第5話人間肯定を謳う

文字数 1,844文字

今日は、朝からちょっとしたことから癇癪を起こし、風呂にも入り、朝食も食べ、飲料の麦茶もじょうごでペットボトルへ詰めたのに、仕事を休んでしまった。
それから、相談を受けてくださる方へ電話し、仕事をやめたい、とかいくつか愚痴を10分ばかりこぼした。聞いてるほうからしたら、自分の愚痴だって山ほどあるのに、たまったもんではない。全く、迷惑をかけてしまった。それから仮眠を取ったら、癇癪は直り、気を取り直して、全てのことにまた取り組もうと思った。

それから、整形外科へ、腰に電気を当ててもらいに行ったり、お金は全くないので、なんかしらして過ごしていた。

夜になると、晩御飯を食べたら、暇だ。
この時間に、お風呂に入って体を温めたり、音楽を聴いたりすればいいのに、音楽を聴き始めたのは9時も回ってから。ボードレールの酔いたまえ!というステレオラブも初期に歌詞に使った詩を思い出し、音楽に酔うことにした。
今日は夭折したエリオット・スミスをずうっと聴いている。エリオット・スミスの音楽はどれを聴いても、どこか切なさを含んでいて、聴いていて、ハッピーでもへこんでもいない気持ちへ染み込む。それを聴きながら、大恩人のお姉さんへ手紙を書くことにし、書いた。
すると、周りの人に対して、いろんな人に、私も含め、汚点くらいあるものだが、それら、脳裏をかすめた人たちの素晴らしさしか浮かんでこないのだ。素晴らしい点しか書かなかったし、深い付き合いがあるのでもないので汚点も知らないが、とにかく手紙の文面に書く人々が素晴らしい。
書き終えた頃には快感しか残らなかった。

それから封筒へ手紙を入れたあともエリオット・スミスを聴きっぱなしなのだが、エリオット・スミスは、あまり人柄のいい人ではなかったらしい。友人から聞いたが。ただ、最近の松本人志さん擁護に出てきた、志らくさんのように、それは人間性を否定すればいい、芸は腐らねえ、のように、エリオット・スミスさんと接してたら嫌いになったかもしれないけど、残した音楽は素晴らしい。
say yesというCHAGE&ASKAの有名曲のようなタイトルの曲が気に入って、歌詞とコードが載った、弾き語りに使うサイトを思わず見てしまった。いつかコピーしよう、と思って。

それから、音楽に、本当に酔うことが出来て、これを書きながらも聴き入っている。
すると、ふと、人間肯定、という言葉が浮かんできた。
私は、普段は、人間肯定とは反対側のような立場、考え方をしている。ブロックしている人も、昔トラブルがあったので、多い。
私が昔、人にイヤなことをして、ブロックされてもいる。けれど、嘘やらごまかしやら、ホラやら、同調圧力やら、軋轢やら、相容れない感覚を抱えながらも、人間肯定を謳ってみるというのはどうだろう?とこの文章を書いている。

とんでもなく悪辣で、もう更生の余地もない人に出会って、同じことはとても言えないが、それでも人間って、いいものじゃなかろうか、と言ってみたくなったのだ。
それは、人間存在を肯定するんなら、俺も肯定だろ?とつけいってくる人がいたら、拒否するし、手に負えなかったら、警察に言う。
とはいっても、掃木蓬生さんの閉鎖病棟、という小説や、それいけアンパンマンのように、絶対悪は存在しないとしたら、ここまで人を慈しめる人には、人間肯定が謳えるのかもしれない。
マルキ・ド・サドの小説は、当時の論理が、人間は、正しい思いから正しいことを行う、と言っていたのに、アンチテーゼを呈し、悪辣な心から、悪を行うこともあるのではないか、と、小説の中で極悪人を書いた。
サドの場合は、極論なのかもしれないが、確かに、こりゃ警察しか手に負えない、という人も恐らく世の中にはいると思う。
実際、最近、交番の近くで、両腕を後ろにひねられて連れていかれている人を何人か見た。それでもお前は人間肯定を謳えるか、というと、それは無理だ。あくまで害のない範囲でしか私はものを言っていないようだ。

それでもこの文章のタイトルを人間肯定を謳う、としたのは、周りにいる人たちだけでも肯定しないか?という気持ちになったからだ。つけいられない程度に。
何かと私は、みんなかもしれないが(特におばちゃんとか(笑))、自分のことを棚に上げで、人を批判してしまう。けれど、その批判による他者への否定だけでもどうにか出来ないものかと思う。この狭い世界でだけでも、人間肯定を謳えれば、ずいぶん自分の心持ちも変わるだろうと思う。
なんだかそんな気がしたのだ。
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