだと言われた」
「突っ放されたような気がして、気が動転」

「そこで、以前から、お世話になっている柔道の恩師に相談してみることにした」
「彼は、人生って、良い時も悪い時もある、柔道人生だってそうだろ」
「悪いとき、お前はどうしたと聞かれ、平常心でしっかり練習に励んだと答えた」
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