第9話知ということ

文字数 1,707文字

さて、もう前稿から2週間経つので、ここしばらく考えていたことを書く。

知、とは何だろうか。ソクラテスの不知の知は有名だが、先日、これはどういうことか、とまたKさんと話した。
以前、敬慕するお姉さんと、物事を知れば知るほど、世界(自分の中の世界)には知らないことだらけだと思いませんか?そうそう、なんて会話を交わしてはいたが、これがどういうことか、Kさんがまた概念化してくださった。

Kさんは、小さめの円と、それよりひと回り大きい円を描いて、高校の英語の先生が教えてくださったんだけど、と前置きし、説明された。
その二つの円の周りには、「世界」が拡がっていて、ポツリと二つの円。小さな円が高校生のKさんで、大きい円が英語の先生。
当時は、Kさんはまだ少年だから、小さな円くらいしか知識がない。先生はそれより少し経験を積んでいるから、大きめの円。これが知識量の違いを表すけれども、どこまでも拡がる世界からしたら、ちっぽけな円二つ。
広い世界認識からしたら、似たり寄ったりなんだよね、と。
さらに、この円を、知識を得ることによって拡げていくと、この円周の分、世界との接点が増える、だから、ものを知っていけばいくほど、わからないことは増えていくそうだ。
これか!とまたもや気づかされた。
世界からしたら、どれだけ円を拡げようと、ちっぽけなものに過ぎないし、円周が拡がっただけ、知らないことだらけだと感じる。
こういうことだったのか、と思う。
ソクラテスの言葉は、前後の文脈を知らないので、私にとってはただのプロトコル命題だが、ソクラテスがプラトンの対話編で語ったことも、こういうことだったのではないかと思う。通りで知らないことだらけなはずだ。何も知らないのでなく、いくらか知っている事があるから、知らないことだらけに感じるのだ。

またさらに進んで、ある日、金もなけりゃ行くところもない日があり、頭でっかちになって具合が悪くなったことがあった。この日、うんうん苦しんでいたら、ある拾いものをした。
ひょっとしたら、人間には、行動によってしか知ることが出来ない概念があるのではないか?という仮説が浮かんだのだ。この日は、頭でばかり考え過ぎて、ほとんど体を動かさなかったから、体を動かすことで初めて経験出来る事柄があるのでは、と思ったのだ。

そこでまた、困った時のKさん頼みでKさんに、こういうことを思った、と話した。
すると、Kさんは、あのね、人間の知識で、経験に依らず得ることが出来る知識は、たった7%しかない、とまたもや教えてくださった。残り93%は、経験によってしか知ることが出来ないのだ。
通りで、養老孟司さんのバカの壁にも、経験によってしか得られな知識がある、と書いてあったはずだ。
27歳の時、当時41歳の人の了見がわからないはずである。自分も41歳になってみなければ、41歳の了見はわからなかった。
今は、今年46だが、70歳の了見は知ったふりは出来ても、理解不能なはずだ。
だから、まず人間は、仮説を立て、実行してみてしか、ほとんどの知識を得ることが出来ない。これまた、ちゃんと体を動かそう、と考え直させられた。

なんとまあ、知識といっても、頭だけではわからないことだらけだ。21の頃わからなかった本が、38になればわかってきたりするはずだ。

また、現代の知、とは、母校の粉川先生のインタビューをたまたま新聞で読んだが、いろんな事柄に共通項を見出せることだそうだ。
私は、将棋にフットボールや野球との共通項が見出せるなあ、と思うが、例えば、これが、文学、数学、化学、の場合もあると思う。これらの分野の専門家には、きっと見出せるはずだ。どこか勘どころは同じだと思う。知、の認識も幅広い。ただ、Kさんの円の話と同じように、どれだけ知っても、似たり寄ったりだし、円周は知識を得る度に拡がっていく。どこまでも知の追求は、始めたら終わりがないし、追求を続ければ、いつも新しい自分でいられる。多分に経験から知識を得るし、経験によって得られた知識で、最後の粉川先生の項目のように、共通項も見出せるようになるはずだ。
だから知識を得ることはどこまでも楽しいのかもしれない。
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