第2話自己認識について

文字数 2,784文字

相変わらず貧乏だし、冴えない人間のままで、さげすまれたり、おかしな話に勝手に根も葉もないことを言われてなっていたり、まあなんだか、日常よくわからん世界に過ごしている。
その中で、ある程度慣れていたり、その人が、人格者(これは存在するかどうかも怪しいもんだけれど)、とまではいかなくても、人間として練れてきている人達との会話は貴重で、そういう人は、たいがい年長者なので、へりくだる場合がほとんどだけれど、それでも心地いいコミュニケーションになるので、たまにのそんな人達との会話を楽しんでいる。
そんな人達や、または、女性。女性とは、私がいないところでは、私をさんざんに言っていたりするが(これは、男性が全く女性目線では、空気を読めていないことからも発するが(笑))、その特有の物腰の柔らかさに、安心してお話してもらっている。やたらセンテンスが長くて悪文(笑)。
その人達とのコミュニケーションを円滑に出来る要素は、ひとえに距離感である。ほとんどの人の電話番号は知らないし、知っていても、毎日忙殺されながらのやっとのオフ、といった場合が多いので電話をかけない。これは、距離を近づけて、その人のなくて七癖や、私のなくて七癖を知らずに済むからだと思う。私も含め、みんながみんな、ある偏りを持っているのだから、近づき過ぎないほうがいいのだ。やはり、距離を狭めた人とは、衝突も誤解も生まれる。このあたり、大変気をつけたい。

ところで、ここで私は自己認識について書いてみたい。自分のことなんだから、自分が一番わかっているはずだが、これがわからない。
以前、から今まで、アサーション、というコミュニケーション手段について考えることが多かった。アサーションとは、私思うに、自分が主張したり、相手の話を聞く時は、非主張的になったりしながら、自分のコミュニケーションを押し付けず対話することだと、概ね、思っている。この概念が全てではないが。
このコミュニケーションを勉強しよう、と思ったきっかけは、人に自分のコミュニケーションを押し付けて、それは出来ません、と識者から言われたことからだった。そこで、自分のコミュニケーションを押し付けない、物わかりのいい人になろう、と不純な動機で何冊か第一人者の平木典子さんの本を読んだりしたのだが、 先程、識者、と言ったお姉さん(十数年来の大恩人)によれば、アサーションを学ぶこととは、物わかりのいい人になることでなく、自己認識を深めることだそうなのだ。
他者とのコミュニケーションが、自己認識を深めるためにある。このことがなんとなくわかったのは、またKさんとの対話の中でだった。

Kさんと、決まった日にお話していると、ふと私は、他者、及び外界認識が自己認識へとつながる、と言ってしまったのだ。
しかし、自分で言っておきながら、自分で立証、例証出来ないので、数日間また考えた。
すると、少しずつ言葉が浮かんできた。

他者、または外界を自分が認識することは、あくまで自分が思う、他者、外界の認識なのだ。他者、外界の全貌を把握することは出来ない。なぜなら、他者も、外界も、複雑過ぎるほどに多面的だからである。だから、自分が認識する他者、外界は、自分の中の他者と外界である。つまり、自分の世界を認識することなのだ。なので、他者や、外界、世界と言ってもいい、を自分が認識することは、自分を認識することである。
俺はあいつのことなら何でも知ってるんだ、なんて無理なのである。あいつ、も複雑な多面体なのだから。例えば、友人がエロ本を立ち読みしていても、その友人は、エロ本を立ち読みするだけの人ではないのだ。エログラビアの研究者だとしても、その研究者は、家でベーコンエッグを作るのがとても上手で奥さんや子供達にお父さん上手と喜ばれているかもしれないのだ。この、ベーコンエッグのかもしれないところは、私には伺い知ることの出来ないところだ。
だから、例え自分以外のものを認識しても、自己認識へとつながっていくのである。これをアサーションのコミュニケーションでもしていくから、大恩人のお姉さんは、おや、自己認識を深めるためかと思っていましたが、とおっしゃったのだ。

8年旦那と付き合って結婚したけど、いまだに旦那のことがわからない、と奥さん職員が言っていたが、奥さんも、旦那さんも、多面体なのだ。わかりゃせん。第三者の私は、二人のこともわかりゃせん。わからんことだらけなのだ。わかったと思った本を読み返したら、前回と全然違うところに気づいたり、わかったと思っていた音楽に、この音、どうやって出したのだろう、と何度も思ったり。

Kさんは、最初、思いつきで、他者、外界認識が自己認識だ、と言った時、あ、すごい、とおっしゃったので、Kさんの中では、自己認識の答えは既に出ていたのだろう。けれど、私に考えさせ、例証させた。私は、自分で(Kさんにはとっくにわかっていたことだが)考えたので、かなり血肉とすることが出来た。いい棚からぼた餅の考える機会だった。    (終わり) 

(補追)
Kさんとの対話で忘れていたところを、後日Kさんに文章をお見せして、補ってもらいました。
まず、「自分の中の他者と外界」というところへ、「自己の中での世界観(世界はこうなっている)の構築」とまた概念化してもらいました。なるほど、これは嬉しいことです。自己と他者を、しっかり分離出来てきたことの現れです。これは施設長からも言っていただいたことでしたが、Kさんがさらに補ってくださいました。

また、Kさんは、「他人と触れ合うことで、自己と他人を比較することができ、」「自己(はどんな特性をもっているか)を知ることができる」と補い、さらに、「無人島」では自己がなにものであるか認識できない、とも補ってくださいました。

さらに一歩進んで、自分が何者なのかよくわからない、という人がいるが、
①世界観の構築(世の中とはどのようなものなのか?)、と、
②自己の認識(自分はどのような人間なのか?)、
を深めることによって、
自分が世界に対してどうかかわっていけばいいのか?がはっきりしてくると思う。(自己の人生をどのように構築していくのか)

と追記してくださいました。私の文章だけでは、うん、それはわかった、じゃあ、それを踏まえて、そこからどうすんの?と問う人への返答になったと思います。精神科の主治医からも、人間のコミュニケーションとは、どこまで語っても、多分に言葉足らずらしいです、と聞いていましたが、やはり、二千字も書いといて、言葉足らずに終わっていましたね(笑)。Kさんが、しっかりと、足らない部分を補ってくださいました。けれど、先生の論理通りならば、これだけ書いても、さらに言葉足らずということだから、いやはや(笑)。                
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